Karen Barad "Meeting the Universe Halfway" 第4章はこの本のコアであり、まだ理解が足りない感じがしている。面白いところが多々あったが、書くと切りがないので、要約するが、区切りの良いところで、やや詳しく内容を追加しておく。

・・測定装置に対して「独立に実在する対象」の状態を測定装置が測定するだけであるという古典的な図式では、量子的現象にどうしても矛盾が生じることになり、Bohr はその解決方法として新たな図式(Bohrian cut)を見出した。つまり実在するものは物質の状態ではなく、測定装置によって測定されているという「現象」である、と考える。その現象において初めて測定主体と測定対象が切り分けられて、どんな物理量を測定しているか、という概念が確定する。つまり概念は物質的である。

・・ここまでの各節の概要
● Taking Matter Seriously
  言語一元論への反駁、遂行性、物質性への回帰

● Humanist Orbit の問題点
  人間中心主義への反省、ポスト人間主義

● Agential Realist Ontology の概要
  Bohr の現象概念の一般化である。Agent の Intra-action による主体−対象の境界付け(agential cut)で因果関係が生まれる。 Agential separablity が客観性の根拠となる。 時間性、空間性もそれによって生じる。

● The Nature of Apparatus

● The Boundary of an Apparatus
    Bohr は主体と対象の区分が、つまり概念化が装置という物質的本体によって決まる、として、その全体が切り離せない形で現象であり、その現象こそが実在であると考えた。これは、量子現象に直面した Bohr が彼の客観性=再現性+コミュニケーション可能性を満たすための条件であった。Agent が現象を測定装置(主体)と対象に切り分けることで因果律を生み出す。装置=概念という捉え方によって、Bohr は物質と言説を一体化したのである。他方、Bohr の装置は、その外側に立つ主体=人間=研究者を含まないという限界がある。実際には、人間の行為そのものがより大きな社会の中では装置の一部でもある。更に、それと関係して、Bohr の装置はその場限りで閉じてしまい、限りなく改良され、やり直され、科学者との討論や科学者の社会的位置付けという大きなネットワークの中で歴史性を持つに至るまでには拡張されていない。(この繰り返し性が時間性と空間性に繋がる。)

   *** 次に進む。

・・Foucault は権力の考察において言説実践(discursive practice)に Bohr の装置と類似の機能(主体と対象の切断)を見ていた。Butler はそれに基づいて、身体(body)の生成を考えた(feminism の 遂行的理論)。

・・考察対象から人間を排除していた Bohr の理論と、考察対象を人間に限定していた Foucault と Butler の理論を「干渉」させて得た理論が Barad の agential realism ということであり、それは人間と非人間を区別しないという特徴がある(post-humanism)。(agent は旅行代理店とかスパイとか、機能を持っていて自分の意思である程度勝手に動く主体という感じの意味。)

・・・後半はまず Body の話で、これは身体だけでなく、何らかの本体、主要部という意味で、Bohr の測定装置も含まれる広い概念である。境界が視覚によって作られる話、盲人の杖の話、障害者と車椅子の話、Dr. Hawking と音声装置の話、と、つまりは、身体(本体)というものの境界は曖昧であり、その状況において生成される、ということである。

・・・次の話題は、銀原子の磁気モーメント(後に電子スピン)を発見した有名な Stern-Gerlach の実験の話で、物理実験と言えども、その測定装置の境界は社会的背景にまで広がって際限が無いということの教訓となっている。

・・ここまでの各節の流れ

● Mattering
    権力について考察した Foucault は言説実践(discursive practice)を主体と対象を切り分ける行為として位置付けた。これは Bohr が測定装置を位置付けたのと同じである。Foucault の言説実践を Bohr の装置の agential な理解と組み合わせる。material-discursive はお互いに反響しあう一体化した概念であり物質的行為でもあり、それは agential cut でもある。と同時に、Foucault の言説実践の人間中心性が拡張される。人間から matter へと。Butler も matter の重要性を主張したが、彼女の場合は、それは人間の身体性という範囲を出なかった。
    matter は agency の凝結行為である。逐次反復される intra-activity を歴史性として記憶する。

● Bodily Boundaries
    Bohr の測定装置を一般化した概念が Body である。Body は装置と同様に現象であり、現象の一部である。Body の境界は確定しているものではなく、やはり intra-action によって作られる(定義される)。ここでは、視覚の話、盲目の人の杖の話、車椅子の話、Hawking の会話手段の話、といった具体例が多く挙げられて、Body の人間版である身体の境界の曖昧さについて語られている。ここで Body を論じたのは、Bohr と Foucault & Butler を結びつけるためである。

● The Boundary of an Apparatus
 Stern-Gerlach の有名な実験の知られざる挿話(真空の維持とかその中での銀の加熱蒸発の苦労とか、Gerlach の実験室を訪れた Stern が安物の葉巻タバコを吸っていて、吐く息に含まれていた硫黄によって、感光板上の 銀 が酸化されて見えるようになった、とか、彼らは電子の軌道運動による磁化を測定していると信じていたが、後にそれは電子スピンの発見であることが判ったとか、いう話)から、その社会的背景(Stern が当時の男性の典型であったとか、、第二次世界大戦において対照的な立場を取ったとか、、)にまで及び、因果の痕跡を記録する装置の境界が決め難い広がりを持ち、歴史に関わっていることを強調している。これは大部分人間 agency の話ではあるが、非人間も含めた agency の intra-action の再現ない拡がりの例として説明されたのであろう。

● Posthumnist Role for Human
    自然科学においては、一般的には、その記述対象から人間が外されている。Bohr は測定装置が概念の定義であるとしてそこに人間の関わりを認めたのだが、人間自身は(研究者は)装置からは独立していてどんな装置も選択できるということで客観性が保証された。ポスト構造主義では、逆に人間主体そのものが透明な存在ではなくて、予め社会構造、権力の関与によって形成されているということに注目する。Bohr の場合は対象から離れた神のように人間を位置付けることで、Foucault の場合は人間そのものに対象を限定することで、いずれも人間が中心に存在している。

    Bohr の装置を人間まで含めて拡張し、Foucult の権力も包含した、新たな概念として agent が想定される。agent による intra-action は、実験のプロセスを見て判るように、絶えざる仕切り直しの積み重ねである。そのプロセスは絶えず主体と対象との境界を定義し直すのだが、そこにどのような形で人間が関与するかについては多様性があり、役割の大きさも様々である。ここで課題となるのが、人間の責任をどう考えるのか、と客観性の問題である。

    ***次に進む。

・・・人間と非人間を区別せず、現象の主体と対象への切断という形で考えるときに、問題になるのは、人間の責任と現象の客観性であるが、まず客観性について、有名な Bohr と Einstein の40年に亘る論争が要約されている。Einstein は特殊相対論を導くに当たって客観性を保証するための制約条件とした空間分離性(離れた2点は独立しており、直接の遠隔相互作用は存在せず伝搬があるだけ)が、Bohr の量子力学では満たされていない、という。しかし、Bohr にとってそれは客観性のための制約条件ではなかった。Einstein が在りえないこととした量子力学の思考実験での現象(空間的に離れた場所での測定が他の場所での状態に直接影響する)であるが、今日では量子テレポーテーションして、実証されている。

・・この節の内容
● Objectivity
      Bohr と Einstein の長い論争の最後は 1935年の EPR論文であった。Einstein が拘ったのは彼自身が特殊相対論に至った原理である客観性の基準=空間分離性であった。つまり空間的に離れた2点間における物理現象は本来的に独立しており、相互作用は直接的ではない。力は必ず有限の時間をかけて伝えられる(最大でも光の速度で)。Einstein は簡単な例として2粒子が相互作用した後で相互作用を無視できる地点まで到達した時の量子的状態を考えて、一方の粒子の状態を測定した場合を問題にした。量子力学によれば、測定値は確率的にしか決まらないのであるが、その片方の粒子の測定値が得られた時点で、量子力学的状態はその測定値の固有状態になるから、その測定値に依存して、粒子2の状態が決まる。つまり、既に2つの粒子は離れているにも拘わらず、瞬間的に影響しあっている。これは相対論を導いた基本原理に反する。しかし、Bohr はその基本原理とていつも満たされているという保証は無いと考えた。現象が正しく予言出来る限り、それ以上深淵な原理は必要がない。実際、その後、この量子論的遠隔相互作用は実験的に確認された。

      そもそも客観性というのは、(僕の考えだが)規定の手続きを経さえすれば誰が行っても同じ結論に達する、という意味である。つまり、<私>から<そのもの>が切り離されて<他者>に渡される(知らされる)、というプロセスにおいて、同じ<そのもの>であること。この条件の背後には<規定の手続き>など経なくても同じ<実在>がある、とするのが古典的な意味での(強い)客観性(表象主義)である。Einstein はインドの大詩人タゴールとの討論において、この世に人間が居ないとしても世界は物理学の記述している通りに動き、表現方法は異なってもやはり数学で記述される、という事を主張している。強い意味での客観性である。<私>が空間的に隔たった別の点での物理現象を測定するとき、<私>はその物理現象を直接経験することはできないし、関わることもできない。しかし、その点との間に電磁波等の通信を行うことはできる。その点での物理現象を客観的に記述するにはそれしか手段が無いが、この手段によって客観性が保証される。この立場を貫くと相対性理論が導かれる。しかし、Bohr はこの強い客観性の要請それ自身は誰も証明できない以上考えても無意味であるとして、「既定の手続き」つまり測定装置を含まない実在を諦めて、測定装置を含んだ全体=現象にのみ実在を認めた。そこには測定装置で測定できる物理量しか登場しない。量子的現象ではそうせざるを得ない。それでは量子的状態とかそれの発展を記述する量子力学の方程式は実在ではないのだろうか?ここからは僕の想像した Bohr の考えであるが、量子的状態そのものは実在ではなくてその測定装置である数学的取扱い手法(その物質化したものは物理学者であるが)を含めると実在と考えられる。もう一つ僕の考えを追加すれば、Einstein が特殊相対論を導いたときにも、測定装置として唯一「光」が登場していて、それを排除すれば客観性も成り立たない筈である。
      ところで、哲学でいうところのリアリズムは、物質的実体が認識とは独立に存在する、という意味である。Einstein の要請した強い客観性は勿論このリアリズムであるが、Bohr の場合は測定装置という認識の為の道具が一緒になって実在する、という立場であるから、この意味でのリアリズムから少し逸脱している。Agential Realism という命名はそのことを意味している。

***次に進む。

・・・責任の問題は因果律の問題である。古典的な意味での因果律は予め仕切られた対象について、人間によって考えられるのだが、Barad の因果律は現象の主体(測定装置)と対象への切断によって実現する。つまり、対象の痕跡が測定装置に残されたとき、対象が原因でその痕跡が結果である。これは科学的測定プロセスそのものでもあるし、宇宙の一部がその実現に際して他の部分に知らしめる、ということでもある。そこに人間がどの程度関わるかであるが、これは予め決まってはいないし、関わりの結末がどうなるかの予測はできない。だから責任が無いというのではなくて、その結末を知るという責任がある。詳細は第8章ということらしい。

・・この節の内容

● Agency and Causality
      因果律についての古典的な考えでは、まず独立した対象AとBがあり、他の条件を固定して、Aに変更を加えたときにBが変化すれば、Aに与えた変化が原因であり、Bの変化が結果である、ということに尽きる。極めて実利的、功利的な定義であるが、人間が世界を対象化してそれを利用しようとする態度そのものである。Barad の因果律は予め存在する対象を前提としない。まず測定というプロセスが因果関係の実現であると考える。agent が対象と測定装置との境界を設定する(現象を切断する)と、対象の痕跡が測定装置に残される。こうして、対象が「原因」であり、測定装置に残された痕跡が「結果」である。別の言い方では、宇宙の一部が差異化実現する中で、それ自身を他の部分に知らしめる(コミュニケーション)ということである。古典的な因果律の元では、Aに与えた変化が人為的であるか否か?つまりそこに人間主体が独立な意思を以って存在して関与しているか否かが重要となる。そうであれば自由意志と責任が問われ、そうでなければ決定論となり責任が消える。Barad の因果律の元では、人間がどう関わるかは予め決まっていない。世界の現象がどういう風に切断されるかは、絶えず変わっていく。その切断に関わる人間にとっても見通すことは困難である。だから責任が無いというのではなく、むしろその成り行きを知る責任がある。この倫理の問題は第8章で詳述される。

***次に進む。

・・・時間は、Barad によると、抽象的な尺度ではなくて、無限に繰り返される agent による主体と対象への切断によって残された物質的痕跡である。比喩的には木の年輪のようなもの。空間も同様に、何もない抽象的な拡がりではなくて、繰り返す切断によって物質として残された境界による繋がり(トポロジー)である。

・・・ここまで議論が進むとちょっと付いていけない感じがあるが、要するに、Barad は抽象的な概念を、時間や空間に至るまで、徹底的に物質化したいのだろうと思う。その為の鍵になる概念が intra-action であり、多分その主体と目されるのが agent であるが、これらの概念の物質化というのが正に matter ということになるのだろう。それは世界生成の根源的エネルギーとでも言う感じがする。確かに、素粒子論から見れば場の励起状態が物質であり、それこそが世界なのである。僕が学生時代に初めて読んだ哲学書はベルグソンだったのだが、そのベルグソンの言う生の飛躍(elan vital)が生物世界に果たす役割(進化)を、全宇宙において果たしているのが intra-action ということになるのだろう。ただし、今の処この本には進化という概念はない。

・・この2節の内容

● Space, Time, Matter
      古典的な時間は抽象的な尺度であるが、直ぐにでも判るように実際には時計なくして時間はあり得ない。つまり、時間とて物質的実在として考えるならば、世界の変化の痕跡なのである。Barad は繰り返し更新される agents の現象切断(境界の引き直し)が残す物質パターンの痕跡として時間を定義する。木の年輪がその一例である。同様に空間も繰り返し更新される境界線によって定義される。それは抽象的な(デカルトの)3次元空間の中を仕切る、という風に想像されるかもしれないが、実体は逆であって、むしろ切断の繰り返しによって切れ目が付けられる物質の繋がり具合が空間である。それはデカルト的ではなく、むしろ繋がりの空間(トポロジー的空間)である。
 agent による 切断、という事が時間や空間の定義に関わる。切断によって生じる排除の空間は別の agency である。
 装置という現象は agential cut によって対象として切り出される。この切り方は無限にある。その切り方の集合がトポロジー空間を形成する、ということか?

      この節は未消化であるが、要するに Barad はあらゆる概念の観念性を見直して、全てを物質化してしまおうとしているように思われる。母親の胎内においてすら、人間は世界の分節を始めているのであるが、それ以前の世界に一度立ち戻って、あらゆる概念の物質的起源を問い直しているように思われる。最後に残ったのが intra-action という概念である。これはいわば「世界の生成能力」とでもいうべき扱われ方をしている。agent というのはそれをやや機能化した概念である。その物質化したものこそ matter である。こういう概念の起源は多分 actor-network 理論にあるのではないか、と思うので、ちょっと調べてみる予定である。

● Conclusions
      言説的実践は世界の物質的(再)編成であり、その中で、境界、性質、意味が分節される。matter は intra-active な matter の生成においてその本質を現す。 matter は物ではなく、行為である。 matter は agency の凝結である。装置は言説的実践であり、それが物質的現象を生成させると同時にその現象の一部である。遂行性は逐次反復的 intra-activity である。Intra-action は agentive である。客観性と agency は責任性と説明性に結びついている。客観性の条件は agentive な分離性(現象内部での分離性)である。

      後半では、人間は世界の intra-activity の中のあくまでも部分である、という観点を忘れてはならない、という事を述べている。
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