道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 川本・満福寺・鶯の瀬  ◆◆◆◆◆◆

満福寺

白田山観音院満福寺といい、真言宗豊山派の寺です。鳥羽天皇の御代に弘誓房深海上人が開いたと伝えられています。後に畠山重忠が寿永年間に再興して菩提寺としたと伝えています。本尊は不動明王と両脇侍の三尊像で彩色の宮殿に安置され、須弥檀、前机とともに町指定文化財になっています。重忠公の菩提寺として実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、長刀、大般若教、御朱印状等が伝えられているそうです。寺の北東、荒川岸には井椋神社があり両社寺は神仏習合の時代には神宮寺、境内社の関係にあったものとiいわれます。

川本町畠山の満福寺

満福寺境内の西には下の写真の観音堂が建ち重忠公の守本尊である六尺三寸の千手観音像が安置されていて、他に秩父板東西国百番観音像、算額絵馬等があるそうです。

重忠因人となる(沼田の御厨についた)

礼節の誉れ高い重忠も彼が地頭職であった伊勢の沼田の御厨で、彼の代官人が詐欺・横領を起こした事件があります。このとき重忠は責任をとられ領地を没収され身柄を一時千葉胤正に預けられますが、絶食をして謹慎したので一時は許されます。その後に武蔵菅谷館に引きこもった為に梶原影時に謀反を企てていると頼朝に讒言されます。結城朝光らのはからいで重忠の弓馬の友、下河辺行平が重忠を鎌倉に連れて帰ります。影時はもし反逆の企てがないのなら起請文を書くように勧めますが、重忠は「心と言葉がちがう者にこそ起請文を要求されるがよい。自分が偽りをいわないことは、頼朝公がかねてよく御存知のはずである」と正面から潔白を示したのでした。

満福寺の観音堂

二俣川に死す

元久2年6月(1205)、鎌倉に異変あり、重忠は百三十騎の兵を引き連れて菅谷館を出発して鎌倉街道を一路鎌倉へと向かいます。途中鶴ヶ峰の麓、二俣川で息子の重保が殺されたことを知り、しかも数万騎の追討の大軍が迫っていました。策略に掛けられたことを知った重忠の軍勢は、息子の小次郎重秀、本田次郎近常、榛沢六郎成清以下百三十騎ばかり。迎え撃って到底勝てる勢力ではありません。近常、成清らは菅谷館に至急戻って追ってを待ち受けることを重忠に勧めます。それに対し重忠は「戦いに臨んでは家を忘れ、肉親を忘れるのが武士の本領である」と梶原影時のいさぎよくない最後をまねたくないと言い、戦いあるのみだと言います。重忠の軍勢に北条軍が襲いかかってきました。先登は安達景盛の主従七騎、重忠は「景盛は弓馬放遊の旧友、相手に不足はないぞ、重秀かかれ、」と応戦しました。

観音堂裏の重忠廟

普通なら数万騎の兵が本気で戦えば百三十騎ほどの相手ならば一瞬にして決着が着くそうです。しかしこの戦は激戦4時間余りにも及んだといわれます。北条方の兵士達はいま迄、鎌倉関東武家政治を重忠と共に築いてきた友がほとんどで同じ釜の飯を食べてきた者達なのです。重忠を討つことに後ろめたさや、躊躇する者もいたことでしょう。しかし遂に愛甲季隆の射た矢が重忠にあたり最後を遂げるのでした。重忠42歳、重秀23歳であったといわれます。

井椋神社

井椋神社と鶯の瀬

上の写真は川本町畠山にある井椋神社(いくらじんじゃ)です。畠山氏代々から郷里の秩父吉田の井椋五所宮を重忠の父重能が畠山庄司となって館をこの地に移した時に祖父重綱が勧請したものだといいます。
神社の社殿の裏の荒川断崖には、下の写真の「鶯の瀬」の碑が建っています。重忠が家臣の元へ出掛けてその帰路、雨に逢い洪水で荒川を渡れずに困っていると、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれて、無事に河を渡ることが出来たと言い伝えられています。その浅瀬がこの辺りで、「鶯の瀬」と呼ばれてきたのです。
その時重忠が詠んだ詩があります。

時ならぬ岸のおささのうぐいすは
あさせたずねて鳴き渡るらん

井椋神社裏の荒川岸にある鶯の瀬の碑

畠山重忠は音曲の才能があったといわれています。元暦元年(1184)に鶴岡八幡宮で神楽が催されたとき、頼朝は参詣した後に、別当円暁の坊に招かれて酒宴が開かれました。この時に都より呼び寄せた惣持王という名前の稚児が都で流行の今様を演じたといいます。惣持王は横笛を吹き、梶原平次景高が合奏し歌を唱い、重忠も今様を歌ったといいます。今様は平安時代の中頃から流行した歌謡であり、後白河法皇は今様に熱中して歌詞などを編纂し著述したものが『梁塵秘抄』です。重忠が今様を歌えたということは都にいて音楽的教養を受けたことがあると考えられます。また義経の愛人静御前が、文治2年(1186)に鶴岡八幡宮の廻廊で頼朝の再三の催促にやむなく立って舞った時に、伴奏の鼓は工藤祐経が打ち、重忠は銅拍子を打ったといわれています。これも都で名高かった静の舞に合わせて銅拍子を打つのはそれなりの才がなければ出来なかったと思われます。

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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