西上総の鎌倉街道下新田・立野ルート
西上総の鎌倉街道下新田・立野ルート3
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御所覧塚から東側の鎌倉街道はしばらく舗装路を直線的に進んでいます。やがて道は南側に直角に折れその先で八幡カントリークラブ北側の車道に合流しています。道が右に直角に折れるところから真っ直ぐ東に向かう細い道もあるのですが、その道も途中で北側に逸れていて鎌倉街道の続きであるのか判然としません。姉ヶ崎カントリー倶楽部南西角に左の写真の石仏を発見しました。この石仏の直ぐ近くの車道沿いで野菜を販売していたおじさんに鎌倉街道を尋ねてみますと、以前は車道の通っていたところが鎌倉街道であったと教えてくれました。
立野と不入斗とび地の境界の石仏

右の写真は姉ヶ崎カントリー倶楽部の南側を東西に通る道です。道幅は狭く普通自動車が一台通れるほどしかありません。この道は立野と中高根の境界線になっていて鎌倉街道の特徴を伝えています。写真の左側の樹木に、寄りかかるように立てられている標柱が見られます。標柱の文字がかすれ掛けていますが鎌倉街道と辛うじて読めます。市原市文化財研究会と書かれていますが、ここを通る人にはこの標柱は、ほとんど目に留まることが無いもののように思われます。
姉ヶ崎カントリー倶楽部南側の鎌倉街道

左の写真は上の写真のところから更に東に進んだ辺りを撮影したものです。写真左側の樹木の中はゴルフ場になっています。この辺りでは、今となっては古道を偲ばせるものなど何もなさそうで少し残念な気がします。しかしこの先の立野には頼朝伝承が残っているようです。頼朝が立野で馬を乗り換え、その馬を差し出したという家があり、その家には頼朝から贈られたという茶釜が残っているそうです。
市原市立野と中高根の境界にある道

右の写真は上の写真から東に進んだ付近で、反対方向(今まで来た方向)に振り向いて撮影したものです。右側の樹木の中は相変わらすのゴルフ場です。かっての文化庁「歴史の道百選」の鎌倉街道も、写真のような有り触れた道では、一般の方々には古道の趣が感じられないばかりか、この道が古道であることさえ気が付くことも無いのでしょう。そもそも「歴史の道百選」とは何を目的として選ばれたものなのか考えさせられてしまいます。ここまで来て「歴史の道百選」と言う言葉の意味と期待に裏切られてしまった感があります。
市原市立野と中高根の境界にある道

過去の歴史遺産を守るのか、それともこれからの利益発展のために土地開発を進めるべきか。私は鎌倉街道を尋ねまわっていると、絶えずこの問題が付きまとっていることを実感しています。私個人としては歴史古道は残してもらいたいと思っていますが、古道が通る土地の権利者は様々な問題を抱えていることでしょう。「お前のような道楽で道のホームページを作っているだけの人間に土地開発問題で悩んでいる者の大変さがわかるものか。」そんな声が聞こえてきそうです。

歴史古道はそのまま残して、新しい生活道路を造れば良い。このことはそんな単純な問題ではないようです。新しい道路を造るための土地はそう簡単に得られるものではありません。道は自ずと時代ごとに造り替えられるものなのです。発掘された道の遺構を見てみても修繕・改築などの跡はあるものです。

考えてみれば道とは各時代ごとに適応して存続していくものなのでしょう。道とは人間の歴史であり、また人間の生活空間でもあるわけで、そのことからも道の存在は歴史遺産と土地開発問題のぶつかり合いそのものであることが窺われるわけなのです。

個人的な意見で恐縮ですが、無意味な土地開発だけは避けて頂きたいと願うところです。培われた自然や、古人が大切に築き上げてきたものを時代遅れな産物として蹴飛ばすような行為は、物を大切にしない現代人の短所そのものと思っています。そのような行為は精神的欠落な社会を生み出す源のように思えます。

最近、国を愛する教育を打ち出そうとしているようです。そもそも愛国心とは何なのか。愛国心とは一人の個人が自ら自分の生まれた国を愛し、この国に生まれたことを誇りに思うものであって、教育で押しつけるやり方で育つものなのか疑問が残ります。

人々が古い物を大切にして自国の伝統や文化を大切に継承していけば、愛国心は自然に人の中に育つものではないでしょうか。それを教育スローガンの一貫として押しつけるやり方は私には危険をともなうように思えてなりません。一歩間違えればとんだ見当違いの結果になりかねないのではと不安に思えます。子供や若者に強制することより私と同年代の大人こそが正しい認識での自国文化を見つめることだと思うところであります。


市原市立野と風戸の境界の道
何だか話が逸れてしまったようですみません。私としてはスピードに押されるままに発展してきた現在の日本の行きづまりが古い物を大切にしない精神的な欠落のように感じていたものですから。といって技術の発展などを批判し不便な昔が良かったなどと言ってるわけではないので誤解されませんように。

左の写真は立野と風戸の境を通る道です。この境界の道が鎌倉街道の続きと思われます。左側の樹木の中はやはりゴルフ場になっています。またこの付近には外迎山遺跡が道路跡に対して発掘調査されています。

光風台から姉ヶ崎へと続く道路を横断して立野の境界の道を更に進みます。道の右手には光風台小学校の校舎が見えてきます。やがて緩やかな坂を上ったところは五差路になっていて、その左手角には金網フェンスに囲まれた神社があるのが確認できます。この五差路の左手の西側から合流する道は、調べてみるとここから姉ヶ崎へ向かう別の鎌倉街道支道と思われます。そして不思議なのは右写真の金網フェンスに囲まれた神社です。実はこの神社の四方は完全に囲まれていて中に入ることができません。一般の人はお参りすることができないのでしょうか。またこの神社の名前もわからずのままでした。知っている方が居られた教えてください。

市原市立野と引田の境界にある神社

袖ヶ浦市の下新田から市原市立野までの鎌倉街道と伝えられてきた道をここまで辿って来ましたが、立野から先の道の続きは今ひとつハッキリとしません。一説には立野から北へ向かい、引田と今富の境界付近を通り、その後国分寺跡などのある推定国府域方面へと進む想定路線があるようですが、そのルートは久留里往還とも重複しているようです。私は地名の境界線上の道で光風台と引田・新生の境の道を辿って見ることにしました。左の写真はその境界線の道を撮影したものです。
市原市光風台から高坂へ下る坂道

この境界線の道は台地から坂を下り始める手前までは、道の右手(南側)は光風台の住宅が建ち並んでいます。上の写真の付近から道の両側は雑木や竹林になっていて古道らしい雰囲気が感じられる道になっています。途中で落ち葉の清掃をしていたおじさんにこの道は鎌倉街道かどうか尋ねてみましたが、鎌倉街道と聞いたことは無く解らないということでした。果たしてこの道を鎌倉街道下新田・立野ルートの続きと考えて良いものなのか。
市原市新生と高坂の境界付近の道

鎌倉時代の『沙石集』という中にこんな話があります。

市原の高滝(養老川の上流で小湊鉄道の高滝駅がある)の地頭が、娘を連れて紀州熊野へ年詣でした時です。熊野の若い僧が地頭の美しい娘に懸想して後を追って来るのでした。熊野から遙々と六浦まで追って来た僧は木更津へ渡る船を待つうちに眠ってしまいますが、僧は夢の中で娘と結ばれるのでした。そして夢から覚めた僧は自分の行動の拙さに過ちを悟り熊野へ帰って行くのでした。

市原市高坂付近の道

『沙石集』の高滝の地頭の話は、中世の房総から紀州熊野への道程を研究する資料であり、また房総の地と紀州熊野との拘わりを考える資料でもあるのです。

袖ヶ浦市の下新田から台地上を東へと伝鎌倉街道を辿って来ましたが、右写真の切通しを下ってしまえば、国道297号線の新道に出て街道の続きと思われる道も、そこ迄ということのようです。そして写真の切通しが終わり右へカーブする付近で、何気なく見上げた右手の切通し壁の地層に、思わず目を釘付けにされる光景が飛び込んで来たのです。


市原市高坂-台地から谷戸に下る切通し

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木更津の道標  下新田-立野  立野-姉ヶ崎  上総国分寺
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