披露山公園の七曲坂・古東海道その4 地図はこちら

古東海道という道を突き詰めて行くと、この七曲坂はどうも古代官道の特徴から離れてしまいそうです。鎌倉から逗子へ入る道として古くからは小坪坂と名越坂が知られていますが、古代の道が小坪坂で鎌倉時代に整備されたのが名越坂とするのが一般的なようです。しかし古代道が名越坂を越えたとする説もないわけではありません。

名越坂は鎌倉七口の一つである名越切通がある道です。鎌倉から三浦氏の拠点を結ぶ三浦道の鎌倉への入口として知られ、現在の鎌倉七口の中でも比較的古道跡が良好に残るところです。それでは名越坂には古代官道が通っていたと思われる地形が見られるのかというと、これが古代官道が通った道と考えるには披露山公園七曲坂以上に似つかわしく無い道なのです。

いろいろと古代官道について見ていくと、鎌倉や逗子の高くはありませんが険しい山と海岸線の地形などから、古代官道が鎌倉から三浦半島を抜けていたとするルートを絞るのはなかなか難しいようです。

古代道の直進性から考えると名越坂を通ったと考える方が有利ですが、ここ披露山公園付近には縄文から古墳時代の遺跡が分布することから、古い時代から開けていた土地と考え、この付近を古東海道が通過していたと考えるのも頷けます。

堀割の古道を下って行くと途中から上写真や左写真のような石垣が現れてきました。石垣自体は決して古いものでは無いようです。堀割道の上部はゴミが散乱して廃道に近い状態でしたが、だんだん下るにつれ、実用的な感じの道へと徐々に変化してきています。しかし、この写真の辺りでも古道の雰囲気は十分過ぎるくらいあります。

果たしてこの道が、古東海道であったのか、或いは別のところを通っていたのか、その結論は研究者でない素人の私にはわかりません。その結論は将来研究者によって説き明かされる時がくるのかも知れません。ただここでは、この道を古東海道であったとしたいと思います。その方がロマンがあって宜しいかと思えます。更にこの道は中世の鎌倉時代にも使用された、鎌倉・三浦往還の鎌倉街道の一つとも考えたいのです。

道の先が明るくなってきました。どうやら堀割道もここまでということのようです。

堀割道だけが鎌倉古道というわけでも無いのですが、どうも私の鎌倉街道紹介は堀割道が中心となってしまいます。道は平坦なところもあれば、土塁上を通るところも多かったと思われます。ただ中世以前の古い道は平坦部や土塁上のところとしては形態が変化しやすく、そのよな形で残ることは少ないのではと思うところがあります。左の写真は堀割状の道から抜け出て車も通れる舗装路となった付近を撮影したものです。道の右手には近代的な豪邸が建っています。

聞くところによると、堀割道を抜け出た七曲坂の途中には、大変有名なお方のお屋敷が有るということでしたが、どの家がそのお屋敷なのかはわかりませんので、あえてここではお名前は出さないことにします。

右の写真では、幾重にも曲りくねる坂道がご想像できるのではないでしょうか。写真の付近は舗装路ですが坂の勾配はかなり急で、登りの場合はかなりきついものがあります。

『源平盛衰記』などに見られる「小坪合戦」は鎌倉から逗子に通じる小坪坂が舞台と考えられているようです。治承4年(1180)8月、石橋山合戦のあとで、平氏方の畠山重忠軍勢と、源頼朝を支援した三浦義澄らの軍勢が戦ったものです。畠山重忠の軍勢は衣笠城まで攻め行っているので、この披露山公園の七曲坂の道も通ったのかも知れません。鎌倉での開幕以前の文献などに小坪の地名が登場することから、名越より小坪の方のが古いとする説はこんなところにもあるのかも知れません。

左写真では七曲坂の下、遠方に逗子の市街地が見えてきました。

七曲坂を下りたところに庚申塔などの石仏が3体立っていました。石仏のすぐ上は稲荷神社で、ここは古墳時代の横穴群であるそうです。古代や中世の昔には、稲荷神社のすぐ前からは海だったといいます。新宿浜と呼ばれ、またこの付近には「関下」の地名があるようです。

そしてここからは波の音が聞こえ、辺りにはボートやヨットがシートを張っているのが目につきます。稲荷神社の前の道からは別の世界のように感じられます。七曲坂の昼でも薄暗い霊気の漂う道と違って、ここから先は明るい渚ウオーキング。ヨットセーリングにウインド・サーファー。古道歩きとは全く無縁の陽気な若者達の世界です。ふと「太陽の季節」などという言葉が瞼の奥に浮かんできます。

湘南の海岸線近くを通っていた古東海道は、古い物と新しい物が隣あわさった土地を通っていました。伝説の英雄、日本武尊が通った道。鎌倉幕府を開いた英雄、源頼朝が名付けた披露山。小坪合戦の畠山重忠と三浦義澄との戦い。戦国時代の三浦導寸と北条早雲との海岸線の城をめぐっての戦い。ここ披露山公園の古東海道は英雄伝説に合戦地として数々の不思議なロマンに満ちた古道でありました。

古道歩きの締めくくりとして、尾崎行雄『尾崎咢堂全集第十巻』の中の「本当の人間をつくる教育」についての一部引用を綴って終わりたいと思います。

「今、さかんに自由という事が言われているが、自由もその通りで人の自由を尊重しなければ、自分の自由は失われる。自由はわがままとは違う。だからお互いの自由を尊重し合うため、法律や義務やその他のきまりを守らねばならぬのだ。英国人は、非常に自由を重んじる国民であるが、またよく法律を守る国民でもある。どうしたらよく法律を守れるかと考える国民だ。日本人は、どうしたらよく法律をくぐってうまいことができるかと法律をくぐることを考える国民だと言われていた。これは本当の人間をつくる教育が行われていなかったからである。今われわれは、奴隷から解放されて、自由のある独立した人間となったのであるが、はたして、皆本当の人間になり、人間としての魂を取り戻すことができたであろうか。」

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