縮刷版2011年11月中旬号


【11月20日】 学級階層(スクールカースト)文庫と世に呼ばれる小学館はガガガ文庫より登場しただけあって、竹内佑さんの「最弱の支配者」は未来の独裁者の命令を受け配下の女子たちが過去に行き、30年前の何も知らぬ後の独裁者の周辺に出没することによって起ころうコミカルな騒動っていった展開のその背後に、クラスにおけるいじめの問題が絡んで描かれていてどうにも胸苦しい。前にやられていた生徒が、今度もやられるんじゃないかと怯え、だったらその前にだれかをやってしまおうと画策する、その心根に至らざるを得ない状況があったりするのが何ともやりきれない。

 たとえ周囲は大げさだなあと思っても、当人に刻まれた傷は深くて怯えは大きいのだ。そんなエピソードがさらに痛ましい展開へと至った向こうで、将来の独裁者はいったい何をどうするのか。燃やす情熱があるいは後に独裁者となっていった? 分からないけれどもそんな時間の物語と、人間の心理の物語を絡めて描いていって欲しいもの。でもやっぱり楽しく愉快に読みたいなあ、ライトノベルなんだから。

 「プァアアアアアアンッツッ、ブレェイクゥァアアアアアアアア!!!」。いろいろと世知辛い気持ちを吹き飛ばす叫び。いやこれで実際に吹き飛ぶ訳ではないけれど、そうした能力があればいいかなと思っていたら、案外にそうでもないことを教えてくれる物語が登場。その名も「パンツブレイカー」(一迅社文庫)は、「『半径2メートル以内に近づく者の下着を消し去る』前代未聞の能力”パンツブレイカー”を持った少年・汐正幸」が主人公となった神尾丈治さんによるライトノベル。「パンツブレイカーの前にパンツなし!!」とまで帯に書かれていったいどんなエロラブコメなんだと思ったら、案外にシリアスな展開なんかもあったりして、異能がすなわち正義とはならず、むしろ難病疫病のたぐいと見なされる可能性なんかを指し示す。

 起源は子供のころの遠足時。山中で仲間たちと拾ったエロ本を読んでいたら先生に見つかり引っ張られる中で祈った「邪魔くさいパンツとか死ねばいいのに」というお祈りが、刀を祀った社に届いて生まれたその力。すなわち近寄る者のパンツをしっかり消滅させる。それはもう容赦なく消滅させてしまうから、誰も彼のそばには近寄れない。パンツなんてただの下着、なくたって上にいろいろまとえば大丈夫とはいうけれど、あれでいろいろ大事なパーツ。なければスースーとするし、汗やら何やらが直接ズボンやスカートにつくのも防いでる。それがなくなる。大変だ。

 だったらスパッツをはけばいいとか、ブルマを上からはけばいといった対策も却下。それがパンツと等しく局部を隠すものだという認識が現存する以上はやっぱり消える。消されてしまう。女子に限らず男子も同様でさるまた、すててこふんどし等々が消えてしまうから主人公は能力が目覚めて以来、ずっと下着をはいてない。ちょっとヘン。でも大変。外も出歩けず学校でも誰にも近寄られず、購買にだって行けず食事を撮るのも一苦労。どうしているかというと、献身的な妹が、下着をつけずに兄のそばに寄っては弁当を渡したり世話をしたりする。

 ギリシャ神話でミダース王ハデュオニソスから触れたものを黄金に変える力をもらい、それが食事も妨げると分かってデュオニソスに謝り能力を消してもらった故事があるけれど、正幸の場合は未だ消えない能力でもって、学校の誰からも疎まれるようになってしまう。彼が悪い訳でもなく、近寄る当人たちが悪いのに逆ギレされてしまうその不幸。なおかつそれでも不思議な能力であることには変わりなく、宗教団体から声をかけられテレビからも声をかけられ、見せ物にされ生活を無茶苦茶にされた挙げ句に放り出されていったいどうすりゃいいの? ってところで伸びた政府の手。そうした不思議な能力を持った人たちが集められた孤島にある学校へと受け入れられる。

 そこでもやっぱり現れる逆ギレたち。クラスメートとなった松葉瞳は、何度注意しても改めず近寄っては高い下着を消されたと嘆いて怒りつかっかる。それは本当に怒りなのかあるいは心のどこかに潜在的に、下着を消されたいという願望があってそれが声とは裏腹な態度となって現れるのか。不明ながらもそんな鬱陶しい少女もいれば、正幸の持つ能力の特異性に関心を持って、パンツが消えるのも厭わず近寄ってきて研究させろという天才美少女、姿影那もいたりする。

 そうやって近寄ってくる人がいると、今度はずっと兄を世話してきて、肉親以上の情愛を抱いていたりする妹の美幸も心をやきもきさせて、そして起こる三角四角の修羅場チックなラブコメ関係が浮かぶけれども、そうした楽しさとは別に、やっぱり浮かび上がってくるのは不可抗力な力に対していったい世間は何をできるのか? 家族はなにをするべきなのか? といった主題。許せなくても認め愛せなくても慈しむ。そんな態度こそが不幸に喘ぐ人の心を救い導くのだ。とか。

マラドーナ、マラドーナ、マラドーナ  笑えるえれども親身にもなれてそして眼福だって得られる神尾丈治さんの「パンツブレイカー」。飛び道具のような印象はるけれども実は真摯に異能への探求を行った傑作なのかもしれない。でもやっぱり見た目は重要。理解を示す美少女が能力発動限界でパンツを脱いで畳んで置いて近寄ってくるシーンを想像するだけで……。アニメ化実写化願いたいものである。スパッツもダメらしいがレギンスはどうなんだろう。考えたい。深く激しく考えたい。

 アウェイでジェフ千葉を見るのはいつ以来? どこ以来? 覚えてないけどともあれ近場のアウェイってことで味の素スタジアムへとジェフユナイテッド市原・千葉と東京ヴェルディの試合を見物に行ったらマラドーナが試合をしていてそれをマラドーナが監督してた。なんだこりゃ。ヴェルディレジェンドとあとスキマスイッチの常田さんが組織しているチームとのエキシビションマッチってことでそこに芸人でマラドーナの真似が得意な人が入っていた模様。低い背に太い足という体型がまんまマラドーナでびっくり。プレーも決して出来ない訳じゃなくって遠目から蹴ったキックがゴール前にピタリを合うくらいのテクニックは持っていた。でも後半は下がってマラドーナ監督といっしょにサイドから応援&パフォーマンス。んで監督はいったい誰だったんだ。

 さあ始まった試合はとえばサッカーになっていなかった。というか向こうはサッカーしているのにこちらがやっているのはピンボールの釘か何か。来るものをはじき返してはしてもそこから攻撃に向かうような展開にはならず奪われ反撃される繰り返し。パスをつないでポゼッションして隙をねらって彫り込んで、オーロイ選手が落としてそれを飛び込んだ選手がシュートといった辺り前の攻撃すらできないまま、後方でチェックをくらって出しあぐねてはサイドに置くってそこを囲まれ奪われ反撃される繰り返し。

 対してこちらはフォアチェックにすら行かず自在にベースラインでボールを回されじっくり前へと送られる。向こうに渡してカウンターでもねらっているかというとそうでもなく、奪っても誰も走らずもたもたしている内に詰められ終わりのこれも繰り返し。もはやJ2ですら苦しくなって来たこの戦いぶり、JFLにだって負けるんじゃね? とか思い始めたけれどもそれも今年まで、来年にはすっげえ監督がやって来て立て直してくれると信じて信じてもう何年だ? やっぱり無理かなあ、来年も。


【11月19日】 そして発売された「このライトノベルがすごい! 2012」にて1位は川原礫さんの「ソードアート・オンライン」。うんなるほど人気になる理由は分かるけれども個人的には主人公の少年が不細工ながらもそれをバネに変えてゲーム世界で大活躍して美少女の先輩と仲良くなりながらそれでもやっぱり苦労をし続ける姿に身を沿わせたくなる「アクセル・ワールド」の方が大好きで、どうしてそっちではなく「SOA」なんだろうって気にはなる。若い読者には無敵の主人公の方が良いのかなあ。あるいはネット時代からのファンが今はいっぱいライトノベルの読者層にいるってことなのか。

 ほかのランキングでは4位に長谷敏司さんの「円環少女」が入って完結を改めてお祝い。ずっと入って欲しいと思いながらもやっぱりネタの難しさがあって入らずそれから巻数が積み上がってくると読んでない人も多くなってやっぱり入らないという悩みを抱えていたけれど、完結という機会でもって手に取る人が増えたかあるいはハヤカワ方面での活動でもって存在を知ってさかのぼって読む人が増えたのか。いずれにしてもここで人気になっても続きは出ないのが残念至極。ならばとアニメーション化なんかも期待したいけれどもあれ、難しいからなあ、壮大過ぎて。はしょれば「鋼殻のレギオス」みたいになっちゃうし。かといってたっぷりやるには「境界線上のホライゾン」くらいの覚悟も必要だし。いずれにしても現役でないものがアニメになるのは有り得ない、か。せめてグレン・アザレイ編だけでも劇場で、とか。

 をを。10位に松山剛さんの「雨の日のアイリス」が入っていたぞ。単発の本でそれも大賞とかとってたりもしなければそもそも受賞すらしていない作品にこれほどの関心が集まるとは意外というか。一般ではなく良く読んでる層に強かったとはいうけれど、ライトノベルを良く読んでいるからといって単発で出た目立たない作品にまでてを伸ばす人なんてそうもいない。僕の場合はデビュー作にあたる「閻魔の弁護人」のころから見知っていて、続く「怪獣工場ピギャース」の素晴らしさを前からあちらこちらで叫びながらも入れられず、それ以前に版元が雲散霧消してしまって今や読むことすらかなわなくなっていたりする状況ではあったりするけれど、それでもやっぱり何かやってくれる人だと関心を及ばせ「銀世界と風の少女」が出た時もこれに続きをと思っていたら未だ出ず。

 でもいずれはと期待していたところに出た「アイリス」が抜群だっただけにこれを機会にと思う期待はあったから、それが容れられて嬉しい限り。他の人がそこまでビブリオ追っかけてるとは思えないから単発でもグッと引きつける力があったってことなんだろう。口絵の巨大魚背負った美少女の姿とか。この人気をバックに次にもいろいろと書いて欲しいと思うし、映画化なんてことになったらさらに嬉しいけれどもこれって大半は美少女ではなく別の姿の主人公にんってしまうから難しいんだよなあ。むしろハリウッド映画とかの方が「A.I.」みたいな雰囲気が出て良いかな。最初のころはダコタ・ファニングがアイリス演じて途中からは合成、そしてボルコフはジャン・レノと。大丈夫ジャン・レノならメイクしなくてもドラえもん演じる力でボルコフだってそうみせてくれるから。

 雨だけれども家にいたって仕方がないのでお出かけをしてまずは中野ブロードウェイへと向かいGEISAIでもって1等賞を獲得した江崎太郎さん29歳の作品を見に「Hidari Zingaro」へと向かう。途中の「かつや」で唐揚げ定食をかっこんでそして入った中野ブロードウェイの「まんだらけ」には目もくれず、向かった画廊で見たのは迫力の日の本太郎たち。日本を象徴するキャラとして鬼というか明王というか、そんな顔立ちをしたキャラなんだけれどもそれが銅鍛金によって巨大なオブジェとなって屹立している。GEISAIだとそれが狭いスペースに重なるように立てられ独特の重力感を持っていたけど、それなりにスペースのある画廊では離れて展示してあって、独自の存在感って奴を単独で味わうことができる。

 奥にある作品と手前の作品は3月に開かれる予定だったGEISAIが中止になってしまった理由の東日本大震災を受けて作られたという作品で、それこそGEISAIが終わってからそれが再開される10月までの間に一所懸命作ったもの。何しろ前日まで作っていたというから大変だったろうけれど、そうやって作られたことの意味を現場でちゃんと説明し、震災への鎮魂を示すと同時に起こってしまったことをどうやって、力に変えていくのかといった前向きさを持った力強い存在感が、福島原発1号機と3号機を象徴するという足下に転がった首の像ともども沸き立ってきて、見る人に感嘆を与え希望を与えてくれる。そしてGEISAIに出す予定だったという富士山を描いた大きな画とその両脇に飾られた日の本太郎および竜の像。それは2Dの格闘ゲームのような配置で実際にそれぞれに日本と中国を象徴させ、対峙の構図って奴をみせようとしているらしい。

 教えてもらうと左の日の本太郎の腰に差された刀には刃がついていないさや侍。それは武器を持てない日本という国を象徴したものなのかもしれない。そして刀の鍔の柄側に過書かれた「専守防衛」の文字を、裏返すと「日米安保」になっていたりするという凝りよう。いくらすごいと見栄を張ったところで護られている国って立場は変わらない。その不安定さを刀の造形に込めてある。ただそのフォルム、そして大きさというインパクトでもって説得力を持たせようってんじゃない、それを作る意味って奴を深く考えているところが、本職だった造形作家あるいは工芸作家としての枠を飛び出させた理由ななのかもしれない。

 右のふてぶてしい竜はもちろん中国という国のしたたかさ、ふてぶてしさを現したもの。そして対峙させることによって改めて、あの国と向き合う必要性って奴を感じさせる。でも批判一辺倒って訳でもなく、日本は中国からいろいろなものを得て大きくなっていったってことへの言及も。それは背景の画や日の本太郎のボディに中国から伝わって日本で新かした紋様を鏤めたり、「西遊記」を二次創作的に描いて大人気となった「ドラゴンボール」という作品への言及を、日の本太郎の下半身にガスマスクの意匠を盛り込むことによって行ったりしている点。足下を見つめ今を感じさせそして未来を考えさせるアート。それが江崎太郎のシリーズってことなんだろう。

 今はまだ本職の銅細工でもドーベルマンを会えて作り人間に飼い慣らされた犬という存在をそこに現しつつも見た目の犬っぽさで犬好きの家のインテリアとしても可能な像を造ったりしている江崎さん。そうしたアプローチでもアートとなり得るんだけれど果たしていったい向かうのはどちらの道か。それこそどこかの画廊がしっかりとついて、バックアップして世界に向けてそのコンテクストを含めて発進していってくれれば面白いんだけれど。いっそ中国のアート展へと持っていって置いてみるってのはどうか。それをどうして作ったかという理由をしっかり持って語れるアーティストでもある江崎さんの弁を、聞いて向こうが何かを返してそれに応えるコラボレーション、あるいは激しい反発が別の支えを読んで称揚されていく展開なんかが、起こりそうな気がするんだけれど、うん。

 会場を出て何かやっているらしい池袋の「ナンジャタウン」に行ったらすでに終わってた。「もやしもん」の一番くじの先行販売なんだけれどもとっくに当日分は売り切れとかで蛍のフィギュアは当てられず。代わりに立ってるリアルな蛍をじっくり観察。きっとついているに違いない。何が? その蛍は池袋のリブロにもいたけれどもこっちはフィギュアと同じで白いマリーバージョン。ついてないよねやっぱり。可愛らしさはどっちも同じだったけれども好みは黒、かなあ、ついてるかもしれないって倒錯ができるところが、ちょっと付加価値。何の価値だ。間に寄ったアムラックスでは「アイドルマスター」の痛車の展示とか。池袋だからこうなのか、トヨタもそうなっているってことなのか。場内で盛んに「アイドルマスターのキクチマコトです。キシシシシ」って放送が入ってそれを例えばきくまこ先生がその場に居合わせたらどんな居心地を味わうか、調べてみたいものである。

 せっかくだからと池袋パルコの別館に行って「荒川UTB ショップ」に来ていた村長と記念写真。っても中身は小栗旬さんではありません。背も低くて腰も低い。誰がはいっているんだ。中の人なんていませんてば。会場ではドラマと映画で話題の実写版「荒川アンダー・ザ・ブリッジ」の衣装なんかも展示してあって、前に撮影所で見たり、河川敷のロケ現場で見た人たちが身につけていた衣装と再開、あのロケ現場はぽかぽかとして心地よかったなあと思い出す。でも今はもうないんだな。残してテーマパークにするって訳にもいかないし。フジテレビだったらお台場に「荒川UTBパーク」とか作ったんだろうけれど、TBSが赤坂サカスにそんなけったいなものを作る訳もなし。だから思いでは23日発売のドラマ版のボックスでもって再確認しよう。メイキングとか楽しみ。


【11月18日】 ふと気が付いたらChim↑Pomが無人島プロダクションに展示していた大震災からの復興を祈願するような作品「気合い100連発」がMoMAことニューヨーク近代美術館での展覧会に出展されるとかで、数あった作品のなかでもこれに目を付けたキュレーターさんのお目の高さに感動しつつ果たしてどう海外で受け入れられるのかって方への興味も膨らむ。気合いを入れるっていう世界に共通の行動をやってはいたりするんだけれど、そこで叫ばれる言葉は単にがんばろうって真面目なものもあればややおふざけが入って笑えるものもあったりして、それが日本人に特有の照れとか衒いだと分かってもらえるか否か。単にふざけているだけだと思われないか否か。そんなあたりを了解させるような文脈を、用意して展示してもらえればうれしかも。エリィさんのあの声とかが世界デビュー。面白いなあ現代アートって。

 結局は勘違いしての暴走だったのか清武代表。もうちょっと背後にいろいろとあって読売経営陣やら首脳陣やらを示し合わせて了解を取り付けそこと突破口にして一気に追い落としを量るんじゃないかって思ってたけどこの一連の流を見るにつけ、私憤を立場を利用して晴らそうとしてそれが露見してなおかつ周囲の理解も得られないまま梯子を外されたって格好。世界最大の新聞でそれなりの地位を得た人で、なおかつ世界でも屈指の人気球団を任されるくらいの人なんだからもうちょっと先が読めて今を考えられる人かと思っていただけに、あの会社の人材の質っていうか傾向への難しい思いも浮かぶ。あんなに直情径行な人がGMとかやってちゃあそりゃあ強くならないよって意見もありそう。それともまだ何か隠し球があるのか。得意のブンヤ魂でもって私憤でではない正義の鉄槌を下せるのか。成り行き成り行き。

 ちょっと立ち寄って1時間半ばかり話してきた大学が、ベストセラーについて書かせる受業を普段はやっているらしく、今年は1998年に出て大ベストセラーになった乙武洋匡さんの「五体不満足」について書いているってんで、自分の思いとか思いでなんかをほじくり返して考えてみた。実は乙武さんにはサイン会で会ったことがあって、調べるとあれは2002年の8月21日のこと、三省堂神田本店で行列に並んで差し出して、著書に頂いたサインがとても巧かったって記憶があって記録もある。

 どうしてサインが出来るのか、って思われそうだけれど、小さく残っている左腕の脇にペンを挟んできゅっきゅっと書いていくのが乙武さんのサイン法。なるほど人間、訓練次第で人はどこまでも行けるのだと教えられる。もっともそうしたことは現場まで行って分かったことで、行くまではどこかにいったいどうやって? って好奇の気持ちがやっぱりあった。「五体不満足」って本が売れたのも、やっぱりどこかにそうした好奇の視線があって、いったいどういうことなんだろうって今日を持って手にとった人が多くてあれだけの話題になったんだろう。そして読んでそれから当人の、不自由ではなく不便だといった明るく語る口調や論調なんかに触れて、どこか安心感を与えられてこれなら受け入れられるって気持ちになったんだろう。

 不自由な人に対しては、同情といった意識を向けて対応しなくてはいけないという自意識が人にはどこなにあって、なおかつそうしなければ周囲から非難されるだろうという圧力も感じて、やや没入していく気持ちになっていたりもして、どう相対したらいいのかなかなか分からない。それを乙武さんは、無理にそうしなくても良いんだと感じさせ、相手はすべてをポジティブに受け止めているんだと思わせて、ホッとする気持ちにさせて安心感を誘った。もちろん不自由な相手がいたら、その不自由さに応じて手助けをし、如何ともし難いのなら、手をさしのべるべきことではあるけれど、そうしたとき、相手がそれを望んでいるかいないか、分からないままやってしまうことが、相手にどれだけの心理的な負担を与えているのか、気にかかる場合がある。乙武さんの明るさは、そういった懊悩をクリアにしてくれた。だから有りがたかったし、ありがたがられた。

 そうして盛り上がった機運が、メディアにとらえられた時、機運はさらに増幅されて、一種のムーブメントを作る。人はそんなメディアに言葉は悪いが踊らされる、あるいはメディアによって知ったことを確認しようと対象に向かって、ブロックバスター的にベストセラーが生まれる。「五体不満足」の当時の人気ってのは、そんな流れから生まれたんじゃないかって個人的には思っている。最近では「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」がそれに似た現象でベストセラーになった。それだからなった訳でそれ意外の本ではなっていないことが、笑わしていたりもする。ちなみに今の乙武さんは、依然としてそうした安心感を人に抱かせながらも、その向こう側から誰が伝えるかではなく、何を伝えるかと言ったところに重点を置いて活動をして、それを認められる空気になっている。がんばったんだろうなあ。これからどういう風になっていくんだろうなあ。好奇は捨てて興味を持って見ていこう。

 文芸賞を受賞した今村友紀さんの「クリスタル・ヴァリーに降りそそぐ灰」の設定を読みつつどうなんだろうと頭をグラグラ。渋谷の女子校にいたら襲ってきた爆発に戦闘機。不条理にまみれつつ少女は家を目指し歩き続けるという展開ななるほどシュールだけれど それがだからといった意見も一方に出そう。心境を吐き出すように綴った文体ってのもなるほど珍しくはあるのかもしれないけれどこうして日記めいたものに思考するスピードでもって綴られる文体ってのもたいていがそう。そこに想像力が絡められてはいてもとりたてて画期的って思うにはやっぱりネットに浸りすぎているんだ自分。

 むしろそうした不条理の先に来る理不尽を描く方が意味があってなおかすそいうした作品は佐神良さんの「S.I.B セーラーガール・イン・ブラッド」みたいな作品に書かれてる。大震災のあとに隔離された女子高生がグループに別れ血で血を争うバトルを繰り広げるディストピア。それを読んで見直すとどうにもナイーブさが目に付くんだけれどそれを作者が書くのは仕方がない。問題はそれを何か特別なもののように持ち上げる新聞の文芸記者あたりの世間をあんまり見ていないっぷりか。文壇に浸り文壇から来るものを取り上げ持ち上げていれば偉く見えてしまうような空気。そしてそれは世間と大きく乖離して内輪でしか通用しない論理を生みだし、やがて見捨てられ見放されるという将来。改めたいけど権威って、崩れないだよなあ。だから今村友紀さんにはそんなおだてはけ飛ばして、今時をやっただけで知らない奴らに誉められるのはいかがなものとか言ってほしいけど果たして。


【11月17日】 今月いっぱいだと思って持ちネタぜんぶを突っ込んで店仕舞いの準備を進めていた「サブカルちゃんねる」ってコーナーが何やら12月とそして来年1月も続くとさっき聞く。ふうん。って書くのは僕だった。見開きぜんぶをつかって大ネタ中ネタ小ネタを取り混ぜそこに漫画の新刊とライトノベルの新刊の紹介とグッズやらイベントの紹介と、そして漫画のランキングを入れてまとめているコーナー。とりあえず21日にブルーレイボックスが出る「聖闘士星矢」の劇場版の話を来週に入れて古谷徹さんがどれだけ役に入れ込んで演じているかを書いているので興味のある方はご一読。その次あたりは先週終わった「デザインフェスタ」と先月あった「GEISAI」でもって新人クリエーターの話をまとめてサヨウナラ、と以降としたのにあと8回分はネタが必要になってしまったさあ困った。

 まあ何とはなしにうっすらと続くような雰囲気は感じていたんでイベント等への顔出しは進めていたけれど、でも大きなネタとなるとそうは転がっているものじゃない。監督さんのインタビューとか有名人へのインタビューとか、媒体もマイナーなんでなかなか入れてもらえず声すらかけてもらえない状況で、どうにか探してやりくりし、声をかけてくれるところは是非にとお願いしたりもしているけれど、ぽっかりとあいたこの空白をさてどうやって埋めていこうかと思案の最中。アニメーションの監督でもライトノベルの作家でも、漫画家でもゲームデザイナーでも美術家でも、我をと思う人がおられたら是非にお声がけなんてしていただければ参って伺い、ドカンとでっかく紹介させて頂くので、是非によろしくお願いの程を。

 「週刊新潮」と「週刊文春」がそろって例の巨人軍での清武代表クーデーター事件を紹介。読むにつけいろいろ周辺を固め了解も取った上で本格的にナベツネさんの追い落としに出たってよりは、今の地位を安泰とするため直情的に声を挙げたって印象。だから後になって桃井さんだっけ、球団社長もそれを認めず周囲の誰も見方しようとしないって感じ、もちろん読売本社にも。こうなるとあとは生殺しとなるか追い出されるかのどっちかなんだろうけれど、すぐにそうした動きが出ないところが不思議といえば不思議。これで双方が和解して元の鞘ってことになったらやっぱり何か他に隠そうとして大騒ぎしてみたんじゃないかって気すら浮かぶ。それはないか。

 いやでも「週刊文春」とか読むと、本当とは思えないけど犬をさらって飼い主の警察関係者に差しだし取り入ったり、自転車をパンクさせた上で修理してみせて仲良くなったりとマッチ摺ってポンプでガソリン叩き入れることが好きって印象。さすがにほとんど犯罪なそれを大新聞の記者がやったとは信じられないけれど、そういう噂も出るくらいの剛腕な人があえて身に嘲弄を受けても矢面に立って踊ってみせているところに、何か深淵なる狙いを感じないではいられない、っていうかそれで何もなかったらやっぱりただの阿呆で間抜けで馬鹿。果たしてどういう展開をみせてどこに落ちつくか。気にして見に行きたい。GMっていう仕組みが真っ当に機能するような日本の野球界を築くためにもね。

 コレジャナイのにコレナンダという不思議な感覚を味わわせてくれるザリガニワークスの「コレジャナイロボ」がまたやってくれた。東京は新宿にあるペンタックスギャラリーでもって展覧会を開催中。そこには歴代のコレジャナイロボが並びコラボレーションしたコレジャナイロボも並び試作品もあったり貴重な品もあったりとコレジャナイロボを見てコレナンダと叫ぶマニアにはたまらない展示になっている。まったく知らない人にはナンダコレのオン・パレードだけれどそれらを眺めコンセプトを聞いていれば、きっとコレジャナイからコレナンダというスピリットはきっと理解できるだろう。たぶんそうやって理解してくプロセスもひとつの楽しみなんだろうなあ。

 もはやすでにコレナンダとなってしまった人には何をやってもコレジャナイけどコレナンダ的ロジックが、見えてしまって前ほど大笑いできない。そんな限界もあるんだけれどそこはザリガニワークス、さらに上を行くような展開をきっと考えてコレジャナイって腑抜けるあの感触を、また味わわせてくれるだろう。マーベルのメインキャラクターたちがコレジャナイ感じになったキャラとかあったし。あの路線ならきっと海外でも受けるんじゃないか。受けて欲しいな。でもって日本語のコレジャナイがモッタイナイと同じくらいに広まるんだ。でもって場違いな大統領とか出てきたら新聞各紙がいっせいに見だしでもって「KOREJANAI!」ってかき立てる。何て愉快なグローバル。とりあえず会場ではホットシューにはめ込む顔を購入。その名もホットシューキャンセラーは使える機能を使えなくするメカなのであった。コレジャナイのにコレナンダ。つけて記者発表とか行ったら受けるかな。


【11月16日】 ジャージ姿の大江奏ちゃんが実に何というかもっこりというかぽっこりというか膨らんでいるというか飛び出しているというか。対する千早のペタペタとは言わないまでもそれほど目立たない感じからするに人間、いろいろな種類があるんだってことを目の当たりにさせられたアニメーション版「ちはやふる」。太一といっしょに練習して勝利しつづける千早に太一もそろそり自分では役者が不足しているか、なんて考えていたようだけれどどっこい、机くんが提案した裏返してやる競技かるたで太一の暗記力が炸裂。感じはいいけど覚えない千早を圧倒して勝利して万歳やればできるんだ。

 その喜びようとそして負ければやっぱり悔しい気持ちをぶつけて果たして机くん、なびいて競技かるた部に入ったか、ってところは既に展開されてる漫画版を読めば明々白々なんだけれども、しかし千早の真正面から迫るあの無駄はついてもやっぱり美人な顔に動ぜず、入ろうとしなかったものを翻すあたりにやっぱり努力は努力に寄りそうってことが垣間見える。天才にゃあそうした機微は分からないんだよなあ。とりあえず丁寧で伝わってくる演出。あと机くんにぐいっと迫るあたりの千早の顔とか、ちょっと待ったと差し出した手に「ジャストモーメント」と書いてあったりする遊びとか、ところどこに見て楽しい要素もあったり。何か「君に届け」に似てるっぽい。しかしやっぱり無駄美人だなあ千早。ああモッタイナイ。

 そうもったいない。あまりのもったいなさに遠からず「モッタイ9」が出てくるんじゃないかとクロスオーバーなんかも想像してみたりする秋の夜。「住めば都のコスモス荘」とか「エルフを狩る者」とか描いている矢上裕さんの新作「環境保護隊モッタイ9」(フレックスコミックス)は、環境保護に熱心な青年の紆余曲折な物語。弁当を買ってもレンジでチンせず割りばしももらわずその場で隅々まで食べきる環境系。そのスタンスで環境保護NPOに入ろうとあちこり廻って最後に見学に寄ったところで青年はとんでもないものを見る。

 発進するメカたちに巨大ロボット。そして青年を歓迎するといっては各地に散って食材を集め珍味を揃えてもてなす態度。青年からすればモッタイナイのオン・パレードなんだけれども環境戦隊モッタイ9にはそれがモッタイナイとは映らない。なぜなら環境戦隊モッタイ9が指摘するのはやれるのにやろうとしないこと。若い身空でおいしいものを腹一杯食べないなんてモッタイナイと誹ったりするその態度に、反発しながらも引っ張り込まれた青年は、メンバーたちのモッタイナイを改め自分のモッタイナイの思想を普及させようとがんばるものの相手も去る者、聞きいれないどころかその前向きさ、活発さでもって青年を逆に取り込んでいってしまう。

 隊長役の女性のとてつもなく張り出した胸にくっきりとのぞく、谷間のビジュアルに惹かれて買ったようなところもある本は、そんな隊長の綺麗さ豊満さ意外にも、アフロ髪して食べてばかりいる女性が実は昔はとっても綺麗でスレンダーで、人気俳優から関心を持たれるくらいだったんだけれどそんな彼女ががんばって、痩せてはないけど筋肉でもって痩せた振りして俳優とデートしている最中に、太ったウエイトレスが現れそれを俳優が誹った声に憤り、反発していく姿に青年が俳優にはその隊員はもったいないと啖呵を切る、そんなところに感化されてるなあって感じも見える。朱に交わって真っ赤っか。

 ほかにも引っ込み思案でひきこもっている美少女にして実はあらゆるメカを開発した博士とか、親に捨てられ拾われた少女とかいたりする環境保護隊モッタイ9。そんな中にあってオヤジまるだしに酒をかっくらい女をくどく野郎がいたりするんだけれど、その正体を知ってモッタイナイレーダーもメーターを振り切ってしまいそうになるからお立ち会い。なるほどそりゃそうだ。モッタイナイの極北だ。でも気づいてしまって改めさせようと思えないくらいにその変身は衝撃的であり、完璧だったってことなのか。ともあれネットコミックとして続く連載が単行本になって目に触れて、売れるフレックスコミックスのビジネスモデルがまた1つ、成り立ちそうな面白漫画。読んで損なし。でもやっぱりオヤジには眠った時のまんまでいて欲しいなあ。千早以上にモッタイナイ。

 実はまだ1作も「ハリー・ポッター」の映画を観たことがないって言ったら信じてもらえるか。せめてもっともエマ・ワトソンが可愛かったころの「秘密の部屋」くらいは視てるんじゃないのって突っ込まれそうだけれども、そこで見逃してしまったのが何かきっかけを外された感じで、以降公開日に見に行くような週間を作れないままズルズルと来てしまったという。本の方は出た日に買うのを守っていたけど、最後の方は実はまだ読んでいなかったりして、ハリーがいったいどうなってしまうのか、知らなかったりするのだった。なんかハリーの性格がどんどんと陰険になっていって、読むのが辛かったんだよなあ。最終回とか結末とか、映画を観た方が早いかな。

 そんな映画の「ハリー・ポッター」シリーズの最終話がDVDとかブルーレイディスクになって、記念のイベントを英国大使館で開くってんで珍しい場所ってこともあって行ってみる。そういやもう10数年も昔に何かのソフトの発表会があって、中に入ったことがあったんだけれど当時と多分あんまり変わらぬ風景。明治のころより置かれて大正の大震災後に立て替えられたあろう建物は、悠久の時間をそこに過ごしていたりして、浸れば何もしたくなるような居心地。外交官って楽しそうって思ったけれどもそういう身分にはなれそうもないし、実際にやるとなったら諜報活動も大変だろうからやっぱり行くだけなのが良い身分ってことで。

 イベントには冨永愛さんが登場したけどとにかくデカかった。ヒールの高い靴を履いていたこともあったんだけれどそれでもやっぱり頭3つは飛び抜けていた。あれでシレーヌとかの格好で迫られたらデビルマンだってびびるよね。そして日テレ・ベレーザから岩清水梓選手と小林弥生選手が登場。今でこそワールドカップで優勝したメンバーに入っていた岩清水選手の方に世間は注目するけれど、女子サッカーを長く視ている人間にとってはあの変幻自在のパスを持って前戦を指揮する小林選手の方がやっぱり格上に思えてしまう。怪我もあってリーグではしばらく出てない時があったけれどもここんとこ、調子も良さそうだしチームも若い層を使って2位と堅調。なでしこジャパンとリーグ選抜との戦いでも、圧巻の攻めを見せていたからあるいはメンバーに選ばれて、ハリポタの国の英国にメンバーとして行けるかもしれないし、行って欲しいなやっぱり。沢穂希選手が外れる試合で仕切れるのはやっぱり弥生ちゃん、なのだ。


【11月15日】 たまゆららららたまゆらたまゆららららたまゆらたまゆららららたまゆらだいじけん。違います。似てはいるけど多分違うアニメーション「たまゆら」のコラボ商品がコンビニエンスストアのポプラに登場して「たまゆらフェア」として展開中。ちょい前から始まっていたらしいけれども見かけた今回から「たまゆらおむすぶ」として「たいめし」と「たこめし」が登場。中に具を握るタイプではなくって煮込んだものをご飯に混ぜて握って海苔を重ねるタイプ。とっても味が染みてて食べやすくってなおかつ美味い。おまけにイラストも入っているという得々加減なんだけれども「けいおん!」とかと違ってポプラでは全国にあんまり知られてないかも。意外や大手町に「生活彩科」として3店舗もあるんで都会に働く「たまゆら」好きは行って見ると良いかも。んで「たまゆら」ってどういう話なん?

 談話その1。「ありゃ明け方のことだったかな、牛の世話ぁしに家から外出たら、西の空が妙に明るいんだ、もちろん沈む月とかじゃねえぞ、んでよっく見たら何かキラキラとしたものが山の陰から陰を飛び回っていたんだ、今思えばあれがアクティビティって奴だったんだな、しばらくしたら昇ってきた朝日に紛れて消えちまった、不思議な光景だったなあ」。談話その2「夜のことでございます。枕元に人影を感じましたので薄目を開け、見上げますと、青白い顔の女性が傍らに座って、こちらをのぞき込んでいたのでございます。探るようなその目に私、見透かされているような気持ちになってぎゅっと目をつぶり、じっとしておりましたら、やがて寝入ってしまい、目覚めますと女性は消えておりました。もしかしたらあれが、アクティビティだったのでございましょう」。明け方にかけ出没したらしいアクティビティについて考えてみたという話。いったい何だったんだろう。

 実は見てもなかったし買ってもなかったからディレクターズカット版が出るってことでそっちを待った方がいいかなとも思い始めている「宇宙戦艦ヤマト復活篇」。絵が何というかいろいろな上に原作も石原慎太郎都知事だったりと見る気力が最初っから失せていた作品で、それを旧来からのヤマトファンの人たちは税としてお布施として見に行ったあたりに彼我の違いを噛みしめていたりもする。とはいえ第1作目のヤマトが「宇宙戦艦ヤマト2199」として復活したりするこの状況、やっぱり見ておくのも悪くはないかって気にもなっているだけに来年1月28日から2月3日までの期間限定レイトショー、チェックしておくのも悪くはないかも。30分追加されたという新作パートにオリジナルバージョンとは違うエンディング、そして完全リニューアルされた音響パート、効果音はTV版ヤマトのオリジナル音声仕様、ってことは前のはいったいどんだけだったんだって気も浮かぶけれどもこれだけてんこ盛りされた以上はそれなりに仕上がっていると信じたい。信じよう。信じられるか。信じねば。

 ちょっと前のコバルト文庫でのロマン大賞受賞作「ひみつの陰陽師」の完璧具合も良かったけれども講談社ホワイトハートX文庫で出た暁美耶子さんの「迷宮のファントム」もしっかりとしたストーリーがあって現代社会に足の着いた設定があって後味の悪くないエンディングがあってとしっかり読ませる。荒唐無稽さのなかにキャラだけ立って大騒ぎな展開が多々あったりする男性向けレーベルの、とりわけ設定が突拍子もなく展開も破天荒な上にキャラクターは過剰で後味も不明なレーベルが創刊されたばかりだったりするだけに、こと小説としての完成度、そして将来性は今や女性向けのレーベルにあったりするのかもって気がしてきた。まあ昔っから一般小説の分野に出ていって活躍する作家って、女性向けのレーベル出身者が多かったし。その意味で小説としての真っ当さが保たれていたりするのかも。

 さて「迷宮のファントム」は友人で音楽に長けていた少女が入学した音楽学校でなぜか自殺してしまい、その原因を知りに少年が後を追って入学するというストーリー。もちろん無才ではなく少年にはその声がソプラニスタという男性ではひときわ高い声になっててその天賦の才とそれから努力を認められて特待生としての入学となった。そして学校に入った少年は、少女が飛び降りたという場所を訪ねたけれどもそこには怪しげな青年教師がいて少年を追い返す。戻って少年は寮に入り同室となった子に誘われ、学園祭で演じる劇のオーディションを受けることを決意。そして望んだオーディションで圧巻のソプラニスタぶりを発揮して周囲の目を引きつける。

 その一方で知人を追いつめた原因を探る動きを続ける少年。誰かが少女を誘ったかそれとも。残されたメールから探りたどりついたのは、学校の裏で運営されている秘密の手紙のやりとりであり、そして「ファントム」と呼ばれる謎の言葉をキーにした少年少女を魅惑するアイテムだった。より高みを目指したいという音楽に身を傾ける者たちの心根がそこに込められていたりする展開。そして自分に自身を失っている者が周囲の励ましや支持を受けて立ち直っていくという物語。ファンタジックにはならずミステリーの範疇で原因が暴かれ制裁が加えられた先に来る、これからのあゆみってものに期待を持たせる終わり型も、読んでいてとってもすがすがしい。最初の事故の原因を突き詰めそれがどうして起こったのかを探ればあるいはすぐに暴かれたかもしれない事件といえばいえるけれども、そうはさせないお家の事情って奴も描かれ、そこに捉えられ身動きできない青年の苦悩も描かれているから納得できる。これからを期待したい作家。一般小説に行ったりすることもあるのかな。

 とはいえ男性向けレーベルでもいたずらな極端へと走らず物語性があるものをメディアワークス文庫でしっかり抱え込んでいたりする電撃文庫からは佐原菜月さんって人の「シアンの憂鬱な銃」(電撃文庫)ってのが出てこれがなかなかに面白い。関西弁の若い刑事が放火現場で出合った碧眼の少年は、刑事に犯人らしい男がいることを伝えてどこかへと消えてしまう。確かに犯人だったことからいったい何者かとその少年を捜してたどり着いたのは女学校でそして少年はそこで若いながらも神父をしていて女生徒にモテモテだった。もっともどこか訳有りな様子の青という名の神父。その理由が開かされる物語りに、刑事の事件を追う展開が重なった果てにひとつの陰謀が浮かび上がる。

 科学的なガジェットを織り込んだSF的な設定の上に、何かが繰り広げられているという陰謀をあばくミステリー的な展開を持った物語り。なおかつ少年に見える神父のふふふな正体なんかも表紙を見ればバレバレながらもちゃんと仕込まれていたりするところに、興味を抱かせ今後の展開への関心を引っ張る、っても都築が出るかは不明だけれど。あと国歌とか企業の裏に関わるようなデカくなる話はともすれば荒唐無稽になりがちだけれど、警察や捜査機関や企業なんかの仕組みみぎゃちゃんと描かれていて、無茶な方向にはいかないところが安心。正義の意味も問うて終わり描かれる爽やかなエンディングも良い。文体をチューニングすれば一般小説の方でも存分に受け入れられそうって言うか、そうでなくても楽しまれる要素はたっぷりある作品。これからどんな物語を書くか。こういうmの語りを書いていって欲しいなあ。無理に萌えとかにしないで。


【11月14日】 ファミ通文庫から出た、YUGさんのイラストが可愛い「ぺとぺとさん」でおなじみな木村航さんが前に双葉社から出していた一般向けの小説「愛とカルシウム」が文庫になっていて、ライトノベルの世界にあって境界に生きる者たちへの暖かい眼差しを持って描き、悲惨でもそれを悲惨と感じさせない明るさを描く作家であるところの木村さんが、一般にもいよいよさらに広まるチャンスかと喜んだけれども、文庫版への東えりかさんの解説を読みながら、そうした感傷というのはライトノベルの世界に浸って外側を意識している人間の思い入れに過ぎないのかなあ、一般の人にはそういう情報って必要のないものだと思われているのかなあ、なんて考えてちょっぴり下を向く。

 簡単に言うなら解説の中でそうしたライトノベル作品への言及はいっさいなし。というか「書評家という職業柄、作家の名前には敏感だ。木村航という名前は見覚えがなかったが、この本に呼ばれるようにして手に取った」と書かれているところから視るにつけ、それなりに活動しているライトノベル作家であっても、一般の本を書評している人の目には、まず触れないってことが何とはなしに分かってしまった。それとも向けている人もいるんだろうか。いるならもっといっぱい世に出ていっても良いんじゃないかなあ。でもそうなってない。SFですらライトノベルで優れた作品を書く人でも、早川書房か東京創元社あたりから本を出さないと知られないって感じだしなあ。何というベルリンの壁。これって何によるものなんだろう?

 でもまあ、一般の人にとって可愛い風体をした、誰とでもくっついてしまう妖怪の少女の話とかって言われてもあんまり興味がないし、むしろどういう人なんだって踏みとどまられてしまう可能性もあったりする、って判断があったとして、まあ分からないでもないからなあ。だから触れられていないのか、それとも触れようとはしなかったのか。ただ言えることは、難病物の系譜に連なるように見える「愛とカルシウム」だけれど、そこに描かれている前向きな明るさってものは、実は「ぺとぺとさん」なんかから続く木村航さんお描くものと、とても重なっていたりする。

 妖怪と人間がともに暮らしていける町があってそこが舞台になった話ではあるけれど、でも外に出れば妖怪にはあんまり暮らしづらい町ではないし、人の気持ちの中にはやっぱり区別の意識が残っていたりする。そんな中にあって妖怪の少女と人間の少年は、周囲とか気にせずいつも前向きで明るく、事態にぶちあたっていく。苦労を苦労として抱え、内に向いていじけない強さ、明るさって奴はそのまま「愛とカルシウム」で病気に悩む少女の描写と重なってくる。「ミラクルチロル44キロ」も死という境界を挟んで向き合う人間の物語り。それが柔らかく明るいトーンの中に描かれ悲惨さを味わわせない。それでいてしっかり生きる意味を分からせる。

 そうした作家性への言及が、この作品にどうつながってきているか、ってあたりは多分評論としては必要な言葉なんだろうけれど、とりあえず明るい難病物を読んでみたいという人に対しては、そうした部分でクロスオーバーする作品を挙げ、そうした作品が頻繁に生まれてくるようになった背景を継げることで、時代の中に作品を位置づけるということが優先されたのかもしれない。悩まし部分。でもせっかくこの作品で木村航さんという名を知ったなら、少なくとも「ぺとぺとさん」は読んでおいた方が良いかも。アニメにもなった人気作、なんだけれど今もDVDとか、視られるのかな。あとはやっぱろ「ミラクルチロル44キロ」か。こちらはコミックが発売中。是非に。

 読むとやっぱりよく分かる「境界線上のホライゾン」のアニメーションにおける諸処。最大なのが直政の地摺朱雀の手のひらに潰されそうになったシロジロが、どーしてぽこんと抜けた地面の中に張り込んで手のひらを避けられたかといったところで、あそこでは地面の権利を買うかして、下に落ちるような工作を瞬時にしたとかいった説明がないと、偶然に助けられたか何かと思われてしまうんじゃなかろーか。その後の家の崩壊とセットで説明するって手もあったかな。そのあたりはBDなりのパッケージ化で付け加えていただければありがたい。あとはネイト・ミトツダイラが騎士から降りようとする場面での鈴の飛び込み。読むと緊張感があるんだけれどアニメだと一瞬で、逡巡とか説明されないまま蹴躓いたところを助けてチャンチャン、となってしまっている。そう簡単な話でもないんだよなあ、あそこ。

 立花夫妻の食事もぎんがパエリアをはしで食べている描写があってこその侍の系譜から出たぎんという存在と、その夫で今はほんわかしているように見える宗茂の存在性がくっきりと出る。やがてトーリが間抜けたことを叫んだ時、冷静さを失わないで宗茂のほっぺについた米粒だかをとって食べるシーンとか、ぎんの宗茂への情愛とその動作クオリティの高さなんかが見えるシーン。読めばむんむんとつたわってくるんだけれど、アニメだと仲の良い夫婦にしか見えないんだよなあ。とはいえ背後にジャンプする直政の揺れる胸とか前に進むときに風に震える胸とかいったものが拝めたのはアニメならでは。動くアニメの動くこと故の意味性を噛みしめる部分を大事にしつつ、細かい背景なんはかやっぱり本で読んで確かめるのが良さそう。しかし大きかったなあ直政。それよりデカいネイトママっていったいどんな挙動を見せるんだろ。

 ロッキングオンの食イベントで食べたばかりのひるぜん焼きそばが何かB−1グランプリってB級グルメの大会で優勝したって聞いてなるほどあの味なら同じ岡山県でもちょい癖のある津山ホルモンうどんよりは、受け入れられやすいかもって思い返す。どっちも隙だけど。そんなランキングをずっと視ても我が名古屋のグルメがまるで入ってないのがちょっと意外で、調べたらそもそも名古屋からは出ていなくってかろうじて豊川からいなり寿司か何かが出ていた様子。それってB級か。っていうかたぶん名古屋めしは既に根付いてグルメと化しているので、ああいった場に混じって競うには範疇が違いすぎるってことになっていたりするのかも。あるいはマイナー過ぎるのか。

 教えられたんで調べたらそんな愛知にB級にすら及ばないかもしれない妙なメニューが登場していた模様。その名も「豊橋カレーうどん」は丼の底にご飯が入ってその上にとろろがかかった上からうどんがのってカレーがかけられるという何段重ねもののメニュー。そんなもの1980年代後半に豊橋に通っていた時にはなかったぜって思って調べると、2010年い誕生したばかりのものらしい。賄い飯から生まれてきて広まったとか知らず地元に馴染んでいたってメニューならまだしも、いかにも作りましたじゃあちょとB級には早いかも。でも5年10年と経つうちに定着していけばその頃には駅の新幹線のホームで誰もが降りて食べるメニューになって……いたりはしなよなあ、だってあざとすぎるもんなあ。

【11月13日】 そして続くf−Clan文庫を読むウイークは前月に読み落としていた尾久山ゆうかさんの「カイザー養成学園 君は世界を支配する。」を戻って読み終える。なるほどこれは興味深い。停滞気味の世界を改善すべく、ある程度ブロック化が進んだ世界で各国が王の候補を出しては1つの学園に集め、競わせトップを決めて世界を任せることに決定。そして選ばれた皇嗣たちが集まって5年が経ったけれども、未だ意見はまとまらず世界は苛立つ。まあそりゃそうだよな、話し合いで解決するならとっくに世界は平和になっていた訳で。

 でもってそこに、軍需産業で成り立つ国のすでに王となった青年が、圧倒的な力でもって学園を支配し支持を集め、もうすぐ満願成就となりそうだったところに東アジアの連合国から主人公の少年が、学園に行っては自殺した兄の代わりに皇嗣となる。最初は決められたとおりに堂々の環境で正義を貫く覚悟でいたものの、どこか荒んで投げやりになった皇嗣もいれば軍需産業の国の王に媚びる皇嗣もいたりとどこか妙。もちろん最初は誰もが自国のため、世界のためにがんばろうとしていたんだけれど、それがプレッシャーになって心を壊してしまった挙げ句、早くまとまるんだったらと資質を十分に備えた軍需産業の国の王は合理的な恐怖で世界を支配する方向へと流れていってしまう。

 どうすれば世界はまとまるか。迷うけれどもそんな間に経って主人公は世界にとって何が最善かを模索しようとがんばる。皇嗣にすべてを託してそのバトルロイヤルの結果に全世界が従うという設定が成り立つかというポリティカルな問題はないでもないけれど、そうしたことよりもむしろそう世界がせざるを得ない状況から見えてくる、世界は絶対の指導者を求めながらもその恐怖に怯え、かといって自分たちでは汚職に走り安易に流れがちでまとまらないという、根源的な課題を戯画的に描こうという意図を気にしたい。そこには勢いがあり主題があり言いたいことがあって難題に挑もうとする気概もある。それでいてちゃんと読ませるドラマもある。突拍子のなさはあっても、単純にキャラを類型化してシチュエーションを刹那的にして評判を誘ってタイトルで留めを刺すようなメンズレーベルの突拍子のなさに比べ、小説としてやることをやってる感じがするなあ。今後の展開に興味。誰かが勝って世界はどうなる?

 今日も今日とて「デザインフェスタ」へと出かけていったらやっぱり昨日に続いて入り口に開場を待つ長蛇の列。昔もそれなりに列はあったけれども外に伸びるようなものにはなっていなかった。それがこの数年結構列ができるようになっていて、取材の数も増えてきた。評判が上がり認知度も上がっているってことなんだろうなあ。そんな開場を10年くらいずっと眺めてこれたことは幸せだけれどそこで後に超爆発するようなアイテムをつかめたかどうかは不明。まあそうした青田買いも悪くはないけどその場にあって最高のひとつを出している人の気持ちに触れて心意気を手にする機会ってのがデザインフェスタ。その場が楽しければそれで良いって考えもあるわけで、そんな塩梅を考えながらもあちらを視てはこれが10年後に100倍に……なんて考えてしまうさもしさよ。これが人間って奴か。

 和装侍系音楽集団MYST.の人たちは規模を抑え気味ながらもちゃんとライブを毎時開いてなかなかの盛況ぶり。ボーカルの人の声がややかすれぎみだったように聞こえていたけれども風邪か気管支炎か何かだったんだろうか。それでも歌うとちゃんと響く。「夢で見る間に抱きしめて」とかホント良い歌なんだよなあ。アニメのエンディングとかに使って欲しいよなあ。そして上では戦国歌謡の柳瀬式さんも時折ライブ。10年つきあってた彼女と別れて今はひとりで巡業中とはちょっと大変。でもお手伝いの人がいたから売り子さんとか間に合っていた様子でまずは安心。とはいえ次回からデザインフェスタではアンプとマイクを使ってのブースでの音楽パフォーマンスが禁止になるとか。アコースティックで地声ならOKってんならそれでやれそうな気もするけれど、ビートが効いたロックはちょっと難しいか。柳瀬さんはしばらく離れて別に場所を探すみたいだけれどMYST,は次回も出るとのこと。ならばどんなアコースティックロックを見せてくれるのか。楽しみ。

 ぐるりと廻って見つけたのが王子で狐神楽なんてものをやっている集団が出していた狐のお面。ベースにポスターカラーで絵を描いているんだけれどもいろいろな顔立ちがあってなかなかに面白い。桜の模様がひたいについた1枚を被って「蛍火の杜へ」ごっことしゃれ込もうとしたけれど、あれはお面を外すと超イケメンだったのがこちらはそうではないからなあ。だから頭の横につけてお散歩。こういうのが楽しいデザインフェスタ。そして前にサイケなTシャツを買った店で今回もサイケなトレーナーを1枚。顔がモチーフになっているけど頭蓋が割れて脳が見えててその脳が浮き上がったプリントになっているのがなかなか。これ着てタレントさんとかテレビに出たら格好いいのになあ。そういうところに気づける人がいればスターも生まれやすくなるんだけれど。その意味ではまだまだかなあ。

 KINO4TAさんって劇団をやっている人が作っている人形はグロテスクで可愛くって最高。折角だからと顔面がぶらさがったキーホルダーを購入。今回が初出店だけれどちゃんといろいろ売れていたらしい。やっぱり持ってる人はちゃんと観てもらえるってことで。紙粘土製の小さいフィギュアを大量につくってもってきたサンペイさんって人もいて、それぞれが日常を服装に現しているのが良かった。広告デザインとかに使えば良いのになあ。透明標本はなかなかの盛況ぶりでついにガチャポンまで出来ていた。あの奇譚倶楽部が手がけたものだけあってなかなかなできばえ。おまけに100円と安い! 美しくもグロテスクな透明標本を手軽に貼って楽しもう。似たような透明標本を持ち込んでいたブースもあったけれどもこういうのはやっぱり先達に軍配、かな。どちらもがんばれ。


【11月12日】 「境界線上のホライゾン」の第4部なんかをまた冒頭から読み始めて過ぎていく時間の中でふと、点いていたテレビを視たら「キャシャーンSins」がやっていた。なんでまたとよくよく視たらペンギンがいっぱいの「輪るピングドラム」。つまりは幾原邦彦さんの作品なんだけれども吹きすさぶ風に切れ端とか葉っぱなんかが飛ぶ中で、画面いっぱいに広がる顔の離れ気味なキャラクターの大きな目が、上目遣いにこっちの斜め後ろを見るあの視線で、キャラクターにひとり語りされるのはどう視てもやっぱろ「キャシャーンSins」。どういうことかとエンディングのクレジットを見たらやっっぱり山内重保さんが関わっていた。あと馬越嘉彦さんも。

 つまりはやっぱり「キャシャーンSins」のスタッフってことでそりゃあ似るのも当然だけれどどちらかというと構築的でシュールな場面を重ねる幾原さんの雰囲気と、絵画的バロック的にシチュエーションを見せる山内さんとはどこか反対っぽい気がしないでもない。とはいえ様式にこだわるところは共に共通で、あるいは東映アニメーションという場所で共に仕事をした遺伝子に重なるところもあるのか、上がってきたものは2人のテイストが共にマッチングしてえもいわれぬ作品に仕上がっていた。

 長いシリーズのなかにこういうのがあるからDVDなりブルーレイを、買ってみたくなるんだよなあ。「とある科学の超電磁放」でも確か黒子が戦う話に山内演出があったっけ。あと「アイドルマスター」にもそんなのが。それっていったいどういうの? って見たくなってしまう。なるほどシリーズには1話、山内重保演出を入れてマニアが買わざるを得なくなる戦略ーっ! って奴がアニメ業界にはあったりするのか。ともあれ凄かった「ピングドラム」の気になる今後の展開とは別に、そのテイストがどれくらい重なっているかを確かめるために手元にある「キャシャーンSins」を見返したくなって来た。あと」21日発売の「聖闘士星矢」の劇場版のBDボックスとか。「聖闘士星矢 天界編 序奏−overture−」とかがまた「キャシャーンSins」してるんだ。

 THORES柴本さんがイラストを描いた栗原ちひろさん「廃王国の六使徒』(f−Clan文庫)を読んだら5使徒だった。1人足りない。でも後でちゃんと後で加わることになるからご安心。宗教なんかがまるで信じられず、司祭とかが何かしようとするととたんに殲滅されてしまうような魔都に新たにやって来たのは、神に愛され存在そのものが奇跡といったような神父さま。泣けば涙が黄金にも宝石にもなり、触れれば毒の染みた手も白い淑女の手になってしまうくらいの奇跡使いの前にはもはや魔都も終わりかと思いきや、長くそこで仕事をしてきた調香師の息子で美貌の男が中心となり、葬儀屋や魔女や魔界の少女や氷の呪いにかけられた男がチームを組んで立ち向かう。悪が栄えるノワールだけれどどことなくコミカルなところが楽しい。シリーズ化していきそうなんで期待。

 同じくf−Clan文庫から出た水瀬桂子さんの「妓楼には鍵の姫が住まう−死人視の男−」が傑作だったのでこれは1食抜いてでも読むようにと声高に断言。江戸時代が16大将軍に入った歴史線上での江戸は吉原に入り浸る大店の次男。放蕩の穀潰しに見えて理由あり。一度赤ん坊の頃に死んでしまったものの、母親がどこかの祠に祈ったところ甦ってきてそれ以降、店は大繁盛して誠二というその次男は、家の守り神として放蕩を父に許されるようになる。けれども。天佑のような立場は己の無能を示されているようで、誠二はどこかに虚しさを感じて生きている。なおかつ誠二には眼帯に覆った片目に霊が見える能力が備わり、死人の子というわが身のレッテルを強く自覚させ、何にもなれぬと日々を無為に過ごさせる。

 だから誰にも心を開かず、吉原に行っても上っ面だけで芸者と懇ろになっていたある日。夜の廊下でかつて馴染みだったものの身請けされそして殺害された芸者の霊が立っているのを誠二は視る。その姿をどこかから現れた美貌の少女に視られ声をかけられる。その少女、紅羽もまた、謎の出自とどこにでも出入りできる不思議な力を持っていて、伎楼の守り神のように扱われているという誠二と似た立場にあった。もっともその立場ながらもやれることをやろうと街に起こる怪事件に挑み、幕府から重用されていて、誰かから聞いたか誠二が死霊を視る力があると知って、彼に自分の下僕になれと命じる。

 最初は 他人と関わることに気薄で無視していながらも、互いの似た境遇に引かれ関わっていくという展開が「妓楼には鍵の姫が住まう−死人視の男−」の主なストーリー。同じように居場所のなさに悶える翡翠丸という少年の登場と、その行為も絡んだ展開から、自分の居場所を自分で開き生きる目的を探る大切さが浮かぶ。親を怨み世間を嫉み自分を蔑ろにする誠二の気持ち、居場所に悩みながら生き抜こうと逞しい紅羽の気持ち、自分に必死な翡翠丸という若き祈祷師の気持ちのどれにも納得が行く。誠二の良さを見極め本当は寂しい紅羽の心に気づく夕月の優しさにも泣ける

 読み始めて浮かぶ怪事件への謎と興味。読みながら感じる自分という存在への懐疑と確信。読み終えて浮かぶ感涙と感動。それらをたった600円で味わえるのだからもうこれは読むしかない。水瀬桂子さんの「妓楼には鍵の姫が住まう−死人視の男−」を買いに走れ本屋に。それにしても何冊か読んだけれども、全体としてレベルが高くてまとまった感じがする三笠書房の新レーベル。編集に良い人がいるのかなあ。ノベルズだかで良く書いている高里椎奈さんの男4人がシェパードと赤ん坊を囲んでいろいろするらしい「なりそこない」とかどんな話か読むのが楽しみ。あとこれは既読の瑞山いつきさん「相棒とわたし」も、やっぱりまとまっていて面白かった。

 核獣って怪物を狩る役に就くための学校に入った幼なじみ少年と少女がともに優れた血筋の子たちで、男女を意識せず勉学鍛錬に邁進するんだけれど、男女の差は体力差となりやがて離ればなれになる可能性すら浮かぶなかで迷う少女がちょっぴりいじらしい。そんな少女の方が少年ぽく少年は少女らしい容姿のギャップにもちょっと萌え。とはいえ成長してくれば現れるのは如何ともしがたい性徴。そうした悩みを抱えつつ互いを相棒と認め合う最中に少年の王族の血がもたらす怪物召還めいた展開に、少女は悩みつつ戦い取り戻していく。あれだけ世間を騒がせながらおとがめなしの女医さんは謎だけれども、美人で頭良いのは特ってことで、ね。


【11月11日】 「宇宙戦艦ヤマト219はこうなるに違いない」というお題の大喜利を見ながらやっぱりいろいろと考えてしまう展開は、例えば「コスモクリーナーを俺は持ち帰る!」って叫んでゴム人間の古代ルフィが艦橋で叫ぶその周囲を、航海士の島ナミと技師長の真田フランキーとトナカイの佐渡チョッパーと調査分析の森ロビンと戦闘隊長の加藤ゾロと機関長の徳川ウソップとコックのアナラサンジが取り囲むという構図がやっぱり、ヒットしそうで良いんじゃないかと思ってみたり。艦長室では沖田・D・ロジャーが病に冒された体を横たえながら「コスモクリーナーはイスカンダルに隠した。欲しけりゃくれてやる。探せ!」とひとり叫んでいるという。受れそうだな。

 あとはヤマトがプラモデルのウォーターラインみたいになっているとか。だって別に海に浮く訳じゃないから下が丸くなくたって良いんじゃね? でもそれだとガミラスの酸の海のシーンを描けないか。それだと第三艦橋が融けるシーンも描けないし。やっぱりあった方がいいかも。でもまるで盲腸みたいな第三艦橋。それがラストだからやぱり犠牲になってしまうんでいっそ艦橋を108つつけておけば第三艦橋なんて途中の1つに誰も目を向けなくなるから安心。ドメルだってそこに張り付き吹き飛ばすなんてこともしないさ。「第三艦橋なう」って沖田に通信することもなく。

 それを言うならスターシャの通信は何か得体のしれない図面とそして「イスカンダルなう」って言葉だけになったりして。その言葉に含まれる何かを今は感じ取れる時代。そこにいるとかあるってだけじゃなく、絶対に重要な何かが得られるといった可能性とか。あるいは未来的な言語センスって奴を表現するって面から使われることもありそう。「波動砲なう」。それで全員が対ショック体制をとってクロスゲージも上がってドッカン。楽だねえ。ヤマトが地球に帰ってきてそれを見た沖田のあの名ぜりふもこうなる。「地球なう」。涙もの。そこにいられなければ発せられない言葉が示されることで浮かび上がるたびの苦労、そして戻って来られた喜びがしっかり込められているんじゃないかな。うん。

 コンプライアンスの問題という言葉を聞いてまっさきに浮かんだのはこの時期にありがちな新人ドラフトに関連して実は栄養費がわたっていたとか裏金が流れていたとかいったことで、あるいは昨今の情勢なんかを鑑みて選手なり関係者なりが暴力団とつき合っていたことが判明したって話になると思って時間を待って出てきたことは、球団代表が確認したコーチ人事をナベツネさんこと渡邊恒雄会長がひっくり返して横やりを入れて別の人事を持ってきたことに、これは間違いだと訴えるものだったらか激しい違和感。それはガバナンス(企業統治)の問題であってコンプライアンス(法令遵守)とはまるで無関係。球団がどういう役職をそこに並べてGMにどんな権限を与えていようと、それは別に法律にのっとって決められるものじゃないから、蔑ろにされようがすっとばされようが、企業が法律を守らなかったって話にはならない。

 他球団に及ぶ話だから、って言ったところでそれは個々の球団が判断する話だし、たとえ及んだところでそれもまた個々の球団の統治の問題。プロ野球という仕組みの根幹を揺るがすような話にはなりはしない。まあプロ野球という業界への信頼は揺らぐだろうけれど。でもそれも含めてプロ野球って見方もあるし。ともあれそんな言葉の思いっきり勘違いしていたりするところを見るにつけ、清武球団代表は何も分からず何も考えないままただ自分がのけ者にされたことに怒り嘆き悲しんで、突っ走ってしまっただけって見方も一面にはできないこともない。だいたいが野球を経験しているなりコーチ業を学んでいるなり下部のリーグで修行して来ているなりして始めて務まるGMって仕事を、天下りで任されて結果を出せないでいる状況であるにも関わらず、その職を我が物と自認し、その立場が無視されると切れるってのはやっぱりヘン。ガバナンスをコンプライアンスと間違えるなり、大げさにして注目を浴びようとしているような雰囲気に、独断での暴走って線も色濃く見える。

 とはいえあの世界的なメディアでもってそれなりな地位にあった人が、ただ憤りから暴走するはずもないって見方も一方に出来る。文部科学省という公の場でもってその理不尽さを訴えるためにはコンプライアンスという言葉でもって衆目を集める必要もあって、だから便宜的に持ち出しつつその場に人を集めた上で、堂々とナベツネさんの理不尽さを訴えることでそろそろ退場を願おうとした、って周到さを見て見られないこともなかったりする。あとはだからこの後が続くかどうかってところで、もしも続くんだったらかつて専横と誹られ周囲の反目を集め解任されたフジサンケイグループの鹿内宏明さんの一件に並ぶ、メディア内での権力闘争とクーデターた成立する、ってことにもなる。

 事の善し悪しは別にして、そうなって関わった人たちの周到さ、頭の良さを見せてメディアもまだまだ捨てたもんじゃないって世間に思って欲しいけれど、単にガバナンスの問題、それも己の権限に関わる私事的なことをコンプライアンスだ、会社どころか野球界の問題だって思いこんで吹き上がっているんだとしたら、それは間抜けをさらしていることにもなる。どっちなんだろうなあ。いずれにしてもとある会社の経営的には偉い人がチャイニーズウオールでもって公平性が担保されているべき部局の業務に横やりを入れて自分が責任を取ると大見得切ってねじ込んだ仕事が大失敗しても責任はどこ吹く風となって結果的に部局の長が詰め腹を切らされるようなガバナンス的なぐちゃぐちゃぷりよりは、たいしたことないと思うよ。うん思う。

 電撃大賞の発表に行くのもこれでいったい何度目くらいになるんだろうなあ。まだ飯田橋で開かれていた2001年ころから通っていたけどその当時は注目もそれほどじゃなくって人もあんまり来てなかったっけ。けどそんな当時に受賞した人たちがどんどんとメジャーになっていったりする姿を見るにつけ、10年って年限の長さを思いつつその間に何者にもなれていないわが身を振り返ってため息をつく。いくら通っていたところで作家の人と知り合える訳でもないしなあ。なあにでもあの田村登生さんは50歳で受賞したんだから自分にだってまだチャンスはきっとある。いつか頑張ってその列に並んでみたいものだなあ。でも当時と違って今は5000通とか来るんだよなあ。それで頂点は無理も無理。やっぱり昔に頑張っておけば良かったなあ。


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