「ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講座」仲正昌樹、はなかなか進まない。第2章は、アレントの言う「活動」の場について、である。

・・・アレントは人間の行動をその目的意識に従って、4つの階層に分類する。具体的な個別の行動が分類される訳ではない。行動の4側面、とでも考えておけばよいだろう。その4つとは(1)生物的必然性に従う行動(労働)、(2)環境を改変する行動(仕事)、(3)言語的な公開討議(活動)、(4)個人の内面的、あるいは私的思考(観照)。この「人間の条件」では、真理を直観的に悟るのは(4)であるとして、(4)「観照」が人間の最高の能力であるとは認めていても、それについてはあまり触れていない。つまり、政治的立場としては、真理というものにアレントは重きを置かないのである。

・・・政治的に重要なのは(3)「活動」である。その「活動」において、人は(1)や(2)(これらを纏めて私的行動という)から自由でなくてはならない。平たく言えば私利私欲から離れなくてはならない。それは当然経済的余裕がなければ出来ないことだろう。つまり、「活動」は名誉のために行う行動である。

・・・それでは活動が行われる条件とは何か?それは「共通世界」であるという。人間は「労働」やとりわけ「仕事」の成果である人工物世界(自然そのものではなくて、田畑とか都市とか文化とか、、、)の中で生きているわけだが、その人工物世界を眺める人々の視点は個別に異なる。人々は、異なっていながらもそれを共有しているという気持ちを抱いている。丁度テーブルという共通世界を囲んで討議する人々のように。

・・・アレントは、この「異なっていながらも」という性格が「共有」の基盤であるという逆説を言う。何故か?アレントにはおそらく、「世界を首尾一貫した理屈で語ることは出来ない。語ったとすればそれは嘘である。」という確信がある。だから、世界は異なる視点で異なる人々が語る(公示する)ことによってのみ、そのリアリティ(一つの統一体として存在しているという確信)を獲得できる。

・・・この事は、例えば過去の戦争というものを考えてみればよく判るかもしれない。戦争は戦勝国の政府の視点から語ることもできるし、敗戦国の政府の視点からも語る事が出来る。またそれぞれの兵士達、犠牲になった多くの国民、戦場となった地域の住民、それぞれが別の戦争を語るから、決して誰もが納得する総括が出来ない。無理に総括しようとすれば、必ず嘘になる。アレントが主張しているのは、無理に総括するのではなく、それぞれの立場の人が自由に語り、それを公的に、つまり誰もがアクセスできるような形にすべきである、ということだろう。それぞれの立場での総括によって、それぞれの立場の人達が戦後を生きることはどうしようもない事であるが、少なくとも他の立場の人の発言に耳を塞いではならない。一つの立場の中に閉じこもると「共通世界」が見失われ、「活動」の公的性格が崩されて言葉が画一化し、私的欲求、究極的には暴力に至る。

・・・考えるに、今日的にアレントの理想的な「活動」に一番近い場というのは、余裕を持った人々が集まり発言の自由が尊重されている、という意味では、「学会活動」のような気がする。ただ、残念ながらそれは政治ではない。この辺が多分次章以下で議論されるのだろう。
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