市立図書館で予約して一ヶ月以上待って吉岡斉の「脱原子力国家への道」(岩波書店)を借りて読んだ。以前岩波ブックレットで原子力政策についての冷静な分析を知り、注目していた。専門を見ると科学技術史、科学技術政策とある。長年原発について発言してきた人らしい。今回の事故でも政府の事故調査委員に選ばれている。原発には経済合理性が無い、ということをずっと言い続けてきたのであるが、今回の事故がそれに追加される事になって、予想される賠償費用だけでも、今まで原発で発電してきた電力の総コストが2倍になってしまった。この上新規に原発を設置するのは論外であるし、将来的にも止めるべきである。経済的に見ると、残された問題は当面の電気料金ということになり、経済団体は国際競争力の低下や国内産業の空洞化を懸念しているが、原発による電気料金が多少とも安いのは後始末の費用を無視しているからで、それに頼る事は結局将来の世代につけを廻していることになる。その兼ね合いは社会・経済状況を見ながら政治的に妥協していくことになるだろう。

      実は、著者がもっとも心配しているのはそういう経済的な問題ではない。原発政策と核燃料リサイクル政策はエネルギー政策の顔をしているけれども、本当のところは国防と外交の問題である。もともと日本の原発はジェネラルモーターズのMarkII型を導入されたのが始まりである(厳密には2代目)。日本側での技術理解は無知に近かった。その後日本の技術も進歩し、さまざまな改良もなされたし、MarkII型の危険性についても多くの警告があった。アメリカでも幾つか改善がなされたが、日本では対応していない。メルトダウンにいたる事故はあり得ないということが前提とされたからである。他の国では当たり前とされるような事故に対する備えが日本では殆ど欠落していて、その事が今回の事故の悪化の主要因となっている。なぜそうなったのか?それはそもそも原発の推進の本当の理由を国民から隠す必要があったためである。もともと原発による電力は自然界に存在しないプルトニュームを生産する工程での副産物に過ぎない。プルトニュームはガンマ線を出さないから武器として非常に扱いやすい。核燃料リサイクルによってプルトニュームを取り出すということは将来核兵器を持つということである。アメリカが特別にこれを日本に認めたのは日本が自国の防衛をアメリカに任せるという状況にあったからである。またアメリカにとっても東アジアにおいていつでも核武装可能な日本を防衛線として保持することは重要であったし、日本側もアメリカに防衛を任せるための交渉カードとしてプルトニュームの保有が重要であった。それに加えて、現在ではアメリカの原発も軍事技術も日本の技術無しには成り立たないから日本の全面的な技術提供もその条件である。このような依存関係から、日本が原発から完全撤退することが難しくなっている。これらのことは国民に知らせてはいけないことであり、それを含めて原発の危険性そのものや核廃棄物処理問題への批判については可能な限りの言論統制を行う必要があった。原発は議論の余地無く安全でなくてはならなかったのである。要するに国民に原発について真剣に考えさせること自身がタブーとされたのである。以上が第1章「なぜ脱原子力国家なのか」の要旨であるが、実際に起きてしまった事故によって、このタブーが破られてしまい、これらの隠された事情が表に出てきつつあるというのが現状である。そこに到るプロセスとして、まずは原発の安全性と経済性、という表向きの関門を突破する必要がある。したがって、この本の第2章「福島原発事故のあらまし」第3章「福島原発事故の原因と教訓」がそれに充てられている。勿論事故の解明や原因についてはまだ殆ど判っておらず、おそらく判らないままであろう。そもそも現場に近寄れないのだから。しかし、脱原発の議論に限るならば、それらはそれほど重要な問題ではない。

      第4章「日本の原子力開発利用の構造」は、以上のような背景から実際に原発を推進する組織の特徴を述べている。民主国家においても、軍事、防衛のような分野においては政治家、官僚、業界人による特定の集団が独占的に国家方針を決める体制が取られている。筆者はそれを「国策共同体」(subgovernment)と呼ぶ。しかし、日本では殆どの政策分野でそれが当たり前となっている。国会の能力不足により、行政機関(官僚)が通常の政策を決める。政権与党がそれを覆すこともあるが、稀である。それに加えて、日本では地方行政の権力も制限されているから、結局は官僚が日本の国策を決めている。民間の意見を取り入れるために政府審議会が作られるが、批判者は排除されるから、細部の調整は別として政策決定としての意味は無い。それでは、官僚は総理大臣をトップにおいてその指導が行き届くかというと全く異なり、諸官庁が主体となりお互いの利害調整の結果の妥協案として国策が作られる。その諸官庁は配下の企業や組織に意向を反映することになる。つまり国家自身が談合による運営となっている。(小沢一郎はそれに異を唱えて抹殺されようとしている。)原発については、その国策共同体は2つの勢力に分かれる。通産−電力連合と科学技術庁である。前者は商業段階(アメリカとの共同による原子炉建設とウラン燃料確保)、後者が開発段階(核燃料リサイクルと文殊)、という棲み分けをしていたが、2001年の省庁再編で経産省に一本化された。大学系はそれらのサポート役しかできていない。さまざまな機関が作られて今日に到っているが、あまり意味は無い。具体的なやり方は「国策民営」である。原発は経済的に成り立たない発電方法であるから、民間会社に対して利益を国家が保証する必要があるためである。電源三法による立地支援、原子力損害の賠償に関する法律、によって、電力会社は事故の責任を負うリスクからも経営破綻のリスクからも免除されている。これに加えて電力の地域独占と電気料金のコスト積み上げ制によって経営努力からも免除されている。電力会社は原発を人質にとって政府を脅迫して生きているようなものである。江戸時代の領主と家臣の関係がここに生きている。

      著者が「核の六面体構造」と呼ぶのは、経産省、電力業界、地方自治体関係者、原発メーカー、政治家集団、アメリカ政府関係者、である。アメリカの原発メーカーはスリーマイルアイランド事故後市場を失い、リストラによって製造能力を失っており、国外での市場確保のため、日本の原発メーカーの製造に頼っているから、日本が脱原発となると、日本の原発メーカーも製造能力の維持が難しくなるため、アメリカが政策介入してくると予想される。著者が参加した審議会の模様は「エネルギー一家の家族会議」という感じであった。いろいろな意見が出るには出るが、それを採用するかどうかは事務局の権限である。つまり、公聴会と同じである。業界関係各委員の主張を聴いた上でその全てに配慮した報告書案を纏めて、各委員の同意を得る。第3者的委員の意見については同意意見のみを取り上げ、反対意見は棄却される。

      第5章「日本はいかにして原子力国家となったか」は、著書「新版  原子力利用の社会史−その日本的展開」(朝日選書)の概要である。本来脱原子力国家へ舵を切る切っ掛けは、2000年に入ってからの米国からの圧力による電力自由化の動きであった。実際、これによって始めて経営者的意識を持つようになった電力業界は、コスト的に合わないという理由で、商業用原子炉の新増設中止または凍結、核燃料再処理工場の建設中止または凍結、国策協力で進めてきた諸事業(科学技術庁系列のもの)の中止または凍結、を提案し、これによって脅しをかけて2002年に「エネルギー政策基本法」が制定され、電力自由化を阻止したのである。 第6章「日米原子力同盟の形成と展開」については、既に要点を記したので省略する。日本の脱原発は東アジアの軍事バランスを崩すことになりかねない。歴史的には、重要な人物として、中曽根康弘、正力松太郎を忘れてはならないだろう。後者はCIAと協力して原発キャンペーンを張って世論を変えた。その後イギリス製黒鉛原子炉を導入したが失敗した。それ以後の原子炉は全て米国製軽水炉(GEによる沸騰水型とWHによる加圧水型)である。(WH:ウェスティングハウス)

      第7章「異端から正統へと進化した脱原発論」では、菅首相の英断によって原発再稼動の動きが封じ込められた話しがまずある。(菅首相はマスコミによってたかって無能呼ばわりされて退陣した。しかし、彼の果たした功績は大きい。)3月30日には原子力安全・保安院の経産省からの分離を述べている。5月6日には浜岡原発の運転停止を要請した。更に経産省が安全審査を済ませて再稼動をしようとした矢先に7月7日には「ストレステスト」を科した。それにもめげず経産省はストレステストを実施し、安全対策については計画があれば良しとすることにした。背景にあるのは原発の運転コストである。燃料費だけで見れば、100万キロワット定格で、年間、石油火力が600億円、LNGで400億円、石炭で220億円、原子力は100億円であるから、既存の設備の利用を前提にすれば原発は安い。原発を再稼動させなければ電力料金を上げざるを得ないだろうが、策としてはそれを税金で補うという方法もあるだろう。その兼ね合いで決めればよいであろう。エネルギーの供給量については、必ずしも原発が必須ではないことが実証されてきている。そもそも電力で見ると原発の比率は25%以上であるが、エネルギーで計算すると原発の比率は10%程度である。原発は熱効率が非常に悪いためである。ちなみにエネルギー消費全体での電力の割合は25%であり、これは先進国中でも異常に高い。これは一つには先端産業の所為でもあるが、それだけ電気を使わなくても良いところに効率の悪い電気を使っているということでもある。原発の特性に合わせて家庭電化を進めてきた背景もある。加えて、日本は既に経済的に衰退期に入っており、消費電力量は減少しているから、原発が無くなっても不足ということは生じない。

      第8章「脱原発路線の目標とシナリオの多様性」では、今後の参考として様々な考えを分類している。その中で現実的な方法としては、政府が支援しなければ自由主義経済原則によって原発は消滅する、ということである。ただし、その過程は非常に長く、また技術的にも未知の部分が多いから、「脱原発工学」という新たな分野が必要となる。日本でその分野を切り開けば国際的な活躍の場が開けるであろう。世界的に見ればまだまだ原発が建設されるだろうから。

      第9章「脱核燃料サイクルのシナリオ」では、個々のプロセスについて技術的説明と経過説明をしている。(1)「ウラン濃縮」ではコスト競争力が無くて単に国際的既得権を維持するために事業を細々と続けている。(2)「核燃料再処理」はフランスの技術のコピーであるが、一部に日本独自の技術を導入ため頓挫したままである。既に電力会社に維持する余力は残っていない。(3)「高速増殖炉」はウランからプルトニュームを作り出すことでほぼ無限にエネルギーを取り出すものであり、日本だけが継続している。核兵器級純度のプルトニュームが容易に得られる。これは炉内中継装置のナトリウム中への落下以来中断したままである。(4)「プルサーマル」は余ったプルトニュームをウランに混ぜることでMOX燃料とし、有効利用するものであるが、コストは高くなる。(5)「使用済み燃料の貯蔵と処分」については、使用済み核燃料は現在17,000トンあり、もしも原発を全て運転すると1,000トン/年で増え続ける。再利用の技術が頓挫しているので溜まり続けているのである。にも拘らず漸く1990年代に検討が始まり、未だに最終処分場すら決まっていない。

     (5)以外はもはや意味が無いのであるが、著者は(3)だけは技術パッケージとして残しておいたほうが良いかもしれないと述べている。著者の原発論は3.11以前と変わっていない。経済合理性が無い以上漸次廃止すべきである、ということである。再稼動に対しても脱原発へのソフトランディングという観点から反対はしない。

      個人的な感想としては、継続中の事業が見込みが無いと判っていながら止められない、というジレンマが何とかならないものか、という思いがある。太平洋戦争の終結もそうだったし、企業に在籍していた時の事業についてもそうだった。事業を担当している当人が止めるというのは相当な勇気が必要である。継続して成功させることが使命とされているから、止めるというのは敵前逃亡と見なされて袋叩きに合うということだからである。事業体の外に居るリーダーが決断するしかないのであるが、リーダーが充分な現状認識を持つことがこれまた難しいので、手遅れになり勝ちである。これは日本人の体質の問題でもないだろう。日本独特の困難があるとすれば、政治体制、立法府が機能していない、ということがあるのかもしれない。マスコミの体質もあるだろうし。それとトリウム溶融塩炉はどうなのだろう?この技術は現在全く無視されている。ことここに到って別な原理の安全な原発と言っても誰も信じない、ということなのだろうし、そもそも必要がなくなったということかもしれない。
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