2015.09.15

      大分前の録画で、NHKの「日本人は何をめざしてきたのか」の中の石牟礼道子の話を観た。(動画が投稿されているようです。)昭和2年に生まれ、小さいときに水俣市に引っ越して、チッソ城下町の中で育ち、小学校教員になる。戦争末期の藁人形を使った「竹槍訓練」にも敗戦直後の「教科書黒塗り」にも釈然としなかった。昭和22年に結婚。当時、谷川雁が主催していた大衆文化運動「サークル村」に参加。自分の言葉で表現できない事に苛立っていた。昭和34年に偶然水俣病患者に出会う。精悍な猟師が殆ど身動きも出来ず、やせこけたままベッドに横たわっている。その絶望の眼差し。自らの身体に訪れた試練の意味をまるで理解できない。それが切っ掛けとなって水俣病患者との面談を始めた。胎児性水俣病の患者。生まれたときから顔や手足が自由にならない。言葉も喋れない。両親は「この子はよく理解している。喋れさえしたらとても心の奥の深い子なんだ。」という。サークル誌「熊本風土記」に「海と空の間に」という題で水俣病患者の事を連載し始めた。水俣病訴訟が始まると支援活動に参加する。地域の住民は書物も殆ど読まない。東大卒のチッソに勝てる筈がない、と言われた。しかし、連載を纏めて出版された「苦界浄土」に心を動かされた多くの知識人や学生が支援に駆けつけた。

      彼女の「活動」(ハンナ・アレントの言う意味での活動:言葉で公示すること)がなければ、水俣病事件は単なる一つの公害訴訟か損害賠償に終わっていただろう、と言われる。彼女の「活動」によって、戦後日本社会を牽引し支配してきた大企業による際限無き利益追求に最初の楔が打ち込まれた。それではその「活動」の源泉は何であったか?「物言えぬ人たちへの共感力」だという。患者達が彼女を慕ったのは彼女の書いたものとは無縁であった。そもそも本など読まない。彼女が患者達に寄り添っていったその一つ一つの行動に心を開かされたのであった。彼女はそうやって参入した患者の心を言葉にすることで、「自分の言葉」を見つけたのである。その「共感力」はどこから来たか?彼女は幼い頃から水俣の自然とそこで暮らす人々に共感していた。それが、彼女と患者の「共通世界」となった。「毎日自然から恵みを頂いて生きている。これ以上何を望むことがあるか?」という猟師の言葉が全てである。そこにやってきた「近代化」。彼女は東京都心のビル群を見て「近代の卒塔婆」だと言う。
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