「ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講座」(仲正昌樹)の第3章は「労働」について、マルクスとの相異が説明されているが、どうも話があちこちに飛び火して筋が掴みにくい。一応纏めてみた。

・・・ギリシャ都市国家において、市民はポリスから土地と家と家族と奴隷の<所有>を認められ、そこで生命維持と子孫への命のリレー(生物的行動:生殖、家事、農作業、、)が行われた。それが、<私的世界>である。その基盤に基づいて家長である市民は政治や軍事を行った。これが<公的世界>である。私的世界における生物的行動が<労働>であり、その活動の中でも公的世界に資すべき人工物を作り出す側面をアレントは<仕事>として区別した。具体的には建築や芸術など結果が後の世に残る仕事である(消費財は入れない)。アレントにとって人間の人間たる所以、つまり人間の価値は<私的世界>(生物的拘束条件)から自由になり、<公的世界>(共通世界)において語り継がれる物語の中に独自性を確立して自らを位置付けることである。それが自己実現であり、必然(生物としての人間)からの<自由>ということになる。逆に、共通世界から逃れるために、自らの身体に集中することを考えると、それには意図的に苦痛を与え解放するという事で得られる身体的快感がある。「無世界性」の経験である。(宗教的修行などもそれに入るのだろう。)近代の認識論が感覚の私秘性(唯心論)に拘ったのは少なくともそのご当人達(哲学者達)がそうやって「共通世界」を見失ったからである。

・・・<仕事>の最も初期的な成果は<道具>の生産である。道具は労働の効率を上げるが、それによって労働の質(目的が生物的欲求充足という意味)が変わる訳ではない。他方、労働は<分業>によっても効率が上がるが、それによって、労働自身に含まれる自己実現としての側面(熟練労働)が剥奪され、単純化され、交換可能な労働力となる。しかし、アレントの言う<仕事>における分業はむしろ専門化によって労働の質を向上させる。この辺は多分次の章の話題になるのだろう。

・・・近代において、私的世界は公的世界(国家)に対立する。所有は公的世界からの承認ではなく、むしろ個人が労働によって獲得すべきものと考えられるようになった(個人主義)。「労働は身体というもっとも私的な領域で行われるが故にその成果はその身体に属するべきである。」という論理がロックの発明である。公的世界は秩序維持のための必要悪とすら考えられるようになった(自由市場主義)。私有財産権はギリシャ都市国家における公的世界からの承認という限定を超え、「専有を無限に主張する権利」となった。つまり、私的世界が公的世界を食いつぶす権利である。ロックによれば、貨幣は労働で生み出される消耗品(食料等)の寿命を(交換可能性によって)一時的に延命する手段である。近代においてそれは<価値>として認知され、そういう意味で労働が価値(私的所有物)を生み出すとされた。逆に、価値を生み出さない労働(家事や生殖)を、アダム・スミスもマルクスもそうであるが、「非生産的労働」として切り捨てた。現代でもその心理的傾向は生きている。

・・・マルクスにおいて労働の意味は多義的である。マルクスは当初、労働を人間の自己実現の手段として位置付けて、労働によって生み出される価値は本来その労働者の物(私的所有物)であると考えた。彼は、労働の道具と分業による組織化=生産手段が私的所有物であるが為に、労働者への分け前は労働者の生物的活動(生存と生殖)の維持に限定されてしまい、残り(剰余価値)が私的資本として流通・蓄積され、更には、資本の私的性格によって社会が不安定化する(恐慌)、という問題を指摘し、その抜本的解決の為には生産手段を労働者が共同管理すべきであるした。マルクスは更に、生産手段の共同管理と技術の進歩によって労働の効率化が進めば、労働は殆ど機械に任されるようになり、人間が労働から解放されると考えた。労働者が生物的活動に拘束された状態から自由になることを目指した、という意味、つまり労働からの自由という意味では、マルクスはアレントと一致する。しかし、問題は生産手段の<共同管理>(政治)にあったのであり、マルクスの目指した方向(社会主義)は部分的にはむしろ「民主主義」国家によって進められるという皮肉な結果となった。

・・・しかし、いずれにしても、こうして労働者が多少なりとも得た剰余価値は(資本の自己増殖運動を維持する為に)消費されなくてはならない。見かけ上自由となった労働者は「消費という生物的活動」に拘束されるのである。こうして、生産性の向上は勿論公的世界を強固にする筈ではあるが、他方、生産された商品の寿命を短くし、<公的世界>を侵蝕することになる(もっとも大掛かりなのが戦争による消費である)。現在、消費はその本来の物質的側面をはるかに逸脱して、貨幣そのものの自己増殖(金融資本主義)に向かっている。要するにアレントはマルクスが見たのと同じ問題を生産からではなく消費の側から見ているのである。

・・・アダム・スミスもマルクスもアレントも、生物的活動そのものに人間的価値を見出していないように見える。僕にはその辺りが容認できないけれども、とりあえずは括弧に入れておくことにしよう。
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