「ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講座」(仲正昌樹)の第4章は「仕事と価値」についてであるが、最後は芸術の定義に到達する。

・・・労働と仕事の区分はアレント独特である。労働は生物的であり、仕事は人間的。。。

・・・労働する動物としての人間は自然と接触して養分を摂取することが本質的である。これに対して工作人の仕事では工作物が作られる。それはロックの見方では財産となるに相応しい耐久性を持ち、アダム・スミスの見方では交換可能な価値を有する。またマルクスの見方では工作物は人間本性の印たる生産力の証である。3人の認めた人間による労働のそのような側面をアレントは改めて<仕事>と定義しなおした。工作物はその中で生きる人間集団にとって共通の基盤=人工物世界を構成する。それは自然の一部として有為転変する人間にとって、自らの同一性を確認する環境(客観世界)を作り出す。つまり、主観に対立する概念は人工物世界なのであって、自然ではない。自然は全てを包含し渾然一体となっているが、人間はその中から主客分離を行って自然を客観視しているに過ぎない。

・・・労働における生産は生物学的サイクルに押し付けられて反復するだけであるが、仕事における生産は世界の中で比較的安定的に存在するモデルに基づいて無限に増殖可能である。(吉田民人流にはこのモデルが「シンボル性プログラム」という事になる。)この制作(仕事)におけるモデルの永続性こそが、プラトンに「イデア」という概念を思いつかせたのである。(これは知らなかった!)

・・・労働は生命過程の延長であり、目的も手段も無い。労働するために生きて消費するのか、それとも消費するための手段として労働するのか?という問い自身が循環していて無意味である。機械は労働者を単純な生命サイクルに戻してしまう。オートメーションは自然を工作物の世界に持ち込む。ここでの自然というのは自ずと生成するもの、という意味であり、それが正にオートメーションの機能だからである。

・・・これに対して、仕事には客観的目的がある。しかし、仕事の成果である工作物は目的であると同時に何らかの手段でなくては意味(交換価値)がない。そしてその手段は正に次の目標のための手段である。こうしてここにも無限循環がある。功利主義はこの循環を抜け出せないが、現実の工作者は人工物が人間のためのものである限り、その事に意味を見出している。ただそうすると人工物は人間の欲求充足の手段として位置づけられることになる。(「人間を手段としてはならない。」という格律で政治を功利主義の例外としたのはカントである。)そうすると人間以外の自然は全て手段となる。つまり究極の功利主義になってしまう。世界を構成しているものを使用物という側面から捉えて、その使用物との関係で人間の本質を規定する(人間絶対主義)。しかし、この規定にはアレントが反論する。人間には他の側面、言葉を発する、行う、考える、という側面があるから。

・・・古代における非政治的な共同体、アゴラ(集会所)、は政治的議論だけでなく、職人がその商品を陳列し、その商品を生産する様子を見せる場所であった。労働する動物は公的世界を欠いているが、工作人は独自の公的領域=交換市場を持っている。その場所において工作人は評価を受け、世界の中に自己を位置づけることになる。「人目に立つ生産」による職人の自負である。近代に至って、(自動化により)仕事が労働に侵食されるにつれて、それが「人目に立つ消費」とその虚栄に置き換えられていく。商業社会から労働社会への変化である。

・・・「価値」は「人間の概念作用における一つの物の所有と他の物の所有の比率の概念」であり、「常に交換における価値を意味している」(フェルディナンド・ガリアーニ1728-87とアルフレッド・マーシャル1842-1924に拠る)。交換市場という公的領域での評価によってのみ「価値」が決まる。厳密にはこれは交換価値であるが、それに対して私的領域において現れる古い価値概念を「使用価値」という。使用価値は労働の投入によって得られ、消費することによって確定する。マルクスが交換価値に対抗して重視した使用価値は、客観的な意味での価値ではなく、「物が消費的生命過程の中で果たす機能」である。生命力としての労働の再生産に拘るマルクスは仕事を通して物に客観的に付与されるworth(物固有の価値)も市場という公的領域で間主観的に形成されるvalue(交換価値)も捉える事ができない。生命体としての人間を見ているマルクスは物にきちんと向き合う事が出来ないのである。

・・・マルクスは交換価値というものを認めたくなかった。価値は絶対的でなくてはならない、という願望があったからである。しかし、それは無いものねだりというものであった。価値というのは物に固有に備わるものではないからである。「製作者の作る人工物は何かの手段としてのみ意味を有する」ということ自身が「人工物には絶対的な価値が有りえない」ことを示している。それでは、物固有の価値(worth)は無いのか?

・・・人工物の内で芸術作品というものがこの例外である。芸術作品は手段であることが本質的ではないから、交換価値が付与されるにしても本質的ではない。芸術作品の耐久性は使われて摩耗することがないという意味で、労働によって生み出され消費によって決まる「使用価値」でもない。それは人工物の耐久性よりも一段上のレベルにある。そこに表現されている思考やアイデア(イデア=理念的なもの)が本質だからである。手段=目的カテゴリーに収まらない精神の働きこそが芸術と哲学共通の源泉である。それは無用であるが故に世界を樹立できる。死すべき人間の住処となる人工物世界が耐久性を持つためには、それが消費の為に生産される物の純粋な機能主義と使用の為に生産される対象物の純粋な有用性(道具性)を共に超越する必要がある。

・・・しかし、思考やアイデアだけでは芸術作品にはならない。必ずそれを物化する技術が必要となる。生きた精神は死んだ物に化すことによって永遠性を得るのである。その死んだ物はそこに生きた精神を見出そうとする他者によって生かされる。同様に、活動や言論は生命と同様に痕跡を残さない。しかし、活動と言論とは死ぬこと、つまり物に化すことで生き残る。活動が物語として記憶継承される。その「物に化す」為には特殊な工作人、芸術家、詩人、歴史編纂者、記念碑建設者、作家の助力を必要とする。最終的な価値の源泉は手段=目的的な論理が支配する世界それ自体の中には無い。それは芸術作品を通して、あるいは活動と言論の形で人々の目の前に現れるが、それ自体として実体化することはない。

・・・経済学的な使用価値、交換価値というカテゴリーでは芸術作品の価値が定義できない。このイデア的な価値は実は日常的に使用されている物にもあるのだが、人々はその場その場で消耗品的に使い捨てられる道具としてしか意識していないから見えない。それに対して最初からもっぱら鑑賞されるだけの芸術作品は目的=手段の連鎖から解放されて、製作を導いているイデア的なものが見えやすくなっている。機能が忘却されて形だけが見えるように設定されているのが芸術作品だからである。(例えば、「民芸」に見る美というのは、今まで単なる使用価値としてしか見られなかった物の中に理念的なものを発見するときに見出される、ということだろうし、音楽にしても、CDとして睡眠の道具とするのではなく、演奏会場で半ば強制的に鑑賞に拘束されることで初めてイデア的な価値に気付くということだろう。)

・・・芸術作品であろうと無かろうとそこにどんな理念を見るかは個々に異なる。だからこそ言論の場が必要なのである。(音楽でいえば演奏の場ということだろう。)

・・・ということで、仕事の話の筈がいつの間にか芸術の定義になってしまった。目的=手段の連鎖を追いかけるのではなく、そこにアレント流の<美>を見出す生活、というのが彼女の理想なのだろうか?
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