「感性と脳」研究会(公開セミナー)1999.07.08.

最初に、配布されたプロフィールを引用して、私なりの話の内容に移る。但し、多分に個人的な見解が入り混じっているかもしれないので注意のこと。

(プロフィール)
河合隼雄先生
    日本最初のユング派精神分析学者。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター所長。実践にもとづく説得力に満ちた論考によって、わが国の臨床心理学および心理療法の両分野に画期的な展望を開き、人間心理の解釈に斬新な視点を次つぎに提供。心理学以外の各分野の研究者・文化人にも多大な影響を与え、一般市民のあいだにも強い共感の輪を広げている。昭和57年『昔話と日本人の心』(岩波書店刊)で大俄次郎賞、昭和63年『明恵夢を生きる』(講談社刊)で新潮学芸賞、平成7年紫綬褒章、平成8年NHK文化賞、平成10年朝日賞を、受賞。ほかにも著作・論文は多く、主なものに『おはなしおはなし』『ブッダの夢』(ともに朝日新聞社刊)、『ユング心理学と仏教』『心理療法序説』『子どもと悪』『日本人の心のゆくえ』(以上岩波書店刊)などがある。

宮下保司先生
    宮下保司先生は、現在、東京大学大学院医学系研究科・医学部教授(東京大学理学系研究科教授および岡崎国立共同研究機構生理学研究所教授を併任)で、記憶と学習の大脳神経機構を研究している。認知的長期記憶を担う大脳皮質ニューロンをはじめて発見した業績で著名。嫁原賞、日産科学旨受賞。昭和24年生まれ、49才、医学博士。

中田力先生
    現在新潟大学脳研究所・脳機能解析学・教授(同研究所・脳疾患解析センター長、カリフォルニア大学デイビス校・神経内科・教授、文部省・学術審議会・専門委員、理化学研究所・脳科学総合研究センター・客員研究員等併任)。「脳はいかに働くか」を20 年以上追求し続ける、機能的 MRl(磁気共鳴診断装置)の専門家で、脳という機械に音楽という言語でアプローチし、大きな業績を挙げている。

(1)河合隼雄 「心と脳」
        先生は日本で唯一のユング派の心理学者と言われている。今日の実験心理学の潮流から言えば完全に少数派であって、近代科学とは言い難いと自ら認めているので、臨床心理学という風に自己規定しておられる。フロイトにしてもユングにしても自分自身の精神的疾患を治すために自ら試行した結果を他人の参考の為に体系化したものであって、そのまま一般化して適用できる性質のものではない。心は自分にしか分からないものなので、近代科学の方法論で客観的に研究できるものでもない。従って今日の実験心理学は、自らを行動心理学と呼んでいる位である。行動ならば研究の対象となる。

        そう言う事を前提に置いた上で、臨床心理学は極めて有用であることも確かである。その有用性を実証するにはカウンセリングを行うしかない。近代科学が実証する時に、物と自分との関係を断ち切ることに注意を払う(勿論関係無しでは何も出来ないので、関係による因子を方法的に消去して考えるということ)、のに対して、臨床心理学では、患者と自分との関係を維持することが大前提となる。患者に自らを語らせ、探求させる為の媒介者となるということである。カウンセラーが自分の解釈で患者に語りかけること程、関係を壊すものは無い。それを想定した質問すら、患者の意識をそこに導いてしまうので、本当の心は閉じてしまう。登校拒否をしている患者に、どうして登校しないんですか?とか、お父さんは何をしているの?とか問いかけることは、その最たる例である。そう問われれば、患者はカウンセラーの意図を見抜いて、それに合う答えを出して、そこで全ては終了する(仮面劇が始まる)。カウンセラーは患者の前に人間として存在しなければならず、かといって先に影響を与える様な発言をする訳にも行かない。当り障りの無いことを話しながら、患者が自ら語り始めるのを待つしかない。これは結構訓練の必要なことである。日常生活を反省してみれば、殆どの場合、相手に自分の解釈を押し付けることによって、相手との関係を切っていることが分かるであろう。特に子供との関係は切りやすい。子供が「今日は運動会があったよ。」と言ったとき、「それは楽しかったね。」と言えば、本当は楽しくなくても、子供は楽しい話しかしなくなる。そこで虐められていても、話さなくなる。この辺は企業でのマネージメントと従業員の関係、あるいはマーケッティングと消費者の関係にも合い通じるものがある。勿論それにもめげず虐められたことを話すような強い子供であることが期待されている訳であるが、人間の強さというのは置かれた立場によって大きく変わるものである。

        ところで、自分を現象から切り離すという近代科学の方法論がヨーロッパでしか生まれなかったのは何故であろうか?それはキリスト教と関係していると思われる。神は世界とは一線を画していて、世界を客観的に見ることが出来る。そう言う存在は、しかしながら仏教にはない。仏教においては一切が相対化されていて、仏も人間も本質的な区別がない。ヨーロッパでも土着的な宗教はそうである。それではイスラム教のような宗教ではどうであろうか?イスラム教とキリスト教の違いはキリストの性格である。キリストは預言者として神の意思を伝えると同時に、人間でもある。仮に神の立場を取ってみた時に世界がどう見えるかという発想が許されたのは、その為ではないか、というのが河合先生の新説である。もしもキリストが、人間的性格を持っていなければ、それは宗教的犯罪として裁かれた筈であるし、実際中世ではそうであった。人間は神の定めた通りに自動人形の様に生きるのが正しく、そのこと自身を問うことは神への冒涜であるはずだからである。逆に東洋では何を考えても良いわけであるが、厳密に現象と自分の関係を断ち切るという立場そのものが曖昧になり勝ちであるので、学問や技術として体系化するときに非常に弱いものになってしまう。具体的には、近代科学の方法論を守ろうとすると、例えば日本の社会では疎外されるので、科学者は特定の閉じた社会でしか育たない傾向が強い。近代科学の方法論(典型的には物理学)というのは、どこの世界でも人間である限り特殊な訓練を要するものである。それを社会が受け入れてくれなければ育ちにくいであろう。この辺は会社における専門家の位置付けの難しさや特許の強さに関連している。

        近代科学は極めて強力な方法論であった為に、その上に築かれた技術は世界を席巻した。人間との関係は無く、人間には無関係に成り立つ法則に則っているから、マニュアルさえ守れば、誰が操作しても同じように動作する、というのは今日では、子供の頃から浸透している考え方である。しかし、その及ぶ範囲は実際上は限られていて、社会の複雑な問題がそうなるわけではないということを、忘れ勝ちである。何かと言うと、政府が唱える対策という言葉がそれを象徴する。子供の心を理解するという事無く、関係を断ち切って、外から操作することで、登校拒否が無くなるだろうか?登校拒否の子供に困り果てて、相談に来たある父親が、「テレビでも洗濯機でもボタンさえ押せば思うように出来る時代なのに、子供を学校に行かせるくらい、ちょっとボタンでも押して出来ないのですか?」と訊ねたらしい。確かに、技術的には、寝ている間に布団毎学校に運べば、子供は登校したことになるが、それでは解決にならない。問題は子供の心なので、近代科学の方法論を超えているのである。

        東洋では、昔から世界を相対的に見るという事が当たり前であった。その最も分かりやすい例が華厳経である。井筒俊彦氏の良い解説が出ているので読むと良い。華厳経では個々の事物は存在しないと考える。事物が存在するのではなく、他の事物との関係が存在するのである。華厳経を読んでいると眠くなる。これは全てが関係としてしか立ち現れないからで、最も中心となる大日如来は最初から最後まで無言である。周囲の人たちが、大日如来はこう考えているに違いないというので、そこから大日如来を推定するしかない。何回も読んでいる内に、華厳経というのは知的に分解して論理的に理解すべきものでは無くて、出来ればサンスクリットで何回も唱えて、自然に身体で了解すべきものと思った。唱えることで、睡眠の一歩手前の意識変性状態になった時、その言葉の意味が了解されるのである。これが実は臨床心理学の極意である。患者に注意を集中しすぎず、患者から発するものを全て受け入れる。そのことによって、患者は自らを発見する。3年もの間かかって直った患者から、言われた言葉に、「先生は私の言うことや私の服装に注意を払っておられなかったですが、私の魂にじっと注意しておられたようです。」と言われた時、大変嬉しかった。但し、実際のカウンセリングで注意すべき最も重要な点は、そうして患者の心が開かれた時、多くの場合患者の行動表出となって現れ、具体的には自殺や犯罪に至る場合があることである。その一歩手前で患者を反省という穏やかな行動に留めるには長年の熟練を要する。

        臨床心理学は近代科学から最も遠いところにあるが、方法論として体系化する為に、カウンセラーが心をどれくらい開いているかということが、定量化されると助かる。その辺はカウンセリングの現場を客観的に研究し、例えば脳の状態を調べることで研究できるかもしれない。そう言った研究によって、臨床心理学が、関係性を包含した意味で、新しい科学となることに期待している。

(2)宮下保司 「イメージと脳」
        近代科学の方法論に極めて忠実に、脳のイメージング能力を解説された。脳のどの部分が働いているかは、PET(ポジトロン消滅トモグラフィ?)や次の講演で出てくるNMR−CTで調べられるようになってきたので、非常に多くの研究がなされている。手法としては、調べたい脳の機能を使うような課題をやってもらい(これが結構工夫を要する)、その時に脳のどの部分が働いているかを見て、仮設をまとめるということになる。

        そもそも昔から脳の機能は役割毎に局在しているのか、それとも脳全体として分散処理しているのかという考え方が、交互に現れてきたが、現代は局在論全盛である。大脳皮質ではどこでも一つの単位として大体0.5mmくらいのサイズの場所が機能を担っている。通常の見るというプロセスは、眼で処理された情報が最初に後頭部の視覚一次野という処に集まる。そこから、大まかには上の方に行く流れが where path で空間認識であり、側頭葉に行く流れが fact path で物の認識である。ところで、単に見える、乃至は受動的に見るということは視覚一次野までであって、例えば有名な、黒い二つの花瓶に挟まれて白い顔が見えるというような多義的な絵は花瓶であるか、顔であるかの区別無しに見ている。具体的に認識し、例えば花瓶と見る場合と、顔と見る場合では、側頭葉の興奮部位が異なっている。またいろいろな色でいろいろな形を1個、2個、3個と描いたものを、色に注目して見るのか、形に注目して見るのか、数に注目して見るのによって、興奮部位が分かれる。こういった作業は注意という事で、それを支配するのは前頭葉の役割である。こう言ったこともそれぞれに適した課題を考えて実験する。

        さて、具体的に物を見るのではなくて、イメージを思い描くという場合はその契機として、形状的あるいは絵画的な想起の仕方(depictive representation)とシンボル的あるいは言語的な想起の仕方(propositional representaion)で異なる。前者の例に限れば、サルに対する課題を作ることが出来て、ニューロンの発振まで追いかけられる。基本的にはイメージ想起はその物を実際に見る場合と丁度逆の経路を通る。いくつかの絵をペア−として覚えこませておいて、片方の絵を見せて相手の絵を想起させる。この時、想起すべき相手の絵に相当する神経細胞(pair recall neuron)が、実際に時間の遅れを伴って発振することが確認されている。ところで、ペア−に多義性がある場合どの基準で相手を選ぶか(色が同じ物か、形が同じ物か)ということの判断(manipulation)は注意という作業である。これは前頭葉で行われる。そこが破壊されると、状況の変化に全くついて行けなくなる。その辺もおそらくどこかに局在した機能なのであろうが、まだ良く分かっていない。意識の領域に近づくにつれて、うまく課題を設定することが難しくなる。

(3)中田 力 「音楽と脳」
        生い立ちから言えば、中学生の頃人生如何に生きるべきかという問題をみんなで良く議論した。そのことに対する科学を求めて、物理の勉強をしたが、廻りに優秀な人も多く、またあくまで人間に拘るということから、神経生理学に入った。人間を出来るだけ客観的に捉えたいということから、人種の多いアメリカを選んだので、大学からずっとアメリカである。ここで機能的MRIを使った研究を始めて、今日ではその第一人者である。今回はその話は少しで、最終目的である人間について語りたい。

        昔から良く知られていることであるが、チャイコフスキーの有名な交響曲に、第一バイオリンと第二バイオリンが、二つの旋律を一音符づつ交互に弾く部分がある。聴衆は第一バイオリンの旋律を聴く訳でもなく、第二バイオリンの旋律を聴くわけでもない。合成された二つの旋律を聴く。このように意識されるものは全て現実に生起するものではなくて、その人にとって都合の良い、あるいは聴きなれたものである。あるいは予め頭の中にあるパターンでしか物を受け入れないとも言える。子供がアルファベットを習う時、必ず逆文字を憶える。これは、始めてみた文字について左右はどうでも良いのであり、そんなことよりは線の流れの感じが第一なのである。自分で書かねばならなくなって、始めて、いずれか正しい方に統一される。必要の無いことは憶えないのである。脳が遺伝的にあるいは生後の生得的でも良いが、好むパターンを持つということが重要である。

        量子力学の祖であるPlanckは発想として、円環があったと言われる。古典力学が無限に続く線であるならばどこかに基準があるが、円環には基準が無い。一周すれば元に戻るから、位相が一致せねばならず、状態が限定される。弦の固有振動と同じで、状態が離散的になる。すなわちHarmonicsである。

        自然界には3つのマジックナンバーがある。7、12、約1500、7と1500は脳に直接適用されるが(それぞれ一次記憶の数、情報に対応する神経細胞の数であろう)、12はケプラーから言われている様に宇宙に関係する。リーマンのゼータ関数は自然数nの-s乗の無限和で定義されるが、これはsが1の時発散する。しかし、オイラーが言うように虚数軸で考えれば1/12である。最近の理論では宇宙の4つの力には4つのゼータ関数が対応している。(注:以上の事はどこまで正しいか、分からない。)

        ともあれ、ハーモニクスをオクターブ操作で12個組み合わせて、音階を作った時、近似的にはオクターブを12分割するようになるというのは意味がある。歴史的にもいろいろな音階が試みられて、結局平均率に落ち着いた。勿論、実際の演奏家は、ピアノのようなピッチの調整できない楽器を除いて、平均率では演奏していないし、その方が音楽的ことに間違いは無いが、長3度(ドとミ)が明るく感じられ、短3度(ミとソ)が暗く感じられるのは、脳が個々の周波数というよりは12個の中で位置付けられたルールに反応している事を示している。ドミソが明るい和音であり、ミを半音下げたら暗い和音である、と感じるのは、主音がドであるという認識があらかじめあるからであって、主音がミであれば逆である。これは一次情報として認識される周波数の関係ではなくて、その前に主音を決める注意がなされていて、それによって意味が変わることを示している。

        脳の研究手段として、技術的には機能MRIを選んでいる。神経細胞が活動すると、酸素を消費するので、デオキシヘモグロビンが出来て、それが周囲の磁場を乱して、プロトンNMRの線幅を広げると言われているが、本当はもっと複雑で、多数のプロトンが同期するかどうかの問題である。このように、脳の活動単位は今のところ多数の神経の同期的励起として観察されている。課題として音楽を選んでいるのは、音楽が脳にとって、コンピュータのアセンブラーのような中間言語であると考えるからである。アセンブラーがビット単位の機械語に合わせた、ある程度人間にも理解できる言語であるように、音楽は脳の基本的な構造を反映した、人間にも了解可能な言語である。その上にはC言語のような高級言語があるのと同様に、人間の言語があり、その人間の言語にしても、ある程度文法的枠組みは遺伝的に出来あがっていると考えらえれている(チョムスキー)。言語や音楽を機能MRIで調べて見ると、面白いことがわかる。楽譜を読めるリテラシーの出来た音楽家は、楽譜を読むのも、言葉を読むのも同じ言語中枢を使っていて、楽譜というのが、言語と同格になっている。但し、楽譜を読んでいる時だけは、右脳の一部(音楽の意味を理解する部分)が働いていて、実際に頭の中では音楽が鳴っていることが分かる。これは日本語であろうが、英語であろうが、同じである。但し、共通して興奮する言語中枢の部分は、その人が最初に獲得した言語に依存する。すなわち3歳とかその当りのいわゆる Mozart Recognition Time までに言語の枠組みが完成してしまえば、外国語であろうと音楽であろうとそこに載せてしまう。大きく言えばアルファベットを使う言語と漢字を使う言語で言語中枢の構造が異なってくる。それぞれ、働き方に論理的,パターン認識的という傾向の違いがあるが、大きくは違わない。最初の言語を獲得する時に、2種の異なる言語が混在すると、しっかりした構造が出来ず、その人は論理的思考が出来なくなる。つまり脳からみれば完全なBilingalは不幸である。絶対音感については、上記のリテラシーの側面と、音の絶対ピッチの判別の問題があって、実際の音楽家でそれが重なってしまう場合が多いので難しいのであるが、それぞれ別と考えられる。ピッチについては特別な訓練で、いろいろな手がかりを元にして、判断していて、右半球にあると思われる。これは音楽にとって本質的なことではない。ピアニストは楽譜をみて音や和声を想起するが、バイオリニストは指が動く。

        人間の脳の最大の特徴は、恐らく左右の半球を同時に使い、しかも使い分けている事であろう。これは同時にというところが大切で、片方づつならイルカ等は、脳を片方づつ眠らせているので、ずっと起きていられるとか、例は多い。個々の半球の能力ではチンパンジーに劣っているかもしれないが、コンピューターで言えば人間の脳は並列計算機のようなものである。3次元空間を自分の中に作り上げるという、空間認識能力もその現れである。これは頭頂葉が司るが、動作を必要としない認識は右脳で、動作を必要とする認識は左脳である。これはかなり一般化できる左右分担方法である。

(パネルディスカッション)
        予定されたようには行かず、河合先生は直ぐに帰られたので、二人の先生に対する質問・回答ということになった。音楽関係の人が多かった。

        pair recall neuron のようなレベルでの記憶はどのくらいの期間保持されるのか?
::個々のニューロンは日々死んで行くので、記憶は多くのニューロンで保持されていて、完全に無くなるのがいつかは分からないが、実験的には数ヶ月以上保持される。

        におい等の刺激は情動に深く関わり、記憶を呼び覚ますが、このような想起の仕方について。
::これは大変難しいが何れ取り組みたい。大脳皮質ではなくて、古い脳に関係している。哺乳類の進化の過程でにおいが重要な位置付けにあったので、そうなったのである。大脳皮質では例えば作用部位の大きさが0.5mm位というようにはっきりしていたが、興奮のパターンそのものも古い脳では異なりいろいろな物が混在している。

        12音に拘っておられるようであるが、今日では西洋近代音楽は音楽の一種に過ぎず、音楽辞典でも musics というように多様な音楽がある。インド音楽には多くの微分音が音階に使われている。
::それは十分承知しているが、あくまで一つの考え方として述べただけである。12音を基準と考えてそこから派生ないし揺らいだと考えてもよいと思う。

        本来音楽を認知できない患者に対して、先日みんなでダンジリの太鼓の演奏を聴かせたところ、その子がとても喜んだ。このように必ずしも音楽の認識が、大脳皮質だけとは言えないのではないか?
::いわゆる古い脳は進化の過程で、多くの機能を大脳皮質に引き継いだ訳であるが、機能自身は残っていて、特に感情として認識される。音楽は言語が生まれる前から認識されていて、その場合ハーモニクスの原則によるパターン化も存在しなかったかもしれない。
::実際協和音よりも不協和音の方が感動を与える様です。
::言語を習得する替わりに音楽を習得するということも十分考えられる。実際太鼓による音楽を言語の替わりに使っている種族も知られている。その場合には当然言語中枢の発達の仕方もアルファベット系とも漢字系とも異なるであろう。音楽はいわば原始言語であって、原始言語としての音楽が白黒の世界なら、言語は、あるいはリテラシーを備えた音楽家にとっての音楽は色の世界というくらいの相違である。(当然音楽家でない一般人にとって音楽は白黒である、ということか?)

        松本 元という人が愛は脳を活性化させる、と言う本を出しているが。
::脳の活性化というのは科学的表現であるが、愛というのは定義できない。これも古い脳に関係している。いわゆるモチベーションである。それが大切なことは脳の研究をしなくても分かるが、メカニズムとなると難しい。

        つくば大学の大橋先生がガムランなどの音楽の解析で、人間の耳には聞こえない筈の20kHz以上の高調波が心地よさを与えるという研究を発表している。
::ありえない話ではないがまず事実を良く確認すべきではないかと考える。

        始めての街で泊まった最初の夜見る夢にはそこであった人は出てこなくて、街の様子が出てくるが,これは視覚の where path と fact path の違いに対応しているのか?
::本当であれば面白いが、まず事実を確認することが先であろう。夢というのは醒めた後の解釈に依存していて、なかなか研究しにくい。勿論夢を見ている時どこが活動しているかは良く調べられているが、その時何を夢見ているかは分からないし、それをうまく制御できない。

まとめ
        宇井先生がシュレージンガーの生命とは何か(岩波新書)を持ち出して、生命とエントロピー、更には地球環境とエントロピーの話をされた。内容は省略。

以上。

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