西上総の鎌倉街道下新田・立野ルート
西上総の鎌倉街道下新田・立野ルート4
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左の写真は光風台から高坂へ、台地から低地に下ってきた道で切通状になっています。ちょうど前のページの最後の写真を反対方向から撮影したものです。舗装された道幅は軽自動車が一台通れるほどの幅になっています。写真の左側の切通状の壁が崩れて地層が露出しています。そこの部分を近づいて撮影したものが下の写真です。
市原市高坂の光風台方面からく下って来た道

房総半島の土は砂が混じった崩れやすいもののようです。右の写真を見て頂けるとおわかりの通りに、中間から土質が異なっていて、下層の土は房総特有の砂ぽい土で特に変わったところは見られません。それに対して上層の土はやや黒ずんでいて下層の土との境目辺りには丸くなった小石が沢山見られます。この地層の写真がどうしたと言ってしまえばそれまでですが、私が注目したいのは地層の境目の波打った不規則差と、この上層の丸い小石です。
道の切通状壁面に見られる不思議な地層

三島市の平安・鎌倉古道を見てきて以来に、各地の鎌倉街道を尋ね歩いていて、切通などの崩れた地層に注意して観察する癖が付いてしまいました。地層に道路遺構を思わせる変化がないかと気になってしまうのです。左の写真を見て頂くと下層と上層の地層の境目が大きく波を描いているのがおわかり頂けるのではないでしょうか。もし仮にこの地層が自然堆積であるのであれば地層の変化の境目はこのように大きく波打つことは無いと思うのです。
道の切通状壁面に見られる不思議な地層

右の写真を見て頂けると沢山の丸い小石が堆積しているのがおわかり頂けるのではないでしょうか。小石の堆積層は約30センチほどと思われます。下層の砂質の土は木の棒で簡単に削れるのに対して、上層の小石が堆積している部分では、まるでコンクリートで固めたように大変硬くしまっているようです。私は考古学は全くの素人なのでこれが道路遺構であると言うことは出来ませんが、ただ普通に考えてみて自然な地層であるようには思えなかったのでこのホームページに載せて見ました。
道の切通状壁面に見られる不思議な地層

三島市の平安・鎌倉古道で見て以来の不思議な地層に、ここ房総の鎌倉街道を歩いていて出くわすとは全く考えても見ないことでした。しかし、くれぐれもお断りしておきたいのですが、考古学や地質学には素人な人間が見たものです。何かの遺構なのかということは断言できるものではありません。

初めてここに訪れて見つけた不思議な地層でしたが、その後再び二度目に訪れた時に土器片などの人工物が混じっていないか注意して観察してみました。しかし、そのようなものは見つけることは出来ませんでした。

道の切通状壁面に見られる不思議な地層

聞くところによると、房総では地層に小石などが混ざることはあまり無いそうです。人為的なもので無いとすれば崖崩れなどの土砂が堆積したものとも考えられるのですが、ここは台地からの尾根の突起で、そのようなことはあまり考えられないように思えるのです。また堆積している小石は丸く角がとれていることから河原の砂利とも思えるのですが、大きな河川としては養老川が近くにありますが、川までは尾根をもう一つ越えなけれなならない位置にあり、この小石が養老川の自然堆積によるものと考えるのは無理があるように思えるのです。
道の切通状壁面に見られる不思議な地層

鎌倉街道の下新田・立野ルートの立野から先の道筋としては、ほとんど紹介されていない光風台から高坂辺りです。この地名の境界線の尾根道の終わる先端付近で見つけた不思議な地層でしたが、私自身も大変驚いています。このページを作成中に作者は町田市小野路の鎌倉街道上道本路と想定されている地層断面を見て来ています。そのページを掲載していますので参考までに見てみてください。
左の写真は不思議な地層を発見したすぐ下を撮影したものです。写真のカーブした道を下ればすぐそこは国道297号線の新道です。
不思議な地層が見られる地点から谷戸への道

右の写真は国道297号線新道沿いの道の駅「あずの里いちはら」の背後の丘陵上にある「浅間塚」と呼ばれる富士塚です。富士塚は富士山を信仰したものでが、この浅間塚の付近一帯は古墳群になっているようです。釜神遺跡という弥生時代から古墳時代の遺跡の中で、この塚も調査が行われているそうです。調査によるとこの塚は古墳時代前期の古墳に盛土を重ねて造られているということです。この塚からは展望が良く市原市の国分寺台方面を見渡すことが出来ます。そして古代や中世の道がこの塚の近くを通っていたかも知れないのです。
市原市浅井小向のアズ植物公園内の浅間塚


市原市中高根の鶴峯八幡宮
市原市立野からの鎌倉街道は北に向かうルートや南に向かうルート、そして東に向かうルートなどがあるようです。姉ヶ崎カントリー倶楽部の南から中高根を東に向かう一本の道があります。この道は尾根上を下るもので、道端には石仏なども見られることから古道であったことが窺われます。この道が台地から低地へ下りた付近に鶴峯八幡宮があります。健治3年(1277)に宇佐神宮より大江朝臣妙弥が与宇呂宇新八幡宮として勧請したと伝えられているそうです。鶴峯八幡宮は鎌倉の鶴岡八幡宮、館山の鶴谷八幡宮とともに関東の三鶴と称されています。この神社で奉納される千葉県指定無形文化財の十二座神楽は「鎌倉ばやし」とも呼ばれ鶴岡八幡宮から伝わったものといわれています。

市原市中高根常住寺境内の宝篋印塔
市原市中高根常住寺境内の五輪等

上の写真は市原市中高根の常住寺境内にある宝篋印塔と五輪塔です。この二つの石塔は市原市指定文化財になっています。常住寺にはこの他にも貞和6年(1350)銘の武蔵形の板碑があり、これらの石造物は南北朝期のものと考えられています。これら中世の石造物はこの地域では数少ない貴重なものということです。

ここまで西上総の鎌倉街道である下新田・立野ルートを尋ねてみましたが、作者が感じたことは、この鎌倉街道は山谷遺跡のような中世遺構が検出されているのに対して今一つ謎が多い街道と感じました。伝鎌倉街道と呼ばれる一連の道が果たして中世の幹線路であったのか。現時点では山谷遺跡の道路や集落跡が裏付ける証拠の一つではありますが、天羽田稲荷山遺跡のような人が一人通るのがやっとの道跡が、果たして鎌倉への幹線路と考えてよいものなのか素人ながらも不自然さを覚えます。

このルートは古代官道とも想定されてきていますが、近年の考古学発掘事例から考えると、古代道の特徴や道幅などの規模、出土遺物などから見て、現時点では古代道の可能性は少ないものと思われます。

またルート全体を通して見て、他の地域の鎌倉街道などでは道沿いに神社や寺院が多く見られるのですが、このルート沿いには神社・寺院はほとんど見られないのは何故なのか。神社や寺院があったとしても道沿いからやや離れたところに在るものばかりです。近世の石造物もやはり他の鎌倉街道よりも少ないようです。近世の石造物が見られるところは東西方向の伝鎌倉街道と、南北方向の道が交差する地点などがほとんどのようです。この道沿いに近世の石造物があまり見られないことは、近世には街道としては機能していなかったのでは無いかと思われるところです。

ここの鎌倉街道は「歴史の道百選」に選ばれているにも拘わらず、一般的に知られていないようです。歴史古道としての保存状況は、幸い市街地から離れていることから開発による道の拡張なども少ないようです。ただこの道は確かに鎌倉街道の特徴は見られるのですが、道と周辺の雰囲気などは、他の地域の鎌倉街道と較べると古道らしさがあまり感じられないものがあります。せめて道脇に一部でも土手が残っていれば古道の雰囲気も随分と違ったものとなったことでしょう。その辺りは残念なことです。

右の写真は養老川の浅井橋から南方面を撮影したものです。写真正面奥の丘陵は「阿須」という地名のところですが、阿須は各地の鎌倉街道を尋ねているとよく見られる地名です。阿須とは険しい崖を意味するそうですが、写真の丘陵も東側は養老川の浸食を受けて険しく急な崖になっています。袖ヶ浦市の下新田から市原市立野に伝わる鎌倉街道もその延長はやはり上総国府域を目指していたと考えられるのです。そしてここ浅井橋から、古代道跡が発見された山田橋までは約3キロメートルほどの距離です。
市原市の養老川(浅井橋)

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木更津の道標  下新田-立野  立野-姉ヶ崎  上総国分寺
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