Last Updated 2017/2/20
日刊リウイチ
TUNAGATTEIRUNOYO
「1998-1999年lain日記」

リウイチとは誰だ?
リウイチとは奴だ!

薄い髪に伸びた髭
趣味はアニメと女子サッカー

日刊リウイチとは
そんな胡乱な野郎の日々を
無限に綴ったページなのだ

ワーニングワーニング

(ホントはただの日記です)

◎積み上げた本の数が這々の体で1700冊に達した『積ん読パラダイス』だけど記念事業もなく、これからも地味に静かに増量方針。ライブドアブログの方で『積ん読パラダイスinBlog』なんてのも作ってみたけど誰が見ているのやら。
落ち行く世界で孤独な少女がロボットと出逢い、つかの間の交流を経てそれぞれの道を選ぶ。切なくも哀しく、そして愛おしい狩野典洋の短編アニメーション『ノアのハコ庭』に全人類よ、涙せよ。
こうの史代の漫画を片渕須直が監督した長編アニメーション映画『この世界の片隅に』が2016年11月12日に全国公開。観れば覚える圧倒的な感動を味わいに行けよ劇場へ。この辺りに個人的な感想が。
【2月20日】 凄い凄い凄すぎる。興行通信社の週末映画観客動員数で「君の名は。」が8位に入って堂々の26週連続ベストテン入り、ってのももちろん凄まじいばかりの好成績だけれど、その下の9位に片渕須直監督の「この世界の片隅に」がしっかりとランクインしてこちらも15週連続を保っている。最初が10位でそして公開館数も少ない中、すぐに落ちていっても不思議は無いし、それが普通の映画興行の世界でこれはまさしく奇跡としか言いようがないできごとだろう。どうしてそうなった、って理由を分析すれば何か映画の世界、インディペンデントな作品にも光明が見えるのか。これからいろいろ分析が始まるんだろうなあ。とにかく地道に初期からファンを増やすってことに帰結するんだけれどね。

 そんなランキングの1位に入ったのが「劇場版ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−」で、なるほど週末に映画館に行ったら夜の部がほとんど満席になっていたくらい、人が入っていたから1位も当然ってところだろう。原作本が1250万部も売れているならファンだって多いだろう。ただ映画となると足を運ぶもそれなりな能動性が必要で、それを乗り越え映画館へと足を運んで観たいと思わせるだけのタイトルになっていたってことなんだろう。そして内容を見てこれはと感じた人がどんどんと行き始めるといったところか。ARとかをエンターテインメントの中で見せて面白さと危険性を語っている作品って、そうはないから。大人でARについて関心のある人も観ておいた方が良い映画、ってなればさらに。来週の順位がまずはひとつのポイントか。

 2月に入ってから取りかかっていた文庫の解説仕事をとりあえずアップ。リテイクもあるだろうから完全に手を離れた訳ではないけれどもまあ一段落。こういう仕事はやっぱりいつでも本当に自分で書き切れるのだろうかといった不安が付きまとって、なかなかほかに気が回らなくなる。読書感想文が滞るのもそれが理由。何をどう書いたら良いか分からずとりあえず思い浮かんだ断片をメモにして書き出していって並べつつ、必要となるデータなり周辺(メディアミックス展開とか)を整えつつ道を歩きながら流れをどうするかを考え、つかみとなる書き出しを考えてからメモから該当しそうな部分を引っ張って貼り付け、足りない部分を埋めていってひとまずおおまかな枠を作ってみる。

 けれどもどうにもしっくりとこず流れを見直し、果たしてこの主題で語り通して良いのかと疑って、そして流れをひっくり返すようなこともしてどうにかこうにか形を作り、そこから言葉を選び直し句読点を検討してフィニッシュへと持っていく。そうした作業が正しいかどうかは分からないけれど、去年はそれで2冊をどうにか仕上げてどうにかなったから、自分としてはそういうやり方があっているのかもしれない。もちろん1発で頭から尻尾までかける才能が欲しいけれど、それを望むのは贅沢。今はひたすら受けた仕事をこなしていこう。解説担当100冊目にたどり着くのは100年後くらいかなあ。生きちゃいないなあ。

 気がついたら早川書房の本社1階にある喫茶店のクリスティーが夜は「PUB虐殺器官」ってのが始まっていたんで夜に立ち寄って見る。店内には映画「虐殺器官」のスチルが飾られ入り口付近には原作者の伊藤計劃さんに関連した書籍とか、SFマガジンの特集号なんかが置いてあって買えるけど、わざわざパブに来る人ならたいていは持っているかなあ、でもSFマガジンはちょっと気づかないか。そんな店内で出しているメニューからとりあえず虐殺メキシカンピザとやらを注文。到着したのは普通に厚手のピッツァでそれをバドワイザーで流し込んでアメリカンフットボールを観ているクラヴィス・シェパードとウィリアムズの気分を味わう。モニターでアメフットの試合が流れていればなおマッチしたけれど、そこでは普通に映画の映像が。観ていると思い出されてまた映画を観たくなって来た。やっているうちにまた以降か、映画にもパブにも。次はジョン・ポールピザが空飛ぶ海苔ことフライング/ウィザードを試してみよう。

 あるあると思った金正男氏の暗殺事件で実行犯にされた女性2人がテレビ番組で誰かにいたずらを仕掛けるよう言われてやったらそれが本当の暗殺だったというリアルドッキリ。服装とか事件後の振る舞いとか大事を成し遂げたとは思えない軽さで、一つ仕事を終えて次の仕事まで遊んでいようといった雰囲気が見て取れる。なおかつ報道だと前にも同じようなことをやらされたとか。あるいは架空の番組で体験させて心のハードルを下げさせそれが日常だと思わせ本番に挑ませたのかも。そうだとしたら実行犯より計画した人の方が恐ろしい。どこまで綿密に計画して仕込んだのか。それをいつからやっていたのか。いつか北朝鮮の大勢が崩壊して詳細が明らかになった時、手記とか出たら読まれるあろうなあ。映画にもなったりするか。スパイって諜報って当たり前だけれど本当にあるんだなあ。

 推定無罪の原則でいくなら、たとえ犯罪を問われて起訴をされたとしても判決が下るまでは被告であって犯人とは決まっておらず、その状態は最高裁による確定まで続くけれどもそこまで原理原則に引きずられては犯罪者への糾弾も気が削がれ、被害者がいればその感情にもそぐわないのでせめて一審の判決までは推定無罪の原則を取り入れつつ、両論を併記するような形でバランスをとるのが法治国家に生きる者の振る舞い方だろう。ましてやその言説が広く世に散布されるジャーナリズムに生きる者なら、言動には注意をはらって後で取り返しのつかないような事態を避けるのが正しい身の振り方だろう。

 それがあろうことが未だ起訴されていない事件で、逮捕されて容疑者として拘留されているNHKの元記者に対して絶対的に犯人であるかのようなスタンスでもって近付いては、身辺をあげつらうような記事を記事を掲載してのける自称するところの全国紙の記者がいて、いったい何をやっているんだろうといった思いに腰が砕ける。どこかの国防長官にならって名字の上に“マッド”などとつけて、興味本位な感情を誘って話題になりそうな事件に突撃を食らわせるキャラクターで売っていこうといったスタンスが見え見えな企画。テレビのワイドショーですらいまどきやらないそんな企画が社会の木鐸を任じ公器を標榜する新聞の題字の下で行われていることに、腰を抜かさないでいられるジャーナリストは果たしているのか。ちょっと見渡してみたくなる。

 これでもし、起訴されたとして裁判で無罪が出たらどうなるのだろう。あるいは若いが成立して裁判そのものがなくなったらどういった糾弾をできるのだろう。もしくは起訴されないまま事件そのものの存在が曖昧にされた時、いかにも非道な犯人といった感じで生地を仕立てて振り上げた拳はそのまま自分に返ってくる。そうした可能性を少しでも考慮するなら絶対に行えない振る舞いを、今というこの瞬間のアクセス稼ぎのためにやってしまう心性が怖いし、それをやらせてしまう媒体のコンプライアンスがどうなっているかにも興味が及ぶ。法務として止めはしないのか。しないんだろうなあ、それが機能していたら起こりえないような事態が頻発しているから。

 というかほかの会社に突っ込む前に、身内でも類似の事件で逮捕されている人がいるじゃないか。どうしてそこには行かないのか。“マッド”を自称している当人がかつてありもしない記事を書いては抗議され、会社を挙げて謝罪させる事態を引き起こして処分された過去があるじゃないか。そういう己の振る舞いを省みないで、未だ確定していない事態を興味本位であおり立てること事態が、もはやジャーナリズムといった枠を通り過ぎて文字通りの“マッド”な状況に陥っている。謙遜ではなく本当の意味で季が違っている。ほかに本気で突っ込まれたら軽々と粉砕されるくらいの季の違いっぷりだけれど、そういう事態にすらもはや思いを馳せる余裕がなくなっているのかもしれない。参ったなあ。本当に参った。


【2月19日】 いやあ十分にエロいだろう佐藤早紀絵さんin「亜人ちゃんは語りたい」。神を上げ眼鏡をかけてジャージを着てすそを引っ張りスリッパ姿で猫背で歩いて、それでいやらしさを隠しているかといったらまるで逆。眼鏡好きには眼鏡がピンポイントで突き刺さるし、のぞかせたおでこに惹かれる性質の人も決して少なくない。そしてジャージ。あれで胸元は隠せても腰つきだけは隠せない。丸いおしりの線がのぞき、なだらかな下腹部の丸みが見えて前からも後ろからも男気をそそる。もしもそこで何かにひっかかってジャージのズボンが下がったら? 周囲はすべて鼻血を吹き出し卒倒するだろう。

 そんな危険な服装をよくもまあ自分に許しているものだと思うけれど、これが浴衣だってやっぱりすそからのぞく白い足が誘うだろうし、ジーンズだったらやっぱりお尻が鬼門になる。いっそポンチョのようなカラのラインをいっさい見せない服でも着るか、ってそれはさすがに人権にもとる。まあそこはだからせめて自分が抑制できると思える格好で動くのが1番良いんだろう。佐藤早紀絵さんの場合はそれあ赤いジャージだったってことで。でもやっぱりエロいよなあ。高橋先生も宇垣刑事もよく耐えられるよなあ。そこがだから免疫か、意志の強さか単なる朴念仁なのか。何で私をと憤り、本気で攻める佐藤ちゃんが見てみたい。

 朝になったんでワンダーフェスティバル2017[冬]へ。到着するとずらりと初音ミクのGTカーが並んでいて、見ると初期はケイさんぽいミクが描かれていたのがだんだんと、アーティストが変わってその時代にマッチしたミクになっているって感じ。とりわけグッドスマイルレーシングは毎年アーティストを変えて来るから新しいイメージの初音ミクを楽しめる。ちなみに2017年はTonyさんという人を起用してダブルピースをする初音ミクを描いてもらったみたい。今までがピットでお手伝いするミクだったのが、妖精として応援するイメージ。そんなミクに支えられて果たしてメルセデス・AMGは走るのか。去年も優勝とはならなかっただけに復活を期そう。

 そんなワンフェスの会場に入って午前10時の開場を迎えたけれどもホールの移動が可能になるまでの時間をkamaty moonを眺めて過ごす。ユキヒョウ勇者とかスチームパンクハクトウワシとか細身でスタイリッシュな動物たちのフィギュアがあってやっぱり格好いい。「けものフレンズ」で動物の美少女系の擬人化がちょっと流行り始めているけれど、そこから元ネタの動物へと関心を向ける人たちも出る中で、こうやって前から動物を擬人化してクールに格好良くスタイリッシュに造形してきた鎌田光司さんへの注目も、さらに集まってくれると嬉しいかも。というかサーバルキャットでkamaty moon版を作って欲しいかも。どんなデザインになるんだろう。細身なところはユキヒョウと同様。そして尻尾があって耳が長くて体は勇者か紳士か。お願いしてみようかな。

 移動も可能になったんで歩き始めたら目に飛びこんできた明和電機の展示。懐かしいパチモクとかナタデコトとかが並んだ裏側にそれらのミニチュアがあってどうやらアートピースとして展開していきたい感じ。そこに海洋堂も協力しているとかでちょっと関心。そうなる前にカプセル型の新製品があってパカンと悪とパラボラアンテナが飛び出して、そこから伸びた線を引っ張ると刻みが爪にひっかかって振動し、それがパラボラで増幅されて声らしきものが聞こえてくるという。つまりはレコードの要領で音声を振動にかえて記録しそれを振動させることで声に戻るといった仕組み。うまく馴らすにはこつがいりそうだけれどでも面白い。どんな種類があるんだろう。出たら試そう。

 そしてそんな明和電機の横には何とMr.さんが。って知っている人がどれだけいるかは分からないけれど、世界のファレル・ウィリアムスといっしょにPVを作ってそこに絵を描いた人で、そして師匠は世界の村上隆というからもう売れっ子。世界でその作品が人気なんだけれど当人はいたってオタクで若い頃から美少女の絵を描きたいという思いを貫きレシートの裏ノートの切れ端に描き続けていたらだんだんと腕前も上がり構図も複雑に成り、そしてそこに重層的なメッセージ性めいたものまで乗って強いインパクトを与えるようになった。

 そんなMr.さんが何と海洋堂が誇る原型師のBOMEさんと一緒にフィギュア作りを始めたようで、開場には6分の1スケールくらいのが1体と、そして等身大のフィギュアが並んでた。これがまた可愛くて。元の絵もそれなりにキュートにしあがっているんだけれど、それをBOMEさんが立体にして作り上げたものは今にも動き出しそうな、けれどもやっぱりフィギュアといった面持ちで見る人をぐいっと引っ張り込む。指でつまんであげたスカートの中はどうなっている? って思わせもする。はいているのかなあ、それはいったい何色かなあ。見たかったけどそこは我慢。

 そして午後からはBOMEさんを迎えてのトークイベントがあって、今後の作品をどうするかって企画会議が行われていてそこでBOMEさんはスカートはあんまり作りたくなさそなことを言っていたけれど、トークイベントに同席した村上隆さんがスカートだと携帯差し込んで中撮ったりってそそる部分があるからねえ、と誘いだったら短パンはって話になって、次の作品はショートパンツの女の子とか作られそう。村上隆さんとBOMEさんなら「Ko2ちゃん」で組んで等身大もやったしガレージキットもやった。そこから10年以上が経って今度はMr.。何でもBOMEさんと話が合うようで、どちらも妥協はしないで言葉のキャッチボールがかわされ足が細くなったりとかいった変化が起こっているらしい。刺激し合って共に何か新しいものを生み出していくのかな。もしかしたら歴史の始まりを目撃したかも。こちらも行方を追っていこう。

 まずもって現地には入っておらず、何10キロも離れた場所からこの先には進めないと嘯いてみせ、そして状況にそぐわない疑いばかりをかけて相手に釈明の機会を与えないまま放送をして、それは報道ではないのはもちろん人権と名誉を著しく毀損するものだと反論され、BPOでその是非が検討されているというデリケートな上に旗色的には芳しくない「ニュース女子」っていう番組の側に寄り添って、それこそが事実であってそんな事実を報じたにも関わらず、反論を受けるのは言論弾圧であるといった無茶な論理を振りかざす人たちがいる、といことがどうにも厄介きわまりない。

 けれども、そんな人のそういった意見をのみ紹介して「ニュース女子」の内容は正しいをお墨付きを与えるような記事を載せてしまえる社会の木鐸なり公器を標榜する自称全国紙が存在する、という状況がまたおうにも難解きわまりない。報じるに当たって両論を併記とまではいかなくても、エビデンスを重ねて相手に反論の余地を残さないようにするのが真っ当な姿勢というもので、そこが欠けていて反論を食らっている「ニュース女子」を擁護する意見をさらに擁護するようにして、相手の反論も入れず自らの検証も行わない新聞もまた性質の面倒さで上を行く。

 ただテレビ番組ならBPOでの審議はあっても新聞は誰も咎めず誰も諫めない。そしてそのまま信者にのみ持ち上げられて大勢から見捨てられる。省みる機会など与えられないまま。それが怖い。気づいた時には取り返しが付かない窮地に陥ってそう。それとも既にそんな場所へ? そこがどうにも恐ろしい。稼ぎが減った分をやれ刊行物だやれイベントだといって稼ごうとしたところで、幹となる新聞の信頼と影響力があってこそ成り立つもの。そこがグズグズになってしまっていては寄りかかろうにも倒れて崩れてしまう。そういう根本を理解しないで周辺で稼ぎを上げようとして大丈夫なんだろうか。それとも本気で幹は頑健にして強固と思っているんだろうか。どうしてそう思えるんだろうか。何が何だか分からない。


【2月18日】 せっかくだからとイオンシネマ幕張新都心で始まったULTIRAによる「マイマイ新子と千年の魔法」の上映を観る。デジタルシネマにコンバートされて音声も向上したみたいで細かい声が左右から聞こえてくるような感じ。そして前方で見るとスクリーンが目の前いっぱいに広がって自分が麦畑の中にいるような気にさせられる。こういう巨大なスクリーンが増えているのにどーして来場者はもっと前目で見ないんだろう。それがいつも不思議になる。観ると中央でも降壇に陣取っている人、いるからなあ。スクリーンからちょっと間も取ってある最前列とか2列目3列目とかが売れ残る。そこが分からない。

 視野に楽に収まって余裕が出るくらいの距離なら家で大型のテレビを見れば済む話。映像だって音質だってもっとクリアになるだろう。映画館ってのはそういう場所では不可能な体験が出来るとことな訳で、スクリーンが巨大ならそれが視野を埋めるくらいの距離で観る。そんなことをモットーにしている。今回もそれで大成功。貴伊子のスカートからのぞく足とかシミーズを間近に見上げるように観ることが出来た。どかっと座る新子の股ぐらも気になるよなあ。上映がいつまでかは分からないけれど、あと1回くらいはULTIRA上映で観ておきたいかな。でも「ガールズ&パンツァー劇場版」のULTIRA上映も観ておきたいし……。うち思春期、迷う歳。

 そんな合間に新宿バルト9の方では神風動画によるアニメーション上映と声優による生の声、そしてバンドによる生演奏が重なった「COCOLORS」の公演が無事に行われたようで、大失敗もなく感動を誘っていたみたいで今後の展開に期待がかかる。声優さんが声を入れて音楽も録音されたアニメーションとしての映像も観てみたいところだけれど、こうやってライブエンターテインメントの形で成功すると円盤を売って終わり、上映によって興行収入を得て終わりじゃない違う展開もあるのかなあ、と思えてくる。ただ準備は大変で回数も重ねられない公演は高くなりがち。そこと集客との案配を保つのも大変な中で、どの道を行くのかがアニメーションの未来を見る上でも重要だろう。実験が冒険から日常になるか。それも含めて今後を見守りたい.

 そんな「COCOLORS」の公演を見ていて思い出したのが1998年の6月くらいに渋谷公園通り劇場で開かれた「トリスアギオン」というイベント。押井守監督ガタイトルを作りじんのひろあきさんが原作・脚本・演出を務めた公演は声優の横山智佐さんを迎え、掛須秀一さんが編集した画像をバックに朗読をするリーディングドラマの形式で行われた。音楽や効果音なんかは録音だったけれども展開によって声が重なり演技も変わるところは「COCOLORS」に似ているかも。もうちょっと突きつめて公演が行われれば、そして「トリスアギオン」のメディアミックスが進めば新しいエンターテインメントの形を世に示せたかもしれないけれど、残念ながら公演だけで終わって今は何処。ちょっと残念でならない。ただ原作のじんのひろあきさんは再起を狙っているらしいし、こうしたライブな公演が話題になっていることもあって誰か復活と動くこともあるかもしれない。そうなったら改めて観たいもの。期待して待とう。

 2月18日から東京・秋葉原のクラブセガ新館7階にオープンした「セガコラボカフェ 劇場版ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−」には「キリトの具なし和風パスタプレート」というメニューがあって、文字通りに何の具も絡まっていないゆであげパスタに刻まれた大葉が乗っている。こで美味いのかと問われて見た目だけで答えるのは困難だが、食べれば昆布出汁のつゆが絡められていて大葉の薬味とともに和風バジリコといった雰囲気を醸し出す。添えられたサラダに入っている温泉玉子を取り出し混ぜれば和風のカルボナーラにもなる。アスナの絵がプリントされたBLTのサンドイッチもセットになって1200円。高いか安いか。それは「劇場版ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−」を観たか観ていないかで考え方も変わるだろう

 実はアインクラッド編を読んで面白いと思ったものの、これで一段落がついてデスゲームというピリピリとした状況から帰還を果たしたキリトとアスナにいったい次のドラマなんてあるんだろうかと思ったりした小説版「ソードアート・オンライン」。続くフェアリィ・ダンス編でVRゲームの面白さに親しんだものの背筋をざわつかせる戦慄は薄れ、そしてファントム・バレット編を読み終えたあたりで一種の変奏としての楽しさは覚えたものの、SFとしての発見をどこまで得られるかといった疑問も浮かんで以降、しばらく小説は積んだままになっている。アニメーションの方もだから同様に、第1期を見た程度であとはだいたいのことを知っている程度。それだけに劇場版が作られるといった話に諸手を挙げて喜んだかというと最初はそうではなかった。

 けれども舞台がVRという変奏が効く世界を飛び出しAR、すなわち現実を舞台にしたストーリーになると分かって俄然、興味が湧いてきた。予告編なども始まってVRのようにうまくいかないとキリトがぼやく場面で、ただの運動不足と突っ込みが入る流れにそうだ、これはVRでのチートだスキルだといったどうにでもなる展開とは大いに違った、新しいビジョンを得られると期待した。そして観た「劇場版ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−』はAR時代に相応しく素晴らしい興味深さを持ったストーリーで楽しませてくれたし、同時に1200円の具なし和風パスタを頼んでも良いと思わせた。

 後者から説明するならVRの世界で無敵のキリトも現実世界では甲斐性無しの半ばニートな青年で、食事に凝るとかいったことはしないでパスタを茹でて大葉を刻んで載せて食べる程度の食生活を続けている。ネット弁慶とでもいえそうなその存在はすなわちネット依存が強い人々を写した鏡。その共感からこれは食べねばと思わされた。実際に味も悪くないし。前者に戻るならフルダイブ型のVRでは物理的な運動神経とは違った部分で強さが決まって経験なり脳神経の何かなり記憶や意思の強さなりといったものが戦果に大きく影響しそう。

 そこで閃光のアスナなり、黒の剣士なりと呼ばれ活躍したキリトが現実の世界で試したAR装置<オーグマー>の上で楽しむゲーム「オーディナル・スケール」では、現実世界を見る視界に重ねてファンタジー調の世界が現れ現実にはいないモンスターが沸いて出てきてそれを現実には持っていない武器で討伐する。ただしモンスターなりボスのいる場所には歩くか走るかして行かなくてはいけないし、攻撃をされたら体を畳むなり横にそれるなりして避けなくてはいけない。

 反射神経に運動神経、そして何より体力という物理的な力が求められるARの戦いで、ネット弁慶のキリトに果たして勝ち目はあるのかといった問題が提示され、今までの変奏とは明らかに違った展開を見せられる。同時にARであっても人間の視覚なり聴覚といったものを動作させて楽しませるゲームであり、それを実現する装置に何か仕込まれていたらといった興味が浮かんで、フルダイブ型で脳をシェイクするVR装置とはまた違った形での脅威をどう表現するかに興味を惹かれる。

 結果、驚くべき作用を<オーグマー>は見せてくれた。それは「ソードアート・オンライン」のシリーズに続く時代を想定して川原礫が紡いでいる「アクセルワールド」に登場する、人間の意識そのものを加速させつつ現実世界に重ねて仮想世界のビジョンを近くさせるニューロリンカーの登場を予感させる。つながっていると分かっていた2つの世界を本当にリンクするテクノロジーが見えてきた。そんな世界を実際に結ぶ物語が描かれるとしたら、これは俄然興味も沸いてくる。小説を読み直し映像かされたら観るだけの動機が生まれて来た。

 果たして<オーグマー>とそして「オーディナル・スケール」でやろうとしていたことが技術的に可能かは分からない。ただ大勢の記憶に断片として散らばっているさまざまな情報をかきあつめることでひとつの存在を作り上げることは可能かもしれないとは思う。ネットが世に普及して四半世紀はたっただろうか。その上に残された特定個人の情報の断片たちを、全世界からかき集めることで特定個人をも作り上げる。没した人物の人生を関わりのあった人物へのインタビューで描き上げるドキュメンタリーをもっと巨大なスケールで行い、そして人格的なものまで作り上げてしまう。そんな未来のビジョンを示してくれたという意味で『劇場版ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-』はSF的に観る価値のある作品と言えそうだ。

 ドラマ的にもそこには悲しいできごとがあって、心情として理解したくなる部分もある。ゲーム「ソードアート・オンライン」が引き起こした悲劇の後始末がなおも続いていることに愕然としつつ、そんな多数の悲劇を招いたゲームを作った人物と、そんな人物も含めて物語を創造した作者への憤りも浮かぶ。とはいえフィクションへの八つ当たりはみっともない。提示されたドラマの上で奪われた命があって、それへの同情や憐憫を糧にしながらこれからの現実世界でテクノロジーによって奪われる幸せがないかを確かめていくしかない。

 VRでは無敵でもARではネット弁慶ゆえにからっきしだったキリトが、アスナのためにARでも勝つための鍛錬を自らに課していった展開に、あれでなかなか気骨があるといった思いも浮かぶ。そこまでしてやっぱりアスナを我が物としておきたいのか。ネットだからと身を飾り心根を偽って別人格を装うことが難しかったゲームだからこその一致性は、死と隣り合わせのひりひりとしたゲーム世界にあって、もしかしたら意味のあった設定なのかもしれない。

 例えば、高齢で公務の遂行に差し障りが出始めていることを思い悩みつつ、けれどもその地位を譲ることができない現状を気に止めて、この高齢化社会で果たしてそれで良いのかと問い、自らを厭うのではなく公務というものの在り方を問うて新しい道筋を作って欲しい、それは自分のためではなく後任のためでもあり、また国民のためでもあると問わず語りに示された天皇陛下のお言葉を、そのまま受けずに今上天皇の譲位のみで澄まそうとする政治家なり勢力がいれば、それは天皇陛下という日本の国体の中心、日本国民の象徴が感じられていることに竿を差している訳で、まさしく「反日」と呼ばれてしかるべき振る舞いであるにも関わらず、そうした声を発するなり、誰かの声を拾って訴えることはしない。

 むしろ現行の政権が進め決めようとしていることに対して異論を唱え、反対しようとしている行為として恒久法による生前退位なり譲位の道を唱える者たちに対して「反日」といったレッテルを貼りそうな雰囲気すら漂わせている。ここでいう「日本」とはいったい何だろう。自分たちが好み支えあるいは好まれ支えられる関係にある特定個人がトップに立った現行の政権をのみ「日本」と位置づけ、その振る舞いなりその思いなりに逆らうものを「反日」といって糾弾し排除しようとしているとしか思えなかったりする。そう思うととある自称するところの全国紙が、紙面なりネットの記事に使う「反日」というタームの意味も何となく輪郭線を帯びてくる。

 もっとも、そうした現行政権が時に平穏を望み外交を進めようととった振る舞いから向き合って慰撫する国々でありながら、自分たちが厭い憎んですらいる特定の諸外国を悪し様に誹ってそうした国々に荷担する、とまではいかなくても憎まず存在を認める言動をも「反日」とレッテルを貼って糾弾する場合があるから分からない。それは国体であるとこの天皇陛下にも、あるいは国政を担う現行政権にも背く言動。なのに「反日」と言って誹るそこでの「日本」とはいったい何なんだろう。つまりはそうか自分か、自分たちこそが「日本」であってその思い、その好みから外れるものはすべてが「反日」だといった思考プロセスがそこにはあるのかもしれない。

 そしてそれは人によって微妙にズレるし時期によっても変わる。変わるけれども平気で基準の定まらないタームを使って平気な顔をしているところに一体どうしたものかといった思いが漂う。なんてことを「週刊金曜日」の2月17日発売号のとある特集から思ったり。ほかにも頻出する大間違いの記事なんかがずらり並べられているけれどもそのどれもが騙されたとか見解が違うと言ったものではなくて、言いたいことのためにありもしないことを付け加えたといった感じで、他でやったらもうそこにはいられなくなりそうな事態だけれど誰もがそこに残っていて、そして偉くもなっている。それで他を批判するからもう他は何を言ったら良いか分からないだろう。批判したって馬耳東風。そんな“無敵の人”相手に本気で突っ込んでいった「週刊金曜日」は偉いなあ。でもそれで変わらないんだろうなあ。取り巻く味方の慰撫を浴びて頑張っていると思い混む。そうやって狭まる塔はいつか折れ、しがみついている者たちもろとも沈むんだ。やれやれ。


【2月17日】 実は毎週楽しみにしているテレビアニメーションは「けものフレンズ」だけじゃなくって2クール目に入った「ALL OUT!!」も大好きで、ラグビーってドラマだと泥臭くなってしまうスポーツを説得力を持った肉体ともどもスタイリッシュに、それでいてちゃんと熱血にも描けるところがアニメーションならではといった感じ。一応は素人からラグビーを始めた祇園健次が主人公のようになっているけれど、相方ともいえる石清水澄明も含めてた2人だけに絞らず、同じ神奈川高校ラグビー部のメンバーや、対戦する相手の選手たちのドラマを群像劇のように描いては、ラグビーっていうスポーツに取り組み学生と、その周辺で動く大人の心情をしっかり見せてくれている。

 最新のエピソードでは大阪から来て府大会のベスト4に入ったくらいの強豪校を相手にした練習試合が描かれていて、天才ともいえるフルバックを持った天竺が最初はリードするものの、籠コーチの指導もあって低くタックルすることを覚え、そしてそれぞれが自分の役割を果たすことを理解し、何より勝利したいという思いにあふれた神高が徐々にリードしていく。その過程で天竺でも天才ながらもそれだけに周囲の雑なプレーに我慢がならない桜練平がやる気をなくし、ずっと一緒にやって来た逢坂淳からも嘆かれていたのが印象的だった。さすがにあれは堪えたか。

 そこで気づいて立ち直るかと思われたものの、膿んだ気持ちはなかなか真っ直ぐにはならなかたようで、後方で突っ立ったまま攻撃に参加することなく、練習試合は神高が勝利して終えた様子。その先となる次週のエピソードで、いったいどんな風に練平の覚醒と再起が描かれるか。それが次の花園といったエピソードにも繋がっていくんだとしたら面白い。弱小だった神高が熱血の祇園を混ぜ籠コーチも得て立ち直り、そこから溢れた情熱が他校を刺激してお互いに強くなる。大きくなる。そんなスポーツの良さを描ききった作品。これをもっと全面的に推せば、日本ラグビーフットボール協会だって試合の観客とかプレーヤーの数とか増やせると思うんだけれど。一部タイアップはあったみたいだけれど、「キャプテン翼」のような力は発揮できるのか。2019年のワールドカップに向けた動きに注目。

 第10巻が出て“羊殺し”も捕まってひとつのクライマックスを迎えた感もあるけれど、それで終わるとも思えないで何やら不穏な動きも見えてきたゆうきまさみさんの「白暮のクロニクル」。そこではすっぽんぽんに剥かれながらも伏木あかりが巨体を飛ばせて茜丸に膝蹴りを食らわせ、自称68キロの体重をかけて潰してみせる技を見せて大きいことは良いことだ感を醸し出していた。そんな伏木あかりが第1巻から1センチずつ、成長しているんじゃないかと半分冗句で言っていたら、どうやら本当に当初は178センチくらいの申告でもって描かれていた伏木あかりが、実はそんなに小さくないと感じられるようになって180センチを超えて描かれるようになったってことを、ゆうきまさみさんが書いていた。やっぱり気のせいじゃなかったんだ。だとしたら体重も自己申告の68キロではなく……ってそれはちょっと可愛そうか。でも山根恵里奈選手だって26歳になって公式の身長が1センチ伸びたみたいだし、大きいからといって人間、まだまだ成長できるってことで。20巻で完結したらその時は2メートルを超えているかな。

 ポン酢だなあ、としか。例の南京事件はなかった系オピニオンを掲げた自著を経営するホテルの客室に置いて炎上した人が今度はこともあろうにカナダでユダヤ系の人をステレオタイプ的に取り沙汰した見解を乗せた文章をホテルの部屋に置いて大炎上。さすがに相手が相手だとすぐに引っ込めたようで、アジアが相手だと文句も小さいと胸をそらせ続けるのに対して、ユダヤが相手だと平身低頭するあたりに主義主張なんてものの薄っぺらさも見えてくる。別に揶揄はしていない、お金儲けがうまい人たちに日本ももっと見習うべきだと讃えているんだといったニュアンスで言い訳もしているけれど、そんな人が以前にユダヤが世界のメディアを支配しているのがいけないんだとぶち上げようとして、意見広告を出したらさすがに拙いと削られたって話を書いている。今も主張は続いているみたいで、そんな意識で実は尊敬しているんだと言われていったい誰が信じるか。安倍総理とのの近さも取り沙汰されている人だけに、そういう人と近いんだと世界から攻められた安倍総理が断を下すかなんて局面もあるのかな。薄めで気にして見ていこう。

 小説では綾崎隼さんの「君と時計」シリーズなんかがあって安里アサトさん「86−エイティシックス−」もあってアニメーションでは「けものフレンズ」が入ってきそうな個人的日本SF大賞候補に漫画で参戦してきたのがタカノ綾さん「ゼリゐ文明の書」(駒草出版)。学校で虐められてる少年を2人の少女が鍛えて反撃させてさあ青春が始まるかと思ったら時間は一気に200年後となって、そこでは少女たちが何やらゼリイ状態なものに包まれつつ平穏に暮らしている。巨人がはいずって移動しているのに載って人々も移動したりといった世界観。たった200年で何が起こった、なんて想像も浮かぶ上に、そもそも人間はどういうった存在になっているのかといった興味も浮かぶ。

 明確なストーリーを貫くでもなく強烈なキャラクターによって引っ張るでもない、断片的で観念的な展開だけれどそんな端々に言葉として、あるいはビジュアルとして示されるひとるの少女が企んだ世界の改変と、その後に起こった不思議が200年後の世界を作り、そして人々をさらに別の場所へと導こうとしている。群体生物といったらどこかソラリスの海なんかも思い浮かぶし、人類の未来って意味ではそれこそ「けものフレンズ」なんかとも重なる主題を、現代アーティストとしてドローイング1枚が数万円数十万円するタカノ綾さんが漫画として描き抜く。アート換算だといったいいくらになる? でも漫画なら1枚数万円の原稿でも描きたかったテーマがそこにある。読んで感じよう、明るくて切ない未来のビジョンを。

  凄かった。そして素晴らしかった神風動画によるアニメーション「COCOLORS」の上映イベント。神風動画ならではのフル3DCGによって描かれた、何かの理由で地下へと追いやられ汚染を避けるために全身を防護服で覆われヘルメットも被ったまま、だんだんと衰退し滅亡へと歩む世界を生きている者たちの絶望と、ささやかな希望を描いたアニメーションが新宿バルト9のスクリーンで上映される。そのアニメーションからは声が出ない。音楽も出てこない。声はスクリーンの前に立つ声優たちがその場で演じる。音楽も声優たちとスクリーンの間に並んだギターにドラムにベースにキーボード、そしてハンドパンといった楽器を手にし、前にしたミュージシャンたちがその場で演奏する。つまりはライブ。声もライブで、それらがあらかじめ作られている映像を彩っていく。凄いとした言いようがない。

 始まりは少し迷う。手前の声優が演技をして、そして背後のスクリーンではキャラクターたちが動き回って仕草を見せる、その間で音楽を奏でるバンドへと向かって目の焦点が前後に動く。どこに目を置いたら良いのか分からなくなるけれど、それがだんだんと重なってくる。映像があってストーリーが進み、キャラクターがいて表情こそヘルメット越しで見えないものの仕草が感情を表現して、それにぴったりの声優たちによる声が乗る。情感を、あるいは状況を奏でる音楽が響いてその場に一体となった「COCOLORS」というひとつの作品が立体感を伴って現れる。本当の意味でのフル3Dと言えるかもしれない。

 映像に音楽を重ねるのならサイレント映画にオーケストラが音楽をつけて上演されたD.W.グリフィスの「イントレランス」をはじめ、いくつか過去に事例がある。声優が生で声を乗せることもイベントなどでは生アフレコとして行われている。朗読のような形式で映像にナレーションをつけつつ演技をするような場合もある。ただ、45分ほどの短編アニメーション映画に声優たちが6人並んでキャラクターをメインのほかにサブやモブも入れて演じ分けながら、その場で声をつけるといった例はあまり聞かない。そんな演技に重ねてバンドが効果音的なものも含めて音楽を奏でていくのはなおさら珍しい。半ば奇跡ともいったプロジェクトが、目の前で繰り広げられている。凄いという言葉しか出てこないのも分かるだろう。あるいは素晴らしいという言葉しか。

 ミュージカルとは違うし演劇とも言いがたい不思議なアクト。けれどもおかしさはまったく感じない。素晴らしいのは目の前で声を発する声優たちの演技がダイレクトに耳に届いて心に突き刺さるところ。普段は見られない声優の声の出し方を、その構え方、その表情も含めて間近に見られてどうやって、マイク前に立って台本を持って声を発しているかが分かる。演技の巧みさも含めて。慟哭に呟き、嬌声に悲嘆。そんな感情を声に乗せて腹から喉を通してマイクに乗せて場に広げ、スクリーン上のキャラクターと重ねて見る人に届ける。職人技としか言いようがない。そうやって特別な演出が施されながらも肝心の物語が不足指定は意味がない。そして「COCOLORS」は完璧なまでの悲痛さがあって切なさに満ちてささやかな希望を抱きつつ優しさに身を委ねたくなる物語がそこで繰り広げられる。衰退がだんだんと及んでヘルメットに防護服を着た住人たちの数が減っていき、賑やかさが薄れ暗さが広がっていく。

 フユという声を出さず笛で会話する者、そしてフユが描きたいと願う世界の為に地上から色のついた石を届けるアキという者、そんなフユやアキの兄貴分のようなシュウという者のほか、何人もいた仲間たちが1人欠け、2人いなくなって減っていく。その者たちが被っていたヘルメットが、フユのアトリエの机の上に並んでいることに気付いた時、世界の苛烈さが強く激しく感じられて胸を苦しくさせる。そんな世界で何故生き続けるのか。そんな世界でどこまで生き続けなくてはならないのか。滅亡が確約されていないのなら、どこかに希望だってあるだろう。けれどもそうは思えない。灰色にくすんだ空から散るあれは何か危険なものの灰なのか、ただの冬につきものの雪なのか。それすらも判然としない世界に漂う閉塞感に、押しつぶされそうになる。ここで終わってしまおうとすら思えてくる。そんな時に現れる、かつての仲間たちがアキの背負ったフユのお尻を押して外へと向かわせる。最後の夢。最後の望み。それがかなった時に浮かぶ、絶望に溢れた世界にもあった優しさであり、慈しみであり平穏といったものに心を寄せたくなる。

 そんな心打つ物語を神風動画がフル3DCGという手法を使い、ヘルメットを被って顔の見えないキャラクターたちを配置し、廃棄されかかった地下らしく人工物の通路と建物が詰まった世界を構築して描き上げた。ピクサーなりディズニーが見せる人間らしさでいっぱいのキャラクター造形とは違って無機質で人工的。それなのに動きであり仕草であり、さらには声優の演技によって人間らしさをそこに浮かび上がらせる。腕前だし、日本的なフル3DCGアニメーションの到達点とも言えるだろう。鎌田光司という、クールでスタイリッシュな動物たちのフィギュアや、スチームパンク系の造形の世界で名が知られているクリエイターを起用して、フユが奏でる笛や地下の住人たちがあがめるご神体をデザインしてもらい、というより造形物を作ってもらってそれをスキャンして映像に取り込み、アニメーションにしたのも新しい挑戦だと言える。他にないセンスを取り入れ、今までにないビジョンを紡き上げた。

 これがもし、普通にアニメーションとして作り上げられ、声優によって声が入れられ音楽が入り効果音が乗ったものとして、どこかで上映されていたかもしれない。そうなった時に果たしてどこまでの喧伝がなされたか。作品性だけで世に広まらないことは他の作品が証明している。CGアニメーションの好事家たちの間で神風動画がまたやったと評判になって終わり、だったかもしれない。それがこうして、映画館で生のバンドが入り、生の声優たちによる演技が乗って上映された。完成までに声も音楽も用意できなかったといった事情を逆手に取るように、企画して作り上げたこのイベントは、結果としてひとつの奇跡を見せた。完璧な。完全なる。

 もちろん奇跡は珍しいからこそ奇跡であって、こうした形態で「COCOLORS」がいつまでも上映されるとは限らない。いつか普通の映画となって短編アニメーションとして上映されるようになるかもしれない。それを見てもちろん感動は味わえる。けれどもひとつの場に声優たちが立って息づかいも含めて表現し、バンドが音楽を奏でて声優たちの演技を煽り、逆に声優たちから刺激を受けて音楽を合わせるようなコラボレーションを体験できるのは、こうした公演形態だけだ。もしも可能なら、機会があるうちに是非にアニメーションのファン、声優のファン、バンドのファン、そして新しいエンターテインメントを探っている人たちに観て欲しいし、逃したならいつかまた、こうした奇跡を再現するような場を作って欲しい。体験した者のそれが願いだ。心から。全霊をもっての。


【2月16日】 ようやく読んだゆうきまさみさん「白暮のクロニクル」の第10巻で伏木あかりの身長がまた伸びたような気がするのは気のせいか。1巻ごとに1センチずつ成長させていったらもう10センチは伸びてしまっていることになるから、さすがにそれはないか。でも静かにやっていたらちょっと面白いかも。そんな伏木あかりが捕まって“羊殺し”に腹を切り裂かれようとしていたけれど、巨大だけあって体重も決行あってすっぽんぽんから飛び膝蹴りを喰らわせ脱出に成功。そして助けもあって解決した“羊殺し”ではったものの、身内に不穏な影も見えたりして話はまだまだ続きそう。どこが帰結か。そして伏木あかりはどうなるのか。読んでいこう。次は192センチくらいになっているかな。

 ダークファンタジーでブラックファンタジーでブラッディファンタジー。それが真坂マサルさんの「魔法密売人 極道、異世界を破滅へと導く」(電撃文庫)。現世に来たエルフの少女が強面のヤクザの放尿を浴びせられ、危ない状況だったところをその強面のヤクザを若いヤクザが殺してしまう。別にエルフを助けようとした訳ではなく、抱えていた怨みがあったから。そんなヤクザの男にエルフは異世界に来て欲しいと頼み、そして戻ったその世界で目的としていた連れ去られた父母や同族を助けに城へと向かったら、拷問を受けて全員が虫の息だった。

 いったい誰が命じたのか。いったい何が目的なのか。それはおそらく王様で、目的は魔法の力を発動させる特殊な液。それをエルフは連れてきた若いヤクザに使ってもらい、幻惑を発生させる魔法を発動させられることを知って協力を仰ぐ。ヤクザはそこはヤクザだけあって情で動くことはせず、元の世界に戻れる魔法を使えるのがエルフの少女だけらしいと分かって、とりあえず協力を約束して彼女の父母らエルフ族を連れ去った犯人を探りに王城へと潜入する。

 王様のために薬を調合している男の下で本性を隠して働きながら近付いていった果て、ヤクザが知った事件の驚きの真相。王位の後継争いの中で生まれた欲望や、人に潜む残虐の心性が蠢きぶつかり合って、純真な姫を絶望させ、復讐に燃えるエルフを血みどろにし、過去を引きずりつつ現世への帰還を思うヤクザの手を血塗れにする。ハッピーエンドもカタルシスもゴミ溜めに放り込んだかのように、復讐が先走り欲望が暴走して血を流させ死を招いて世界は混沌へと突き進む。すべてが片付いて復讐は成し遂げられたものの、平穏は訪れない。

 まさに異世界が破滅へと向かう物語。それでも帰結に見えた光明が世界を救うと信じたいけれど……。続きがあるかどうかは分からないけれど、とりあえず異世界に止まり元いた世界へと戻る可能性を探りつつ、今いる世界を保持しようと動くヤクザの行く末がどうなるか、魔法を使えば使うほど身に訪れる副作用を知ってそれでも魔法を使い続けるのかが気になる。書かれればそれが明らかにされるだろう。とりあえず言えることは、この本は今出ているノワールだのクライムだの極道だの異世界転生だのといった作品のどれをも差し置いて読んで驚愕に打ち震えられる1冊ってこと。そんな物語がライトノベルのレーベルから出るのが凄い。いやいやそうでもないか。電撃文庫って昔からそうだったから。

 アンドロイドルの発表を聞きながらこっそりとネットで注文していた「けものフレンズ」の1話から8話までを一挙に上映するイベントのチケットがちゃんととれていたようで善哉。情報が上がってから完売になるまでそれほど時間もなかったようで、会見が終わってからだと多分変えなかったかも。もちろんこれまでの話数は全部見ているし、上映会で加わる第7話と第8話ももちろん見るだろうけれど、大勢が集まって楽しげな雰囲気の中であの主題歌「ようこそジャパリパークへ」を聴き、優しさがあふれた展開にニマニマとするのは他にかけがえのない経験。出演者あたりが登場してのトークイベントもあるみたいだし、ともに番組を愛するファンとキャストが同じ場を共有することでなおいっそうの共感も生まれてくるだろう。そこからさらに世界に優しさの気持ちが広がっていったら嬉しいかなあ。可能なら次は日本武道館で1万人を集めて同じ気持ちを共有したいなあ。

 チケットといえば3月からツアーが始まる山下達郎さんの公演がとりあえず市川市文化会館と、そして神奈川県民ホールを取れてまずは僥倖。前回のツアーは最初の市川市文化会館こそ取れたもののその後がさっぱりで、そんなツアー中になくなった村田和人さんを追悼する達郎さんの歌声を聴くことが出来なかった。決して楽しい歌ではなく、寂しさが滲んだものではあっただろうけれども村田さんも好きだった身には、その歌が達郎さんによって歌われるのを是非に聴いてみたかった。サンデーソングブックでやってくれたかどうか分からないけれど、もしも今も心に思いが残っているのなら、大滝詠一さんへの追悼に加えて村田和人さんへの追悼も、セットリストに載せて聴かせて欲しいもの。どうなるか。まずはちゃんと行けるように日程を整理だ。

 具なし和風パスタって、いったいどんな味かを知りたかったら秋葉原のクラブセガ7階に18日オープンする「劇場版 ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−」とのコラボカフェに行くと良い。何でも映画に関連したメニューらしいけれども見ていない身にはさっぱり。それでも取材と称して伺って食べた味は和風というだけあって昆布出汁が利いたゆであがりのパスタに刻まれた大葉が乗っていて、まぜて食べるとバジリコとはまたちょっと違った味わいを楽しめる。家出もやってみたい料理。昆布出汁って瓶入りか何かあるのかな。そんな具なし和風パスタに添えられたサラダに入っている温泉玉子をパスタにかけて混ぜると、カルボナーラ風になるというのがアスナ役を戸松遥さんの言。試してみたらなるほどこれも一興の味だった。映画を見ていったい何で具なしかを知ったらまた行って食べてみたいけど、予約でいっぱいかなあ、やっぱり。

 「マンガ大賞2017」の候補作に入っているんで読んで観た堀尾省太さんの「ゴールデンゴールド」は島にアニメイトが出来て欲しいと願う少女が海で拾った干物のような神様めいた像がいつしか居着くようになり、そして欲望をかなえるようにして婆さんの経営する商店や旅館を繁盛させていく。とはいえ狭い島で先走ったことをやれば軋轢も生まれるようで、嫌がらせも続く中でだんだんと神様が本性めいたものを現していく。そしていったい何が起こるのか、ってあたりまでが第2巻。きっと人間を操り自分を太らせようとする神様が世界に害を為すんだろうなあ。それをどうやって止めるかもきっと読みどころになるのかな。それとも島を出ればきれいさっぱり忘れてしまう特製から、狭い範囲で王国を築くような展開になるのか。興味深い展開。過疎化する離島の今後といった社会性もちょっぴり。でも推すには他が強いかなあ。もうちょっと巻が進んでからまた読もう。


【2月15日】 夜中にかけてネットの上を、朝鮮民主主義人民共和国の第2代最高指導者だった金正日の長男で、前に日本に入国して捕まり退去させられた金正男がマレーシアのクアラルンプールで暗殺されたとかいった情報が飛び交い始めて火元となっていたKBSのサイトからそんな可能性を把握。何か2人組の女性によって毒針で刺されたとかいった情報も出始めて21世紀にもなって白昼、公衆の面前でそんなあからさまな暗殺が行われたりすることがあるんだと驚きつつ、そういった配慮にすら思い至らないくらいに目の前の暗殺を成し遂げなくてはいけないといった思いが、依頼した側にあったのかもしれないと考えそのアナクロ思考に戦慄する。

 もはや国際常識だのといったものとは無縁の世界に生きているとしか思えない所業。あのロシアだって政権にとってヤバいと思われたリトビネンコを放射性物質の弾丸をぶち込むことによって死へと追いやりながらも黒幕が誰でどういった経路で誰が実行したかといったことは見せずにいたし、表だって認めずにもいた。でも今回はあからさまにどこの誰が何を目的にやったかが分かって直接の実行犯もどうやら確保されつつある。調べればすぐに大本へとたどり着くだろう。それでもやってしまう。

 たとえ大本が誰だと露見しようと、あるいはこうじゃないかといった類推の中であろうと、異母とは良いながらも同じ父親を持つ兄弟が諍いの果てに死へと追いやったと見做されてしまった状況で、果たしてまっとうな治世を国内で続けていけるのか、海外から相手にしてもらえるのか、って考えるとそこは厳しそう。でもやってしまうそのコントロール不可能な心情であり、その支配下における政情が暴走し続けていった果てに何がおこるのか。ミサイルは飛ぶのか。戦車は38度線も鴨緑江も越えていくのか。そこまでポン酢だとは思えないけれど、でも実際に処刑しまくり暗殺も辞さない状況が、可能性を色濃くしている。世界滅亡までの時計はまたちょっとだけ進んだかな。そしてあと何秒残っているのかな。

 アメリカビーバーとプレーリードッグの家造りを助けて上げて、考えるのが得意な動物、すなわちホモ・サピエンスでありヒトなのかもしれないといったニュアンスが漂い始めたかばんちゃんだけれど、それすら超えて遊ぶ存在、ホモ・ルーデンスであることを見せていたのが「けものフレンズ」第6話の「へいげん」に出てきたライオンでありオーロックスでありヘラジカでありカメレオンにアルマジロにシロサイにハシビロコウといったフレンズたち。何か縄張り争いを続けているようで51戦してライオン側が51勝と圧倒しながらも誰かが死んでしまう訳じゃなく、怪我をさせることすらあんまり好まないままぶつかり合っては対峙し戦い退けるという状況をずっと続けていた。

 それはもはや紛争というよりスポーツだけれどかばんちゃんが来たことで、さらにスポーツがゲームとなってより楽しく安全な状況で勝敗を決することができるようになたった。そこにかばんちゃんのサジェスチョンはあるけれど、元々がそうした遊びの中で雌雄を決したがっていたライオンとかはホモ・サピエンスを通り過ぎてホモ・ルーデンスだたのかもしれない。でもライオンってことはフレンズで“けもの”。そこにあるギャップがあのヒューマノイド形態でありながらも動物であることを堅持しているフレンズという存在のある種の特色あのかもしれない。どっちでもないしどっちでもある。ひとりかばんちゃだけは人間でありヒトでありホモ・サピエンス。それがいったいフレンズたちにとってどういう立場なのか。アライさんたちが持ってた羽根飾りもヒントになって遠からず、その存在意義が明かされるだろう。

 キャラクターではライオンの強面のふりして実は怠惰で優しくもある性格が気に入ったし、じーっと見つめ続けるハシビロコウもくちばしが顔の横に垂れる意匠となっていたデザイン性に感嘆。あとはやっぱりシロサイで、その重厚な外観を鎧に例えて美少女がレオタードの上から西洋甲胄を着込んでいる感じにデザインしたのは最高だった。同じ風体でもカバは顔の形をボディラインい見立てていた。いろいろなアプローチがあるんだなあ。そのシロサイは走ると息切れもするけれど、止まっていれば頑丈というところもやっぱり生態をよく取り入れていた。個々にどいういう意匠的な企みがあるのかを、解説してくれる「けものフレンズ」大全とか出てくれれば嬉しいなあ。それまでは「月刊少年エース3月号」に付録として挟んであったフレンズポスターを眺めて過ごそう。

 アンドロイドのアイドルだからアンドロイドル。普通すぎるけれどもそうした存在を目指している以上は他に何か付けるよりはストレートで分かりやすくって良いのかも、ってことで大阪大学の石黒浩教授がドワンゴとかと組んで始めようとしているアンドロイドル「U」の育成プロジェクト発表会を見にニコファーレへ。どんなアンドロイドが出てくるかと期待して石黒教授の講義を聴いて終わって現れたそれは、思ったより美少女として見栄えのする顔立ちだった。

 とはいえ座ったままで手とかも動かさず、首から上を揺らしまばたきをして口も動かし表情を見せるといった程度。喋りも合成音声で立て板に水といった感じではない。その意味では映画「さようなら」に登場したジェミノイドFの方がまだ手足を動かし車椅子ながら移動した分、ロボットとして進んでいたとも言える。ただアンドロイドル「U」の場合はそうしたしぐさの面ではなくて表情に加えて会話のところで進化を見せているといった感じ。そういえば石黒教授は、確かNTTといっしょになって、2台のロボットを会話させつつ間に人間が挟まることで、いかにもコミュニケーションを成立させていうるように感じさせる研究を行っていた。これなんかの技術も応用されている感じ。

 会話の途中でロボットの側が自然に主導権を持っていって、人間の発話から意思をなくしてロボットの言葉に答えさせるようにして、それでも自分が主体になっていうるようなな感覚だけは残すことで、ロボット相手のコミュニケーションに満足感を与えてた。このアンドロイドル「U」でもニコニコ生放送でのコメントなんかを取り込みつつ自分から発してそれに追随させるように誘導し、そこにコミュニケーションがあるように感じさせる。途中で理解不能なことをスルーしたって、通常の会話でも聞き漏らしたり答えたくなかったりして会話を飛ばすことはある。そういった状況を作り出してアイドルがアンドロイドでもコミュニケーションを行っていると思わせる。AIを搭載して知性を持った発話をしなくても、流れから自律的に会話を誘導するころで人間らしさをヒューマノイドロボットに与えられる。そんな研究がここから進んでいくんだろう。池袋パルコにも登場するらしいし、置かれたら観に行って無理難題をふっかけよう。「円周率言って」「円周率を全部覚えるのはメモリのムダです」。やっぱりアンドロイドの方が聡明だ。

 モーヴ本部長から役立たずと言われてジーン・オータスの落胆ぶりたるやいかばかりか。でも祭り上げられているようで当人は蚊帳の外にいたりするクーデーター計画な訳で、それで聞かれても相手にとって満足なコメントができるはずもなく、言って嘲笑されるよりは言わずに落胆される方が人間としてまだ許せると思ったのかも知れない。聡明なだけに周囲で何かが起こっていることくらい知っている。でもそれを言うのは時期尚早。そんな感じか。そんあ「ACCA13区監察課」は後半戦へと入っていって謀略の芽が吹き出しつつ若気の至りも起こって激しい展開になりそう。そんな中でジーン・オータスがどう振る舞うか。まあ知ってはいるけどクールに淡淡と、けれども着実に事を為すそのスタンスから現実の身に降りかかる難局をクールに乗り切る道を、そうでなくても流されないための気構えを見つけ抱こう。


【2月14日】 なにやら「けものフレンズ」界隈が騒がしいなあと感じて調べたら、あの星野源さんがオールナイトニッポンで最近気に入って60回くらい聞いている曲って前振りで、「けものフレンズ」の主題歌「ようこそジャパリパークを」フルコーラスで流したみたいでいったい何がそんなに気に入ったのか、わからないけれども「恋」のあのアップテンポな上にメロディアスな曲調と、「けものフレンズ」の陽気だけれどちゃんと意味を持った歌詞が乗った曲調はどこか似通っていたりする。元よりオタクな文化にも理解を持っている星野源さんが、聞いてその曲調にこれだと感じたって不思議は無い。でも60回は普通聞かないよなあ。それでも聞いてしまうくらいの強さがある曲、そして原作。爆発して来たなあ。

 おっぱいバキュームの勝利であった。ってそれは何の話って、映画「チェインクロニクル ヘクセイタスの閃 第3章」の話で物語のクライマックス、クロニクルの持ち主だったフィーナは父親であった黒の王に捕まり、彼に奪われたクロニクルは黒に染まって瘴気を吹き出すようにななって、黒の王の居城に迫っているアラムをはじめとした義勇軍の面々、ユリアナをはじめとした聖王国の軍勢、そして魔法兵団らを圧迫する。黒の王に仕える女の魔髪エイレヌスや魔神化したブルクハルトたちはどうにか凌げても、強大な黒の力を振るう黒の王の前にもはやこれまで、そう思われた時にばっと服をはだけておっぱいを放り出したフィーナが、その双房に刻まれた魔法の紋様を輝かせ、そのふくよかなおっぱいいっぱいに瘴気を吸い込み王城の近隣を浄化して、アラムとそして自分を取り戻したユーリの戦いを勝利に導く。

 あれだけ巨大なおっぱいだけあって、世界の黒のすべてを吸い込んでも余裕は十分、先っぽだけ黒く染まったけれどもそれしきと笑顔で立ちあがって城下されたユーリを迎えてそして平和になった世界を2人で歩んでいくのだったという、そんなエンディングでは決してなかったけれど、おっぱいバキュームはある程度は本当。その胸に吸い込んだ黒を父王が正気を取り戻して自らの生命力をかけて引き取り、フィーナを存命させたあと、はだけたままの胸を観て駆け寄ったユーリはいったい何を思ったか。黒から白に戻れて良かった。そう思ったかもしれない。あれで意外に助平か。どうなのか。

 ともあれ完結した3部作。ユリアナに裏切られたと勝手に感じたブルクハルトに続いて友人を殺られたと感じてユーリが黒に堕ち、鬼の一族を率いるシュザも味方にはならず、半ば黒をまといながらユリアナの前に立ちふさがってフィーナからクロニクルを奪おうとすらする。黒の軍勢に敗れる以前に人間たちが争っている状況で、それでも黒の王と倒してユーリを取り戻し、世界を平和に導きたいと走り回るアラムの情熱に引っ張られるように人々が集まり、賢者たちも協力して方舟を作って敵の本拠に突っ込ませる準備を進めていく。歌姫も参加して準備は万端、ブルクハルトの乱入はあってもそれを退け一挙に決戦へと持っていく展開はバトル、またバトルでとても見どころがあった。

 アラムがどこかで拾って懐いていた毛玉が、なぜか質量不変の法則を無視して巨大な竜となってアラムたちに味方をし、黒の王が変幻した巨大な竜を相手に戦うシーンは横へと飛行するシーンを上から火炎などが突き刺さって迫力たっぷり。動きも激しく見ていて圧巻といった気分を抱いた。それは「傷物語V 冷血篇」の阿良々木暦とキスショット・アセロラオリオン・ハードアンダーブレードとの戦いにも勝らずとも劣りはしないスピード感。テレビで放送されても小さな画面でしか見られないのが残念なくらいの迫力って奴を見せていた。映画館で観ておくのが吉。

 途中から合流して決して強くはなかったけれども妙な白い光を集めて放ったり、誰かに融通したりできる力を持ったアラムがいったいどういう運命を持って合流したのか、ってあたりがやっぱり謎だけれど、一度の敗北のその後で、限界を無明けた面々に新たな要素を乗せることで限界を打破するという意味を持たせるならばああいった唐突な登場と、そして意外な能力、さらにはやっぱり主役を奪わずユーリとともに戦い勝利する存在であったのは適切だろう。それこそ“絆”を大切にする「チェインクロニクル」というゲームのアニメーション化なんだから、絆なくして勝利はなく、そして物語は成り立たないってことで。

 諍いはあっても理解へと向かい融和があって勝利がある。堕ちた者も後悔を抱き自分を克服するなり懺悔の中に静かに去るなりといった顛末を迎える。観て心地よく見終えられる最終章。とても面白かったと言っておこう。そして3部作を劇場で観られて大変に素晴らしかったと断じよう。フィーナのおっぱいバキュームは目にも美しかったけれどもスタイルでいうならやっぱりアルドラがナイスかなあ、ばあさん呼ばわりされたって見かけはとってもグラマラスな訳で。あとは最後にどうにか間に合ったマリナの僧服めいた衣装から突き出た胸か。割と大きそう。すでに全身が見えてしまっているエイレヌスは抑えている布地が小さい分、かえっていやらしさが抜けてしまって可愛そう。エロとエロスは違うってことを身で示したキャラクター。白に戻って欲しかったなあ、そうなったらなったで服着ちゃうかもしれないけれど。

 月刊創に「この世界の片隅に」の真木太郎プロデューサーへのインタビューが載っていたんでとりあえず購入。記事が掲載された雑誌が売れれば他の雑誌も取り上げるようになるといった思惑もあるけれど、それよりやっぱり気になった新聞特集。各紙が目下取り組んでいることが書かれてあって、朝日新聞は「紙とデジタルの編集部門統合」を冒頭から書き、読売新聞は「教科書会社不正告発スクープ」を取り上げそうした分野で頑張っていることが紹介されていた。どっちも編集部門に関する話。そりゃあそうだ、報道機関なんだからニュースを生み出す部署の話が最初に来るのが普通だろう。

 それは毎日新聞も同じで「デジタル報道センター拡充」といった形で、紙もネットも含めた編集体制の強化を挙げていた。個別の記事についても特報グループがいっぱいスクープを放っていることが紹介されている。日本経済新聞は「日経電子版有料会員50万人突破」でこれもまあニュース部門の話。東京新聞は特報とか若手による横断的な企画なんかが頑張っているって話が書かれいたのを横目に、産経新聞の項目で冒頭に取り上げられていたのが「オリジナル酒 辛口産経発売」で続くのが「全国魚市場&魚河岸祭り」の企画で、そして終活事業でのお墓の販売と報道が来ない。看板であり稼ぎ頭であり強化しないと先がない報道の現状も課題も将来も紹介されていないこの新聞社が、本当に新聞社なのかどうか。ちょっと分からなくなって来た。これが時代か、それとも。結果はいずれ出るだろう。

 ABCD包囲網の頃から日本が大陸や南方に野心を見せ始めたのをひとつのきっかけに、日本とそしてアメリカなどに暮らしている日系人への懸念というか不信なんかがアメリカの中に育まれていったらしい。そして日中戦争が進んでいって途中、仏領インドシナあたりでの紛争もあって日系人の資産凍結なんかも行われたけれど、まだ差別とか弾圧といった感じではなかった。それが真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発すると、一挙にアメリカにおける日系人への敵対意識は膨らんで、日系人は収容所へと送り込まれて仕事も財産も放り出さざるを得なかった。そのことに異論をとなえたアメリカ人もいただろうけれど、大半はそれが当然と感じて隣人だった日系人が収容所へ行くことに積極的な反対はしなかった。

 戦後、すぐではなくてもアメリカ人たちはだんだんと自分たちがしでかしたことに気付き、国を挙げて謝罪し補償も行った。そうやってアメリカに取り戻されたはずの人種とか、出身国とかによって分け隔てして差別するようなことが起こらない、自由で平等な社会が今、だんだんと失われようとしている。トランプ大統領が就任するなり出した大統領令は、特定の国を論って入国を禁じ、そして特定の宗教を信奉する人たちへの不信感を煽っている。今はまだ、反対する人の声も多いけれども日系人への不信が芽生えてから10年を待たずして、強制収容所を作って追いやった過去を思い出すなら、数年を経ずしてアメリカで新たな弾圧と排除と差別が起こっても不思議は無い。それはもちろんアメリカに限った話ではない。世界のどの国でも。日本ももちろん。

 人は簡単に差別主義者へと転ぶ。自分と違うものを区別して排除して平気になる。そういう過去を振り返ると、有色人種が人権を剥奪されて豚とさげすまれ、戦争の最前線へと送り込まれて次々に死のうとも、それは人権がない存在だから戦死者はいないと言い募られるような世界が舞台となった物語も、決して空想ではないと思えてくる。第23回電撃小説大賞の大賞を受賞した安里アサトによる「86 −エイティシックス−」(アスキー・メディアワークス)という物語。帝国によって開発された無人兵器に襲撃された共和国では、有色人種の人権を奪って収容所へと送り徴用して最前線へと送り込んではその命を散らさせていた。

 9年が経って親の世代も青年の世代もすでに死んで、今は徴用された少年少女たちが最前線で機械に乗り込み押し寄せる帝国の無人兵器と戦っている。そうした少年少女たちが生きようと死のうと、共和国の白い人たちは憐憫はおろか何の感情も抱かない。むりそ侮蔑と嘲笑すら向けているか。そんな兵士であってもいなければすぐに国が攻められるとあって、共和国では遠方から指揮官が、意識を共有する特殊通信で指示をして戦わせている。とはいえ大抵は見放され勝手に死ねと言われるが如く。そんな中でひとり、レーナという元貴族の少女は前線の少年少女と共感したいと願っていた。

 そんな設定を持って始まる物語。自分たちを差別し戦場に送り込んで間接的に虐殺している白系種に同意は出来ない最前線の少年少女たちだったけれど、決して見捨てようとせず接触を深めようとしているレーナの執心に、最初は何かの同情なり愛玩と感じて反発していたものの、その熱意と謝意を感じ取るようになって、同意はせずとも理解は見せるようになる。そんな中で激化する戦い。帝国の無人兵器のとてつもない攻勢。けれども後方は気づかない。知ろうとしない。最前線で生き延びている歴戦の勇士であっても、存命によって差別が露見するのを恐れるあまりに苛酷な偵察任務へと送り出して命を散らせようとする。

 悲劇への慟哭すら通り越して暴政への憤りが浮かぶ展開。今の社会が決してそうならないとは限らないだけに、照らして身が振るえてくる。もうひとつ、敵の無人兵器が言われているように残り数年で老朽化して活動を停止することにはならず、驚くべき“進化”によってさらなる戦いを続けようとしていると分かって戦慄が浮かぶ。もはや絶体絶命の状況。けれども銃後では差別だけが増大して安穏とした暮らしの中に戦場を観ようとはしない。あまりに苛烈なシチュエーションで、リーナは、そして前線でアンダーテイカーとして仲間たちの死を記録し続けるシンは生き延びるこできるのか。前線も後方も見えない未来の先、描かれる結末に感慨し、そして落涙しよう。


【2月13日】 14週目に入った「この世界の片隅に」だけれども興行通信の週末観客動員数で未だに8位に入る快挙、って25週目の「君の名は。」が未だに6位に入っていたりすることの方がよっぽどバケモノではあるけれど、当初の公開館数が100に満たないインディーズであったことを考えると、14週も連続でベスト10に入り続けていることがまず異例だし、前週は7位で今週は8位と大きく落ちずにポジションを維持していることもやっぱり異例。それだけしっかりと観客がいて映画館に足を運んでいるんだってことがうかがえる。

 公開館も増えて近所のシネコンでも観られるようになったことも大きそうだけれど、それでも封切りされて大規模公開されても客が集まらず、すぐに縮小されて落ちていった映画を横目にしっかり踏みとどまっているのは、それなりに座席を埋めて公開規模を保っているからなんだろう。興行収入も20億円を超えたそうで目標にしていた、というより夢であった10億円をダブルスコアで超えてしまった。いったいどこまで伸びるのか。20億円を超えている「映画 聲の形」と前後するところまでは行きたいところで、その先はおまけの人生、歩んで満たされていって下さいな。そして完全版、あるいは次回作。期待しながら待とう。

 人気の女優でタレントだった人が待遇に嫌気が差して事務所を辞めると言い出して、信心していた宗教に駆け込んでしまった事態にワイドショーではさっそく“犯人探して吊し上げ“みたいになっている感じ。どこも芸能事務所へは行き届いた配慮を行い非難がましいことは一切言わず、芸能リポーターは最初は給料が安いのは当然で、相撲部屋みたいに衣食住だけ補償されていれば十分だろうといったことを平気で言い、そして人気司会者はまだ若いから親心で大金を渡していなかっただけですよとか言って、事務所側の絞りに絞った対応を擁護する。おいおいそりゃあデビューしてすぐの子役だったらお小遣い程度にしたって不思議は無いけど、デビューして5年は経っててレギュラーいっぱい主役もどんどんの人気女優を相手に子供扱いもないだろう。

 入門したての序の口力士なら衣食住だけでも十分かもしれないけれど、それこそ幕内に入ってきた力士相手に十分な給金を渡さなかったら相撲協会からブラック部屋だとあげられる。芸能界はそれ以下ってことなのか。考えればわかるし言えば反発をくらうことを、芸能リポーターも人気司会者も平気で言ってしまうくらい、あちらの常識って奴に染まってしまっているんだろうなあ。あるいはあちらの常識から外れることができないっていうか。ただだったら引き抜いた宗教が悪いと非難するかというと、それもしないで当人に帰結させるあたりはやっぱりバランス感覚って奴なのか。ひとり糾弾される女優でタレントの心身が今は1番心配。踏みとどまれ。

 そんな今の状況からひとつ、想像出来ることがあるとしたらその宗教をその愛国保守的というか、嫌韓反中の主張から熱烈に応援していて、例えばフランスでの漫画フェスティバルに出展しようとしたその系列を大々的に取り上げてみたり、アメリカでの活動をその立場に寄って報じてみたりといった偏りを辞さないメディアがやっぱり好意的に取り上げては、すがった女性タレントをある種の被害者としてのみ捉えて事務所側を悪し様に言ってのける可能性か。とはいえ一方でそんな事務所のタレントを好意的に報じなければいけない媒体も系列には多くあって、そうしたぶつかり合いが違う胴体についた右手と左手として理解されるか、面従腹背の蝙蝠野郎と非難されるかがちょっと気になる。どっちもいろいろあるところを、共に非難せず共に持ち上げる報じ方になってそしてカルト的ブラック的状況は改善しないといった悲劇へと、転がり落ちていくのかなあ。さてはて。

 朝も早くから総武線を乗り継ぎ中央線へと引き継いで三鷹へ。噂に聞こえるホロレンズだけれど値段が高いって事もあるのか未だあんまりサービスインさせているところがなく、触れる機会もなかったけれども、三鷹からバスで向かうNTTが武蔵野研究開発センタで毎年開いているR&Dフォーラムを見物に行ったら何台もあって、装着してその雰囲気を味わうことができた。まずは使いやすい。そして見えやすい。例えるならPSVRでVRを体験する時のように、すぽっとはめては目の前に映し出されるARな情報に売れることができる。これがセイコーエプソンあたりのAR眼鏡だと焦点を合わせるのがちょっと大変そう。そして画面が小さいんで何が見えるかをじっと見る目が必要になる。

 ホロレンズはほとんどゴーグルといった感じで目の前に被せられたグラスに情報が移し出される。向こうの景色もしっかり見えて情報も読み取れる。やっぱり装置として大きいし値段も高いけれども求められる情報を読み取るという行為を目的とするならば、それがやりやすい方向へとまずは流れるものなのかも。ちなみにそんなホロレンズでNTTが見えてくれたのが、野球場の模型をホロレンズ越しにのぞくとグラウンド上に選手たちが現れて、試合を繰り広げるってもの。途中で大きい選手の像が現れ情報なんかを流してた。いちいちスマホで選手のプロフィルと確認しなくても済む機能。ARが普通になったらそういうポップアップからの情報表示も普通になっていくんだろうなあ。

 ただこうしたデモンストレーションはあくまでも場所の制約からそうなっただけで、本来は実際の休場なんかで選手達が試合をしているのを観ながら、ARでもって情報を付加したり特定の選手だけを観られるようにするのが目的とか。現実をARによって拡張し、偏向する。そのための技術を積み重ねていくことによって目の前に見える空間に、情報という価値がつく世界を呼び込みそこで、バックエンドのサーバーなり情報の伝送なりといった技術とインフラの部分で商売をしていくことになるんだろう。そのためにいろいろとコンテンツ側から検討する。その余裕が大企業ってことなんだろうなあ。情報はあっても見せ方がわからないコンテンツ企業が多すぎるから。たいした情報もないのに凄い情報があるんだからそれを使って商売できるはずと自信満々な会社は論外だけれど。どことは言わない。

 VRではあの錦織圭選手のサーブを受けられるというものが登場。ラケットに振動子が取り付けられていてコントローラーの位置からラケットの位置を読み取る仕掛けでもってボールをしっかりとらえると、振動が手に伝わってきてボールが当たった感じを体感できる。お腹の部分に当てられた振動子も揺れて襲撃を伝える。その2つが体感を増やす役目を果たしている。同じコートに立って錦織選手のサーブを受ける機会なんてまずないんで、バーチャルでも体感できるのはスピードになれる意味でも有効。あとはこれがゲームになれば面白いんだけれど、そういう装置は出てくるかなあ、Wiiならそのままでも出来たような気もするけれど。

 振動って意味ではNTTがずっつやっている「ぶるなび」ってのがバージョンアップしていて四角いキューブの中に振動子が仕込んであって、それが振るえることで左右前後に引っ張られる感じを再現する。目の前でタツノオトシゴが前に進めば手にしたキューブも前に引っ張られるといった感じ。これをコントローラーに搭載すればぶるぶるコントローラーだけじゃない表現も可能になりそうだけれど、Nintendo Switchのコントローラーってそういう風になっていたっけ。触ってないからよくわからない。位置情報を加えて傾けたりすることでバーチャル空間の迷路を傾かせ、中を転がるボールをゴールまで持っていくゲームもあった。これなんてすぐにでも遊べそうだけれど、どこかコントローラーごと製品化しないかなあ。


【2月12日】 あれは六本木の森アーツセンターギャラリーで「ルーヴルNo.9 〜漫画、9番目の芸術〜」が始まる内覧会の日に行われた発表会見でのこと。出展者の1人として来場していた谷口ジローさんが「たくさんのBD作家と展示されることを嬉しく思う」と話していたのを覚えている。ルーヴル美術館が企画した、第9番目の芸術としての漫画を制作するといった企画について「話があったのは10年以上前のこと」と谷口ジローさん。「BDは大好きで、自分の漫画への影響を沢山受けてきた。企画に選ばれたのは光栄」と喜んだ。日本の漫画は世界一ぃぃぃぃ、だなんて意識から海外への進出を喜ばない漫画家がいるかどうかは分からないけれど、あれだけの実績を持ちながらも海外の文化をリスペクトして参画を喜ぶ態度はやっぱり素晴らしい。だからこそフランスでシュバリエ勲章をもらうくらいに慕われたんだろう。

 同じ企画に参加したBDクリエイターのニコラ・ド・クレシーから歌川広重や河鍋暁斎、葛飾北斎などと並んで宮崎駿さん、松本大洋さんと含め挙げられ讃えられていた谷口ジローさん。「ルーヴル美術館を描くという企画で1カ月ほどパリに滞在して、毎日のようにルーヴルに通って膨大な作品を見てきた」とかで、そんな間に「ルーヴルには不思議な者が住んでいるんじゃないか」と感じたとか。そうやって出来た作品が確か「ルーヴルNo.9 〜漫画、9番目の芸術〜」の会場にも飾られていたっけ。東京での開催は終わってしまったけれども4月から福岡での開催があるんで、気になる人は行って見てみると良いだろう。フランスのBDクリエイターたちがこぞって尊敬するその作品を、その筆致を目の当たりにできるから。

 「私は漫画は表現媒体としてかなり優れた媒体で、今では表現できないものはないんじゃないかというところまで来ている」とも話していた谷口ジローさん。展覧会に寄せられた漫画を見て「ひとつひとつ見ても個性があって全然違う」とも言っていて、なるほどBDに寄せてはあっても個々に異なるアプローチが見て取れる。して「これからも多くの作品が生まれてくると感じている」。そんな当事者として新しい作品を生み出して欲しかった谷口ジローさんだけれど、逝去、69歳は若いとは言えなくてもまだまだとも言えそうで、大人気作になってしまった「孤独のグルメ」を始めとして「センセイの鞄」とか「冬の動物園」とかある様々な作品に続く傑作を読ませて欲しかった。でもそれも叶わない。ならばその偉業を讃えつつ過去の作品に触れつつ、世界が惜しむ言葉を聞きつつ送りたい。ありがとうございました。

 ライスボウルで法政大学トマホークスを見たのは2006年が最後だから2009年度の法政大学トマホークスを実際に見たことはなく、だから2009年12月に行われた甲子園ボウルに出場して関西大学パンサーズに敗れた法政大学トマホークスでキャプテンを務めた徳田浩至選手の勇姿も実際に見たことはないんだけれど、それから7年が経ってスリムなイケメンになった徳田浩至さんがコージとしてブリリアンという芸人コンビの1人となってはブルゾンちえみさんの横に立ち、「With B」と語るようになるとはいったい誰が思っただろう。法政大学のチアリーダーだってきっと思わなかったに違いない。でも今は立派に芸人として顔を出し始めた。まだ添え物のような扱いではあっても見た目と経歴からきっとソロでも世に出てくるだろう。そうでなくても今年1年はブルゾンちえみとともに出続けるだろうから大学スポーツのヒーローによるキャリアアフターのひとつの例として活躍を眺め応援していこう。それにしてもフィンガースナップ1発から2人で対比となる単語をよくまあ瞬時に出せるもの。そこが反射神経なんだろうなあ。

 ううん、信教は自由だし思想信条について他人が口出しする話ではないけれど、一方で今現在に幾つも仕事を抱えていて、そして将来において公開される映画なんかも待機している状態で、そうした活動を反故にしかねない言動をとってしまうというのはやっぱりちょっと問題だし、そうした行為を半ば促してしまう信教もやっぱり存在として認めがたい。社会にあって存在している信教だからこそうした配慮は欲しかった。とはいえ一方では、あまりに苛烈な仕事の状況に嫌気がさしても辞められず、逃げる場所としてそこしかなかったといった声もある。どっちが本当かはわからないけれど、現実に発生するで損害に対して訴えられたりした場合にダメージを被り、社会的に排除され、その挙げ句に過去、起こった悲劇が別のところから現れるなんてことになったらちょっと大変。そういう信教でもないとは思いたいけれど、何がどう転ぶかわからないからなあ。さてはて。

 エドワード・スミスさんってどこの国の人かわからない名前の作家の人が新たに出した「暗極の星に道を問え」(電撃文庫)は、人間もいれば異種族もいたりする世界で人間が横暴を極めつつそれを国民には見せず、周囲に蔓延る魔王を正義と思い討伐しては英雄となった少年を、王族ではないからと排除したところから始まる世界の変化を描くだろう物語。魔王を討ち果たして凱旋記憶したトウカだったけれど、お祝いの席でパーティの仲間の女剣士も魔法使いも薬師もまとめて殺害され、ひとりだけ自分を見知った姫のカバー、そして身を潜めていた仲間の助けもあって脱出を果たす。そして自分が討ち果たした魔王の娘の助力も得て、誓い始めた復讐によって自分を陥れた王子をまずは退ける。

 そこまではよくある戦記物の一形態で、人間の横暴に魔族とよばれ列島種族とさげすまれている存在が、持てるスキルを重ね合わせて人類に反旗を翻すストーリーに見えるけれども気になるのはその舞台。どうやら宇宙を漂う巨大な竜の骸の上に形成された惑星らしくて巨大なスケールでもって骸をさらす竜とはいったい何者で、そこから今なお漂い出る意思のようなものはいったい何を目指せとトウカたちをたきつけているのか。トウカや姫の手に浮かぶ謎の紋章の正体は。そうした謎がだんだんと明らかになり、独特の舞台設定が物語に生かされるようになってより深い面白さってものが見えてくるんだろう。今はそうなるまでを追っていこう。暗殺に適した種族の見た目美男子な少女の胸はどんな柔らかさなのか。感じてみたいけれどもそれやったら殺されるかなあ、一瞬で。

 10日後に締め切りが迫った仕事におよその形をつけてから下北沢のトリウッドで上映されているふくだみゆき監督の短編アニメーション「こんぷれっくす×コンプレックス」を観に行く。昨日は新海誠監督が観に来ていたそうで行ったら会えたかなあ、ちょっと残念かなあと思ったけれども今日は今日で主題歌を歌っている北村瞳さんのライブがあって、主題歌としては耳にしていても生でシンガーが唄う歌を聴ける機会ってのはなかなかないから、その意味では逆に得をしたって言えるかも。さて「こんぷれっくす×コンプレックス』は前に埼玉県川口市で開かれたSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で観ているからこれが2回目になるけれども前に観た感想を日記から引っぺがすとこんな感じになる。以下引用。

 「プールの授業で女子中学生の少女が手本になっている少年の挙げた手の奥の脇に見たものは? 思春期の女子中学生のフェティシズムというか性的なものへの興味がふわっと浮かんで漂い見る人をぐふぐふといった笑いの中に引っ張り込む。端正だけれどそんなに動かないFLASHアニメーションで、プレスコによってとられた情感たっぷりの声に重ねて着けられた表情の変化が淡々として、それでいて微熱めいた思いが浮かんで頭を埋めるあの世代の気分って奴を表現している。声は林奏絵さんと上妻成吾さんという人が担当していてそれほど有名って訳じゃないけど良い感じに若い2人を演じている。とくに林さんはもやもやとしながらも確信して脇毛にのめり込んでいく女子中学生のまっすぐさを透明感のある声の中に滲ませている。見終わってすれ違った2人のうち、女子中学生が少年を『子供だなあ』というのはやっぱり女子の方が成長が早いってことなのかな、性的に」

 そして2回目を観た感想もだいたい同じ。声については改めて巧いなあと思った。プレスコだそうだから絵がない状態での録音だろうけれど、その分、妄想力を働かせながら内心の興味とそして恥ずかしさを表現するように演じていったのかもしれない。焦る感じとかドギマギとする感じとか。これがアフレコだったら絵に頼ってあそこまで情感を入れられただろうか。元よりスクリプトに優れた作品だけれど、それを演技が倍加したって言えそう。あとやっぱり少女の方に成長の早さというか、対象に対する興味はあってもそこに恋情など持ち込まないドライさってものも改めて感じた。脇毛への興味だけを告白したのにそれを恋情にすり替えてしまう少年の心情は、なるほどわからないでもないけれどもそれを拒絶し、挙げ句に子供だという少女の言葉に潜むクールさにギョッとしてしまう。勘違い禁物。でもそれを考えすぎると何も言えなくなるなあ。もとより言う勇気なんてものもないけれど。

 そんな「こんぷれっくす×コンプレックス」を観た後に登場した北村瞳さんの歌がまた良かった。主題歌はリズム感のあるポップスで楽しげだし、その後に唄った2曲もしんみりとしたバラード、しっとりとしたメロディアスな曲といった感じに特長を出していた。何より声が綺麗。粒が立ってる。だからマイク1本ギター1本をミニアンプから出してもちゃんと聞こえてくる。その歌詞に耳を傾けてしまう。良い歌だったんでCDを買ってサインももらった。いつかライブ、聴きに行けたら良いな。しばらく上映も続くしゲストも続々と登場みたいなんでまた行こう。新海誠監督の特集も見たいけれどそれもまたいずれ。


【2月11日】 日本時間だと早朝に行われたらしいアメリカ合衆国のトランプ大統領と日本の安倍首相との共同記者会見で、喋っている内容はまあ外交辞令の範囲内で収まったもので驚くこともなかったけれどもそんな会見についてテレビ朝日だったっけ、そこの記者が話していたことに引っかかった。どうやら共同記者会見の会場でトランプ大統領と安倍総理のすぐ前の列、だいたい3列くらいを政府の関係者とかが占めて記者とかを座らせなかったらしい。映像を観るとなるほど安倍総理とトランプ大統領が会見場に入ってきた時、3列目くらいまでの人たちは直立不動で2人を出迎え写真を撮る様子も見せず、会見によくあるラップトップPCを膝に乗せて喋りを記録している風もない。

 というか女性がほとんど見えない。これがちょっと前に行われた英国のメイ首相とトランプ大統領の共同記者会見では、前方に女性の姿が割と見受けられたし、そもそもが2人が入場してきた時に立ちあがった人たちが最前も含めて手にしたスマートフォンで2人をばしばし撮影していた。政府の関係者はそんなことはしないだろうからおそらくは記者だろう。別にカメラマンがいるだろうけれども自分たちでも撮っておく。それが保険にもなるから。そんな光景が安倍総理とトランプ大統領の共同会見ではまったく見られなくなった。粛々と出迎えては着席して傾聴する。質疑応答での引きの動画を観てないから最善で手を挙げた人がいたかどうか分からないけれど、そこで誰も挙げてなければやっぱり関係者だったってことになる。

 これの何が問題か、って共同記者会見は別に政府関係者のためにあるものではなく安倍首相とトランプ大統領の言葉を広く伝えるメディアを介して国民のため、あるいは世界の人たちのために行うものであって政府の関係者がそこにいる意味がない。彼らは会見を伝えることはしない。だったらいいったい何のためにいるのかというと、それはやっぱりトランプ大統領を、ついでに安倍首相もメディアの最前列からの追究から守るためってことになる。あるいはメディアを2人から遠ざけるための壁ってことにもなる。本当だという前提で、そういう会見を平気でやてしまえてそして、メディアも従わざるを得ない状況はちょっとヤバい。それは大統領の権力がメディアによってチェックされずにそのまま行使され得る可能性を含むから。

 今だと世間はメディアが偏向して横暴だから大統領に排除されるのも当然といった声があって、今回の最前列を政府関係者で示されるような会見の有りようへの支持も集まりそうだけれど、そんな大統領が、あるいは権力者が偏向して横暴な存在にならないとどうして言えるのか。メディアよりも権力が、それも絶対的な権力があるだけに偏向も横暴もそれこそ支持していたはずの人のところにまで降りかかって困らせる事態を招きかねない。そうしたことにはならないと信じているなら結構だけれど、そうだとしてもやっぱり可能性としての暴走を想定するなら、権力とメディアは常に対峙して対等に存在していなくてはならない。そうした原則を切り崩して切り下げていっているのが今。そして歯止めもない状況が遠からず何をもたらすのか。声を上げないと、世界のメディアは。日本は……すでに飼い慣らされているから関係ないか。首相会見で突拍子もない質問するメディアなんて最初から排除されているし。やれやれ。

 対協商連合戦となっていった「幼女戦記」はアンソン・スーがいよいよ出てきて来週あたりからターニャ・デグレチャフと対峙するといったところ。そしてもちろんターニャが打ち破って娘のメアリー・スーとの因縁を作るんだろうけれどもそうやって出来た関係が、原作の方でようやくぶつかり始めたくらいで回収されるのはまだ先か、っていうかどういう展開を見せるのかがまるで分からないんだよなあ、この作品。いつかのナチスドイツみたいに国土を崩壊させて滅亡へと辿るのかというと、そこまで上層部だって間抜けではないだろうから戦線が崩壊していったらさすがに和睦へと進めるだろう。そこでラインの悪魔と呼ばれたターニャの処遇が問題となって当人が暴れ続けるって展開があるかどうか。別に戦犯ではないし優秀だから合衆国なら使うだろうなあ。存在Xから見放されてのたれ死ぬ? それもありか。とりあえずあと5歳、成長した姿を見たいなあ。そんなに戦争、続ける気か?

 せっかくだからと「闘会議2017」へと行って眺めると何か「JAEPO2017」の方が活気があるというか、元より入り口に近い場所にあって業務用ゲーム機をいっぱい並べて遊んでもらえるような環境を作っているから、そこに人が集まるのも分かるしステージイベントにも大勢が参加する。「闘会議」の方はステージイベントを行っているブースもあるけどスペースが広々としている関係からか混在ぶりがやや緩和されているし、そこにすべてが集約されているというよりはゲーム実況であったり、アナログゲームコーナーであったり、ゲーム音楽ステージといったところに好きな人が集まって動かないといった島宇宙が点在している状況になっている。あっちもこっちも見て回ろうって流動がないのも混雑を体感できない理由か。

 元より闘会議ってそういうイベントではあったけれど、JAEPOっていう要素が加わってよりくっきりとその違いが見えたって感じ。それでどっちが特をしたかっていうと闘会議にでも行ってみようかっていう人たちを、入り口で引っ張って業務用ゲーム機を遊ばせることに成功したJAEPO側かなあ。今までだって一般公開日を設けていたけど1日だけで集まっても1万人とかそんなもの。それが闘会議といっしょになることで2日間で5万人が集まってくる。別にインカムがある訳ではないけれど、そういう接触によって業務用ゲーム機の存在を再確認した人たちが、街に出てゲームをするようになれば儲けもの。スマートフォンとの連動だとかファンを取り込む施策をやってはいても、最初のきっかけがなかったところにこうしてきっかけをくれた闘会議との併催。成果が上がって来年以降も続けられると良いかなあ。

 「ジュバ市内でのSPLA−10とのど突き合いが生起こしたことから、宿営地周辺での音が鳴る事案に伴う流れ弾への巻き込まれ、市内での突発的なカチコミへの巻き込まれに注意が必要。加えて、ジュバ市内、特にPOCサイトを含むUNハウス周辺では、両勢力による鉄砲玉が確認されていることから、朝方からの一部の勢力による仇討ち等行動による音が鳴る事案、アガリの悪化に伴う事案事象、コソドロ事象等、巻き込まれに在留邦人の動向を含め注意が必要」って感じになるのかなあ。南スーダンでの自衛隊の日報に「戦闘」って文字がいっぱい出てきたのに、それは法律的な戦闘って言わないと防衛相とか防衛省が言い募る。だったら法律で言う戦闘って何なんだ、って話になる一方で、いっそ戦闘という言葉を自衛隊では使わなくしてしまうって話になったら、ヤクザ用語を使って表現して事の大変さを内部には共有するようになるのかも。分かる人には分かる。そんな可能性。


 豊中市にある国有地をあれやこれや噂されてる学校法人が小学校を建てるために買ったって話で安すぎるんじゃないかといった意見が出て、しどろもどろするかと思ったら国側がそれはごみが積み重なっている土地なんで買った側が使えるように掃除したんでその費用をさっ引いたんであって、そういう土地だといらぬ風評が流れるんで黙っていて欲しいと言われたんで黙っていただけで、足せば結構な額になるって言い始めた。なあんだやっぱり適正だったんだ、って安心できるかっていうとむしろ8億円だっけ、そんな額をかけてまで掃除しなくちゃいけない土地に小学校を建てて子供たちを通わせて安心か、って話になりそう。何しろ風評が流れることを心配するくらいなんだから。安心なら堂々、これだけの費用をかけて綺麗にしたんですよと言えば良かったのに。というか多分安心なんだろうけれど、同じように安心な筈の豊洲にあれだけ向かった世間の猜疑はこちらにはどれだけ向かうのか。東京でもないんで無関心かなあ。そういうものだ、メディアって。


【2月10日】 そういえばアニメイト吉祥寺が移転するってんで内覧に行ったけれども、まさかサブカルの総本山的な吉祥寺PARCOの中に入るとは。地下にブックセンターがあったりして漫画とかサブカルを充実させていた記憶もあるし、漫画なんかをモチーフにしたスタイリッシュなTシャツを売ってるショップもあったような記憶もある。そしてスタイリッシュなファッションの店もいっぱいある中にアニメイト。それはオタクであり腐女子といった濃い層が集う場所でもあるんだけれど今はとりわけ女性層は、ファッションもちゃんと決めつつアニメーションのキャラクターがいっぱい描かれたグッズも集めて透明なカバンに入れたり、リュックにぶら下げて平気で歩いている。そんな時代だからこそPARCOもアニメイトの出店を受け入れたんだろう。これがとらのあなだとちょっと違うかもしれないし。

 まあとらのあなの場合は同人誌から来た店なんでそうした方面によくある低年齢層には厳禁なイメージをさすがにPARCOといえども取り入れる訳にはいかないか。あるいはゲーマーズだともうちょっと男子のファンに寄っているからやっぱりイメージがちょっとずれる。アニメイトってところが絶妙なんだろう。だってエレベーターを降りた店頭に並ぶのは「アイドリッシュセブン」であり「あんさんぶるスターズ!」であり「ツキウタ。」であり「ユーリ!!! on ICE」といった女性層に人気のキャラクターばかり。そういうファッショナブルに腐女子をやっている層なら吉祥寺PARCOでも別にそんなに違和感はなさそうだし。渋谷PARCOだったらちょっと分からないけれど。

 お客さんにしても今まではちょっとだけ歩いて道路を渡った線路際の建物にあって狭くはないけど奥に長くて什器なんかもギッシリで観るのも大変なイメージがあった。これが1.5倍になったフロアでジャンル毎、キャラクター毎に区分けされた棚を観ながら買い物できる。嬉しい移転だったんじゃなかろーか。どうやら初日は待機列ができるくらいの人気だったみたいで、併設してあるカフェでクリームの上にキャラクターを鮮やかなカラーでプリントするラテも注文している人が多かった。大豆のシートにプリントして被せるものとは違ってしっかりキャラが描かれているだけあって、ストローをぶっ込んで崩すのもややためらわれるけど、食べれば美味しいラテで値段も500円なら、ふらりと寄って注文しては繰り返し、キャラをコンプリートするくらいやってしまうだろう。「ツキウタ。」で10人、「おそ松さn」で6人。1日じゃ無理か。でも3日なら。太りそうだなあ。

 JAEPOだJAEPOだ、ジャパンアミューズメントエキスポ2017が開かれるってんで幕張メッセへと行ってはあちらこちらを見物。「ボンバーマン」ならぬ「ボンバーガール」があったり「電車でGO!!」がビッグで電車の運転室みたいな筐体になって登場していたりと、昔ながらの名前を生かしつつ進歩しているゲームがあったりした一方で、VRなんかを使ったものもあちらこちらに。例えばバンダイナムコエンターテインメントはお台場で運営していた「VR ZONE」にあったアクティビティを幾つか持ってきては接していて、オペレーターさんなんかに置いたらどうとかアピールしていた。あるいは明日から始まる闘会議2017で来場する人に体験してもらうって感じなのかも。

 そうそう、今回のJAEPOはいつもは1日だった一般公開日を2日に延ばすと同時に闘会議だなんて何万人もゲームズ機が集まるイベントといっしょにやることになって、いったいどれだけの来場者が押し寄せるのかがちょっと見えない。去年は業務用ゲームのコーナーをおいてそっちも遊んでねって感じだったけれど、今回は各社がばっちりとブースを構えての対応だから、商談用のものは下げつつ目一杯遊んでもらえるものを並べて幕張メッセをひとつのゲーセンにするくらいの勢いでアピールするんだろう。その効果は人数でいうなら軽く5倍はありそう。スマートフォン向けとかコンシューマー向けなんかをメーンに触っている今時の若いゲーマーが、業務用って面白いかもと興味を持つきっかけになるかもしれないなあ。どういった賑わいを見せるのか。闘会議も行って見てこよう。

 VRでは多分中国の会社が出していたものがユニークというか、前に進んでいきながらバトルするタイプのものなんだけれどそこでどこまで進んでいったらリアルな場所が足りなくなる。そこで足下にすり鉢みたいなのを置いてそこで歩いてはすべってずり落ちるような仕掛けを施し、歩いているんだけれど前には行かないようにしつつバーチャル空間では進んでいると感じさせるようにしていた。なかなかのアイデア。ルームランナーは置けても方向が1つだし動力もいる。でもこれだと勝手にずり落ちるんで八方ともオッケー。前のめりになるのを胴回りを囲んだ輪っかで止めているから大丈夫。これが流行ってきた暁には、お前そこで何をじたばたしてるんだって人たちが、広大なスペースを駆け回って闘っているゲームが生まれて来るんだろうなあ。それもまたひとつのビジョン。

 しばらく眠っていたようだけれども「ビブリア古書堂の事件手帖」が起き出して、実写とアニメーションの映画がそれぞれ作られることにきまった感じ。シリーズ完結編となる第7巻も間もなく刊行だそうで、それでひとつ盛り上がったあとにいったいどういうキャスティングで実写が撮られ、誰のキャラクターとか監督でもってアニメーションが作られるかに興味が移っていくんだろー。前にテレビドラマ化された時は栞子さんを剛力彩芽さんが演じていろいろと話題になったけれど、それは剛力さんというよりは周りのキャラクターの性別を変えて人気事務所のタレントを当てはめたりした無理もあったから。ストーリー自体はちゃんとまとまっていたんで文句はないけど、やっぱりオリジナルのストレートな長髪で眼鏡の栞子さんが動いたりするのを観たい。だからこその主演女優でありキャラクターデザイン。どうなるかなあ。大輔はやっぱりEXILEかなあ。

 実写映画「咲−Sakiー」を観た。だいたいにおいて「咲−Saki−」だった。ここで言う「咲−Saki−」とは小林立さんの漫画版というより普通に観ていたアニメーション版で、そのイメージで現れては動いて喋る登場人物たちが、出会い麻雀を打っては競い合い、信頼し合って成長していくストーリーのその先に、得意な手とそして特異な能力を持った少女たちが現れては戦い競い合って共に高め合っていくストーリーが、そのまま実写映像となって描き出されていた。だからアニメーション版を観ておおまかなキャラクターの配置や性格、そして特異な能力などを見知っていればほぼほぼそのとおりの光景が繰り広げられていると分かりつつ、それが2次元のアニメーションではなく実在する少女たちによって演じられていると分かってストレスなく、多少の記憶を掘り起こす感じで懐かしさも覚えつつああいたいた、こんな少女もいたしこんな能力の持ち主だったと思い出しながら観て行けた。ハギヨシはさっぱり覚えていないけれど。

 原作だと、そして漫画だともっとおどおどとしつつ時に芯の強さものぞかせる西住みほにも似た雰囲気の宮永咲が渡辺美波さん演じる実写版の咲となるともうちょっと、ピュアな感じはとれて初々しさが前に出て底にある麻雀にかけてのふてぶてしさは下がってしまう感じだけれど、そうした比較も違和感にはならない範囲でしっかり宮永咲だったし、本当だったらもっと突き出て誰をも圧倒する胸の持ち主の原村和が、設定として胸に脂肪があるとされながらもそれほどの突き出しを感じさせない実写版ではありつつ、それでも現実における女子高生の大きな胸とはこういうあたりだといった了解をさせるくらいには、演じた浅川梨奈の胸は前に出ていた、ように見えた、かもしれない、そこは心がそう見せた、頑張って、うん。

 ほか、片岡優希を演じた廣田あいかさんはまるで声優さんのような声を出して幼そうに見えつつしたたかでタコスが大好きな優希を見せてくれたし広島弁が出る眼鏡のまこも山田杏奈さんがちゃんとなりきって見せてくれた。悪手でも好手に変えてしまう不思議能力を持った部長の竹井久も古畑星夏さんがちゃんと見せてくれた。そんな5人の(1人足りないが仕方が無い、男はいらないこの映画)清澄高校の面々に負けじと他校の面々も原作漫画であり、アニメーション版「咲−Saki−」に出てきたキャラクターをしっかりなぞって見せてくれた。

 とりわけ幼げでそして恐ろしい天江衣を演じた菊地麻衣さんはしっかり天江衣だった。幼げな口調をまだ12歳とかそんな辺りの菊地さんを起用することでしっかりと再現。それでいて難しい言葉をうなるように吐き出すようにつぶやき周囲を圧倒する存在感を見せてくれた。ほか、ステルス桃も含めてテレビから抜け出てきたような少女たちが卓を囲んで見せる麻雀がまた緊張感のある展開を外さず、役とかまるで分からず流れなんかも掴めない、麻雀素人ですら引きつけられる展開を作りだしていた。

 スポーツだったら速いか遅いか、点が多いか少ないかですぐにきまる結果を麻雀は、その場その場で点数が入れ替わり主役も入れ替わることで誰もが一瞬なりとも主人公になれる。そうすることでキャラを出し入れして飽きさせず、ドラマもつけて関心を抱かせつつ最終的には宮永咲と天江衣との対峙に収めてクライマックスへと至らせる。途中、積み上げてきた数々の手が伏線のように積み重なって高くて大きい手を作らせ、それで逆転の構図を描き出す。

 分かってなくても分かるその流れ、スポーツのルールなんてしらなくても肉体のぶつかり合いが必死さを分からせるスポーツの中継なり、それを題材としたアニメーションと同様に、麻雀という一種の頭脳スポーツの誰が強くてどこがポイントなのかを何と話に感じさせる。ああそこでそうくるか、そしてそうなりそう至って大逆転が起こったか。それさえ分かれば流れもつかめてそして感動も得られる。そう思う。

 とりあえず県予選で終わってしまって全国大会はそもそも漫画でどこまで言ったか分からないから果たして映像化はあり得るのか想像もつかないけれど、とりあえずまとまってクライマックスからエピローグもあった県予選で十分に「咲−Saki−」という作品の醍醐味は味わえた。少女たちがそれぞれに事情を抱えながらも麻雀という競技に向き合い自分を成長させていく、あるいは誰かを導いていく展開を楽しみつつ噛みしめて、そして次のステップへと進んだ清澄高校がどんな麻雀をするのかを、想像して楽しむのも悪くない。こうして映画を観た頭には、漫画だけでなくアニメーションだけでもない、実写版「」咲−Saki−」の役者の顔も浮かぶようになっているのだから。ただしハギヨシは除く。


【2月9日】 いろいろと頭を整理するために、試写で実写版「サクラダリセット 前編」を観る。ほぼほぼ原作通り。もちろん省かれたエピソードもあって猫好きの野ノ尾盛夏とか出てこなかったりと登場人物も整理されているけれど、基本線となっている管理局が囲っている咲良田市を見通す魔女の話、そして浅井ケイを振り回してはいなくなったりもした相麻菫の話は通して、予想通りの場所で前編が終わって、いったい何者なんだから、こいつは何者なんだへと昇格して物語を支配する。全体に淡淡としていたけれど、それは原作も同じなので異能を持った者たちが集まり対決したり補い合ったりする後編は、いろいろと激しくなりそうな予感。

  キャスティングについては、「ちはやふる」でどことなくちゃらくなった真島太一を作っていた野村周平さんが演じた浅井ケイは、生身の役者だけあって小説から受ける無機質で無感動な雰囲気がやや溶けて、ウエットな心情を抑えた無表情さが逆に内心の逡巡や葛藤を感じさせるようになっていた。黒島結菜さん演じる春埼美空も寡黙系というより純真系で、そんな2人の間に通う感情が映画では見えたような気がした。そして相麻菫。演じた平祐奈さんは原作のショートカットではなくロングのふわっとした髪型で、活発さというより神秘性が増していた。役者からそうしたのかストーリーからそういう変更を加えたのか。後篇を見れば分かるかな。

 他の役者では、写真を破って中に入る力を持った老人の佐々野宏幸を大石吾朗さんが演じていて、「コッキーポップ」世代としては懐かしかった。今も美形。というかまだ70歳なのか。「コッキーポップ」は30歳前後でやっていたんだよなあ、それでいてあの落ち着き。良い役者だったんだ。魔女は加賀まりこさんでもう心底から魔女だった。命じたものを消し飛ばせる能力を持った村瀬陽香役の玉城ティナさんは眼鏡が似合っていた。そしてミッチーは後篇から登場なんでどんな演技かは不明だベイベ。きっと企みつつ画策しつつも内心を見せないイケメンっぷりを見せてくれるんだろう。こりゃ叶いそうもないけれど、でも勝たなければ先はない。どうする浅井ケイ。そこが見どころ。

 そんな実写版「サクラダリセット」の前篇と後篇を監督したのは深川栄洋さんで、前に橋本紡さんの「半分の月がのぼる空」を映画化した人で、観た人によっては色々な反応があったけれども僕はこの映画版が後半の改編めいた部分も含めて大好きなので、同じようにふわっとして淡淡と流れる「サクラダリセット」前篇の雰囲気はまずまず良かった。そして後篇はスペクタクルなシーンも必然としてあるし、丁々発止のやりとりもあったりするんでスリリングで激しい展開なんかも観られそう。それを深川監督がどう表現するかもお楽しみってところか。前篇とは違った雰囲気になっているというし、それを観てから総じてどういう評価かを決めたい。

 朝も早くから六本木へと出かけて「モアナと伝説の海」の監督が来日するイベントを見物。ジョン・マスカー監督とロン・クレメンツ監督というコンビはそれこそ「リトル・マーメイド」とか「アラジン」といったディズニーの長編アニメーションでも屈指の作品を送り出し、最近でも「プリンセスと魔法のキス」なんかを手掛けたディズニーきってのクリエイターたちなんだけれど、そんな人たちが来日するたびに宮崎駿監督はどうよって聞くのは何か正しいのかなあと思ったりもした。もちろん2人とも宮崎駿監督の作品を見てはいるだろうし尊敬もしているんだろうけれど、讃える言葉を聞いて僕たちの宮崎駿監督はやっぱり凄いと悦に入るような方向に行きかねないだけに、ちょっと注意が必要かも。

 まあそれは報じる側の心構えであって、彼らを出汁にして宮崎駿監督を讃えるんじゃなく、宮崎駿監督のヒット作とも通じる雰囲気が「モアナと伝説の海」にはあるってことを書いていけばそれはそれでお互いのリスペクトにつながりそう。たとえば自然との関わりが密接で、そして強い女性キャラクターが出てくるという。すでに公開されている予告編なんかを見ると「モアナと伝説の島」では南太平洋に浮かぶ島々がモデルとなったような場所で、海に愛された少女が島を出て冒険の旅に向かうってストーリーが繰り出される。その海の描かれ方、そして決断するヒロインの描かれ方は宮崎駿監督の世界観とヒロイン像に重なる。宮崎駿監督の作品が好きな人はだから「モアナと伝説の海」を観ても満足できる、ってことになるかな、絵柄が違いすぎるけれど。

 しかし本当に凄い「モアナと伝説の海」の水の表現。透明感があって水族館にある水を観ているようだけれどそれが生き物のように動いてモアナを助けたりもする。いったいどうやって描いているんだろうか。秘密があるんだけろうけれど、一方で人海戦術にも似たクリエイターの投入によってエフェクトアニメーションの部分を強化したってこともあるみたい。その人数は約50人。ディズニーアニメーションでもかつてない規模の人間がとりかかり、それも自動化できるところは自動化した上で細かい表現にかかりっきりにさせたとか。そうやって生まれた映像があれなら日本で同じものを作ることができるのか。出来なければやっぱりそこは日本独自の3DCGを追究していくのが良いのかも知れないなあ、「けものフレンズ」みたいな。いやそれは。そして自然の表現は2Dに任せる。「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」みたいな。それは本当。

 なんちゅうかワセダクロニクル、社団法人共同通信を株式会社共同通信を曖昧にし、電通と電通PRを曖昧にして世界を支配する広告会社の電通が、通信社の共同通信を金で操り製薬会社の広告めいた記事を載せさせた的構図を1度ぶち上げて世間の関心を誘ったところから引けないのか、電通とは名前がついてはいてもPR会社に過ぎない電通PRがお仕事としてPR活動をしたことを、それが国の仕事であって、そして命に関わる内容なんだからお金をとっちゃいかんだろう的ニュアンスの記事を持ってきた。国とか公的機関の活動のRPでお金をもらう待ってんなら、政府広報とか載せてる新聞を含めた媒体だってお金もらっちゃまずいってことにならないか。それも記事として無償で載せろって話にしたいのか。無理を曲げて取り繕っている感じ。あまり走りすぎると折角の告発の揚げ足を取られかねないんで、もっと慎重かつ冷静になって身近なペイドパブとか提灯記事とか挙げて欲しい。テレビ局の番組や事業を報道バラエティで紹介するようなたこ足食いも。やらないだろうけど。

 ガチンコかあ。というのはデジタルハリウッド大学でのアニメビジネスフォーラムで「ダイヤのA」をプロデュースしているAT−Xの人の話を聞いて思ったこと。いわゆる2.5次元って奴だけれどもアニメーションの声優がそのまま出てくる訳ではない舞台版では、キャラクターのイメージがどこか漫画ともアニメーションとも違った、舞台版ならではの役者の存在感が前に出てそれで引っ張っていくところもあったりする。ところが「ダイヤのA」の舞台版ではそうした色を徹底的に消して、アニメーションからそのまま抜けてきたような佇まいであり言動を役者がするようにしているという。オーディションで選ばれるのも雰囲気や背格好や性格までもが似ている役者。だから演じてまるでアニメーションのキャラが実在しているように見える。

 なおかつ舞台で使われる打球音とか捕球音といった効果音のすべてをテレビのアニメーションで使われているものにして、音楽も別に作らずテレビアニメーションと同じオーイシマサヨシさんが手掛けOxTが演じているというから目だけでなく耳でもアニメーションを観ていることが、そのまま目の前に繰り広げられているような感覚になるという。よくメディアが変わるとそうした展開を逆手にとって役者が地を出しメタな部分から舞台版を評するようなことをやって笑いを取ることも起こるけれど、そうした余興を一切許さないことで緊張感あるカンパニーの空気がどこまでも統率されていく。ユルんだり歪んだりしないから安心してずっと浸っていられる。だから今度の4月も含めて4度も舞台化されるくらいの作品になったんだろう。

 実は実際には見ていないけれども映像として見せてもらった感じでは、ステージ上が2段になってて上と下で攻守を演じ分けるような演出が行われているらしい。アニメーションなら画面を分割して見せられるけど舞台ではそうはいかないところを、工夫によって視覚的にもアニメーションならではの空間の操作を行っている。そんな舞台で演じられる野球は誰もが真剣。バットを振る速度も速くボールを投げるフォームお強い。そこに演じているような雰囲気はない。投げる打つ走るをしっかりと舞台の上で見せることによって野球というスポーツが持つスピード感と力強さをちゃんとそこに現出させている。これもまたどこか冷めた視線で舞台を感じさせてお腹いっぱい感を出さないための工夫か。いつでも行けば真剣勝負を堪能できる、そんなガチンコ感がなんか心をワクワクさせた。

 とはいえ聞くとやっぱり観客の99%は女性だそうで、実際に漫画を読んだりアニメーションを観たりしている男性のファンは舞台にはなかなか足を運んでくれないらしい。すでに女性のものとして定着している場に踏み込みづらいってこともあるだろうし、これは演劇に共通して言えることで平日の昼間とかに来られる男性はなかなかおらず、畢竟演出が女性向きになってしまうこともあって足を遠のかせている。だた逆に言うなら男性ファンを開拓する余地はまだあって、市場を広げられる可能性も持っている。ならば時短とかハッピーフライデーとか言われている状況で、平日に男性が昼間から2.5次元の舞台を見るような気分をどこか、煽って織り上げれば市場全体が広がっていくこともあるかもしれない。やらないかなあ、男性が平日の昼間観て楽しめる2.5次元。って何だろう、やっぱり美少女ハーレム物? 会社帰りの背広がそれを観る? 何て素敵なクールジャパン。


【2月8日】 そして観た「けものフレンズ」第5話をずっと「ごはん」だと思っていたからどこにいったい食事のシーンがあったんだろう、ジャパリまんは食べていたけど捕食って感じじゃないと訝っていたらどうやら「こはん」だったようでなるほどと納得。走り出したバスがとりあえずはラッキービーストによる自動運転だと説明されたご一行、でも自分で運転もできると聞いてやってみたいと運転席に飛びこんだサーバルちゃんは、ハンドルを握るでもなく猫手パンチをハンドルに繰り出し右に左に操作をする。動物って指を開いて握らないんだなあ。そこはちゃんと描いている。でもお茶を飲むときどうしてたっけ。忘れたんで確認しよう。

 してそしてアクセルか何かを踏んだかして突っ込んでいった湖畔に建ち並ぶ謎の木々。それはビーバーがログハウスを建てようと集めていたものらしいけれど、どこかでもらった大切なログハウスの絵なり写真を濡れないようにビニールシートにいれて観ているあたりの賢さを感じ、そして観ただけで設計してしまえるような才能も感じたものの根が臆病なのか考えすぎなのか、失敗したらどうしようって意識が立ってなかなか着工できない。そうこうするうちに何日か経ってしまって材料代もどうするかっといった問題が。博士にジャパリまん3カ月分と言っていたけどそれってどれくらいの費用なんだろう。そもそも博士って。そういったワードが唐突に出てくるあたりにやっぱり世界への不思議が感じられる。

 それはラストに近いところで考え過ぎなビーバーには模型を作ってもらってそしてすぐに何でもやってしまう直情径行なプレーリードッグに実行をお願いする振り分けをして見事に立派なログハウスを湖畔に建てさせ、プレーリードッグが住んでも天井が落ちてこない洞窟も作らせたかばんちゃんは何のフレンズなんだろうって話になって、考えることが得意なフレンズってワードが出てきたところで「ホモ・サピエンス」って種類がぐわっと浮かんできたけどそこへとはすぐに直結さえないご一行。というかラッキービーストだって判定しているならそれがどういう動物かくらい分かっていそうなのに、そういうところは答えないのがやっぱりどこかに不穏を抱いているのかも。次はさてはてどこに行く。そして何が出てくる。期待して観ていこう。主題歌を歌いながら。

 そんな「けものフレンズ」の3DCGなんだけれど妙に佇まいとか仕草が可愛らしいフレンズたちの映像を作っている監督のたつきさんが、自主制作でアニメーションを作り続けてきたirodoriってところの人だとやっと気づいてなるほどと納得。サンライズの荻窪スタジオが手掛けていた森田修平監督の「FREEDOM」とか片山一良監督の「King of Thom いばらの王」なんたを手伝って2Dライクな面持ちを持ったキャラクターを3DCGで造形して動かし喋らせることに腐心してきた人。そんな人が作っていれば観ていて安心の映像ってのもよく分かる。

 そして監督の人とかスタジオの人とはirodoriとして自主制作アニメーションを作ってクリエイターズワールドに出展したり、DVDに焼いてコミティアなんかで販売していたのを見かけて話したこともあったっけ。もちろん記事にもした。そんな人がこの冬で1番の注目作品を手掛けているってことに驚きながらも嬉しさが浮かぶ。ここまで来たんだなあ。すぐにでも話を聞きに行きたいけれども、今となっては行って書く場所もなし。相変わらず速すぎて注目が集まる前にこっちが手出しできない場所へと追いやられてしまう事態が続いている。変わり種ガチャだっていっぱい取材したのなあ。まあ仕方が無い。個人としての愉悦は残るんでそれがお腹の足しにはならなくても、今へと至る道のどこかに何か貢献できたと思い混んで今を喜び、明日へと向かうのを応援しよう。すごいねー。やったねー。

 ベンカンかあ、配管継手の大手としてそれこそ家々から工場まで広い範囲に配管部品を供給しているメーカーが、何を思ってた新しい分野に挑戦しようと考えたのか、新たに始めたのがブロックづくり。といっても壁を作るブロックではなく玩具のブロックで、配管部品の形を仕組みを応用してパイプの形状をした円いブロックをいろいろ作って売り出した。その何も「チューブロック」は基本的に繋ぐ部品に曲がっていく部品に分ける部品があってそれが3種類のサイズがあって接ぎ手の数が違っていたり曲がる角度が違っていたりといろいろな部品がそろっていて、それらを集めて組み合わせることによって実に多彩な形を作り出せる。動物もあれば人間もいてロボットだって可能でロケットだって作り出せる。巧い人がパーツに糸目を付けずにくみ出せばそれこそ城だって町だってガンダムだって作れるかもしれない。

 そんなブロックを最初はクラウドファンディングでもってそろりとマーケティング活動を行って手応えを得て、各種展示会に持ち込んで反応を探りながらどうにかこうにか去年の秋に商品化した模様。今はまだそんなに知名度はないけれど、出自の面白さとそして何よりブロックとしての面白さから知られれば結構な人がくいついて、あれもこれもと作って粋そうな予感。パステル調だったり黄色かったり黒かったり白かったり赤かったりとパーツの色もどぎつくなくってシンプルなのも作ったものがポップになるよう働いている。考えたなあ。1つ2つ買って作って試してみたいところ。そういえば前もばねの会社が小さいブロックを作ってそれでスマホケースとか名刺入れとかいろいろ作れるようにしてたっけ。持てる技術を新しい事業に展開していく動き、この世知辛い経済状況の中で今後も続いていくかなあ。

 もう15年以上はデザインフェスタに通い続けているけれど、だんだんと大きくなって入れ替わりもあったりして出会えない出展者さんも結構あったりする。そして面白いものをデザインフェスタとかそれ以外の展示会なんかで見付けて、今までデザインフェスタに出ていたって聞くと出ていたって帰ってきたりして、見逃したなあって後悔もするけどそれでもどこかで出会えたことは僥倖として、ここから繋いでこうと思うのだった。そんなひとつにインターナショナルギフトショーのアーティストビジョンってコーナーで出会えた。うえたに夫婦、ていう名前で活動している人による「ビーカーくんとそのなかまたち」。いわゆるビーカーのキャラクターだけれど他にもいろいろな理科の実験器具がキャラクター化されている。

 フラスコもいればメスシリンダーもいて遠心分離機なんて装置もあってろうと台やら電子マッチや駒込ピペットや炎色反応やら……ってそれ器具じゃないじゃんって思わないでもないけれど、そうした理科室にありそうな実験器具とか関連したのが精緻に、そして可愛くキャラクター化されていて観ているだけで理科室に入り込んだような気になれる。百葉箱親分なんてのもあるぞ。作っているのは今は独立しているけれども前は化学系の研究員だった人でそれだけに器具への知識も愛着もある感じ。何しろあの「子供の科学」の誠文堂新光社から絵本を出し、「子供の科学」誌上で「ビーカーくんがいく」って連載も持っているから本格的って言えそう。グッズなんかは手作りしたり独自に作って頒布しているようだけど、いずれおおきな所と組んで盛り上がりそうな予感。それだけのポテンシャルを秘めている。学校教材との連携とかもありそうかなあ。そんな期待を抱かせてくれるキャラを推しても世間でブレイクした時には僕はもういない。それもまた人生だ。嗚呼。


【2月7日】 やっぱりなんにも分かっていないし、変わってもいなかった元アナウンサー氏。千葉一区から衆議院議員選に立候補するって表明をしたけれども例の人工透析患者に対する暴言を謝罪するかのように思わせて、根本の部分で人の命の軽重を、というよりすべてに重いそれの生殺与奪の権限を政治が持っているかのような見解を相変わらず示して、さっそくニュースの見出しにとられている。だってそこが1番重要だから。政治でも誰でも人の命をそこで奪って良いかどうかの判断を出来ないんじゃないのっていう疑問に対して、持論を譲らず「自業自得の線引きをするのが政治」だと発言する。つまりは彼が政治家になったらそれは自業自得だからと命を奪われる事態が起こり得るってことだ。

 今はまだ享楽の果てに体を壊した人かもしれない。でもいつか心が弱くて働けなかった人、家が貧しくて学校に通えなかった人も自業自得と切り捨てられるかもしれない。歴史的な経緯があって日本国籍を取得するのに躊躇いがある人たちも、それは決断しなかったお前達が悪いといって切り捨てられるかもしれない。弱さには原因があるし曖昧さには理由がある。そうした背景を、あるいは蓄積を省みないでそれが政治だからと即断即決で切り捨てられていく未来を、もたらそうとしている者が国政の場に立ったらいたいどうなるか。応援している人もいつ自分が自業自得と切り捨てられる側に回らされるかもしれないというのに。でも今さえ良ければの心理が持ち上げてしまうんだろうなあ、海の向こうの自由が危ぶまれている国のように。

 ほかにもいろいろ露呈している元アナウンサー氏。幕張新都心が空き地だらけですよと言い放っては千葉市長からどこが空き地ばかりですか、ちゃんと計画があっていろいろと進んでますよと突っ込まれている。最初はネットニュースだけ見て判断しないで欲しいよと、そうは言ってないようなニュアンスを漂わせていたけれども出席していた人から聞いてそういったと確認したと言い換えされ、実際に映像を見たらちゃんとそう言っていたことも分かってなんかぐだぐだになっている。すぐにちょっと言い過ぎましたと謝れば良いのに、一般論として皆に空き地ばかりって思われているよと言っているけど、少なくともこれからの国政を担う人間なら現状がどうで将来がどうかを確認し、その計画に間違いがあるならそえるくらいじゃないと通らない。デマで不安を煽って注意を向けさせるアジテーターと変わらない。いや実際にそうなのか。

 IRすなわち総合リゾートを幕張メガフロートに建設してその寺銭でもって潤う企業からの税収が千葉一区の教育を無料にしますよって誘いも一方で、カジノという人の欲望を誘い絶望を生むこともある装置からの収奪が背後にあって、そんなお金で教育されて果たして人間として真っ当に育つのか、って疑問も浮かぶ。それなら千葉市長が進めているように、AIでありIoTでありドローンといった未来のテクノロジーを集積し、産業を振興して税収を確保する方がよほど日本の未来になる。目先に走って聞こえの良い話ばかりする。そんな人間がそれでも受け入れあれ国政に出て行ってしまったら果たして未来は。海の向こうの心配ばかりしている場合じゃないよ、本当に。

 フライングゲットを狙いまずは訪れた池袋のP’PARCOにあるタワーレコードだったけれども見当たらず。それならとアニメイト池袋店に行ったもののやっぱり並んでいないのは未入荷なのか売り切れたからなのか、判然としなかったけれども聞くのも憚られたんで店を出て、目的地に向かう途中にここならと入ったとらのあな池袋店でようやく発見して確保できた「けものフレンズ」のオープニング「ようこそジャパリパークへ」のCDの初回限定版。10センチのバッジがついているってことで開けて見たらどうぶつビスケッツ×PPPver.でつまりはジャケットと同じでうん、これでオッケーとは思ったもおの2つあるとコンプリートしたくなるのも人情。とはいえほかに見当たらず。売れているのかなあ。プレス枚数が少ないのかなあ。

 そして2番まで聞いた「ようこそジャパリパークへ」はやっぱり名曲。歌詞も変えつつ展開も踏まえつつ合いの手は入れつつなミュージックがだんだんと盛り上がっていく感じがとても良い。最後はいっしょになって「ハイハイ」って叫び出したくなる。一緒に入っている曲「大空ドリーマー」はどこかで使われるのかな。もう使われていたっけか。ともあれ確保したイベント参加券が使える日にちゃんと開かれることを今は期待。あとはどうぶつビスケッツのコメントが入っている通常版を探してゲットだ。買うのか? そっちは買う。そういうものだ。うーがおー。

 そして駆けつけて劇団スタジオライフによる萩尾望都さんの漫画「エッグ・スタンド」の舞台化発表会見へ。あの萩尾望都さんが登壇するんだからこれは行かない訳にはいかない。気になったのは「エッグ・スタンド」という第二次世界大戦中のナチスドイツによって占領されたフランスのパリを舞台した漫画が、ある意味で太平洋戦争中の日本を舞台にした「この世界の片隅に」と同じ時代を扱っていて、それぞれに日常でありながらもどこか制約を受け抑圧もあったりする中で懸命に生きている人たちを描いていること。そういった共通項を踏まえて萩尾望都さんが「この世界の片隅に」を読んでいるか、あるいは映画を観ているかを尋ねてみたかったけれど、そういう時間はなかったんでそれはいつかまた。

 でもある意味で“もうひとつの世界の片隅”を描いた作品として、萩尾望都さんは知らなくても映画で「この世界の片隅に」を観た人には読んでもらいたい漫画だし、観ても平ら委舞台って気もしてきた。そしてもうひとつ、今という時代と重なる部分を70余年前のフランスなり日本なりに感じ取ってそこから今という時代が第二次世界大戦中でホロコーストを引き起こすドイツや、太平洋戦争で本土を焼け野原にされる日本のような悪い方へと向かわないための道筋を、あるいは信念を見付けて欲しいって気も。製作発表会でスタジオライフの脚本と演出を務める倉田淳さんが作中で語られる、中にヒヨコが入ったまま生まれずに死んでいくタマゴの描写を引き合いに、どこかの大統領によって強固に守られる国がそのまま腐っていかないかって話をしていた。

 つまりはアメリカ合衆国でトランプ大統領による保護主義と排外主義を差してのことだろうけれど、そういう不安を抱かざるをえないくらいに今、世界は急激に窮屈さを増している。そんな偉大にこの「エッグ・スタンド」が舞台化されて注目を集めることにはやっぱりおおきな意味があり、意義もありそう。本来だったら許可をもらった10年くらい前に倉田さんが脚本を書き、演出をすれば舞台化もされていたかもしれない。ただその時は人気の萩尾望都さんの作品がまた1本、舞台になったってくらいで済まされていたかもしれない。でも10年が経って激変した世界は「エッグ・スタンド」の時代へと逆行するような空気を醸し出している。今こそ、今だからこその舞台化ってことも言える訳で、それだけに倉田さんの筆も演出もきっと冴えたものになるだろう。これは観に行かざるを得ない。

 キャスティングがまた絶妙で、殺人を繰り返す少年ラウルを松本慎也さん、山本芳樹さんが演じてそんなラウルの面倒を見るキャバレーの踊り子ルイーズを曽世海司さんと久保優二さんが担当。曽世さんなんていったいいついらいの若い女性役だろう。20年前に「トーマの心臓」でスタジオライフの舞台から出た曽世さんだけに原点に返りつつ新しいものに挑む作品として意味を持ちそう。そしてレジスタンスのマルシャンを演じるのはどちらかといえば妖艶な女声役が多かったイケメンが多かったりする岩ア大さんと笠原浩夫さん。松本さん組のノワールがスタジオライフのある意味でのビジュアル的な看板で固め、山本さんのルージュチームが技巧派を揃えた、っていったら両者に失礼だけれど、そんな差異も楽しめそう名だけにこれもやっぱり両方観たい。頑張ってチケットとろう。そして世界の片隅に生きた人たちの息づかいを感じよう。


【2月6日】 アニメーションを対象にしたアニー賞が発表になっていて、公開規模の大きいメジャーな作品ではやっぱり「ズートピア」が受賞。そしてインディペンデントでは原恵一監督の「百日紅〜Miss HOKUSAI〜」や「君の名は。」がノミネートされていたものの受賞を逃し、とはいえ一応はスタジオジブリが関わっている「レッドタートル ある島の物語」が受賞して、ニュース的にはジブリがってことを言えたみたい。もちろん日本でのコンテ作りとか高畑勲監督の助言とかあるけれど、資本はだいたいがフランスで監督はオランダ出身。それを同じジブリ作品と言って俎上に載せて書かなくちゃいけないくらいに、ジブリって看板が持つ世間的な伝播力は未だ高いと言えそう。通じちゃうものなあ、ジブリが取ったで。

 でもそれは日本のアニメーション界にとってどれほどの意義があるかというとまた別の話で、そこにクリエーターとして誰か関わっていたならまだしも看板を貼っただけといった雰囲気。興行成績も今ひとつだったし、そういう看板での神通力は少なくとも興行の面ではだんだん薄れてきていると言えるかも。だからこそ新しいクリエイターを送り出さなきゃいけないのにジブリはやっぱり宮崎駿監督を持ち出しそうだし、メディアも新しい人をなかなか取り上げない。だからこそ国内で今、盛り上がっているアニメーション映画のブームを受けてこんな作品があったし、こんなクリエイターがいるって紹介していけばいいものを、今のこの瞬間の話題にすがって報じて終わりって感じだからなあ。「君の名は。」も「この世界の片隅に」も。

 とはいえ、そうした過去の苦渋を知っている片渕須直監督あたりはしっかりと波及も考えているようで、インタビューなんかで答えて必ず他の作品があったことを挙げている。嬉しい限り。あと民放が徹底的に削ってきた主演ののんさんをどうにか露出させようとしたか、歴史あるキネマ旬報ベスト・テンの表彰式で読者選出監督賞の受け取りをのんさんい任せて壇上に引っ張り出した。監督賞は片渕須直監督が受け取り作品賞は真木太郎プロデューサーが受け取って、その流れで片渕須直監督が2個目のトロフィーを受け取っても間に合ったところを、敢えてのんさんに受け取ってもらった。

 これで壇上には3人が並び受け答えには必ずのんさんが入る。実際に民放のワイドショーでは片渕須直監督の背後に佇むのんさんがしっかり映っていた。話もアフレコの時の様子でのんさんをしっかり立てていた。記念撮影でもしっかり映っていて、そこには主演助演の男優女優も並んでいた。ザ・芸能界の中心を行く人たちといっしょのフレームに入ったその映像なり画像から、のんさんだけを削るなんて無理。やればやったで何か言われるだろうからやらない。そんな画策からのんさんが世に露出していくことが“解禁”されればいっしょに映画も広がって、そうやって得た発言権が新しいアニメーション映画と、新しいクリエイターの認知に繋がれば嬉しい。でも今度は宮崎駿監督が片渕須直監督に置き換わるだけって可能性も。そこを突破する方策を、いろいろ考えていかないといけないのかも。

 アニー賞ではウィンザー・マッケイ賞に押井守監督が選ばれていて授賞式に行ったみたいで帽子を脱いだ姿を珍しく見た。でもって功労賞的な賞へのあれやこれやを喋ったみたいだけれども個人的にはやっぱり「スカイ・クロラ」以降、劇場でかかる長編アニメーション映画を撮っていないのが残念で、早くどこかのプロデューサーが押井税を納めて企画し作らせるだけの配慮を示して欲しいと思ったけれど、いったい何を撮れば誰もが感心を示すのかがちょっと分からない。「スカイ・クロラ」だってどうして森博嗣さんのあの小説をって思ったものなあ。でも出来たらすばらしかったんで、そうした意外な組み合わせから凄いものを送り出す才能を、このまま埋もれさせないで欲しいと願おう。何を作って欲しいかなあ。

 救いを持たせて終わりを心地良いものにしがちなエンターテインメントにあってのっけから絶望的な状況へとヒロインを叩き込み、そこでの幸福を求め足掻く姿を描いてあったりして読んで心にズキッと来た諸口正巳さんの「常夜ノ国のノ天照」(エンターブレイン、1400円)。訳あって左目の眼球を失いまぶたも傷つけられ、いつも眼帯をしている火野坂暁という少女が絶望しながら鉄道に乗って目覚めると見知らぬ場所。降りてそこにいた少年からりんご飴をもらい舐めた時に異形の者たちに襲われ、あらがっていたところに緑色のジャケットを着て帽子を被った男が現れ助けてくれた。名をオースティン・ミニ・クーパーS。まるで英国の自動車みたいな名前だけれどもそのとおりに自動車で、長く乗ってもらったことで付喪神となってその地、常夜へとやって来た。

 そして暁に語るには世界はシロギツネとクロギツネの下で2分されていて、良い者たちがいて悪い者たちがいてお互いに殺し合っている。ミニ・クーパーSは良い側で他に<良い飴屋>やら<良い鍋屋>やら<良い人形屋>やらがいてそれぞれに力を振るって戦っていた。そんな地に天照、一種の女神として召喚された形の暁だったけど、何も口にしなければ元いた世界に戻れた者をひと舐めりんご飴を下に触れさせただけでもうダメで、残る一生をその地で過ごさなくてはいけなくなった。なおかつ悪い奴らが集まるニシ町を焼き尽くす力を持った天照を捕らえて喰おうとしているニシ町の襲撃も止まず、暁はヒガシ町の住人たちと共に戦線へと身を躍らせる。

 元いた世界で信頼していた相手から邪険にされた哀しみがあり、元いた世界に帰れないという絶望があり、そして戦いではどんどんと味方が倒れていく悲惨もあってなかなかなにシリアスでダークな気分にさせられるけれど、そんな中でいつも飄々として暁のピンチに駆けつけるミニ・クーパーの愛された自動車ならではの実直さにジンと来る。そりゃあ暁も惚れるはず。もう1台、ハコスカというのも登場してしばらくはニシ町について暁を狙うもののそこは自動車、誰かに乗ってもらってこそ嬉しい身がただ世界を滅ぼそうと画策するニシ町の元締めと若と呼ばれる少年の謀議に嫌気を抱き、暁を助けようと疾走する姿も格好いい。エンスーならずともオールドカーの性根の良さに惹かれる設定。そんな戦いを経て悲劇も味わいつつ希望も灯ったこの先、常夜はどうなっていくのかい興味。そう言う続きが描かれる作品でもないだろうけど、ちょっと読んでみたいかも。

 これはやられた。脱帽だ。コーエーテクモグループのコーエーテクモウェーブが新しい業務用のVR筐体を開発したってんで見物に行って、いったいどんなVR技術を使っているんだろう、やっぱりHTC Viveみたいなものだろうかと思っていたら何と搭載していたのがプレイステーションVR。それが筐体にセットされ動く椅子やら吹く風やら触れる何かやら香匂いやらと連動して臨場感って奴を醸し出すらしい。VRアトラクションというと装着に誰かがついていないと大変で、台が動くなら安全のためにも見張っていなくちゃならず人手がとられるけれど、この筐体なら自分ひとりで装着できて見張りも不要。オペレーションする側にとってはローコストでVRを導入できるだろう。なおかつコンテンツもホラーゲームにジョッキーレースゲームに「真・三國無双」と引きが強そう。本格的に動き始めればあちらこちらで長蛇の列ができるかな。ちょっと注目。


【2月5日】 今日が最終日だと昨日分かったんで慌てて国立新美術館へと行って「第19回ドマーニ・明日展」を観る。目当ては折笠良さん。今回の毎日映画コンクールで「この世界の片隅に」が受賞した大藤信郎賞を去年「水準原点」で受賞した折笠良さんのコーナーがあるってんでこれは観ておかなくてはと行って入場し、まずはとほとんど最終に近いコーナーへと急いで観たのがロラン・バルトによる論考を文字で描きながらもそれがアニメートされるっていった作品「Notre chambre /われわれの部屋」で、前に東京藝大院の終了制作で作ったオスカー・ワイルド「幸福の王子」を文字で描きつつ動かしてのけたシリーズと重なる、あるいは集大成といったものになっていた。

 その論考自体が美術なり評論なりの世界でどれだけの意味を持っているのかは分からないけれど、「幸福の王子」がどちらかといえば物語だったのに対してちょっと違ったアプローチがそこにあったかもしれない。凄いといえば凄いけど、面白いかと言われるとちょっと。ただひとつの手法として確立された感もあるんで次は日本語の文章のたとえば村上春樹さんを動かすとかやったら世間受けはしそう。でもやる意味があるかは分からない。上映されていた「水準原点」はやっぱり心に染みるというか、岸へと近付いていく波のような造形の変幻の中に浮かぶ言葉。そしてのまれてまた波となる感じから世の無常ってやつが漂い出る。こういうのを評価するから大藤信郎賞は凄い。久野瑤子さん「Airy me」とかも。それが今回は長編アニメーション映画だった訳で、弾かれたインディペンデントな短編アニメーションが拾い上げられる賞があれば良いけれど。TAAFかなあ当面は。

 他の作品では金子富之さんという、元は日本画の人らしいけれども今は南アジアや東南アジアの神獣めいたものをモチーフにしてどこかプリミティブな雰囲気を持った絵画を描いている人の作品に見せられた。インドのミティラー絵画にも似た緻密さでもって彩色も行われたおおきな絵は正面に立つと睨まれ引き込まれそうになる。これが絵の力って奴だろう。ほかでは岡田葉さんって人の絵が良かったかなあ、ざっくばらんに描きつつ彩色しつつしっかりとモチーフを捉えている作品は明るくて楽しげで、絵ってこうやって描いても良いんだって思わせてくれる。もちろんそう似せるまでにはしっかりとしたデッサン力があるんだろうけれど、観て窮屈なよりは開放感がある方がやっぱり良いから。もっと観ていたかったけれど時間もなく、今日でおしまいなんで残念。いつかまた個々に展示されていたら観に行こう。

 観ていたかというと始めは観ていて途中まではちゃんと観ていた記憶があるけれど、それからどうなったかというと少し記憶もおぼろげになるNHKの人形劇「プリンプリン物語」。強烈だったルチ将軍という独裁者に支配されたアクタ共和国でのエピソードが終わっていったい、プリンセス・プリンプリンと仲間のボンボン、オサゲ、カセイジンにプリンプリンとはずっといっしょだったモンキーが、どんな旅路を辿ってどこまで行って、どんな結末を迎えたのかになるとちょっとはっきりとは覚えていない。そもそもプリンセス・プリンプリンは自分が生まれた国にたどり着けたのか、お父さんとお母さんには会えたのか、そもそもプリンセスだったのか。話の根幹となる部分について知らなかったりする。

 でも、デビューの翌年から「プリンプリン物語」のヒロイン、プリンセス・プリンプリンの声を演じて3年間、600話以上をいっしょに走った石川ひとみさんが、イベントに登場してまだプリンセス・プリンプリンの旅は続いていると話していたから、放送された人形劇でしっかりとした結末は描かれておらず、プリンプリンもボンボンもオサゲもカセイジンもモンキーも、未だにどこかの国を訪れては奇妙な人々との間で騒動を起こし、すばらしい人たちと出会って導きを得ているのかもしれない。そんな物語が今またテレビで人形劇として描かれたりしたら嬉しいけれど、そのためには「プリンプリン物語」がどんなストーリーだったのかを振り返り、観ていく必要がある。

 そして問題は、長くそんな「プリンプリン物語」のストーリーで大切な始まりの冒険が映像として残っておらず、振り返りたくても振り返られなかったことだけれど、長い調査の果てにようやく、失われていたと思われていたエピソードが発見され、綺麗に整えられた上でアーカイブスとして収録されると同時に一般にもお披露目されることになった。そんなイベントが埼玉県の川口市にあるSKIPシティ彩の国ビジュアルプラザにあるNHKアーカイブスの映像ホールで開かれて、行ったらこれが凄かった。もう本当に凄かった。入ってまず目に飛び込んできたのがルチ将軍の巨大な頭と、脇を固めるヘムラー大佐にステッラに軍曹ほかアクタ共和国の皆さんたち。当時の人形が引っ張り出されて飾られて、映像とともに迎えてくれて、観ているだけで当時の記憶が蘇って来た。

 そう、僕はこのアクタ共和国編は観ていたんだ。何しろルチ将軍のキャラクターが強烈で頭が巨大な上に知能指数は1300。独裁者でやることなすこと酷くて観ているとどうにもこうにも憤りが浮かんで来る。今となってはどこかの超大国の大統領に就任した人にも重なる独裁ぶりだけれど、当時はどちらかといえばナチスドイツの影響も過去にいたキャラクターとして、2度と生んではいけないという気分を抱かせてくれた。もしも今、このアクタ共和国編が放送されたら世間は現在進行形の独裁と独裁者を思い出すだろうなあ。「世界で1番優れた民族、アメリカアメリカ合衆国、大統領令絶対移民は反対アメリカアメリカ合衆国」だなんて歌いそうだものなあ。

 そんなアクタ共和国編がイベントでは導入部に近い部分がまるまる1話と、そして流れを追うダイジェストが30分くらいで放送されてはあの国でいったい何が起こっていたか、革命を起こそうとした2人がどうなったか、そしてルチ将軍は何者だったかが示される。悲しい結末は本当にそうだったんだろうか、って気になったけれどそこは上映されず。どうやらそおはまだ映像が発見されていなのかな。ともあれ大半が見つかって感動を爆笑の展開は蘇った。いずれアーカイブスとして公開されるそうなんでそれを待ちたいし、限りなく完全版に近いDVDボックスの発売も期待したいところ。アクタ共和国編があってこその「プリンプリン物語」って思う人も結構いるだろうし。

 そんな上映を観ていて思ったのがルチ将軍を演じる声が最初はまだぎこちなく、そしてだんだんと突拍子もなくなっていくこと。演じてるのはもちろん神谷明さんだけれど、一方でボンボンというお調子者の二枚目を演じていたりする訳で、もう一方で時に甲高く時に居丈高な独裁者も演じてのけたその技に、当時は声優って凄いなあと思った。後に「キン肉マン」や「北斗の拳」や「シティハンター」でイケメンの少年に止まらない声を演じるようになっていった、その原点があるいは「プリンプリン物語」のルチ将軍にあるのかもしれない。そして緒方賢一さん。アクタ共和国で軍曹を演じた緒方さんが会場に「天の声」として参上しては、第1部で石川ひとみさんといっしょに上映を進行したり、キャラクター・ベストテンを引っ張った。

 このキャラクターベストテンで10位に軍曹が入ったのはご愛敬として、1位がプリンセス・プリンプリンなのも当然として2位がカセイジンだったのが少し意外だった。誰もがやっぱりルチ将軍と思っていたけどカセイジン。あの「ルールールールー」という耳を回して予言する不思議さと妙な落ち着きに惹かれた人が多かったのかも。仲間はボンボンもオサゲもモンキーもしっかり入っていて、他はペドロに花のアナウンサーにランカーといったところはつまり定番メンバーってことで、そんな面々を石川ひとみさんが物真似して紹介する場面もあれば、軍曹がさんがやりたいと言って真似する場面もあった。そんな軍曹さんによるランカーの真似は滝口順平さんを緒方賢一さんが真似るという、声優レジェンドによる“共演”として記録に残るかも。共に剽軽なところがありながらも滝口さんはドスが利き、緒方さんは抜けがあってとある意味で対局。でも根底は似ている2人の入れ替わり。もしかしたら今、滝口順平さんを替われるのは緒方さんをおいて他にいないのかもしれないなあ。

 花のアナウンサーが出ずっぱりな感じもあったギャグを集めた映像が流され、そして歌がフィーチャーされた映像も紹介された第1部に続く第2部では、石川ひとみさんがそんな歌をライブで披露。メーンテーマに始まって「おかあさんのうた」やら「おとなってへんね」やら「わたしのそこく」やらボンボンが歌った「そら」やらを披露。途中にはあのヘドロを演じた眞理ヨシコさんが現れては名曲「ヘドロの歌」や「世界お金持ちクラブの歌」を聞かせつつ、「オー・シャンゼリゼ」「枯葉」「愛の賛歌」と本格的なシャンソンも歌ってくれた。芸達者。そんな人が3年間もランカーの秘書としてペドロを演じ続けたって意味でも凄い番組だったと改めて思った次第。

 最後はやっぱりな「ハッピーアドベンチャー」を歌って締めて3時間半以上。当時と変わらず澄んだ声で楽しげに歌ってくれる石川ひとみさんの巧さも輝いた。そんなとてつもないイベントを無料で楽しめたってのもやっぱり凄い。でもこの凄さを行った人たちだけで味わうのも悪いんで、是非にまた、今度はNHKホールで本格的な上映と、そして出演者を集めたコンサートを開いて欲しいなあ。聞きたいよ会いたいよルチ将軍に。花のアナウンサーに。ベベルとマノンに。たぶん皆さん今でもちゃんと声、出せるだろう。そしていっしょに集いたいだろう。緒方さんも最後に登場して楽しそうな表情を見せてくれていたから。オサゲのはせさん治さんは亡くなられたし、ランカーも無理だけそこは緒方さんが物真似で演じるということで。是非に。絶対に。


【2月4日】 チェコのクラブでクラヴィスがビールを飲んだ辺りで意識が途切れて、気がつくとインドの上空から降下しようとしている場面だった。何が起こったか分からないかというと普通に眠ってしまっただけだけれども映画「虐殺器官」は戦闘シーンは緻密で迫力もあってなおかつグロテスクで目が離せなくなるものの、その間をつなぐシーンには会話が多くそれらが説明口調で精神が衰えているとついつい脳の活動を停止させられてしまう。それはもししたら映画のセリフに睡眠の文法でも仕込まれているからなのかもしれない。そんなことはないだろうけれど。

 試写ではそれでも全部見ているからストーリー自体で抜けはない。ただやっぱりエンディングからその先、小説ではエピローグにあたる部分がばっさりと切られているんでいったい世界があの後どうなったのか、というよりそもそもクラヴィスはどうして訴えられていて、そこでいったい何を話したのかがまるで映画からは理解できない。放り出されたような気分にさせられる上に理屈っぽいセリフの連続では人によっては飽きもするかおしれない。目を向ける美少女もいないし。

 ただ通して見ればやっぱり突きつけられてくる言葉が人を誘い煽って“虐殺”へと向けるメカニズム。頭に器官があろうと遺伝子レベルで組み込まれていようと、そうしたものが発動する暇もあたえず人間は扇情的な言葉によって煽られ、扇動的な言葉によって猜疑心を増大させられ不信と不安の中で弱い者にたいする暴言を口にしては安心しようとしている。そうした言葉がひとりのものから大勢の意識になりつつある現在、何かが起こりかねないといった心配が漂う。関係がないのに中国が悪いと仄めかすような記事とかが、木鐸を任ずる新聞の題字の下に載る時代。煽られた心理は燎原の火のように広がって心を赤く染め、やがてその手を血に濡らさせるようになるかもしれない。そんな時代を描く映画。もう1度くらいちゃんと起きて通して見たいけど、なんか暗いんだよなあTOHOシネマズ日本橋。過激過ぎる内容なんで暗くたのかなあ、気のせいかなあ。

 ステゴロで殴り蹴るのが憧れを誘って受けていたんじゃないのかプリキュアシリーズって思っていただけに、最新シリーズの「キラキラ プリキュアアラモード」では肉弾戦を封印したっていった話が流れてくるにつれ、それってプリキュアなのかと思いつつ一方で今のプリキュアらしさて何なんだろうとか考えつつ、シリーズが長く続くとやっぱり不思議な現象が起こるものだといった認識を改めて抱く。っていうかもはや「仮面ライダー」だってライダーとしてオートバイに乗って走って闘わなくても良い時代。ロケットで宇宙に出ようが車で走ろうが「仮面ライダー」と頭に着ければそれはライダーな訳であって、変身ヒーローの代名詞的な言葉として認識しつつ仮面のヒーローが活躍しくれれば後は問わないっていったことになっている。

 ならばプリキュアだって初期の「ふたりはプリキュア」の頃から続いた、魔法だのアイテムだのを使わずパンチにキックで敵を倒す基本はもはや基本ではなく、2人組だっていうのはとっくに消えて複数の少女たちが変身をして集団で戦う展開があればそれはプリキュアなんだといった認識に落ち着いているのかもしれないそして肉弾という戦いの手段はやっぱりちょっと見せて良くないといった想いが親の世代なんかに流れていると、そうじゃない方向へと行きましょうってなる。そんな現れななのかもしれないなあ。それだったらもうプリキュアというシリーズ名も辞めて魔法のなんとかめいたタイトルで新シリーズを立ちあげれば、この先の10年を戦えると思うんだけれどそこで躓くと後が続かないって不安もあるんだろうなあ、だからプリキュアという何すがる。それはいつまで保つのか。これからの数年を眺めていこう。また肉弾戦が復活するかも知れないし。「ブートキャンププリキュア」とか「ピクピク プリキュアマッスル」とかってタイトルで。

 少年と少女の不思議な出会いが描かれている田辺屋敷さんの「追伸 ソラゴトに微笑んだ君」(ファンタジア文庫)。野球部を辞めてボーッとした毎日を送っていたマサキって少年が、近況報告がてらに祖母に「彼女を作る」と古い年賀状に書き、不足分の切手を貼ってどこかさび付いたポストに投函してからしばらく。新学期が始まって学校に行くと自分だけが知らないハルカという少女がいて、成り行きからカップルを演じるようになった。クラスの誰もがハルカはずっといると言っている。いったいどういうことなのか。おまけにマサキが古い年賀状に好みの髪型を書くと、ハルカの髪型もそのとおりになっていたから驚いた。神様でもいて世界を望みどおりに変えているような、俺TUEEEEE系ファンタジーに見えなくもない。

 ところが、だんだんと浮かび上がってくるのは時間が絡んだSFといった雰囲気。伝承めいた謎のポストの存在と、古い年賀状というアイテムを通して今がどこかと繋がって、そして今に至っている関係からマサキの手紙の言葉がハルカに跳ね返って来ている。そして起こった哀しい出来事。それもどうにかできるのか。動くマサキだけれど古い年賀状は残り少なく、そこでやり方を間違えたら取り返しのつかないことだって起こりえる。どうすればどうすればマサキは最悪の今を最善へと変えられるのか。そんな方法をいっしょになって思索したくなる作品。守備範囲外の恋愛ファンタジーに見えて見かけによらずSFな作品があるなあ。飽きずにもうちょっと手広く読んでみるか。

 ULTIRAだULTIRAだ、イオンシネマ幕張新都心で片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」が巨大なスクリーンと圧巻の音響設備を持ったULTIRAで上映されるってんでさっそく見物に。入って3列目くらいに座ると視野いっぱいにスクリーンが広がる迫力で、TCXなんかともまた違った迫力でもって身に迫ってくる。そして音響は片渕須直監督が自ら調整を施したという9.1chでこれはいったいどんなサウンドになるのかと耳を澄ませて驚いた。風のごうごうと吹く音が聞こえてくる。たとえばすずが手伝いでのりを干す場面。あるいは松葉を集めに行って水原さんと出会う海を眼下に見下ろした高台のシーン。そこでごうと吹きびゅうと吹く風の音が背後に鳴って自分もそんな風を浴びているような気にさせられる。

 爆弾が落ちてきたり戦闘機が飛んだり機銃が掃射されたりといったおおきな音、爆発系の音も響くのは当然として、そうした自然を表現する音がしっかりとつけられていた。これまでは耳に届かなくても肌身に感じられていて、それがちゃんと耳に響いてなおいっそうの臨場感って奴を醸し出す。ほかにも細かい音が聞こえてくるようになっていたULTIRA9.1ch。加えて見上げるように浴びせられるようなスクリーンはエンディングが終わった後のクラウドファンディングに参加した人たちの名前が流れるその下で描かれる絵物語を、それこそ劇場にある中規模くらいのスクリーンで見ているような気にさせる。隅々までじっくり見えて伝わってくる心情も増大。結果として今までの千倍も万倍も泣けてきた。こういう効果を味わいにまた観に行こう。「マイマイ新子と千年の魔法」の上映もあるし、ってか「ガールズ&パンツァー劇場版」の上映おあるのか。通おう。


【2月3日】 ここんところ話題のJASRACによる音楽教室からの著作権料徴収の話で、法理的ではなく情緒的に言うと、それで潰れたり事業縮小したりした音楽教室が出たり、月謝が高くなって通いづらくなって生徒が減ったりした先に、JASRACが飯の種にしている音楽そのものを作る人たちが減って、自分の首を絞めかねないのに今の収入に走って臆しない姿勢がどうにも物寂しい。大局観を持って物事を見て、これは悪手だと感じ取って抑えるだけの度量がもう、日本人から喪われていたりする現れなのかもしれないなあ。今さえ良ければ後はどうでも。信頼を売ってアクセスを稼ぐどこかの新聞のようだ。厄介だけれどもで、本気そうだしこれはしばらく揉めるかな。

 発売された「キネマ旬報」の2017年2月下旬号で2016年第90回キネマ旬報ベスト・テンの結果が掲載されていて、そこで読者選出賞も片渕須直監督の「この世界の片隅に」が受賞していてなんか本当に制覇しつつある感じ。すでにベスト・テンの第1位を獲得して日本映画監督賞もアニメーション映画作品の監督としては初めて片渕須直監督が受賞するといった報が流れてファンを喜ばせてはいたけれど、こと人気投票になるとやっぱり「シン・ゴジラ」か「君の名は。」に向くと思っていただけにちょっと意外。というか圧倒的な観客動員数を誇りながらもどうして「君の名は。」がトップに来ないのかがちょっと分からない。

 これで日本アカデミー賞の最優秀アニメーション映画賞まで逃すとちょっとこの国の映画産業も不思議な状態に陥ってしまう。良い物が受けるとかいった認識が生まれてしまうとか。いやいや確かに「この世界の片隅に」は良い映画だったから観客もだんだん増えて行ったんだけれどそこには口コミによる拡散があり従前からの片渕須直監督らによる草の根の浸透作戦もあっての動員数。それなくして良い映画だからと世に出したものの受けず引っ込んでいく作品が、このあと続出したらちょっと悪い影響も出かねない。むしろ「君の名は。」こそ良い映画だったからこそ受けたんだといった文脈を、ここでつけてあげないといろいろと冒険的でもあるオリジナルのアニメーション映画が引っ込んで、またぞろ人気シリーズやキャラクターの作品ばかりになってしまう。

 数字があるならやっぱり1番といったものを、数字だけでなく賞でもって讃える制度って映画界にはあったっけ。音楽業界だといろいろと力学が働く日本レコード大賞に対して数字が物を言うゴールドディスク大賞があって棲み分けはできているけれど、映画って観客動員数ナンバーワンになったものを讃える仕組みがあんまりないんじゃないかなあ、日本映画製作者連盟賞とかあったら良いのに。あったっけ。あと良い映画だけれど埋もれてしまっている映画への視線が、片渕須直監督がキネマ旬報のインタビューで「」と話すようにあちらこちらで訴えても、なかなか浮かんでこないような気も。

 商売的に今の旬に乗りたいと「この世界の片隅に」を取り上げるメディアは増えても、だったらいったい過去にどんな良い作品があって忘れ去られているのかを検証するメディアは聞かず。このままではスタジオジブリと宮崎駿監督のバリューが片渕須直監督なり、新海誠監督にすり替わっるだけに終わってしまう。そうならないためにも映画の人たちは、アニメーションの人たちはやっぱり今の旬に乗っておきたい感じなんだよなあ。過去の作品を取り上げたってそれで読者が、あるいはアクセスが増える訳でもない。今ならまだ片渕須直監督と「この世界の片隅に」というワードで客は釣れるから、そのバリューを利用して自分が好きだった作品を混ぜて取り上げ認めさせる活動を、ライターさんなり編集さんには企んでほしいもの。ほら、あるでしょ不遇に終わった名作たち。盛り上げてBD発売まで持っていって先見の明をアピールしようぜ。

 ううん。TOKYO MXで放送された「ニュース女子」が沖縄のデモ活動について調べもしないで書いて批判を浴びている件で、TOKYO MXに抗議に行った人たちがいるみたいだけれど、そんな集団にとある自称全国紙から取材に行った記者がいたらしい。でもって参加していた1人に話を聞こうとしたら「『右翼新聞だからダメだ』と断られた」と書いている。読めば相手が左翼的で取材拒否も平気な乱暴者って雰囲気だけれど、問題はこれ、本当にあった話なんだろうかってこと。何せありもしなかった区役所による自衛隊の立ち寄り拒否を書いてすべての区役所から抗議を喰らった記者だから、方向付けのためにはなかったことだって書いて不思議は無い。あったとしてもこれはジャーナリストとしての身の処し方だけれど、意見が欲しかったら断られても別の人に話を聞くもの。それをしないで断られた話だけを書いて相手をそういった勢力だと印象づけるのは、「ニュース女子」がやって問題になった手法と同じだろう。それを検証めいた記事で重ねてやってしまうところがやっぱり似たもの同士ってことなのかも。やれやれ。

 サンリオエキスポ2017があったんで見物に行く。コラボレーションが増えたなあという印象。まずはDLEの「秘密結社鷹の爪」とか「パンパカパンツ」とかとサンリオキャラクターのコラボレーションがあり、「コロコロコミック」に登場したさまざまな漫画のキャラクターがサンリオのデザインによってこれまでとは違った雰囲気になっていたのがあり、さらには「美少女戦士セーラームーン」がマイメロディとコラボレーションをするみたいで看板が立っていた。どういう風にかは分からないけど可愛いものにはなりそう。もちろん単体でもハローキティがBEMASとコラボしスタイリッシュなデザインになったり、シナモロールがシュタイフのぬいぐるみになったりと長い時間で培われた信頼が新たな意匠をまとって登場してくるケースもあるけれど、逆に新しいキャラクターの勢いに乗りつつ相手にも歴史から来る安定感を与えるといった交流も、積極的に行われていくような感じ。今後もあれやこれやと登場してきそうだけれど、どんなコラボレーションがあるかなあ。「けものフレンズ」と「SHOW BY ROCK!!」とか……はさすがにないか、いやでももしかして。

 「SHOW BY ROCK!!」といえばリアルなシンガンクリムゾンズが復活の予定で5月に音楽ライブを開き10月にミュージカルの舞台を踏む予定。去年も今ごろにブルーシアターでもってミュージカルの公演があったけれど、今回はネルケプランニングが制作に入って本格的な2.5次元ミュージカルになるって感じなのかな。場所も渋谷のAiiAシアターだし。出演者も去年と同じ4人らしくてサンリオエキスポ2017の会場に来ていていろいろ話してくれていたけど、とにかく同じメンバーで再演できるのが嬉しかった感じ。結束力でもって相当な舞台が期待できそう。あとロム役の滝川英治さんがさすがの大胸筋ぶりを見せてくれていた。喋るときも腕に力が入ると大胸筋がピクピクッと動くんだ。いやあ触りたい。でも触れない。そこが残念。まだ2割の筋肉だって言ってたんで舞台ではさらにスケールアップした大胸筋を見られるだろう。今年は観に行こうかな。


【2月2日】 地下にある迷宮へと向かう際の音楽が余計に不穏さを増しているなあと、「けものフレンズ」の第4話「さばくちほー」を見返して思った一方で、真ん中あたりでアメリカの動物園にいるおねえさんにスナネコについて話してもらっている時、画面では寝ているフレンズのスナネコがいて、その周囲にある砂にかばんちゃんとサーバルちゃんとバスとラッキービーストが描かれているのを発見してちょっとグッと来た。あれだけストーリーで熱しやすいけど冷めやすく、すぐに興味を失ってしまうと説明されてたスナネコなのに、出会った面々を覚えてああやって落書きする。それくらいに楽しい思い出だったんだろう。でもまた会うとは限らない。会えるとも。そんな世界の不穏さを思いつつ、みんなが一緒になって遊べる日が来ると良いと思うのだった。どうなっていくのかなあ。来週も楽しみ。

 将棋のA級順位戦で第8局が行われたみたいで無敗でトップを突っ走っていた稲葉陽八段が渡辺明竜王に敗れて1敗となってそのまま独走での名人位挑戦がなくなった。次に森内俊之九段に敗れてそして羽生善治三冠が屋敷伸之九段に勝つと三敗で並んで挑戦者決定戦へ。だったら稲葉八段が森内九段に勝てば良いんだけれど今3勝5敗で下には休場となっている三浦弘行九段を除けば下には2勝の佐藤康光九段がいるだけ。もし佐藤九段が最終局で広瀬章人八段に勝って3勝6敗になると、稲葉八段に敗れた森内九段も同じ3勝6敗となって順位から最下位となってB級に陥落しかねない。だから稲葉八段には勝って4勝5敗としておきたいだろうから、やっぱり最終局を過ぎて7勝2敗で並んだ稲葉八段と羽生三冠の決定戦から羽生三冠の復位といった流れになるのかどうか。今季も獲得賞金1位だった羽生三冠だけにその目も強いかなあ。2月25日という“将棋界で1番長い日”は本当に長い日になりそう。

 ジョークドキュメントBBS放送局の司会かな、やっぱり個人的に藤村俊二さんを濃くたっぷりと観たのは。名古屋の中京テレビで夜に放送されてたローカルのバラエティで、日常の身の回りにあるものを濃く深く解説していくシュールで洒落た番組だった。そんな内容に相応しいのが見かけは紳士だけれどどこかにアヤシい感じも秘めた藤村俊二さんというキャラクター。真面目にしているようでヒョイと下らないことを言ったりする感じが濃すぎる多極のバラエティにあって一服の清涼剤のような感じだった。番組からは小西博之さんも登場して小学生か誰かを相手に真面目だけれど妙な先生を演じてた。その感じが欣ちゃんに認められて東京に出て今に至る。その意味では恩人かもしれない藤村俊二さんが死去。「黒執事」のタナカさんは晩年でセリフも少なく感じ取るのは難しかったけど、初期にはそれでもセリフがあって殺伐とした中にふわっとした空気感を与えていた。もう味わえないその雰囲気。寂しいけれども黙して見送ろう。合掌。

 日本ではネットでライトな方面に大人気の元アイドルが本を出したからといってサイン会をやろうとしたら、抗議の電話ががんがんとかかって来て会場の方が引いてしまって中止になってやれ言論弾圧だ、これ条件を無視した横着だといった具合に悪口の応酬が行われていたりするけれど、アメリカの方ではさすがスケールがデカいというか、オルタナ右翼のアイドルとして人気の英国人作家、マイロ・ヤノルプスがカリフォルニア大学バークレー校で講演をしようとしたら反対する学生が大勢現れ、暴動めいた事態になって文字通りに炎上し、講演は中止になったというから過激というか。大学がらみだと日本でもライト方面に大人気で都知事選にも出た今は党首が企画に呼ばれて行こうとしたらやっぱり騒動になってお引き取りを願ったっけ。もし行われたとしても炎上はしなかっただろうからやっぱりアメリカは凄い。それが正当化どうかは別にして。今でこうなら本格的に政権が動いて非道に非情な政策が乱発されたらもっともっと燃え上がるかもしれないなあ。しばらく行くのを止めよう。行く用事もないけれど。

 ブラックと見るかグレーと取るか完全無欠のホワイトと言い切るかは立場によっても意図によっても変わってきそうなワセダクロニクルとやらによる共同通信が記事化にあたって製薬会社からお金を受け取っていたんじゃないか報道。文字面だけ見ると共同通信で日本最大の通信社であり電通というこれも世界的な広告会社が入ってメディアが広告によって支配されているんだ的反応を呼びそうだけれど、内実を細かく見ていくとそれぞれにちょっとづつ主役となる会社が変わってくる。製薬会社からお金をもらってPR活動をしていたのは電通でも子会社でパブリックリレーションを専門に請け負っている電通PR。そしてそこが声をかけたのは株式会社共同通信で、いわゆる通信社として活動している社団法人共同通信ではできない営利事業を行う会社として設立された。

 その株式会社共同通信が間に入る形で、製薬会社から電通PRにこれをもっと世間に伝えて欲しいと頼まれた情報を仲介したところ、一般社団法人共同通信はなるほどこれはニュースにする価値があると判断して取材をし、記事にして配信したら幾つかの地方紙に掲載された。そこで株式会社共同通信から一般社団法人に対価が支払われていたら問題だけれどそれはない、といったコメントが出ていたりする。でも株式会社共同通信が儲かれば社団法人共同通信だって儲かるんじゃないのという点は資本関係はともかく経理関係が別ならそこはない。というか出来ないからこそ株式会社共同通信を設立した訳で、一般社団法人共同通信は加盟料とそして配信の対価で喰っているというのなら、株式会社共同通信との間が切れていると言っても嘘ではないかもしれない。

 そういった登場人物たちに対する吟味をした上で流れを見ると、製薬会社はPRして欲しいと依頼して対価を電通PRに払い、電通PRはそれに見合った仕事をしようと株式会社共同通信にアプローチをして対価も払い、それを受けて株式会社共同通信も一般社団法人のPR業務を行い成功報酬を得ただけ、って言えなくもない。それのどこに問題が? って言った時に同じ共同通信とつくならそこは分けた方が良いだろうという大物OBの意見も利いてはくるけれど、黒かと断定できるまでには至っていないと言われる可能性もなきにしもあらず。そこをだから報じた側は電通であり共同通信といった世間に知られた名前を前面に出し、事情を背後に下げつつ報道が金で買われてた的な短絡を印象づけようとした、なんて言われて果たしてどう答えるのかワセダクロニクル。そこで今後いろいろ揉めるかもしれないなあ。二の矢三の矢がどう飛ぶかに興味津々、っていうか他の新聞社とかに金で記事が買われている話があると飛び火したらどうなるんだろう。ちょっとドキドキ。

 論説副主幹がテレビに出て一方的すぎる情報を垂れ流してもう抗議を受けるようなポカをやらかすと、1面で謝罪記事を出して外部ジャーナリストによる検証コラムもスタートさせる新聞がある一方で、論説委員兼編集委員がネットの書いた言説で名誉毀損だと訴えられて敗訴しても謝らせず検証もえsず批判もしないまま地位は保全どころか上がっていったりするメディアもあったりするという、この言論の多様性が日本って奴なのかどうなのか。分からないけれどもとりあえず東京新聞はTOKYO MXが放送してしまった「ニュース女子」に関しては否定の立場を明確にした感じで、出演して結果として紙価に影響を与えた論説副主幹にも何かが及ぶことになりそう。ただ、当の論説副主幹が未だ自分の意見を外に出していないのが気に掛かる。やり過ぎだけれどバラエティーだから認めた、とは言えないだろうし言ってもそれでは通らない。自分もまったく内容に同感だったは火に油。やっぱり降りるしかないんだけれど、そんな番組をベタ褒めする層もいたりするから厄介というか。どっちにしたってこれもしばらく揉めそう。BPOの判断待ちか。


【2月1日】 りょーちもさんの「亜人」話以来になるのかな、久々のデジタルハリウッド大学でのアニメーション関連公開講座に新海誠監督の長編アニメーション映画「君の名は。」で美術監督を務めた3人のうちの1人、丹治匠さんが登壇したんで見物に行く。新海誠監督の作品では「雲のむこう、約束の場所」から「秒速5センチメートル」の美術を経て「星を追うこども」で美術監督を務めて田舎の村から地下の広大な異世界へと至る冒険の背景を作り上げた。想像力が豊かで自然への造形も深く何より暖かい。そんな世界を作れる人が「君の名は。」では何をしたか。興味があって当然だ。

 そんな丹治さん、「君の名は。」での仕事の段取りなんかを話していたけど、やっぱり最近のアニメーション映画らしく最初にだいたいのレイアウトを決めてから美術を描くとか。でもその場面。映画の割と冒頭で三葉と四葉が連れだって家を出て登校途中に階段を降りるシーンとかは、絵コンテを元にして描いた美術ボードが先にあってそこからレイアウトを起こしたらしい。そんな美術ボードに対して新海誠監督から「現代日本の田舎としての実在感」というコンセプトを元に修正依頼が寄せられる。そこは田舎だけれど現代の田舎。つまりは田舎らしい記号に溢れていてはいけないってことで結構難しい。実際に今の田舎に行かないと分からないかもなあ。

 そんな依頼と検討の結果、石段の上にブロック塀が置かれ、奥に鉄のフェンスがある構造へと変わった。すぐ下の街並みには電柱が立って電線が渡ってる。でも田舎らしくホーローの看板なんかも貼ってあるといったハイブリッドが現代で田舎って感じを醸し出す。あと雰囲気的には横に見える湖の奥にある対岸の感じとかを整えた。山の稜線の高さを下げて空をもうちょっと見える感じにした。美術ボードの段階だとやや朝焼けのような赤みがあったけど、そこを丹治さん、「朝のさわやかな田舎の風景なので、空の色とかを変えました。横から光が来ている感じも強調しました」。監督が求めるビジョンを察知して近づけていく力がやっぱり美術監督には必要なんだなあ。

 あと面白かったのは、映画のヒットを受けて登場した新規ビジュアルの作成過程で、湖を見下ろす山上で奥の方から差す光を浴びながら三葉と瀧が向かい合っている構図を丹治さんが描いて渡したら、それが「完成したものを見たらすごく光とかが足されて思ったより派手になっていました」とか。なるほど三葉と瀧の周囲に雲がたなびき、手前が光っているんだけれど「手前に光は来ないでしょう?」。ごもっとも。でもそれをやってしまう新海さん。結果として幻想的な雰囲気ってのが漂った。「矛盾しているんですが、美しければそれで良いんです」。美術監督の整合性よりクリエイターの感性が上回るならそれは認めるしかないのだ。映画はそもそもフィクションだし。

 あと、集団による作業から生まれるゆらぎのようなものの意義について、丹治さんは絵を描くペイントツールの上で使うラシの種類に触れつつ話してくれた。描く対象にマッチした線を出そうと、ブラシを工夫して作り上げ、それを他の美術スタッフにも勧め、共有することがある。ただ、他の美術スタッフが独自に作ったブラシを使っていても「タッチを整えるためという意味では、あまりブラシを統一しません」。理由は「それぞれに開発して使ってもらった方が面白くなるから」。ジャギーがでるような場合は整えるが、アナログの筆のように色々なタッチがあって、最終的に統一感が出るように見えれば構わないといった考え。もしかしたらちょっとした差からにじみ出るゆらぎが、絵に生命感を与えているのかもしれない。

 ズンと来たのは、あの東京藝大で油絵を専攻するくらいに優れた絵描きであるにも関わらず、自分にはやりたいことが何もないと分かったと話してくれたところ。「人は誰でも表現すべき物を持っていると思っていました。それでやりたいことを表現したいと思っていたら、なにもなかったことに気づいたんです」。それで愕然としたとか。でも人間、たいていはそんなもの。でもやっぱり「表現はしたい」という未練はある。だったらと丹治さんは、まずは商業的なところに行って映画の絵画を描いたり、絵コンテを描いたりするような美術の仕事をやっていた。そうしたら新海監督からも声がかかって、美術監督という道を歩むようになった。

 そんなことをしていれば、当然に自分でも作ってみたいって気持ちが湧いてくる。だから絵本を描いているとか。10年と言わず近い将来に丹治匠さんの作品としてのアニメーションか何かが出てくるかもしれない。あとこれは聞き忘れたけれど、新海誠さんならではの新海空を新海雲が流れ新海光が射すあのビジョンは新海誠さんならではの感性なのか、それとも丹治匠さんの感性なのか。絵コンテの段階でいろいろとレイアウトめいたものはとってあっても、レンズをどうして広がりをどうするか、どんなパースをつけるかは美術に任されている部分もある。でもやっぱり作品のトーンは監督の生理がにじみ出る。そんなところで監督の好みを察知し近づけつつ自分も出し、それを監督が取り入れて自分の作品としてまとめていくような”対話”がなされているのかも。いつかまた聞いてみたい、新海空は丹治空で新海雲は丹治雲なのかを。

 第2話あたりからだんだんと漂い始めた舞台となっている世界のどこか打ち捨てられた雰囲気が、ぐわっと濃さをました「けものフレンズ」第4話の「さばくちほー」。ようやく手に入れたバスに載って砂漠を越えていたら向こうから砂嵐がやって来て、とばされてきたスナネコを拾って向かったそのすみか。ひょいっと取り出されたジャパリまんを食べているところまではまだ良かったものの、そこから地下が現れハイウェイが出てきてそこをバスで走って行ったら巨大迷路に行き当たった。砂に埋もれたアトラクションに溶岩で塞がれた出口ってそりゃあ廃園としか思えないけど、暮らしているフレンズたちは元気だし前向きだし楽しそう。いったい何が起こったかは気にしてないし知っている感じもない。

 いや1匹、ツチノコだけは何か察しているようで、かばんちゃんを見てボスと喋ってる姿なんかも見てもしかしたらといった表情を浮かべていた。そして口にも。それがまた第2話あたりからかばんちゃんだけがボスと喋れる不思議から浮かんだ理由を補強するもの。いったいあの世界はどうやって生まれたのか。そして外の世界はどうなっているのか。外に世界なんてあるのか。アライグマたちはどうしてかばんちゃんを追いかけているのか。過ぎたちほーのキャラクターをまた出すための工夫ってだけでもないのなら、何かやっぱりおおきな秘密があるんだろう。そんな秘密が愉快な未来とともに明かされるなら良いけれど、不穏な雰囲気をより暗くするような展開になったら寂しいので、ここはどうかなってもしっかりやってる楽しさを、醸し出していって欲しいもの。そう願いながら見ていこう。

 もう5カ月近くが経っても未だに上映され続けていて興行収入も20億円を超えて、って意味では実は公開からまだ2カ月半で興行収入も20億円に届いていない「この世界の片隅に」よりも長編アニメーション映画的に、そして一般も含めた映画興行的にとてつもないことを成し遂げているんだと思う「映画 聲の形」だけれど世間の評判はヒットぶりで「君の名は。」に傾き作品性や賞レースでの評価されっぷりで「この世界の片隅に」に傾いて、ちょっと割を食ってる感じもしないでもない。ただ実際に20億円という数字を打ち立てていてそれだけ観てくれた人も多いわけで、提供した側も十分に満足は入っているんじゃないのかな。日本アカデミー賞の優秀アニメーション映画作品賞も受賞したし。ただそこから最優秀が決められる時に、やっぱり「君の名は。」か「この世界の片隅に」に集まる世評の間で印象が薄いままなのかもしれないなあ。そこはちょっと悔しいかも。

 できれば全部が全部、同じくらいに評価されて欲しいけれどもそれも無理ならせめて、観た者として同等に応援はしていきたい、ってことで新宿ピカデリーで開かれた、アカデミー賞の優秀作品賞受賞を記念した早見沙織さんと山田尚子監督によるトークイベント付きの上映を見物。満席の中で観た映画はやっぱり素晴らしくって原作からのアレンジぶり、そして映像としての美麗っぷり、音響の凝りっぷりは他の2作品に遜色はなく、こと音楽に関して言うならサウンドとして図抜けているかもしれないなあ、とも思ったり。RADWIMPSによるJ−POPのPV的なイメージがある「君の名は。」や、コトリンゴさんのニュアンスが感じられる「この世界の片隅に」とは違って牛尾憲輔さんの環境音楽的で現代音楽的なノイズ混じりなのに澄んだサウンドがキャラクターの心情も表す「映画 聲の形」はやっぱり冒険的だし実験的。それでいてしっかり聞こえて心に響く。これもどこかで評価されて欲しいなあと改めて。ブルーレイディスクの発売も決まって映画館からも引かれそうなんで、上映中にもう1回くらい見ておくかな。



(ACCESS COUNTER '96.07.20)


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