だーくにっき


MindMinority トップへ
最新ページへ
2004年10月分 < >2003年9月分 2003年8月分 2002年7月分

2004年3月分

7月16日(金)


入稿完了。です。お疲れー。



だはぁーーー(溜めていた息が吐かれる音)

終わった! 終わりましたよ! ようやく!
まあ、まだ校正チェック刷りは送られてきてはいないんですが、ひとまずは肩の荷が
おりたと思ってよさそうです……。


やれやれ。
これで多少は、羽を伸ばしたり、気になっていた小説を読んだりする時間も取れそうです。

今回の小説は、Bullet #5 は。
トータルページ数は 274。
活字部分の文字量は原稿用紙 440枚超。
これはもう、自分では完全に未知の領域でした……


長さもそうだし。一次創作で、オリジナルワールドで、ゆえに「これだけの量の
設定を、ストーリーの中で捌かなくてはならない」、というのも初めてのプレッシャーでした。
文体にせよ、足並みにせよせよ、かなりばたついているかもしれません。
が、推敲で目の届く範囲に関しては可能な限り手を入れました。
バランス崩してふらふらしながらも、
『美しくスマートにそつなく』歩くことまではできていないまでも、なんとか転ばずに
最後まで歩き通せたかな、とは思っています。


さらに、
ストーリーのアイデアや、キャラクターごとのテーマに関しては、自分の中の
人間として一番重たい部分、
傷つきやすくて柔らかくて、でもだからこそ子供扱いで軽々しくは扱えない部分。
そんな部分を、
根こそぎ放り込んだような小説でもあります。
そんな素材をぐつぐつと煮込んでみました。


だからもー、書いている間中、重くて重くて(笑)
気を抜くと、自分の情念の渦に足を取られそうになる。
肩が、筆が、重くて仕方がない。何かが纏わり付いているような。
何かがのしかかっているような。
そんな苦しさや難しさがずっとついて回ってましたね。


でもまあ、だからこそ。
既存の社会や小説や、そういったものに私と同じような、漠然とした不満感を
感じている人には「こんなのを待っていた!」「こんな凄い小説初めて読んだ!」
と、思ってもらえるのではと。

あるいは、
私と同じような思いで日々を生きている人や、高校時代をすごした方々には、
きっと強烈に干渉してくれるのではないかと。

そんなことを信じながら、念じながら、なんとか書ききりました。
たぶん、10人が読んだらそのうち1人くらいには……
ということは 100冊売れても10人にしか響かないわけですが(笑)
でも、そうじゃない方にもそれなりに気持ちよく、それなりに心地よい重量感で、
読んでいただけるようにはしてあるつもりです。
(下読みに付き合ってくれた、SIOさん、紫水さん、ありがとうございます)


でもやっぱり書いていて嬉しかったのは、絵をお願いするみろみろ☆むむさんにこの小説を
読んでいただいた時に、
「主人公が自分と重なってきて、すごく共感する」
ということを、言ってもらえた時ですね。やっぱり、そんな読み方をして欲しくて
書いていたお話しなので……。


そうそう、それでですね。
みろみろさんの名前が今出ましたが。
今回の小説では、私の創作史上初めて、挿絵が付きました!
描いていただきました!
ありがとうございます、みろみろさん!

感動です……
そして表紙は、カバーは、フルカラーですよ、みなさん!
こんなに嬉しい本、こりゃもう買うしか!





……って、一番嬉しがっているのは他ならぬ私でしょうね。




3月28日(日)



今日はいい天気で、しかも暖かかったですね(少なくともさいたま市は)
ついこの間、雪がバサバサ降ったとは思えません(降ったのは埼玉だけらしいですが)

とりあえず今日は花見をしてきました。
今年に入ってから私は日曜日には、昼前頃にジョギングをしているのですが、そのコー
スであるところの近所の別所沼公園。
一周約1,000m。

護岸工事はされているので沼と言うよりは、お池の公園です。
いつも釣りをなさる方がいて、デモの決起集会やボーイスカウトの団体さんの集合場所に
もなっています。


そこが今日は賑やかさも客層も全然別物でした。
走っている段階ですでに大入りの人出で、桜もほぼ満開でたしかに
見事なながめ。

私もいったん家に帰って汗を流してから、とーとつに 花見を実行することに致しました。
ちょうど昼時で、どこで食べるにせよ何を食べるにせよ、そろそろ昼ご飯を食べたい
時間でしたしね。
私はどちらかと言うと、自分の脳内の液質の中で、世界と人間の関係性が完結している
人間ですから、今の今まで、春が来つつあることも、桜が咲きつつあることも、花見
なんてイベントのことも忘れていたのですが。

興が乗っていたということでしょうか。

公園のすぐそばにセブンイレブンがあります(大にぎわいでした)
弁当とスポーツ新聞を買って公園の中へ。
改めて公園に入ってみると、桜の樹がまとまって植えられている辺りは凄い人でした。
通路分の隙間を残して、レジャーシートが空き地なく敷き詰められています。


人数に合わせて大小それぞれ。近所仲間のおじさんも、大学生くらいのサークルも、
仕事の同僚らしき人も、もちろん子供連れもいましたし、新婚さんらしき組み合わせや、
若い恋人同士さんもいらっしゃいます。
まて、そこの子供!
この密集隊形の中でフリスビーを投げるな! 危なかろうが!

ところで、あのレジャーシートって結構いろんな種類がありますね。
もちろん一番多いのはあの青いシート。業務用にも使っていたりする防水防泥シート。
大から小まであって便利便利。
次が、青白黄緑赤のしま模様のピクニックシート。

小家族用のガラものだと白地にちょっとした模様のあるのが多いかな。
そういった人達の中を通り抜け、一等地の
はじの辺りに腰を落ち着けます。ちょうど日陰でしたし。
スポーツ新聞を尻に敷いて弁当を広げます。

え?
はい。
スポーツ新聞は純粋にしきものとして買ったですよ。一人分の敷物としては、ちょうど
いい大きさですから。
後始末も弁当ガラと一緒に、帰りにまたコンビニで捨ててから帰れば、それでOK。
現代文明サマサマです。

しばし、楽しそうな皆さんの様子を眺めながら、
箸を動かしました。
なごむなあ(笑)


それにしても。
人ごみの中に、一人になりに行く、なんてことを楽しめるようになるとは。それを肩の
力を抜いて前向きにとらえられるようになるとは、高校時代には考えもしなかったなあ。
なにしろ脳内完結型ヤローですから。
感情過多の、水液質人間ですからね。

他人と同じようにはできなくて。溶け込めずに群れからははじかれて。
でもそれに背を向けて気分よく生きていけるほど、特別な感じ方をしてる訳でもなくて。

ずっとそれがコンプレックスになってた訳ですから。


よく花見と言うイベントについて、
「わざわざ人ごみの中に疲れにいくなんて」 とか、
「仲間うちで気楽に楽しみたいよな」 とか、あるいは風流ぶって、
「一本だけある樹を、一人で見るのがいいんだ」

などと言っている人がいて、私も結構真に受けたりしたんですが。

どうも本質は違うんじゃないかという気がしました。
お花見の本質はむしろ
「みんなと同じ時に、わざわざみんなと同じ場所へ行き、みんなと同じことをする」
ってことの方にあるんじゃないかと。
花がそこに咲いているというのは、そこにみんなが集まるための口実で、それで
お酒を飲むための口実で。
そしてそれはみんなの楽しそうな様子を確認するための口実なんじゃないかと。

一週間しか咲かない桜だから、人をこれだけ集める力がある。


一週間しか咲かないから、散った後は余韻を残さずに、また仕事、仕事の毎日にスムー
ズに戻れる。
そんなマツリなんではないかと。



そんで、私も帰ってきてからはまたちょこっと小説の続きを書きました。
1月中は20ページ位しか書けませんでした。
2月はそこに+30 ページ。
3月はそこから+70 ページ位だと思います。

……このペースなら、どうにか。夏コミの〆切に、240ページの新書版・2段組の小説の
原稿を間に合わせられそうです。
一時はどうなるかと思いましたが。(月20 ページだと終わらないですからね)


しかしまだ油断は禁物。
今まで4冊書いてきて、後半のページが予想より短く終わったことは一度もありません。
書いているうちにだんだんと、おせおせの進行になってしまうので。

まだまだしばらく、ネットの更新や書き込みのお邪魔にはさっぱり手をつけられないかと
思いますが。
私は生きております。
なんとか生きております。
そして、筆だけは離さないようにしておきますんで、どうぞ気長にお待ち下さい。








それにしても、あれですね。
ずっと長い尺の小説用の文章ばかりを書いていたせいか、文数を捨て切れていなくて、
疲れますよね、この文章。長い長い(笑)
すいません。

なんかちょっとしたSSくらいの長さがあるような。
主人公が自分なだけで。

あ、これちゃんと実話ですからねっっ!!!




11月22日(土)



最近忙しさが楽しいです。

…………
申し遅れましたが、再就職に成功いたしました!
社名を「(株)ハイテ○ク」と言います。
外部請負で研究者や技術者のマンパワーを提供している企業ですね。

配属になった営業所が千葉で、住んでいる所が横浜なので、今、片道通勤時間が
2時間近いんですよー。
同時に千葉の社宅への引っ越し作業も進めているので、前職時代ほどではなくても
やっぱり忙しいんですが。

それでも、何かを命じられることが、することがあることが、
自分が役に立てると信じられることが、それだけで嬉しいなんて、そんなことを
感じる自分が生まれるとは思ってもみなかった。


前職時代、あまりの苦しさに、新卒だったこともあり「なるべく楽に生きていたい」
とも思ったけれど、無職時代を半年以上も続けていると、お金がないこと以上に、
自分だけがのうのうと生き延びていることに、後ろめたさを感じるようになるんですよね。

こんな自分を望んでくれたのだから、力を尽くしたいと思います。
サンクス アミリオン!
うふふふふ!



それにしてもね。
人生山あり谷ありだと思います。
今、まあ前述のように忙しさが固定化されてるので、そして尽くす喜びに目覚め
ちゃってるんで、創作に割く時間が確実に少なくなってます。
けどそれでも、ここを楽しみにしてくれている人には悪いけれども、そんなに
それを不自由とは思ってないんですよね。

かつて、求職がどんぞこで、同人誌の売り上げも舟暗礁で、サイトのレスポンスも
思わしくなくて、歯を食い縛るように書いた文章がありました。

その時と比べると随分全てが反転しています。
仕事は決まって、同人誌はメロンさんに委託が決まり、初月度はそれなりに好調に
みなさん買って下さいまして。
レスポンスについても、「続・とらハSS投稿掲示板」に書いたことで、かなり
いろいろ言っていただけています。

まあ「掲示板」については、同じ掲示板に投稿している他の方と比べると、参照数
そのものは小さいんですけど、これは二次創作において「オリキャラ×オリキャラ」
何てことをやってる以上、仕方ないんです。



このハッピーが“作り”じゃないと分かるのが、リアルタイムで日記やってることの
楽しさですよねえ(笑)

で……、
苦しい時期も、そうでない時期も、生きて、経験して。
それで苦しい時の活動も、それに対する評価も、頂けてるとなんか随分視野が
広がる気がします。

これから先、また前職の時のような超過勤務になることや、創作や人間関係が
スランプになることもあるでしょう。でも、
実感として、それをくぐり抜けて通り抜けた経験があると、たぶん苦しくなって
いく真っ最中にも、いつかまたこれも抜けることを信じられるから。澄ました顔で
その時その時、できることをすることに集中して生きていけると思う。

それはちゃんと前向きな心境で。
むしろ、そこまでの間幸せにやっていれたことを、感謝すら、できるかもしれない。
そうやって、なんとかかんとか、のたうち回りつつも、生き延びていける自分、と
いうのを作っていけたらいいな、と思っています。


── P.S.
苦しいことが起きても、笑顔で。
だって、「よし、またネタができた」とすら、思えるかもしれないじゃないか──





10月10日(土)


と、いうわけで祖父のお葬式に行って参りました。
普段は会えない従兄弟達とも会えて、また儀式の空気や、不謹慎ながらも、人間の死体や
骨なども見ることができて楽しゅうございました。
ところで今回他界したのは母方の祖父で、母の下には叔父夫婦がいるのですが、(この
叔父が喪主ですね)祖母にせよ、叔母(喪主の妻)にせよ、母にせよ、弔問客・親戚
一人一人に挨拶やお礼のしどおしで、やっぱり女は大変だ。

そりゃ単純な労働量だったら、締めの挨拶や、人数調整なんかで喪主のほうが大変なので
どっこいですが。
気配り・心づかいが、下から見ていてとてもげんなりした(私は孫)。
それともあの歳になれば「そういったことくらいは」大変でもなんでもなくなるのだろうか。
とりあえず、今の私には大変めんどくさそうに映る。



話は変わって。
お葬式の後、祭壇からの出棺時、感極まって涙がこらえられなくなる人がやっぱり
いてくれて、それは涙の枯れ果てている私などには、とても羨ましい資質なのですけど。
でも不思議です。

私の感覚からすると、
故人の魂は死亡認知の段階で身体を離れ、三途の川の向こうに去っていて、だから故人との
お別れは訃報を聞いたその時点です。

次にみんなの心の中に居る、「今は亡きおじいちゃん像」を洗い落とすのが、お通夜だと
思っています。
もっと言えば、儀式が終わって弔問客が去って、ごく親しかった者だけが残って夜を越す
晩。あの、しんと静かでほっと気の抜けた、やり尽くした祭りの後みたいな空気ですね。
あの段階で故人との関係性の名残は、もう落ちていて。

翌、告別式というのは、もう、感覚的には最後の仕上げというか、遺された「身体」を
清めはらう式、という感覚で。
もはや『物体』になってしまった物ではあるけど、粗末にするのは恐れ多い。

だからきちんと聖化して。
「お祓い」して(仏教ですけど……)
けじめをつけて。
灰にして空に放つ。
そういう儀式のつもりだったんですけど……(俺的)
あれれ? 意外とこういう感じ方ってマイナーですか?
普通は出棺時が「おじいちゃんとの最後のお別れ」なんですかね?
焼く最後の瞬間まで、身体の近くに霊はいて、集まってくれたみんなを見ているんで
しょうか……?
皆さんはどんな風にお感じられですか?



10月07日(土)


えっと、今、10/7、じさまが亡くなりました。
たぶんそれで身辺慌ただしくなりますが、それはいいとして。
悲しいとか喪失感とかそういう物がすごくあるわけでもなくて。

普通に核家族でしたから、それほど接点があるわけでもなく、私の趣味を開いてくれた
人だ、というのでもなく。
ドラマみたいに、死んだ瞬間に「心にぽっかり穴があく」ような事にはなっていないと
自分では思うんですが、ただ、それでも子供のころじゃなく、大人になってから
身近な人間が死ぬのは結構堪えます。

休み一つ取るにしても、自分がしがらみの中に生きていることを実感するし、
「いつかは自分も」「その前に次は親の世代が」ということも考えてしまいます。

幸い、というか幸か不幸か、このじいさまはここ数年をかけて体の具合が
悪くなってきていて、それは私も知っていて、特に数ヶ月前からげっそりと調子を崩して
らしたようなので、ある程度心の準備はできていたのですが。
10年少し前にもう一人のじいちゃんが亡くなっていることもあります。
ただそれだけにね。
みんな、着実に死に向かっていて、
順々に天に召されていくんだなあ、という感じはかえって強くします。さらに言えば、
祖母は二人とも生きていて、祖父は二人とも亡くなっている、という
状況は。

「男というのは、生物的にはやっぱり使い捨ての殻みたいな物で、生殖交配と種と村の
防人のためのいきものに過ぎないんだな」とか
「女は、その生命力は、やっぱり子供を生んでそれを伝えていくために、与えられたもの
なのかもしれない」なんてことも思います。
やっぱり悲しいとか辛いとかそういうのはなくても、ちょっと茫然としているかもしれません

それで、自分もいつか死ぬ。
というかもう着実に死につつある。もう25・6 だしね。
ピークは越えててさ。
で、急に焦って何かをしようったって、できるわけもなくて。
淡々と。
できること、を積み重ねていくしかないんだろうな。とか、
これから衰えていく中で、逆に自分の命を受け継いだ生物が、圧倒的な生命力で育って
いくのを見るのは、なるほど、安心するものなのかもしれない、とか色々考えるわけです。
月並みですけど。
以上です。すいません、一発書き・0推敲。
お読みぐるしかったら、勘弁してくださいまし。


藤海日之輪 拝  2003.10.07