第5章:感情と志向的行動:ブロック(9)、(10)

    この章はかなめのような気がするが、判りにくい。著者の立場では、動物はまず第一に行動のゴールを自分で決めて行動に移して、それによる環境の変化を解析して学習する、というサイクルを繰り返す存在である。その過程で行動の準備に伴う身体変化が齎すものが情動として感じられる。身体変化は他者に認知されやすいから(これにはミラーニューロンが重要な役割を担う)表現手段として社会的に確立されることにもなる(これは第7章で論じる)。また前頭葉の発達により別経路として意識による行動の遅延があるが、それは情動が表現するような直接的短期的行動ではなく、理性的長期的行動を可能にする(これは第6章で論じる)。

    まず、唯物論者と認知主義者の脳モデルが検証される。それは一言で言えば、入力に依存してその情報や表象を処理する高度な処理装置としての脳である。感覚器官は視床を介して感覚皮質に情報を伝えて、運動活動の選択と組織化を担当する前頭葉での統合調整情報と共に運動皮質に伝えられて、更に小脳からの調整も受けて、脳幹、脊髄、運動器へと命令が伝わって運動が起こされる。これが基本であって、刺激−反応モデルである。その過程において、脳幹網様体からは大脳皮質への覚醒信号があり、運動皮質から扁桃体に命令がコピーされて情動を引き起こす。固定され切断され染色された脳の解剖学から作り上げられたこのモデルは、運動神経を切断されたヒトに残る志向性や期待の感覚を説明できないし、覚醒している動物での実験によればこのような図式は明瞭には観測されない。辺縁系は空間的移動や情動による運動応答や意識記憶の形成に不可欠であることは確立しているが、このモデルでは辺縁系が認知の後で働く高次機能であって、刺激−応答系からは記憶なども含めて副次的なものとなる。

    プラグマティストの立場では、辺縁系が全ての出発点となる。その中でも海馬が中心となる。辺縁系はサンショウウオでの前脳であり、サンショウウオが限られた本能的志向性しか示さないために、ヒトにおいては辺縁系が分化成長している事が大脳皮質の発達の陰に隠れてしばしば見過ごされ勝ちである。哺乳類においては海馬は内嗅皮質を中心とする中間的な皮質領域を介して他の組織と繋がっている。内嗅皮質は殆どの領域と相互作用している。いくつかの中間的な核を介しているが、大きく分類すると、全感覚システムと全運動システムと相互作用している。

    全感覚システムから受け取る感覚信号は内嗅皮質において統合され
(9)多感覚収束(コンバージェンス)する。
それが海馬に送られて、海馬において個体の経験領域としての空間と運動の経過記録としての時間が登録される。認知主義者は海馬においては認知地図が出来ているという。しかし、実際には不断に変化し方向付けられたカオス的遍歴が見られるだけである。秋に木の実を集めて保存する習性のある動物について、海馬には空間認知のメカニズムとして、地図などによる方向性定位とそこに至る道筋を逐次的に示す目的連鎖の方法があり、それらが海馬の異なる部分にあることが見出された。(前者がオスに後者がメスでよく発達している。)海馬自身は秋に肥大し、冬には縮小することから、それが記憶形成には寄与するものの、記憶自身は他の部位にあり、記憶想起には必要とされない、という一般的な考えを実証できた。海馬における時空ループは嗅覚など一次感覚皮質でのカオス的遍歴と同様な構造を持っており、海馬での振幅変調パターンの自己組織的な展開がカオス的不安定性を介して志向的行動の流れを司っていると、著者は考える。このカオス的状態遷移の隙間では線形的因果関係に基づく決定論機構(第6章で議論)は一時的に停止し、外部から引き起こされた原因・結果の連鎖は作動していない。

    辺縁系から運動システムへの出力先の一つである扁桃体(一般的には扁桃体も辺縁系に含まれるが)は筋骨格系に方向性を与え、情動的行動に関与する。もう一つの出力先の視床下部は心臓、肺、皮膚、内分泌器官を調節して、筋肉運動や情動の表出を支えている。これらは視床を含む基底核に間接的に出力し、それが前頭葉運動皮質に繋がるが、辺縁系はまた前頭葉運動皮質に直接繋がっている。前頭葉運動皮質は辺縁系によって開始された目標志向的行動に従って感覚入力を最適化するように四肢、頭部、眼球を調節するが、直接行動を開始するのではない。それは辺縁系が定めた行動の未来予測を行っている。前頭葉背側部と外側部は論理や推論、腹側部と内側部は社交技術や共感能力に関わる。ヒトが経験を蓄積して複雑な行動を起こす基盤となっている。辺縁系は、軸索による伝達だけでなく、さまざまな神経修飾物質を分泌することで、大域的な自己制御を行っている。ヒスタミンによる全般的覚醒、セロトニンによる鎮静と睡眠導入、ドーパミンによる感情と運動の調節、メラトニンによる日内リズムの修飾、報酬ホルモンCKK(コレシストキニン)による価値の組み入れ、エンドルフィンによる苦痛の軽減、バゾプレッシンによる攻撃的行動の解発、オキシトシンによる母性的活動の開始、アセチルコリンやノルアドレナリンによる志向性を新たな段階へと更新するために不可欠なシナプスゲイン変化の促進。

    辺縁系から運動システムへは活動電位のコピー(エフェレンス)が送られ、感覚システムにはこれから起こす行動に伴う感覚をあらかじめ予測する信号(プリアフェレンス)が送られる。それは、運動システムからその結果として送られるリアフェレンスに先立っている。プリアフェレンスは感覚システムにおけるカオス的遍歴のアトラクター地形を形成する秩序パラメータとして機能する。これによって、感覚システムは予測されるアトラクターに引き込まれやすくなる。生命体は、それが正しいか間違っているかに関わらず、何を探しているかについての何らかの観念を持っている。そのような準備無しには探索も知覚も生じない。感覚が蘇らなければ志向的行動は生じないし、情動無しに記憶の想起も生じない。

    海馬において「時空ループ」を想定したが、運動システムは身体をループ的に制御し、身体はその結果を内部感覚として感覚システムに返すから、その経路として「身体ループ」が成立している。更に、運動システムは探索活動により環境に働きかけ、その結果を受容器で受け取り、それが感覚システムに受け取られるから、これは「運動ループ」ということになる。この入れ子になった3つのループを巡回することが動物存在であり、その起点は海馬の時空ループである。
                             運動ループ
 受容器←───────────  環境  ←─────────探索
   |                                                        ↑
   |                         固有感覚ループ                 |
   |  ┌───────────  身体  ←────────┐  |
   |  |認知ループ                            制御ループ|  |
   |  |                                                |  |
   ↓  ↓      コンバージェンス          エフェレンス    |  |
全感覚システム────────→内嗅皮質──────→全運動システム
              ←────────  |↑  ←──────
               プリアフェレンス   ||  リアフェレンス
                                  ↓|
                      時空ループ  海馬
    最後に、脳内全ての部分を巻き込んだ大域的活動が観測されていて、それは数ミリ秒で立ち上がり、1/10秒程度は継続する。fMRIやPET(陽電子放射断層撮影)技術のような高解像度でありながらも静的な観測手段だけでなく、脳波(EEG)による電位や脳磁図による磁場の時間的空間的解析によるものである。ヒトや哺乳類のような大きな脳でこれだけの高速大域遷移が可能なのは、大脳新皮質の6層構造の内下側の3層によると思われる。上側の3層は旧皮質と変わらないが、下側の3層は厚く、また軸索を水平に遠距離まで伸ばしている。意味は学習によって神経絨に埋め込まれた全個体史に依存している。意味を与える文脈は辺縁系の制御の下に身体感覚や四肢を通じて世界から与えられる。意味は、脳幹神経修飾核が生み出す情動や感情を含み、それが志向的行動を準備する。著者は、
(10)脳内の全体に亘る大域的な振幅変調が、カオスダイナミクスによって、可能なオプションからの選択を為し、運動システムを志向的行動の連鎖に導く、
と想定する。

    以上で一応、脳における志向性の維持の理解に必要な10個のブロックが出てきたので、ここで再度復習しておく。
(1)興奮性神経が、正のフィードバックによって、活動度ゼロのアトラクターから定常的活動の点アトラクターに遷移する。
(2)興奮性と抑制性神経が負のフィードバックによって振動する。
(3)興奮性、抑制性皮質神経混合集団の定常的振動を調節する、点アトラクターからリミットサイクルアトラクターへの遷移が起きる。
(4)(3)あるいはそれ以上の集団における正負のフィードバックによる背景活動としてのカオスが存在する。
(5)樹状突起集団のカオス的な活動によりメゾスコピックレベルでの電位の位相同期した振動振幅の空間パターンが生じる。
(6)混合入力集団への入力によって駆動される非線形フィードバックゲインの増加により、知覚の第1段階としての振幅修飾パターンが構成される。
(7)学習によって変化するシナプス相互作用により、振幅修飾パターンに意味が与えられる。
(8)感覚入力のパターンは皮質における振幅修飾パターンによって減衰してしまい、意味のある入力が選択される。これは個体史に依存しているから、意味の独我論的な孤立である。
(9)行動結果の感覚予測としてのプリアフェレンスの拡散が内嗅皮質での多感覚収束に引き継がれてゲシュタルト形成の基盤となる。
(10)カオス的活動の大域的振幅修飾パターンの連鎖の形成が大脳半球全体の志向状態を統合し方向づける。
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