日曜日の朝のラジオは「著者に聞きたい本のツボ」であるが、今日は大野裕之の「チャップリンとヒトラー」。ほぼ同時に生まれ、お互いに意識していた。共通する世界はメディアである。当初アメリカ国民の大部分はヒトラーに好意的であったらしい。しかし、「独裁者」において、ヒトラーが徹底的に戯画化されることで、アメリカの世論が逆転したということである。ヒトラーの演説を無意味なドイツ語で再現してみせてから、ヒトラーは演説が出来なくなってしまった。権力に対して真面目に反対することも大事だが、笑い飛ばすことがしばしばより効果的である、ということ。もっとも、安倍晋三さんはなかなか戯画化しにくい人物ではある。

      お昼前に出かけた。まずは本川町まで電車で行って、和菓子の「高木」で赤飯弁当を食べて、頼まれていた月見団子を買った。そこから平和公園を通って、アステール・プラザまで歩いた。今日は広響の「フィガロの結婚」の演奏会である。テレビで何回か見ていたし、舞台両側に翻訳が出ているので筋はよく判る。舞台で実際に見るとお祭り的な雰囲気でついつい惹き込まれてしまう。舞台装置は簡略化というか象徴化されていて、喜劇ということもあるが、ちょっと狂言のような感じもした。騙し騙されるという筋なので、舞台に出ている人達が同じ世界を共有しながらも全く逆の解釈をしている。それらを全く対等に表現している。同時に複数の歌が歌われて、それらが調和している。オーケストラは歌手の心情を描写する。今更ながらモーツァルトの才能に感嘆する。それぞれの登場人物にそれぞれの人物に相応しい美しいアリアがある。この多面性!そして全体としては封建領主を庶民の立場から戯画化している。こういう笑い。とりわけ男達が戯画化され、女達の罠に嵌っている。現代でも充分通用する笑いになっている。最後は伯爵が謝ってハッピーエンドになるのだが、そこでどういうわけか涙が出てきた。知らない内に僕も感情の波に洗われていたようである。歌手はそれぞれ熱演であったが、中でも伯爵夫人を演じた柴山愛がとても良かった。伯爵を演じた折川宏治がその次位。スザンナ役の小林良子は適役。とても可愛らしい。
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