西上総の鎌倉街道下新田・立野ルート
西上総の鎌倉街道下新田・立野ルート2
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街道研究家や歴史考古学者には知られている上総の鎌倉街道ではありますが、一般の人々にはほとんど知られていないのがここの鎌倉街道でもあるようです。それもそのはず、現在この道や道沿いには鎌倉街道を説明するものは、極めて少ないのが現実です。これでは「歴史の道百選」に選ばれても名が廃ります。自ずとこの古道を保存しようなどと考える人達も少なくなるわけです。山谷遺跡付近には遺跡の記念碑か又は説明版を立ててもらいたかったものです。
山谷遺跡東側の伝鎌倉街道

調べてみれば、中世の道と市あるいは宿といった人の生活空間がセットになった遺跡は全国でも極めて珍しく、関東においては埼玉県毛呂山町の堂山下遺跡と栃木県国分寺町の下古館遺跡のみです。この貴重な中世遺跡の跡地には現在何もないのは寂しいことです。

上の写真と右の写真は山谷遺跡から東に延びる伝鎌倉街道です。道脇にわずかに残る土の盛り上がりが、かっての道の土手跡を偲ばせてくれます。

山谷遺跡東側の伝鎌倉街道

左の写真は山谷遺跡地から伝鎌倉街道を東に約400メートルほど進んだところに立つ石造物です。石造物の表面には地蔵尊のレリーフとその下には南無阿弥陀仏と刻まれています。石造物の側面には「北ちばみち」と「南たかくら道」と書かれていて、石造物が道標を兼ねていることがわかります。写真の石造物の立つところから南に向かう道があり、その方向が「たかくら道」にあたり、木更津市矢那の高倉観音への巡礼路ということです。尚、写真の示道標と別の石造物が伝鎌倉街道の道の北側にもあります。
伝鎌倉街道端に立つ石仏兼示道標

上の写真の石造物の右にもう一つ細い石造物がありますが、こちらは完全な示道標で道の各方向の行き先が刻まれています。石仏を兼ねた示道標に南北方向のみの行き先が刻まれていることから、石造物が建てられた当時は東西を走る鎌倉街道よりも南北を走る道の方が重要視されていたのではないかと考えられます。この南北の道は巡礼道となっていて江戸時代には盛んに使用された道なのでしょう。房総往還の姉ヶ崎付近から分岐して木更津市の高倉観音へと向かう道がこの南北方向の道なのです。
畑の中を進む伝鎌倉街道

ところで示道標のところから北へ向かう道は現在ではハッキリとしません。伝鎌倉街道の北側にある示道標から北へ折れる細道がその道のようですが、この細道はすぐ行き止まりになってしまうもようです。おそらく館山自動車道が開通してから、道の付け替えが行われたのでしょう。明治時代の地図を見てみると示道標から北へ向かう道は東へ向かう鎌倉街道よりも太い道で記されています。左の写真は萩原野と呼ばれる付近の鎌倉街道を撮影したものですが、畑の中の農道といった感じの道です。
畑の中を通る伝鎌倉街道

山谷遺跡から市原市天羽田にかけての鎌倉街道は畑の中を行く一本道です。舗装はされていますが、周りはのどかな田園風景です。暖かな天気の良い日などに、のんびり歩いたり、又サイクリングなどには良さそうな道です。ただ気になるのはこの付近でよく目にする、「野菜泥棒注意」などと書かれた立て札です。泥棒を意識しすぎると地元の人に見知らぬ私などは如何にも怪しい人間のように見られるのではと詰まらぬことを考えたりします。もっと自信を持たなくてはいけない。わたしは野菜を盗むためにここを歩いているわけではないのだ。
萩原野付近の伝鎌倉街道


萩原野付近の伝鎌倉街道
どうもくだらないことを考えていると、せっかくの街道歩きも、おかしな感じになってしままうものです。何だかこの道が街道ではなく、だだの畑の中の農道に感じられてきます。ホントにこの道は街道なんだろうか、先ほどの示道標以来、街道らしきものは何も無いじゃないか。

かってこの辺りは山林原野だったともいい、現在ある畑作地帯は大正時代の中頃に他所より農民が移住して来てから広がったということです。そう考えると中世の鎌倉街道であり幹線路でもあったこの道も、使用頻度の薄れた江戸時代には原野の中の一本道で地元の人もあまり通らない道だったのかも知れません。

畑の中の一本道である伝鎌倉街道を東に進むと、やがて千葉鴨川線の道路を渡る高架橋の上に出ます。この高架橋の少し手前に北西に分岐する道がありますが、この道も蔵波と久保田境界線を長浦方面に向かう鎌倉街道の支道であると伝えます。その道沿いには鎌倉街道の地名があり国土地理院の2万5千分の1地形図にも地名が乗っていまいす。

天羽田稲荷山遺跡

さて、南北に通る千葉鴨川線の上を高架橋で渡る伝鎌倉街道ですが、実はこの地点とやや東側の道沿いが「天羽田稲荷山遺跡」と呼ばれるところなのです。

天羽田稲荷山遺跡の発掘調査は平成7・8年に財団法人市原市文化財センターによる一回目の調査と、平成11年の財団法人千葉県文化財センターの二回目の調査があり、何れも鎌倉街道の調査が中心でした。

一回目の調査では市原市内の地点で行われていて、その結果、道路跡は上幅3〜4メートル、深さ1メートルのV字状の堀り込みで、路面幅はわずか0.5メートル以下しかなく、人が一人通るのがやっとの道であったことが確認されています。この道跡では側溝跡などは見られないようです。山谷遺跡で検出された道路幅が、最大で3.1メートルあったことから考えると道幅の規模が極端に狭く、山谷遺跡では市が開かれていたので車が通れる道路幅であったのに対して、天羽田稲荷山遺跡の地点では原野を通る道であったので、人が一人通れるだけの幅の道であったとして、このよな狭い道がこの辺りの古道の一般的な姿とも考えられているようです。

二回目の調査は市原市と袖ヶ浦市の境界の道路が調査され、上幅約5メートル、路面幅約0.8メートルで、一回目の調査同様の道跡が検出されましたが、調査区の西端で今までの道路跡よりも、やや南に振れた方向で轍跡が検出されました。調査区が限られていた為に、その轍跡の道路の具体的な構造や規模は確認されていないようですが、この調査で今まで鎌倉街道と考えられてきた天羽田稲荷山遺跡付近の道は本道か枝道か検討する必要がでてきているようです。

天羽田稲荷山遺跡での調査では狭い道ながらも、各地の道路遺構から検出されている波板状凹凸面が硬化面の下から検出されています。また道路跡は、たびたび修繕・改築を行っていて、多いところでは6面の硬化面が検出されているそうです。出土遺物は大変少なく土器片や砥石片と中世輸入銭が僅かに検出されているのみです。

右の写真は天羽田稲荷山遺跡の東側から谷部に下りた伝鎌倉街道が、再び台地上へ登る地点にある「須軽田坂」と呼ばれる坂です。坂の名前の由来などは資料が見付けられず、残念ながらわかりませんでした。坂の途中にコンクリートの石柱があり須軽田坂と書かれていました。西上総の鎌倉街道の案内書は全く無く、今回は全て地元の図書館での郷土資料から調べたものです。古道を探索するということは探偵みたいに資料調査や聞き込み、そして現地踏査とそれから自分自身で推理することなのです。
鎌倉街道に続くと思われる道の坂

須軽田坂を上り街道は再び袖ヶ浦市と市原市の境界台地上を東へと進んで行きます。しばらくすると北へ分岐する道があります。その付近は六万坪と呼ばれているようです。北へ分岐した道は市原市椎津へ向かう道で、その道も鎌倉街道と伝えられてきていて天羽田・椎津ルートと呼ばれる道です。そしてその道上には椎津中林遺跡が調査されていて、中・近世の道跡が検出されています。現状ではその道は下新田・立野ルートから分岐して海岸方面に向かう鎌倉街道の支道と考えられているようです。
御所覧塚前の鎌倉街道

更に街道を東進すると道の北側に塚が現れます。「御所覧塚」と「おこり塚」です。

御所覧塚の前に立つ標柱には次のような説明が書かれています。

御所覧塚は言い伝えでは治承4年(1180)に源頼朝が、平家打倒のため上総国を通過した際にこの塚を築かせ、塚上で武士達を閲兵したと言われています。また、この塚の前を通る道は鎌倉街道と呼ばれ古代には都と上総地方を、中世には鎌倉とを結ぶ重要な道路でありました。

鎌倉街道の傍らにある御所覧塚

御所覧塚前の鎌倉街道は限りなく直線道で古代駅路を思わせるほどです。ただ現在は近くで造成工事か何かを行っているのか、ダンプカーが時折、音をたてて通り過ぎて行きます。近い将来この付近の街道沿いの景観も変わってしまうのかも知れません。御所覧塚は鎌倉街道下新田・立野ルートでは唯一古街道を偲ばせるものです。頼朝伝承の信憑性は定かではありませんが、古道を実感させてくれる塚は大切にしていってもらいたいと願うばかりです。
御所覧塚から真っ直ぐ東に延びる道

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