Karen Barad: "Meeting the Universe Halfway" の第4章は半分くらい読んだ処である。言いたいことは何となく判るし、共感も覚えるのだが、このままだとあまりにも観念的で、具体的事象に対してどういう風に応用するのかが判らない。何らかの真理があるとしても、それを言葉として了解することは不可能なように思える。とりあえず、翻訳したものを印刷して読み直してみた。

      言語と物質の対比において、言語が優先権を与えられすぎている、ということが、最初に述べられている。言語体系が人間の思考を支配している、という考えで哲学を再構成する事が20世紀以来流行してきたからであろう。そこで、それを遂行性の観点から見直すということになる。

      人間主義(humanism)もまた乗り越えられなくてはならない。 Foucault や Butler の限界もそこにあり、その点では Bohr に学ぶところが大きい。これは同時に、言語に比べて軽視されてきた物質の役割を再評価する、ということでもある。言語を持つ人間が基準であるという方法論を捨てなくてはならない、という。果たして可能か、とは思うが。

      言葉と物質との分離というのが表象主義の根本にあり、それを一旦否定し、一体化した哲学を作り直す。Bohr はその第一歩を踏み出した。概念(言葉)は測定装置(物質)で物質的に定義される。第一義的な実在は現象であって、それは測定装置によって主体−客体に切り分けられる。測定装置を特定することなく、主体と客体を区別することはできない。はっきりとは書いていないが、この測定装置によって為される差異化のことを代行(agency)と呼んでいるのであろう。誰の代わりか、というと、これもはっきりとは書いていないが、暗黙の内にはやはり人間の代わりなのではないだろうか?と僕は疑う。その場合の人間というのがまあ問題にはなるだろう。ともあれ、これが存在論として目新しいのは、何か予め個別の実体が存在しているのではなくて、こういう測定装置のような agent(代行者)の機能があって、その結果として第一義的な実在であるところの「現象」が出現する、という考え方である。ここで現象というのは(後のp.148の表現では)まだ主客一体化したもので、それが測定装置によって主体−客体に分離する(こちらが人間にとっての出現)、ということで、その分離する前こそが第一義的な存在である。これを agential realism と名付けた。それは Bohr 的には不確定な量子状態を含むが、量子力学の方程式で演算対象となる量子状態そのものは実在ではなくて、演算子(物理量、agent)と一体化したものが実在である、ということになる。演算子を状態に施した結果として、その演算子に対応する物理量が確率的に得られて、それが統計的データとして共有されるという関係。

      ところで、Barad によれば、Bohr の限界は測定装置そのものの外部に人間を(物理学者、実験者、主体)を置いた、ということにある。Barad の批判では、そうすることで、Bohr は存在論を捨てて科学のコミュニティ内に留まる、つまり認識論に逃げ込んだ(人間が神様のようになった)、ということのようである。測定装置と人間の間には本来的な境界は無い筈なのである。Bohr の立場に立てば、実在を指示するものは(測定装置も含めて)測定されたデータなのであって、それを受け取る側には当然人間が居なくてはならず、その人間同士が理解しあう(客観性の)為にこそ、彼は敢えて、不確定な量子状態そのものだけでなく、測定装置と一体化された状態(現象)に実在性を認めたのである。しかし、Barad の立場では、そういった科学者の営為そのものが実は測定装置の一部なのである。実際に、得られた統計データは科学者のコミュニティで共有され、新たな測定装置が考案され、という無限の運動が起こる。あるいは、その統計データは核兵器の開発に使われるかもしれない。この立場は、明らかに認識論の枠組みを超えている。

      代行者(agent)という意味では、Foucault と Butler にとってそれは(人間社会学だから当たり前だが)人間に限定されいる。だから、彼等が言葉と物との関係について深く分析していないのは当然である。この点で Bohr が参考になったのである。そこでポスト人間主義的遂行主義による、物質的−言説的実践の説明、というのが次の課題になる。

      Bohr は概念を定義する測定装置の意味について語るが、Foucault は言説実践の意味についてそれと同じことを述べている。言説実践は何が意味ある陳述であるかを限定し、知識実践の主体と客体を切り分ける。つまり、Bohr の測定装置は言説実践であり、この言説実践によって主体と客体(対象)が切り分けられ、概念が生成する。言説実践というのは語られた言葉ではなくて、語るという行為に焦点を当てた言い方であろう。知ることは、問題となっていることに対する(遂行的に分節され説明可能な)差異的な反応である。それは intra-action であり、人間行為(特にその思惟行為)に限定されない。

      ここで、matter が話題になる。辞書的には、名詞で、物質、物体、哲学用語の質料(形相 form の対語)、問題、事、重要性、(複数で)物事や事情、とある。動詞としては、重要である、という意味を持つ。mattering は現代語として、自己実現感といった感じ(孤独感や無力感の対語)で使われる。

      Judith Butler はフェニミスト理論における社会構築主義的アプローチの欠陥を指摘して、この matter に立ち返れと呼びかけた。文脈からすれば、これは構築主義の「形相」に対する「質料」という意味だろう。ただ、彼女は matter という言葉を差異(男と女)を作り出す物質化のプロセス、として理解すべきだという。つまり遂行的ということだろう。しかし、Barad によれば、結局の処 Butler の関心は人間の社会的実践に限定されていたために、最終的には matter を人間の言説実践の受動的な産物として記述してしまった、ということである。この辺はよく判らないが、Barad の考えでは、matter は「固定された実質ではなく、intra-active な生成における実質であり、物ではなく行為であり、agency の凝結行為である。」いわば、intra-activity の物質化したもの、という感じ。なかなか難しい。つまり matter は物質性、つまり物質的現象ということになる。言説的実践と物質的現象がこうして一体化され分離不可能な概念として提起される。言説実践が意味と裏腹なように、物質的現象は matter と裏腹である。

      次に body という言葉が登場する。辞書的には、身体、物の本体、である。Butler が拘ったのは人間の身体(男と女)であるが、body は本体として人間の身体に限定されるべきではない。人間と非人間の差異は本来的なものではない。差異化する行為(intra-action による切断)を無前提に認めてしまってはならない。ということで次は body の話になるようである。
 
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