2025.06.19
吉川弘之さんの人工物論を読んだ。なかなか的を得ている感じはするのだが、具体的にどうするのかは判らない。
「人工物観」(Oukan Vol.1、No.2、p.59(2007))、「人工物工学」(精密機械工学会誌 Vol.61、No.4、p.465(1995))、「人工物工学の提唱」(イリューム 1992年4月号)。
人工物観の変遷というのは面白い。古代においては権力と関係づけられた表象に人間の作る能力が集中していたから「表象のための人工物」と言える。中世においては技術的工夫が広い範囲に拡大して、人々の生活に役立てられたから、「生存のための人工物」と言える。近代においては科学が技術を推進して目的を持たない技術の進歩が得られるようになり、いくつかの応用可能性から人々が選択できるようになった。つまり、生存というよりは「利便のための人工物」が主たる意識となった。現代においては更に技術が進歩しているために、特定の意図を以って作られた人工物が逆に多くの人々の生存を脅かすようになってきた。人工物を作り出す技術そのものの全体的整合性が問われている。
自然科学は領域間の論理的繋がりによって整合性と一貫性が得られている。これは物理学の方法、まあニュートンのやり方といえる。しかし工学においては実際の応用が目的とされて、そのために分野が確立してきていて、それらを統合する見方が生まれていない。工学各分野はその「機能」で特徴づけられるのだが、機能とはこの場合人間にとっての有用性である。だから工学を全体として首尾一貫したものにするには、人間世界を問題とせざるを得ない。
百科全書派のディドロは百科事典で技術を説明するのに、その現場の細密画を掲載した。そこに描かれているのは職人の生き生きとした表情や動きである。翻って見ると、現代の工学には操作する人間が敢えて排除されていることに気づく。工学がそれぞれの「機能」に拘って、応用された結果については責任を取らない、というところが問題であり、責任を取るためには人間社会の立場からの諸工学の統合が必要である。この辺は広く言えば、科学行為の全体性ということであり、 Karen Barad も強調している。そういう意味では、工学だけの問題ではない。
企業というのは正に諸工学の統合が必須となる現場なので、今更大学人が何を言っているのか、という感じがしないでもない。これは企業にとっては「新入社員の教育課題」なのである。だから、企業での実践は諸工学をいかにして統合するかという意味では大いに参考になるのだろうが、それでもまあ、何を目的とした統合か?という点ではそれが企業目的なので、限界があるというべきだろう。
吉川弘之の問題意識は判るのだが、それは学問内部の問題というよりも社会全体の問題だと思う。このままでは「人工物工学」という新たな分野は哲学的なものにしかならないだろう。吉川会長の横幹科学プロジェクトには私も2004年に花王から派遣されていた。その時の感想を以前書いた。
「人工物工学の提唱」ではアブダクションの危うさが語られていて面白い。帰納法とアブダクションの違いであるが、アブダクションは事実を説明する原理を導くもので観察された事象とは別の物になることもある一方で、帰納法は観察した事象を単に似たような状況で実現するという風に一般化するだけである。つまり、帰納法もアブダクションも「発見的手法」だから、正しさは保証されない。勿論その時点で重要と思われていて、お互いに矛盾していると思われていた事実が新たな観点から矛盾なく説明可能になるのであるから、進歩ではあるのだが、どんな事実を重要と考えるかということ自身に(つまり、研究者グループの主観に)その時点における限界性が潜んでいる。つまり、無視した事実や知られていなかった事実、これからやってくる現実がある。だから、絶えず検証され続けられなくてはならない。
そもそも、どんな生物だってそうやって(試行錯誤で学びながら)生き延びてきたのであるから、これ以外のやり方は無い。ただ、人間のアブダクションというのは飛躍が大きいから、それ自身の危険性もまた大きい。技術の進歩が速すぎてそれを検証する時間が足りないというのが現代の工学である。社会的観点から工学の在り方自身を制御しなくてはならないのだろう。
しかし、その社会的観点とは何か?コンセンサスは可能か?何しろ「ハルマゲドン」を待望する人たちが米国人口の1/4も居るのである。。。その人たちは人類が全体として一度壊滅的な事態を経験すべきだと主張しているのである。勿論自分たちだけはそれを生き延びると信じているのだが。。。日本の学術会議にはさすがにそういう人は居ないと思う。しかし、それぞれの利害はある。
「これまでの専門分野細分化型の機能学・工学から、横断型の工学の必要性が問われている」という課題はよく判るが、一般論をいくら考えても役には立たないような気がする。実際の処は、個別の横断型問題に対処する工学が次々と生まれてくるものだと思う。勿論、学問は学問する意欲と能力のある人しかできないので、そのための警鐘や啓蒙というのは必要だろう。大学にそのための専門学部ができて、学生が(教養としてか?)学ぶという構図には意味がある。
その後の成り行きについて、弟子達の論文を見つけた。手探りながら、少しづつ進展しているようである。東京大学人工物工学センターという部門がある。何だか商品開発の理論を学ぶ場所という感じ。。。これはこれで立派なものだが、もっと大きな問題があった筈だろう。