2013.02.07

      中央図書館で借りてきた3冊目はクリス・フリスという心理学者の「心をつくる:脳が生み出す心の世界」(岩波書店)である。2009年に翻訳が出ていて、比較的新しいだけあって、よく整理されている。第1部では、脳の働きが殆ど無意識下であって、知覚や行動や自己の身体感覚などが辻褄の合うように作り上げられたものであることを、印象的な実験や症例で説明している。錯覚、幻覚や夢や幻肢、盲視やサブリミナル刺激、病状失認もでてくるし、リベットの実験も出てくる。催眠術の話もある。ただちょっと注意しなくてはならないのは、心という言葉の範囲である。フリーマンでは脳の働きそのものを示していて、それは外から見たときの心、とりわけ自由意志に重点を置いているが、この本ではむしろ脳の機能をそのまま意識として反映させたもの、つまり内省的な意味での心ということになる。

      第2部では、脳が如何にして世界に適合していくか、ということが語られる。良く知られていることではあるが、大変うまくまとめられている。動物の学習については、パブロフの実験による条件付け学習(餌の直前に提示した刺激に対して餌と同じ身体反応を示すようになる)、ソーンダイクによる、問題箱の中の猫による自発学習(自分で扉を開ける方法を見つける)、スキナーによるボックスの中の鳩による迷信行動(餌の直前に自分のやっていたことを迷信行動として身につける)が説明され、人間に対してもこれらは有効であり、とりわけその事を意識しないときにうまくいく、という例を挙げる。これはドーパミンを分泌する報酬細胞による。動物にとって良いことがあるとドーパミンが分泌されるが、その直前に他の神経事象があればそれだけでドーパミンが分泌されるようになる。学習されると、その刺激事象に対してドーパミンが分泌されて、続いて起こる実質的な報酬には分泌されなくなる。刺激があっても報酬がなければ分泌レベルが逆に抑えられる。つまりこれは予測に対する誤差評価となっている。これによって刺激事象と報酬とを結びつける神経の結合が強化されたり弱められてたりする。ヘッブが提案した神経回路の学習メカニズムである。罰則が伴えば勿論これらの逆の学習(回避)が起きる。こうして動物は世界を報酬空間(どこに行けば、どのような行動をとれば、どんな時に報酬があり、罰則があるか、という行動地図)として内部に描くことになる。人の世界認知も基本的には同じ構造を持つ。世界は、とりあえずは、報酬と罰則とによって分節されるのである。(勿論それに引き続いて階層的に分節が進んで概念や表象が意識されるに至るのであるが、そこまで行くには社会的関わりが必要となる。)この段階で意識は本質的な機能を持っていない。むしろ学習を妨げる。

      予測という脳の働きは無意識下であり、例えば眼球の動きによる視覚の変化は予測によって打ち消されて、世界は眼球の動きに左右されずに認識される。自分でくすぐってもそれは予測されているからむず痒さが抑制されてしまう。予測には2種類あって、ひとつは逆モデル、つまり結果(感覚)からそれを齎す行為を予測する。もうひとつは順モデルであって、行為の結果(感覚)を予測する。技能を修得する際には、実際に行為を行って結果がどうなるかによって行為を修正するわけであるが、行為は必ずしも技能の習得に必須ではないことが知られている。思い描くだけで技能が習得される。これは順モデルと逆モデルとが整合するように想像の中で修正するからである。イメージトレーニングである。これらの修正は勿論報酬細胞の働きである。こうして脳が無意識の内に世界に適合していく(予測し、世界像を作り出し、学習する)から、意識はそれを意図として解釈して、意図の世界に生きる(自らの意図に従って行動していると意識する)ことができるのである。(もっともその解釈にも社会性が関わっているが。また、この自らの意図という意識はフリーマンの自由意思とは別の概念である。後者の方が根源的。)

      世界からの感覚の解釈が知覚であるが、知覚には脳内のモデルによる予測が先行している。原初的な世界モデルは先天的に与えられている。光は上からくるとか、物体は凸であるとか、、。その信念から予測される感覚と実際の感覚が比較されてモデルの修正ループが回る。この間200msec程度であり、意識はされない。修正できない程曖昧な感覚の多くは人為的で心理学者が錯覚図形として考案したものである。こうして得られる知覚が本当にそうか、ということは問題にならない。それが機能するか、だけが問題であり、それは行為によって実証される。行為による感覚変化の予測と実際の感覚変化もまた比較されてモデルが修正される。このような動物のあり方は、ベイズ統計そのものでもある。ベイズ統計においては事象 A の生起確率に事前確率(主観確率) P(A)を想定する。それが事象 X によって X であるという条件下での確率(事後確率) P(A|X)に変わる。事象 X の生起確率を P(X)、A という条件下での事象 X の生起確率を P(X|A)とすると、

  P(A|X)=P(X|A)・P(A)/P(X)

である。例えば、P(A)は乳癌の全体での割合、P(X)は乳癌検査陽性者の全体での割合、P(X|A)は乳癌患者が乳癌検査を受けた場合に陽性となる割合、P(A|X)は乳癌検査で陽性である場合に実際に乳癌である割合、という例が挙げられれている。P(X|A)がいくら大きいからといって、P(A)そのものが小さければ、P(A|X)はそれほど大きくはならない。動物は現実についての信念(仮説)A から 期待される感覚 X が生じるというモデルP(X|A)を持っている。実際に X という感覚が得られると動物の信念が確認されることになるが、世界は不確定であるからそうは行かない。このことによって動物は事象 A についての信念の度合いを P(A)から P(A|X)に変える。この変化の度合いが 事象 X の持つ情報量である。

      我々は物理世界を脳の中のモデルとして創りだしているのであるが、生きものについても同じことである。我々は動きを見るだけで生き物かどうかの判断が出来る。生き物の動きは予測を絶えず裏切るから、モデルの更新が必要になる。「動作」という言葉で生き物の動きが表される。そこに我々は生き物の「意図」を読み取ることになる。動作の内でも特に目の動きには特別な注意が向けられる。また、生き物の動作は無意識に脳内で模倣される。これはミラー・ニューロンの発見によって実証された。模倣は動作そのものの真似ではない。動作そのものよりも、その意図を汲み取った真似である。これは幼児に真似をさせることでよく判る。幼児は大人と自分の身体の対応関係をよく理解していないが、大人の動作の目的を読み取ってそれを自分の目的として別の動作をするのである。模倣は共感のベースとなる。痛みや喜びの表情は動作として無意識に真似られて、そのことで我々は相手に共感する。ペインマトリックスという相手の痛みに興奮する脳内の場所も見つかっている。

      自分の動作が他人の意図でなくて自分の意図である、という認識はどうやって生じるのか?つまり自由意志の自覚である(なお、ここでいう自由意志の自覚はフリーマンの言う自由意志(自覚される必要の無い客観的な意味での自由意志)とは異なる。)。これも予測とその結末との観察による原因と結果の統合であり、脳が作り出すモデルである。従って、自分の動作であるにも拘らず他人に動かされていると思い込んだり、他人の動作なのに自分の動作と思い込んだりするような心理実験は容易に出来る。統合失調症の本質はその辺り(モデルがうまく出来ない)にあって、幻聴や幻視も思い込まれた動作主体として意識される。デカルトは「思惟する存在としての私が実在する」といったが、統合失調症ではこの最後の砦も崩れ去る。著者はその理解の為に脳科学者になったのであるが、未だに確かなメカニズムは判っていない。

      第3部は他者との心の共有と文化である。他者の意図を理解し、他者の動作を真似ることが出来るわけだから、動物の社会において「文化」は伝承される。しかし、ヒトの大きな特徴は、他者に真似を促す、教える、という動作をすることである。赤ん坊に対する母親の無意識のイントネーションや発音の変化は良く知られている。ヒトとヒトとの対話においてはお互いが相手の心のモデルを更新していく。ヒトに学習させるのに、報酬や懲罰は必ずしも必要なくて、知識が使える。知識は極めて有効であるが、反面ヒトは嘘をついて欺く事も可能である。いずれにしても、他者が信念を持っていてそれに従って動作する、という確信があるから可能になる。自閉症患者にはその確信が無いから、嘘を付くことができない。したがって取っ付きにくい印象を与える。逆に偏執的統合失調症の患者は全てのことに過剰な信念を検出するから、被害妄想などに捉われやすい。他者の心のモデルは正しいかどうかは問われない。機能すればそれでよい。しかし、心のモデルを対話によって直接比較することができるので、相手の持つモデルと比較することで修正され得る。逆に閉じた集団内において誤ったモデルがそのまま強化されてしまう危険性もある。カルト集団である。

      意識については様々な研究がなされているが、統一的に言えることはあまり無い。そのメカニズムは判らない。しかし、意識があった方が良いだろう、という効用は幾つか挙げられる。それは自己が自由な動作主体であるという認識から各人が自由な動作主体であるという信念を生み出すからである。不公平な態度や動作に対してその責任を追及することが可能となる。それによって、賞罰が可能となり、より優れた社会を形成できる、ということである。この辺はもう少し概念を掘り下げないと曖昧になってしまうと思う。自由意志の自覚については学習結果であることは既に語った筈である。それと、「知識」とか「信念」とかはどのレベルで表現されたものを指すのか曖昧である。言語化されたものなのか、それとも脳の中の神経ネットワークのレベルなのか。つまり記号論的な解析が欠けている。

      この本の巻末には本文中の主要な命題が並べてあって、それに対する文献的根拠が明らかにされている。なかなか面白い文献引用のやり方である。これだけでも勉強の役に立つと思う。
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