Iris on rany days
雨の日のアイリス

 1メートルもの巨大な生魚を背中にくくりつけて、テトテトと歩く美少女ロボットの物語を読みたくないか? 読んでみたいのなら、松山剛の「雨の日のアイリス」(電撃文庫590円)を手に取りページを開いてみよう。

 イラストレーターのヒラサトによって描かれる、ラビルフィッシュという魚を背負って、買い物から帰るアイリスという名のロボットの愛くるしい姿に、誰もがほほ笑みを浮かべるだろう。

 もっとも。そんなほほ笑みもすぐさま哀しみに変わる。ロボットの権威として知られる女性科学者、ウェンディ・フォウ。アンヴレラ博士の家に、博士の交通事故で死んでしまった妹の代わりのような立場で住んで、博士の身の回りの世話をしていたアイリスを、突然の悲劇が襲う。

 庇護者を失い、居場所を失い、彷徨った果てに得られた新たな境遇の中で、アイリスは、単なる道具に過ぎないロボットがたどる、苛烈な運命を知る。

 すべてを失ってしまったどん底の闇で、アイリスは大切な出会いをして、自分が、あるいはロボットが何のために存在しているのかを、改めて自分に問い直す。

 そこに道具があるように、そこにロボットがいるのだという、当たり前過ぎる答えがいけないわけではない。けれども、だったらどうして考え、動くための「ココロ」と「カラダ」がロボットたちに与えられているのか。生きた存在としてのロボット。その生きている理由を探る物語から、読む人たちは自分たちの生を自問する。

 生きるとは。それは今日を生き抜き、明日を迎え、明後日へと生き延びることの繰り返しではない。生きるとは。それは自分がそこに居て良い理由を探し、そこに居られるように頑張り、そこに居続けること。

 アイリスという名のロボットが自問し、自答する物語を通して、己の存在する意味というものを知る。あるいは意味に近づいていく。1メートルの生魚を背負った少女の日常を入り口にして誘い、「雨の日のアイリス」は読む人たちを生の探求へと誘う。

 どん底から地獄へと向かう瀬戸際で、アイリスたちが願った思いは、漫然と生きて安穏と存在している現実の人間たちを刺激する。強い願いを思い描いてひた走った果てに、アイリスが得た境地、そして読む人たちが得た心理は、連鎖となってこのひとりよがりの世界の中に、己を見て、周囲を見渡し、遠くを見据えて歩き、動くための勇気を、力を与えてくれることだろう。

 かつて、虐げられた怪獣たちの哀しみを、「怪獣工場ピギャース」(新風舎文庫)という物語の中に描き、差別なき世の幸福を探ろうとした松山剛。ライトノベルの本流とも言える電撃文庫でも、弱者への視線を失わず、正義への憧憬を保って、可愛くて、それ故に残酷で、だからこそ響いてくる物語を描き切った。

 そんな「雨の日のアイリス」を手がかりに、キャラクターを持ち、物語りを失わずメッセージを秘めたストーリーをこれからも紡ぎ続ていってもらえれば、一辺倒となったライトノベルの世界に、新たな道が拓かれることだろう。


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