海上技術安全研究所構内に残る鎌倉街道その2 地図はこちら

左の写真は海上技術安全研究所の南端にあたる付近で、ここまで鎌倉街道が続いていたものと思われます。ここから南は研究所のフェンスを越えて道が更に続いているようですが、ここから出ることはできないため一旦北の正門まで戻り、研究所の外を迂回して南に続く道へと行くことになるようです。南に向かう道の先には消防大学がありその構内にも鎌倉街道跡の道が残っているそうですが見学の許可を得ていないので今回はそこまでは行っていません。

頂いた案内書によると鎌倉街道は約180メートルで、かってはクヌギ林をぬい鎌倉街道に沿って「仙川分水」と呼ばれる用水が構内を縦断して樹木に潤いを与えていたそうです。このクヌギやコナラ、ケヤキなどの緑の中に残る鎌倉街道は研究所の先輩方の努力により残されてきたもので、これからも大切にして後輩に伝えるために「鎌倉街道を守る会」が結成されているということでした。

土地開発により日々に鎌倉街道は消え失せていくなかで、ここのように大切に古道が守られていることは素晴らしいことだと思います。土地の利用が商売目的で、先人の築いてきたものがことごとく破壊されていく中で、ようやく緑の大切さが問われる時代になりつつあるとは思っていますが、多摩丘陵などでは未だに緑が破壊され続けています。物質文明とは違った価値観が見直されている今、本気で自然の大切さを感じてもらいたいものです。

この道は研究所設立以前の住民の呼称が伝えられていて、現在の柴崎2丁目付近にあった十王堂(現在の西つつじヶ丘の金竜寺に移転している)への道として「十王街道」というのがあり、その十王街道のことを古老の多くは鎌倉街道と呼んでいたということです。

調布市の歴史などを調べてみると、この付近には幾つかの「鎌倉みち」の伝承があることが窺えます。

調布市史によれば、練馬方面から深大寺へ抜け、青渭神社、虎狛神社近くを通り、祇園寺の傍らを過ぎ、野川を渡り、第六天社の横を通り、国道20号線と旧甲州街道を越え、布田駅のところで踏切を渡り、椿地蔵のところで品川みちを越え、さらにその先で旧日活の塀に沿って土堤に出、多摩川を渡って鎌倉まで続く道筋が書かれているようです。

この道筋には奈良時代に創建されたという有名な深大寺があります。また深大寺の南には深大寺城跡があり、城の築城年代などは明らかではないようですが、鎌倉時代末期の人見原合戦がこの付近で行われたいます。戦国時代に扇谷上杉氏と小田原北条氏との争いの最中に上杉氏が以前に築かれていた古城を修復し築城したものが現在残る遺構と伝えられているようです。

一方、海上技術安全研究所構内に残る古道跡は消防大学構内を抜け、しばらく三鷹市と調布市の境界を南進して行きます。中央自動車道を過ぎた後、上ノ原五差路から市境界を逸れ南寄りに進み、宮ノ上交差点から京王線柴崎駅方面に向かい、国道20号線の馬橋で野川を渡り、その後布田駅南で深大寺からの鎌倉みちと合流して鎌倉へと向かうことになるようです。

『新編武蔵風土記稿』金子村の小名項に、間橋とあり「街道の西にあり、この辺に鎌倉古道あり」と出ていますが、現在の国道20号線の野川に架かる馬橋のことなのかは私にもよくわかりません。また十王堂のことが金龍寺に書かれていて「当寺の庭にあり、二間四方、堂下に名像の十王及び仏体十四躯あり、何れも座像なり、その内銘ある者あり、・・・・・元来は本山にありしが、何れのころかこの境内に移せしとぞ、今なを十王堂路と呼ぶ所あり」と見られます。

果たして海上技術安全研究所構内の鎌倉街道と呼ばれる道が間違いなく鎌倉街道であるかどうかは私には分かりません。おそらく専門の方でもその判定は難しいのではないかと思われます。しかし古老の言い伝えが残り、現在の道跡から推測して古い道であることは間違いなさそうです。

東京都下の町中にわずか180メートルだけ取り残された鎌倉街道の伝承が伝わる道。以前の武蔵野の雑木林の姿を伝えるものがここにはあります。左の写真の標示から一往復だけの散策でしたが、何故か気持ちが和む時間でした。

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