ミラクルチロル44キロ
Aパート・チロルアレンジ

 1つが11グラムだとして44キロなら4000個分、66キロなら6000個。1つ20円だとして8万円とか12万円といった値段でしかないのかと、人間の価値について自問してみたりする人もいるかもしれない。

 人間の存在があまりに軽くなってしまっている現代ならなおのこと、そんな程度と気付いてだったらもういいやと、身を火であぶってチョコのように融けてしまいたくなる人も少なくなさそうだ。

 なるほど、単純な重さで比較するならその程度なのかもしれないけれど、人間にはチョコレートとはまた違った価値がある、かもしれない。果たしてそれはどんな価値なのか? 保たれるべきなのか? それともチョコより早く融けても惜しまれない程度のものなのか? 

 メガミ文庫から刊行の木村航「ミラクルチロル44キロ Aパート・チロルアレンジ」(学習研究社、620円)という物語を読めば、その答えらしきものが見えてくる、かもしれない。

 中学生の少女のつぼみが雑踏を通りがかると、何やら募金に似た呼びかけをやっている現場に行き当たった。呼びかける言葉は「あなたのいのちをほんのちょっぴりわけてください」。応えて紙に1秒でも1分でも書くと、その場に積み上げている銀色の特別なパッケージのチロルチョコを1個、もらって帰れるという。

 つぼみは何を思ったのか、用紙の空欄に「一生」と書いて渡して1つ、銀色のチロルチョコをもらってその場を退散する。ところが、翌朝になると募金をやってた田丸萬太くんが通学路にやってきてこ、れじゃあ分からないから書き直してくれと用紙をつぼみに突っ返してきた。

 さらに、ふたたび募金の現場へと足を向けたら、サブカルファッションの胡乱な男に「死にたいんか」と咎められ、現場にいた小学生の小太郎くんからも、命を粗末にするなと怒られる。

 いったいどういうことなんだ。たかが募金じゃないのか。田丸くんの活動にかかわっていくうちに、つぼみはそこにひとつの重大な契約が存在していたことを知る。

 たかが募金ではなかったし、たかがアンケートではなかった。極めてリアル。そしてシリアス。ならば即座にチロルを返上すべき、といくはずなのに、なぜかつぼみはチロルを返して一生の時間を捧げた契約を、破棄することに戸惑っている。

 死にたいのかと聞かれ、命を粗末にするのかと言われて、そうかもしれないと思ってしまう理由がつぼみにはあった。曾祖母がいて、祖父母がいて、父親はいないけれども母親はいる家庭の中での居場所のなさ、というよりそもそも存在していることすら苦悩を覚える立場が、つぼみを迷いの縁に立たせて、一生の時間を田丸くんに渡してもいいような気持ちへと追い込んでいた。

 もっとも、田丸くんにそんな行動をさせたメフィスとフェレスというゴスロリ衣装をまとった2人の少女にとっては、つぼみのような不確定の存在はやっかいでしかない。飄々としたサブカルファッションの男も新たに加わって起こるバトルのなかで、つぼみは自分の一生を1つのチロルチョコに引き替えて良いのか、それとも違う道があるのかを考え始めるようになる。

 家庭の事情とは少し違って、体が石化する難病という状況から存在することの可否を考え、ネガティブに陥っている少女が主人公になった「愛とカルシウム」(光文社)と裏と表の関係にあるとも言えそうな物語。あるいは対を成して深く繋がった物語。

 なおかつ「ミラクルチロル44キロ」には、山積みのチロルチョコというビジュアル的にも設定的にも面白いギミックがあって、読む人の興味を引き寄せる。

 フェリックス・ゴンザレス=トレスというアーティストが、ゲイの恋人の死をきっかけにして制作した、キャンディーを敷き詰めそれを観た人に持ち帰ってもらう「プラシーボ」っていうアート作品を素材として借り、失った人への思いを現そうとしたものだと、田丸くんの募金活動は言えるだろう。

 ただし、思いの共有化、普遍化といった「プラシーボ」の主題とはまた違って、命をもらう対価といった設定を与え、もらった命をどうするのか? といって展開を与え、そして命の大切さというものを考えさせる発展性を持たせてあるところに、「ミラクルチロル44キロ」を描いた木村航ならではの作家性の発露を見る。

 物語はまだ前半で、ここから一波乱も二波乱もありそうで、どういった作品だったのかという判断はそれからになる。後半に出てくるだろう結末が、哀しいものにならないことを祈りつつ、現代アートが組み入れられて、青春もあって初恋もあって命の大切さも教えてもらって、さらにチロルチョコを味わう喜びにも溢れた作品に仕上がることを願って、下巻の刊行を待とう。

 それまでの時間を埋めるために、とりあえずコンビニへと行こう。チロルを買いに。


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