190317
第7章の第3部、哲学的考察の部分をまとめる。

      この本をここまで読んできて、彼女の用語、agency あるいは agent というのは、必ずしも必要が無いのではないか、と思い始めた。それは、単なる物質的言説的配置によって誘起される『成り行き』であって、揶揄的な言い方になるかもしれないが、『お天気』を語るようなものではないだろうか?英語では(多くの印欧語でも)仮想主語 it を使う。成り行きを語るためにも、その主体を文法が要請してしまうのである。心理的な拠り所があるとすれば、それは『神』に近いような気がするが、東洋人としての僕には、どうもよく理解できない用語である。そんな言葉を使わなくても、内容は記述できる。以下、本文に沿って、最初に箇条書きで要約し、次いで所感を述べる、という順序である。

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##  Bohr の解釈の限界
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1.Einstein と Bohr の論争
  ・この論争はリアリズムと反リアリズムという軸では語れない。

  ・Bell の不等式に見られる仮定=局所性 & 分離可能性(Jon Jarrett の分析)
      局所性=測定値が離れた処での測定がなされたかどうかに影響されない。
      分離性=測定値が離れた処での測定値に影響されない。
              同時実現確率がそれぞれの実現確率の積になる。
      局所性は特殊相対論を満たす条件であるから守るべきである。
      Bell の不等式が実験で破られたから、量子論では分離可能性が破られている。
     (結論)情報が瞬時に伝わるのではないが、測定値同士は相関している。

  ・測定値は何に帰属すべきか?
      Einstein: 空間的に独立して外在化している物にしか帰属できない。
      Bohr: 現象の内部で分離していない場合でも
             その物理的配置が対象を定義して、測定値をその対象に帰属できる。

2.人間の位置付け
  1) 考察する系の中には人間を含めなくて、人間はいつもその系の外から観察する。

  2) 人間は考察する系に対して積極的に関わり、系の在り方を決定する。
  Einstein も Bohr も 1) であるが、Bohr は、しばしば 2) でもある。
  いずれの人間主義も克服すべきである。

  2a.量子論的系と古典的系
  ・Bohr が『測定系は最終的に巨視的(古典系)である』と言った理由は、
    結果を人間(科学者)同士で共有するためである。

  2b.測定は古典的でなくてはならないか?
  ・Bohr が必須としたのは記述概念としての古典系であって、
    装置が古典系として振る舞う、という意味ではない。
    『古典系の概念』というよりも『具体化された概念』と言うべきであった。
    それは、やはり Bohr の客観性、実験者同士のコミュニケーションの為である。
  ・分離可能性が欠如している為に、客観性を人間の認識レベルで救い出した。
  ・測定は物理的プロセスであって、理論を支えるものではない筈である。

(僕の所感)
      第7章は、量子力学の測定問題の(ある意味で楽しい)物理の議論が終わって、哲学に入ってきた。途端に英文が難しくなる。Bohr の考え方に対する Barad の見解が『Bohr の解釈の限界』という節の最後の方に出てくる。

      量子力学によって、測定対象と測定器の間の独立性が保証されなくなると、古典論的な意味での『客観性』が担保されなくなる。つまり、測定を介した一種の主観が理論の解釈に付加されてしまう。そこで、Bohr のやったことは、存在論的な意味での客観性を諦めて認識論的な意味での客観性を救った、ということ(客観性の定義を後退させた)。しかし、その代償として、物理の世界を外から眺め、測定器を設計して、世界に介入する人間(研究者)が特権的な(神の)座を占めるようになってしまった。つまり、存在論的な意味を実験室での測定操作の内部(現象)に限定し、実験室の外の世界に対しては責任を持たない。これでは科学者の倫理は語れない。だから、彼女はそこを乗り越えようとしている。という感じである。どうなるのだろうか?

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##  Agential Realist 的解釈
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  ・Bohr の人間中心主義を克服する。

1.Bohr の関係性存在論

  ・関係性存在論=先だって存在する関係項の無い関係が第一義的存在である。
    Bohr の『現象』は、こういう意味での第一義的存在としての関係である。
    現象の内部において、『測定対象』と『測定装置』の区分が生じる。

  ・測定装置は人間の工夫に限らない物質的実践であり、概念の実践である。
    言説的実践として意味生成を行う。意味は世界の差異的理解可能性である。
    理解可能性とは世界の他の部分の差異的応答性の問題であり、
    必ずしも人間を必要としない。

2.実験室の外へ
  ・対象と装置はもつれ合っているから古典的に因果を語ることができない。
    Bohr は、だから、装置を介して対象の痕跡を古典的に記述した。
    しかし、因果は人間にとっての因果ではないから、
    装置もまた古典的である必要はない。

3.客観性の概念
  ・客観性は人間観察者を参照することで定義されるものではない。
    現象内部で区別された『対象』による『測定装置』本体への刻印の説明責任の問題。
    刻印の説明責任は装置の説明を必要とする。
    測定値の客観的参照は現象であるから、
    客観性とはリアルであるものへの説明責任である。

4.人間の知識を超えて
  ・存在の一部としての知る行為
    知る主体は自己完結した理性的人間主体ではない。主体は構築される。
    人間が知る行為に参画する程度に応じて、世界のより大きな物質的配置と
        世界の進行中の開いた分節化の一部として振る舞う。

(僕の所感)
      この辺りから彼女の agential realism が少しづつ明確になってきている。確かに、第4章(その1その2 )で既に述べられていたことなのだが、第7章(その1その2 )での形而上学の検証実験によって、その意味合いが、というか由来が、おぼろげながら浮かびあがって来た感じがする。

      実験対象それ自身は明確な性質を持たず、測定装置によって定義された性質が測定によって決定される。だから、測定行為無しには粒子の性質は存在しない。しかし、これではあたかも測定という人間の行為が粒子の存在に先行するようにも見える。Bohr は客観的物質存在を放棄したのだ、という非難がある。しかし、そうではなくて、逆に Bohr は客観性を確保するために、測定装置と対象とを一体化した『現象』に実在を認めて、装置を介して人間同士が対象の性質を共有できる(これが客観性)ようにした。Bohr が諦めたのは孤立した対象の実在性であり、測定装置と絡み合った現象の実在性は確保された。しかし、Barad はその限界を指摘する。この Bohr の解決方法は実験室での測定という科学者の行為の枠内でしかないという。

      他方で、最近の形而上学の実現実験(量子消しゴム)を解釈すれば、測定という概念が必ずしも人間の作った装置に限定されるべきではないという事を認めざるを得ない。むしろ、対象と測定装置という現象の在り方は、人間存在とは無関係に量子力学の法則に従って動いている。主体としての人間をどうしても想定してしまう『測定』という用語を避けるために、agency という用語が使われている、という事なのだろう。人間は自然の一部に過ぎず、リアリティもまた人間無しに定義できる、という事。うーん、しかし、こうして語っているのはあくまでも一人の人間ではあるのだが。。。

#−#−#−(箇条書きの続き)

5.測定問題
  ・存在論的非決定性は測定現象の中で、1)解決、あるいは 2)拡張される。
  ・測定によって非決定な状態が決定的な状態に変換するような『崩壊(収縮)』は無い。

  1)  装置の自由度が括弧に入れられているならば、(近似的に無視できるならば)
      それは混合系(分離系)のように見え、古典的記述が可能となる。

  2)  実験的配置で決定されない性質を語る場合には、
      装置を含む全体を量子論的に取り扱う。
      その方法は、全体を測定対象と見做して、新たな測定装置を追加することである。
      装置は自分自身を測定できないのだから、この方法しかない。

  量子論的な現象を人間に判るように測定するには工夫が必要である(量子消しゴム)。
  見かけ上干渉が見られないからといって、コヒーレンスが壊されている訳ではない。
  適切な情報を(人間が)選択することで、干渉を再現できる。
  つまり、本当は波動関数の収縮(崩壊)が起きていない場合がある。

6.宇宙論
  ・宇宙にはその外部が無いから、測定できないか?
  ・記述は宇宙の内部から為されるから、宇宙全体を一度に測定することは不可能である。
  ・そもそも内部からの測定とはそういうものであり、
    測定の結果は世界の他の部分に伝えられるためにある。

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##    結論
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  ・Einstein は測定系から人間を完全に遠ざけるが、
    Bohr は測定系の観察者としての人間を必須の存在と考えた。
    両者共に、人間に特別な能力と役割を想定している。
    このことが量子力学の解釈問題を引き起こしてきた。

  ・Agential Realism では、人間を他の世界と同様に差異的に出現する存在として扱う。
    それは関係性存在論の立場から整合的に語るしかないのである。

(僕の所感)
      第7章は、最後の方で、再び測定問題に立ち返る。測定によって、それまでは不決定状態であった波動関数は、測定物理量に対する固有関数の状態に収縮する、とされる。測定だけが量子力学の方程式の範囲外にある、とか人間の意識が必要だとか、いろいろな疑問が出されてきた。実際には複雑な現象なのだが、そこを計算することには興味が無いから、そのようにモデル化している、というだけの事ではないか、と僕は思う。

      単純な場合、例えば、粒子が壁に衝突して吸収されるような場合には、壁の方が圧倒的に運動の自由度が大きいから、壁の何処かに埋まりこむか、化学反応するか、何しろエネルギーは熱に変る。そこに痕跡を残せば、位置の固有関数に収縮した、という風に<記述>しておけばよい。

      壁に小さな孔が開いていれば、そこに入った粒子は大部分が壁からの相互作用を受けないのだが、粒子の位置が制限されている為に、運動量の非決定性が大きくなり、孔を出た時からは、波のようにして波動関数が拡がる。孔が二つ開いていれば、最終的に壁に衝突するときに、干渉縞を残す。この孔もまた広い意味での測定器であり、孔に入ることで近似的に文字通り位置の固有関数に<収縮>している。

      測定器の自由度が小さい場合、例えば光を出して(光が測定器)、それが検出器に捉えられるとか、の場合は、しばしの間、粒子と光子は系の対称性要請から相関した状態にある。そのような場合には、粒子と測定器である光子を一緒にして量子力学的に取り扱わなくてはならない。そして、最終的には光の検出器と粒子の検出器の二つが自由度の大きい系として古典的な測定結果を示す。光と粒子は相関しているから、光を検出する時と検出しない時とで、粒子の状態も異なり、それぞれの状態において、2スリットで干渉を起こすが、それらを区別しなければ、全体として干渉効果が打ち消し合う。これが量子消しゴムの状況である。

      要するに、広い意味での測定において、波動関数が収縮すると考えた方が良いかどうか、というのはその状況に依存していて、それが特別に量子力学の範囲外の現象であるという風に考える必要は無い。つまり、測定問題というものは無い。

      さて、測定対象と測定器は相関したりもつれ合ったりしていて、一つの現象を構成していて、分離不可能である。その現象の内部において、測定対象と測定器の区分が出来る。これはその現象を構成する物理的状況に依存していて、個別の解析をしないと判らない。だから測定の主体は厳密には人間であるとは限らず、仮想主体として agent という単語を割り当てて、測定対象と測定器の区分を agential cut と言うのだが、これは測定対象が測定器の固有状態になる、という意味なのだろうか? 必ずしもそうではないのは上に述べた通りである。それはあくまでも可能性としてであって、本質的なのは区分(cut)であり、それは物理的状況が決める。人間がそれを用意することもできるが、それは本質的ではない。だから、『測定』という人間を想定した言葉そのものを置き換えた方が良いので、agent を使った。

      Einstein は、客観性の条件として空間的分離可能性に固執したのであるが、これは測定対象を空間的に切り離して、別の人の測定器と相互作用させて、客観性を保障するという意味だろう。その離している間も測定対象は同じ性質を保持しているという処(古典的仮定、絶対的客観性)がポイントである。つまり、それが同じ実験を再現する条件でもある。しかし、Bohr は、測定器から離れた測定対象自身は勿論測定器ともつれ合っている時でも対象の性質が非決定なのだから、空間的分離性は必要なくて、むしろ、測定対象と測定器がもつれあった状態(現象)がそのまま再現できれば客観性が確保できると考えた。それでは、その測定値を人間がどうやって知るのか?というと、その現象全体を測定対象としてより大きな測定器を繋いでいって、測定連鎖を積み重ねて、最終的には人間感覚のスケールにあった測定器と相互作用させなくてはならない。しかし、本来的には、その測定の連鎖を繋ぎあわせるまでの、人間がその結果を<直接>知る事のできない測定という事にこそ物理的な意味があり、そこで起きていることは、波動関数の収縮(崩壊)ではなくて、むしろ波動関数の複雑化(内部相関やもつれ)なのである。数式で表せば、測定対象だけの波動関数と測定器だけの波動関数の単純な積では表現できない、ということである。

      認識の学としての物理学というのは、というか認識という行為は、人間が観察者として世界の外に立つ、というのが大前提である。その世界の中に私以外の人間が存在する、というのは勿論当然である。しかし、認識結果は実在を捉えているとは限らない。認識自身は、私と世界との触れ合いである以上、私の来歴の要素を含んでいる。これはまあ当たり前の事である。認識学としての天文学、物理学、化学等は世界の森羅万象を無生物的に捉える。これは、生物が関わらない世界ということではなくて、あくまでも物質的な側面だけを認識しようとするということで、そういう観察者としての人間の意志が働いている。そして、これ自身が一つの限界要因である。

      認識結果は実在を捉えているとは限らない。けれども、学としての認識は個別の事項の認識に留まらず、観察者の来歴である概念体系に当てはめて、一般化される。いわゆる法則である。法則は逆に現象の予測を生み、それが実証されることによって、法則への信頼性が高くなる。逆に反証されてしまった場合は、法則を疑うことになり、法則が改められる。量子力学の場合、古典力学の法則ということだけでなく、その基本概念までも改めねばならなかった。

      古典的物理的世界を記述する二つのやり方に粒子と波動がある。粒子の記述には、その基本特性である質量や電荷等と共に空間と時間が必要である。粒子と粒子の相互作用を力として記述すれば多体系の力学になるし、他の粒子からの力を近似的に力の場として記述することで一体系(粒子一個)の力学に単純化される。勿論これらは計算の便宜である。波動の場合はは連続体としての近似であり、連続体の部分間の相互作用は連続化されて場を形成する。ただし、質量を持つ物質ではない電磁波の場合は電場そのものが振動するから、粒子としての意味は無い。

      このような古典力学の概念体系が量子力学的実験事実によって覆された。粒子と波動は全ての物質に共通する二つの側面に過ぎないということになった。粒子として見た時には、位置と運動量が同時には決定できない。波動として見た場合には、(最初から空間的に拡がっているのだが)、エネルギーと時間が同時には決定できない。このような事情を全て考慮してもなお、法則があるということである。

      物質や場の状態は今や抽象的な概念となり、数学的な表現となる。これは、物理量に対して固有状態(つまり、その物理量が確定値を取るような状態)の組を想定する。その確定値としてのいろいろな値に対応する固有状態の組の線形和で『量子的状態』を表現する。

      例えば、1/2スピンであれば、上向きと下向きの二つであるから、

          a|↑> + b|↓> 、a と b は任意係数で |a|^2 + |b|^2 = 1。

      という風になる。
      また、固有関数が無数にあって固有値が連続的に存在する場合(例えば位置や運動量)、

          ∫ψ(x)|x> dx

      という風になる。ここで | > は固有状態の記号である。
      この係数 ψ(x) の事を(位置を変数とする)波動関数と呼ぶ。

      古典力学では位置という物理量に対する微分演算によって、位置の時間変化が記述されていた。量子力学では、状態に対するエネルギー演算子(ハミルトニアン)の作用によって状態の時間変化を記述する。これが波動方程式である。個々の |x> にハミルトニアン演算を施すともはや固有状態ではなくなり、別の位置の固有状態が成分として加わる。この様子は結局 ψ(x) という係数の変化によって記述できるから、ハミルトニアンの演算を ψ(x) という波動関数への演算(掛け算とか微分とか)として記述すればよい。これが Schroedinger 方程式である。具体的には、

            i(h/2π)dψ/dt = Hψ、 ハミルトニアンを H で表した。h はプランク定数。

      時間変化の係数は純虚数であるから、ψ(x) は必然的に複素数となる。ハミルトニアンはエネルギー演算であるから、もしも、ψ(x) がエネルギーの固有状態を表していれば、固有状態自身は演算によっては変化しなくて、単に固有エネルギーの値がかかるだけであるが、係数 ψ(x) としては複素数空間上で原点を中心とする円周上を回転することになる。実際、計算すると、

            i(h/2π)dψ/dt = Eψ  から、
            ψ = exp{-i(2π/h)Et}×任意定数

が得られる。

      この回転角:(2π/h)Et が位相である。つまり個々の |x> の係数だけが、その絶対値を変えずに位相だけを時間変化させている。例えばその係数 ψ(x) の実部だけに注目すれば、cos{(2π/h)Et} であり、振動している。他の波動関数と重ね合わせれば、干渉効果が得られるから、これが『波動』という名前の由来である。

      実際的には ψ(x) はエネルギー固有状態から外れていることが一般的であるが、特定のエネルギーの近傍にある場合が多い。そのような場合は、少しだけエネルギーの異なる固有状態が混合されていて、それらは異なる位相速度 (2π/h)E を持つから、ψ(x) の位相が全体としては乱れていくことになる。どれくらい経過すれば位相が乱れてしまうか、をΔt とすればそれは、ψ(t) が干渉能力(coherency)を保持する時間範囲を表す。なお、

            ΔE・Δt =< h

      ともあれ、この波動関数というのは、例えば位置についてであれば、ψ(x) と表現されて、位置の固有関数 |x> の係数であり、その位相因子を取り除いて自乗し、|ψ(x)|^2 が x での存在確率を表す、とされる。これが抽象的な概念である量子的状態と現実の測定値を結びつける解釈(Coppenhagen 解釈)である。

      例えば粒子を壁に衝突させてエネルギーを散逸させてしまう、という状況を考えてみる。この場合、壁に垂直な方向については粒子として振る舞うように ψ(x) を局在させて設定しておく。ハミルトニアンには壁に衝突する直前までポテンシャルエネルギー項が存在しないので、位相が保持されているが、壁に入ると突然多様な力が働いてくるから、もはや単純な一粒子系としては扱えないにせよ、位相が完全に乱れてしまうことだけは確かである。壁に並行な方向については ψ(x) は局在させていないとすると、壁の表面の何処でこのようなエネルギー散逸が起こるのかについては判らないのだが、量子力学的に記述すべき壁、つまり壁全面に亘ってその波動関数が拡がっているような壁(自由電子で記述される金属壁に電子が衝突するとか)でない限り、エネルギーを受け取る壁の波動関数(近似的に個別化された原子の状態)は多数あって、それぞれが局在しているから、どこかその局在した点に衝突し、その確率的は |ψ(x)|^2 に比例する、という訳である。その衝突場所が決まってしまえば、それまで壁全面に亘って値が拡がっていた ψ(x) はその場所へと収縮すると解釈するしかなくなる。受け手の波動関数が拡がっているような場合は場所が決まらない。つまり、どのように測定されるか(解釈されるか)は全体系の物理的状況に依存するのであるが、量子力学の法則に従っていることに変りはない。解釈(狭い意味での測定)は人間の側の事情なのである。

      それでは広い意味での測定とは何か?Karen Barad は、それは人間の関わりを必ずしも必要としない行為であり、世界の一部が他の部分に自らを知らしめる行為である、説明責任である、という。知る、ということは、知り得たことへの応答責任である、と言う。だから、世界全体を知ることは出来ない。神は居ない。また、知るという事は関係性の内部でしか起こりえないから、その関係によって関係付けられる関係項は関係そのものに対しては二次的な存在でしかない、と言う。
 
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