2012.09.16

     この間市立図書館で借りてきた本の2冊目、ダニエル・C・デネット「解明される宗教」(青土社)を読み始めた。随分饒舌な人で、なかなか本題に入らない。本が分厚くなるのも道理である。手を変え品を変えて、一生懸命に、宗教を科学的に(というか進化論的に)研究することに対する反論に答えているのである。類似する研究として1940〜50年台における人間の性行為の科学的研究を挙げているのは確かに適切かもしれない。清教徒的束縛から多くの人が救われたのだから。また、子供の無邪気さはいつまでもそのままで保つことが難しいから、むしろ知識と考える力を付けさせて世の中を渡っていけるようにすべきなのである。一時的に害があるにしても。確かにアメリカという国は特殊な国であって、進化論を科学と認める人は人口の1/4に過ぎない。聖書に基づいて創造論が正しいと訴える人達の影響が大きいのである。経済と科学技術の最先端を走る国でのこの宗教の強さはそれだけで分析する価値があるだろう。今後の世界を考える上で宗教を無視することは出来ない。ますます重要になっている。だからこそ宗教という現象についての科学的研究に価値がある。進化論の素晴らしさの一例として挙げているのは、ある一群の植物が糖類を果物の形で蓄えて、それを動物が摂取して、種を遠方にばら撒く(少ない確率かもしれないが肥沃な土地が見つかるかもしれない)、という仕組みである。このような仕組みはどう考えても神の奇跡としか思えないであろう。しかし、関与する当の植物や動物は単にそれぞれ子孫の繁殖と高カロリーの餌によって導かれただけなのである。こういった例が延々と語られている。

本論に入る最後に、宗教というミームについて、幾つかの可能性を挙げてる。

(1)甘いものへの嗜好のように、生存にとって必要なものに対する体内センサーがある。つまり脳の中に神中枢とでもいうべきものがある。

(2)寄生虫が体内で活動して宿主の行動に寄生虫の拡散に導くような傾向を齎す。つまり、宗教によって利益を得るのは宗教というミームである。

(3)性的選択理論では、たまたま気まぐれに雌の嗜好があったために自己触媒的に雄の一見無意味な誇示行動や派手な飾りが進化する。宗教もそのような経過を辿ってきたのかもしれない。

(4)貨幣理論では、社会全体が貨幣による恩恵を蒙るが故にあらゆる社会に貨幣がある。宗教もそういう存在かもしれない。

(5)真珠理論では、牡蠣に無意味な寄生物が進入してそれに対する物理化学的な反応をして出来る真珠と同じで、何の生物学的適応度とも関係ない。ここまでで既に139ページも使っている。

      第4章「宗教のルーツ」からが本論と思われる。現代でも宗教の始まりを目撃する事ができる。その一例が第二次大戦中での積荷信仰である。アメリカ軍が太平洋の島にやってきて、その隣島に飛行場と軍事基地建設要員をリクルートした。そこから帰ってきた島民がアメリカ人の持っていた不思議な物の話しをすると、社会全体が大混乱をした。既にイギリスの宣教師によってキリスト教に改宗していたのだが、島民達は教会に行くのを止めて、竹で滑走路や倉庫や電波塔を作り、戦闘機やヘルメットやライフルも竹で作り、宗教的偶像とした。胸や背中にUSAと書き込んで歩き回った。ジョン・フラムという名前が救世主として浮上して、戦後に到ってもジョン・フラム再臨を信じる宗教として定着してしまった。こういう宗教があちこちの島で誕生したのである。一般的には、宗教の存在理由として「苦しみの中での慰めや死の恐怖の緩和」「宗教無しでは説明できない事項の説明」「試練や敵に直面した時に集団的共同を助長する」が挙げられている。なぜそれらが宗教以外の手段でなかったのか?が問題である。

      ボイヤーは「神はなぜいるのか?」(2001)で人間の心の最近の進化による認知システム、「行為主体認知」「記憶管理」「ペテン師探知」「道徳的直観発生」「物語と語ることへの嗜好」「指向的構え」が、人間に遅かれ早かれ宗教のような概念を抱かせることになる、と述べている。動物は「行為主体を過敏に検知する装置(HADD: hyperactive agent detection device)」を持つ。生命ある動くものをそうでないものから区別し、生命的な動きと予想される動作の種類を区別する。更に知的な動物は指向的構えを取る。つまり、世界についての一定の信念と明確な欲求(内的動作因)とこれらを考慮して合理的なことをするという充分な常識とを備えた行為主体として世界の中に存在する他の何物かを取り扱う。彼等が自らの指向的構えについて気付いているということではない。適応調節が出来さえすれば充分である。(我々人間がそういう行為として認識せざるを得ないということである。)これは動物が敵対的環境下で生き残るのに必須の能力である。更に、他者の信念を知っていると信じる段階(第2水準の指向性)は人間(と一部のチンパンジー)にみられるし、自分が信じていることを相手が信じるように思わせるという段階(第3水準の指向性)、、等々と複雑化する能力を人間の子供は遊びの中で獲得する。高度な社会性への適応である。親しい人の死に直面したとき、人間は指向システムの中で認知の更新をしなくてはならない。死んでしまった人についていろいろ考えてしまう。しかし、死体は一方で病気の潜在的な源でもあるから、嫌悪の対象でもある。この動揺が宗教の誕生の引き金であった可能性がある。解決方法は儀式の発明である。指向されるその人は魂として心に残される。しかし言語無しには魂の世界が想定されて儀式直後を越えて生き残ることは無かったであろう。言語はもはや感覚の対象にならないものを思い出させるし、言語がなければ判りにくいデーマをよく考えさせる。魂の世界は仮想的であるだけに、現実の感覚によって修正されることなく、心の中で自由に進化して、あこがれや恐怖を増幅させる。

      第5章「宗教、その黎明期」。指向的構えはアニミズムを生じさせやすい。世界の中ではっきりとパターンが認められるものを説明しようとするためにはアニミズムが有用である。それほどはっきりしたパターンが認められない場合に生じる現象として、スキナーは鳩を使って面白い実験をした。不定期に餌を与えるだけで、鳩が迷信行為を身に付けたのである。たまたま餌を与えられた時に首を上下させたという事が、首の上下によって餌が貰えるという幻想を生み出し、その失敗ですら首の上下の不完全性への反省となり、次第に複雑なダンスを発達させるに到ったのである。偶発的な出来事が信じられないような観念を生み出すことがある。過敏に行為主体を探す性向と記憶に残るものと大好きなことが結びつくと、仮説が沢山生まれる。勿論それは淘汰されるが、繰り返すうちに心の中に住み着いてしまう。動物と人間の違いはそのデザインの複雑さである。言語によって組み合わせが可能だからである。精霊や妖精や鬼や悪魔がこうして生まれる。

      人間の社会生活は他者に対する戦略的情報で満たされている。全ての戦略的情報を入手できる行為主体というのは明らかな捏造ではあるが、人間を考える事から解放してくれる。人間にとってそのような行為主体は第一義的には先祖であり、父であり母である。生れ落ちてからの親からの情報伝達が決定的に重要な人間という種にとって、そうなるのは当然であろう。ダーウィン自身が「自然選択は子の脳を作り上げる際、親と部族の年長者が言う事は何であれ信じる傾向性を組み入れる」と言っている。神が父と呼ばれるのはそのためである。さて、ジュリアン・ジェインズ「神々の沈黙−意識の誕生と文明の興亡」という本からの引用であるが、人間集団が大きくなり複雑化すると人間が自分をコントロールすることが難しくなり、決断を下してくれる外的なものに責任を転嫁する多様な方法が生まれてくる。占いである。偶然とか無作為という観念はごく最近生まれたものであって、あらゆる物事には意味がある、というのが人間本来の考えであったから、たとえ占いが偶然に任せるという行為であったとしても(実際そうだが)、当人にとっては、何が正しいかを知っているどこかにいる誰かが自分に話しかけると信じるしかないのである。ともあれ、占いは充分に根拠のある決断が出来ない場合にとにかく決断を与え、安心感を与える。その結末は占い自身の淘汰を齎すが、生き残った占いは文化として伝承される。ジェームズ・マクレノンの調査によれば、世界中の薬草療法師の儀式で得られている効果の殆どは今日プラシーボ効果といわれるものであった。シャーマンの行為は催眠術であり、おそらく人口の15%程度と言われる被催眠性自身も治療と治療の効果との共進化の結果であろう。

       占いや儀式が創始者の代を超えて生き残るためには、記憶されやすいようなデザインが必要である。誰が思いついた訳でもないが、優れたデザインの儀式が残ることになる。勿論それらは記録を必要としない。儀式に多くの人々が参加し同じ仕草をする、というのも多数決による記憶、という戦略と見なされるが、これは今日では計算機の記憶装置で採用されている(多分エラー補正技術のことだと思う)。繰り返しということが重要であるが、その中で、ディジタル化(要素分割)も記憶を容易にする。連続した音声がアルファベットとして音素化されるのと同じで、一つ一つの仕草がパターンとして纏められて小異は無視される。更に興味深いのは、理解不可能な要素ほど保存されやすい、ということである。理解できてしまえば各人が勝手にその意味を表現しようとしてパターンが崩れるからである。

      第6章「管理運営の進化」では、発生した占いや儀式が集団の中で自己保存するために取る洗練化を説明している。儀式を執り行う者の技術や演技力の向上、更にはシャーマンは自覚的に手品紛いのことをするようになる。他方で、その種族の大部分は民族宗教について決して自覚的な訳ではなく、単に先祖からの習慣に従っているだけである。何かしらの新しい知識が得られたり習慣に疑問を抱いても、それらはあまりに危険な誘惑である。血縁集団から部族社会へ更に国家へと社会が大規模になるにつれて、宗教は政権と密接に結びつき、富を吸い上げる装置として機能するようになる。

      第7章「団体精神の発明」では、 最初に問題が提出される。組織というのは当初は目的に合致したものとして生まれるが、いつの間にか目的を忘れて組織の維持と成長が自己目的化する。宗教が民俗宗教から発展していく過程で、宗教は果たして宗教の実践者に適応上の利益を与えてきたかどうか?2つの仮説を検討する。一つは、その宗教の実践者にのみ神の救済が行われるということが約束されるから、逆境の時に深い慰めとなる。もう一つは、宗教への参加がその集団での共同行動を効果的にするような信頼の絆を生み出す、というものである。

      宗教の組織維持メカニズムは、蟻の群棲組織のように自然選択によるものなのか、それとも企業のように個人の合理的な選択によるものなのか?後者には管理者が必要である。社会学の機能主義学派やガイア仮説のように宗教が自然選択の結果であるならば、競争的な他の組織原理とのあいだの存亡がなくてはならない。逆に宗教組織というのは事業体であり、主催者が神々との交流をサポートする企業なのか?著者はこれらの中間の立場に立つ。競合し存亡するのは宗教集団ではなくて、ミームなのだという。要するに宗教の教義や儀式というのは固定的なものではなくて、絶えず宗教実践者の「合理的な」評価に曝されている、ということである。ミームの増殖は宿主の利益になるかどうかは判らないが、宿主の忠誠にはかかっているから、キリスト教でもイスラム教でも、自己放棄や神への服従が求められる。自分自身の幸福や命よりも神の御言葉を広めることが重要である。この御言葉こそが他の御言葉と生存競争をして淘汰されるのである。アメリカにおいて宗教が魅力的であるのは、宗教の自由競争が保障されているからである。スタークとフィンクはアメリカでの宗教というビジネスの市場競争を分析している。宗教というのは価値判断の難しい商品のように、高価であればあるほど、困難であればあるほど、つまり、参加者が主体的に関与すればするほど強固である。大きな安定した宗教よりも、参加者に過酷な試練を求めるカルト集団の方が強い。

      そろそろこの本の半分くらいまで来た。275ページである。相変わらず饒舌なばかりであまり気の利いた言葉は出てこない。最初の方での著者の断り書き、この本はアメリカという特殊な宗教状況に置かれた人々にとってしか意味が無いかもしれない、というのを信用すべきだったかもしれない。そもそもこんな考察(というか引用)が「進化論的研究」と言えるのだろうか?推測しているばかりで何の論証も実証もない。まあ、哲学というのはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが。

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