Last Updated 2019/9/21
日刊リウイチ
TUNAGATTEIRUNOYO
「1998-1999年lain日記」

リウイチとは誰だ?
リウイチとは奴だ!

薄い髪に伸びた髭
趣味はアニメと女子サッカー

日刊リウイチとは
そんな胡乱な野郎の日々を
無限に綴ったページなのだ

ワーニングワーニング

(ホントはただの日記です)

◎積み上げた本の数が這々の体で1800冊に達した『積ん読パラダイス』だけど記念事業もなく、これからも地味に静かに増量方針。ライブドアブログの方で『積ん読パラダイスinBlog』なんてのも作ってみたけど誰が見ているのやら。
落ち行く世界で孤独な少女がロボットと出逢い、つかの間の交流を経てそれぞれの道を選ぶ。切なくも哀しく、そして愛おしい狩野典洋の短編アニメーション『ノアのハコ庭』に全人類よ、涙せよ。
【9月21日】 何度か着けたり消したりしていたら以前は立ち直ったハードディスクレコーダーが今回ばかりはファンが停止している影響で起動せず、そのために地デジのアナログ変換機としての機能も働かずテレビ放送が見られなくって、開幕したラグビーのワールドカップに登場した日本代表の勝利を目の当たりにできなかった。とても残念。相手がロシアとはいえ日本のラグビーがワールドカップという場で勝利するのを見る機会なんてそうそうあるものではない。現地でなくてもテレビを通して見たという記憶は、きっと永遠のものになるはずなのにそれをできずに悔しかったかというと、記憶を将来どうするんだという疑問が立ち現れて何かどうでも良くなってしまった。

 たくさん放送されているアニメが見られなくなったのも、見てそれが自分の人生のどこでどう役立つんだという気持ちが浮かんでしまったから。好きではあってもとことん内部から好きかというと、好きである自分を動かして世間に存在をアピールしていたこともあってか、そうした場をふさがれるととたんに見る意味を見いだせなくなってしまうのだった。グッズを買うのも同様で、そうやって買っておくことで得た関心を将来の発信に役立てたいという色気山気がかつてはあった。今はグッズを買う金にも乏しい中で、そこまでする意義を見いだせない。内容が現実のつらさを助長するものもキツいけど、こうして好きだったものを好きだと思えなくなってしまうことの方が怖い。

 本がまだ読めているのもどこかで感想文を書く機会を得られているからで、これが途絶えてしまったらもう身動きがとれなくなってしまいそう。そうならないためにも今、生きている意味を見いだしそに生きている中でアニメを見て楽しむ、グッズを買って微笑む、本を読んでうれしがる意味を感じ取る必要があるんだけれど、浮遊する中でそうしたモチベーションを保つのはちょっと大変。とはいえ沈んでばかりでいると身動きがまったくとれなくなって、1日をベッドの中でまどろんでしまいそうなので、気合いを入れて「HELLO WORLD」をドルビーアトモスで上映されるイオンシネマ幕張新都心へと見に行く。現実が現実じゃなく改変が可能なような設定は、自分で選んでおきながら戻れず変えられないことにクヨクヨしている自分には、とことん相性が悪いんだけれど。さてどうだ。

 そして見た野崎まどさん原作、伊藤智彦監督の「HELLO WORLD」はドルビーアトモスを巨大なULTIRAスクリーンで上映するという豪華な布陣だけれど、そこまで大きなスクリーンに見合う絵柄かというと、たってシンプルというか指が太くて手乗りらが丸っこくてかわいらしいというか昔懐かしい感じ。ちょっと「revisions リヴィジョンズ』にも通じる造形は、白組と同じ3DCGでモデリングをするグラフィニカだとそういう風になるのか、わざとそうしたのか。「楽園追放 −Expelled from Paradise−」はもうちょっと先鋭的だったら、単純に堀口由紀子さんのキャラをモデリングしたらそうなった、ってことなんだろう。つまりは「けいおん!」と同じ堀口キャラなんだけれど、京都アニメーションの作画力があってこその「けいおん!」動きと表情と仕草でもあって、そんな京アニ的2D作画の神髄を投入して、キャラクターの豊かな表情だとか細やかな仕草で見せる映画というよりは、3Dによるモデリングで普通にそこにいて動いて喋るキャラクターにしてあったといった感じ。かっこよさとかかわいらしさとはちょっと違う。

 でも、それでも物語の中で意識を持ち意思をもって動き始めるとちゃんと生き生きとしてくるから面白い。それが"アニメーション”ってことななんだろう。そんな造形の映画「HELLO WORLD」のお話については、まずひとつの予想どおりに、というか原作の冒頭を読んで分かっていたように、そこは作られた世界だけれど現実に即して厳密に作られていて、そんな現実で起こった悲劇を作られた世界では繰り返させないといったお題目から、堅書直実という高校生のところに、未来の自分がやって来て、今の直実に近く彼女になるという一行瑠璃という少女と仲良くなって、そして落雷の事故から守れと言う。

 作られた世界であってもそこに暮らしている人たちには現実だったら守りたい。そしてモデルになった現実からずれても救いたいという気持ちを出して、高校生の直実が頑張りひとつのことを成し遂げた時に分かった企み。けれどもそれすらも覆う状況が出てきて世界はどんどんと外側に膨らんでいく。どこが現実か。どこからが現実か。それとも現実なんてもう存在していないのか。ラストシーンに見られる逆転もまた入れ子の中のひとつかもしれない可能性を味わいつつ、それぞれの世界が幸せであれと願う。

 正真正銘の現実のモデルから切り離されることによって世界がいくつもいくつも存在し、それぞれに自在に発展を遂げていくという可能性は、まるで平行宇宙のように。あるいは世にある異世界だの平行宇宙は、そうやって作られては切り離されて漂流しているALTERAたちなのかもしれない。結末の部分の"逆転”はどういう解釈のものなのか、あれはいつの時代でたとえば「know」なんかから繋がっているものなのか、映画を見るまで抑えていた原作をこれから読もう。


【9月20日】 映画「この世界の片隅に」の長尺版にあたる「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」ではリンさんが多くフィチャーされると同時に、リンさんの働く妓楼にいるテルちゃんというちょっと体が弱っている遊女も登場。予告編に出てくる竜胆柄の茶碗の元の持ち主で、途中で亡くなってしまう悲し役を声優の花澤香菜さんが演じることになったとか。別に声優さんを避けている訳じゃない映画で周作さんは細谷佳正さんという声優が演じてぴったりの雰囲気を醸し出しているし、他も俳優もいれば声優もいるといった感じで雰囲気重視で選んでいる。テルちゃんに花澤さんを選んだのも人気があって客が呼べるからっていうんじゃなく、ピュアな感じを持ちつつも遊女であって体も悪く儚い感じを出せる声優さんを求めた、ってことなんじゃないかなあ。どんな雰囲気を醸し出すんだろう。今から楽しみ。

 もう5台目か6台目になる常用のノートPC「Lenovo X201」が、必ず起こるディスプレイのバックライトに電気が回らなくなって暗いままという症状でまたしても使えなくなってしまう。これまでだと家に転がっている同じ症状のPCでも、少し休ませれば点灯したんでその隙にいろいろと作業もできたけれど、今回は4台あるすべてが点灯しなくなっていた。データを拾うために中古のX201を注文せざるを得ない。ちょっと痛い幸いにして会社を辞めるタイミングでもらえるお金にすがってX280を買ったから、原稿書きとかは困らないけれど、メールとか文章とか救っておかなくちゃいけないし。グーグルドライブにあげておけば良かったかなあ。

 でもってこちらもずいぶんと使っているHDDレコーダーが背面のファンの動作不良から起動せず、これを介して未だアナログのテレビに地デジの放送をアナログで映し出している関係で、テレビ番組も見られなくなってしまった。買い換えるにしても色々と物入り。PCは日曜日にも届くけれど、テレビはこのまま観なくなってしまいそうな気もする。それはそれで寂しい話だし、最先端の情報に触れられなくなってますます知性が後退しそう。テレビの仕事をやろうって時に困るかも知れない。どうしたものか。何せアナログテレビだからHDDレコダーだーを買い換えてもアナログ出力がもうないからつなげられないのだ。HDDレコーダー内蔵のテレビを買うのが早いかなあ。それはそれで置き場所がなあ。

 シリーズ物も確かに多いけど単発の新シリーズも割と多かった9月の電撃文庫の新刊から大平しおりさん「彼女が俺を暗殺しようとしている」(電撃文庫)。進学した高校で出会った少女がひとりいて、告白されたけれどもそれと平行するように少年の身にいろいろと危険が及ぶ。看板が倒れてきたり屋上に閉じ込められたり。それは知り合った少女がやっていることなのか。彼女と会っていた屋上で取り残されて閉じ込められたのは事実だし、他にもいろいろ心当たりが。だったらどうして彼女は少年を、ってあたりから始まって実はな正体明かしがあってそして突きつけられる悲しい現実、恐ろしい事実。思いというのはこれでなかなかに強いものらしい。少年を暗殺しようとしていたのは誰? 読んでいる途中に分かるかな。

 もちろん、自分にとっての最初のバットマンといえばやっぱりアダム・ウェストが演じていた実写版のバットマンでロビンがいたりしてヴィランがどうだったか覚えてないけど日ごとにバットマンとなって戦う姿を何となく見ていた記憶があるけど定かでない。続いて強烈に印象づけられたのがマイケル・キートがバットマンを演じてジョーカーをジャック・ニコルソンが演じたティム・バートン版「バットマン」。あのプリンスが楽曲を確かやってたんだっけ、映画としての話題性もあったり雑誌が全盛だった自体にあちらこちらで取り上げられてたっけ。後、「ダークナイト」でヒース・レンジャーの演じたジョーカーが話題にはなったけどその頃はアニメ映画を見るのに手一杯でアメコミ映画は引いていた。マーベルも含めほとんど見ていなかったけど、それでも「バットマン」はマーベル映画の「アイアンマン」や「スパイダーマン」より強くアメコミ映画館を僕に与えてくれていた。

 そんなバットマンが誕生から80周年ってことでいろいろとイベントを開くみたい。渋谷の店でDJイベントが開かれたり点灯式が行われたり。そうやって祝われる中で飛び込んでくるのがトッド・フィリップス監督の「JOKER」というのがどうにも不思議というか、バットマン映画というにはバットマンは出てないしジョーカーも悪の帝王感が薄くただの犯罪者といった趣。それが今の時代を象徴していると言えば言えるけれど、圧巻のヒーローと悪徳のヴィランとの丁々発止を楽しみたい人にはやっぱり物足りないのかもしれない。2021年に公開になるという「バットマン」はどんな映画になるのかなあ。「JOKER」が公開されてしまって後、果たして絵空事じゃんと言わずに楽しめるのかなあ。

 一方で「JOKER」以前と以後でバットマンに何か影響が出るかにも注目。ジム・リーさんというDCコミックスの重鎮も話していたけどフランク・ミラーによる独立したシリーズだった「ダークナイト」がいつかDCエクステンデット・ユニバースの中でも大きな位置づけを持つようになっていろいろと展開された。最初は小さく脇から生み出されても強い作品はやっぱり影響を及ぼすもの。DCユニバースから外れていると公言はされてもその影響力で「JOKER」は周囲に、クリエイターに、社会にいろいろと影響を及ぼしていくことになるんだろう。それによって「バットマン」が、DCエクステンデット・ユニバースがどう変わるのか。マーベルみたく全部まとめて一つのかご、ってことはなくシリアスでスペシャルなテーマを含んだ重くて強い物語を見せてくれるようになるのかな。ちょっと楽しみ。


【9月19日】 カバンに入れていたお薬が見当たらず、また落としたかと見渡したら昨日の朝に出して飲んでそのまま台所に置きっ放しだった。ルーティンのようにカバンから薬だけ取り出して飲むんじゃないことをやってみたり、そうやったことを忘れてしまったりしてリズムがちょっと狂ってる感じ。薬も効いているのか効いていないのかも分からない感じで、朝に気持ちがぐっと下がり、夜に上がって寝て起きて吾に返って将来についていろいろと考える繰り返し。進んでいるのか止まっているのか下がっているのか、それすらも判断できない。今日も明日も何かやることがあるならきっと動いてはいるのだろう。それがどこに向かっているか。見えるようになりたい。そんな朝。きっと明日もそんな感じなんだろうなあ。

 プロペラオでペラというからレシプロのプロペラ戦闘機が優雅なオペラをバックに空戦をする話かと思っていたら、犬村小六さんによる新シリーズ「プロペラオペラ」は空中に浮かぶ何かオーパーツ的な天然資源的な物体にぶら下がるように浮かぶ戦艦を、プロペラによって推進させて戦う艦隊が存在する世界が舞台。イメージ的には太平洋戦争時の日本とアメリカで、圧倒的な資金力と資源力で陽ノ雄へと攻めてくるガメリアに対して、陽ノ雄がひとりの少年を軍事的なリーダーに仰ぎ、皇女とともに艦隊を操り戦っていくといった戦記ストーリーになっている。

 皇族に連なる家系だった黒之クロトという少年は、父母の上昇志向を不敬ととられ皇位簒奪と目されて排除。当人もなかなかの上昇志向の持ち主で、幼なじみの皇女イザヤにまだ幼いにも関わらず婚姻し、皇子を廃し婿として皇位につくのだといったら殴られた。不敬も露見し日本にいられなくなったクロトは父とともにアメリカに渡るものの、株にでを出し財産を失って父親は失踪。遺されたクロトはアメリカの株式市場で株価をチョークで書き出す見習いのようなところから始め、記憶力と洞察力で成り上がり、巨万の富を得るもカイル・マクヴィルというパートナーにすべてを奪われる。イザヤを自分のものにしたい、そのために陽ノ雄を滅ぼすとまで言い切るカイルに対抗するため、戻った陽ノ雄で軍隊に呼ばれたクロトは、優れた戦術で味方を勝利に導いたことで、かつての幼なじみが乗艦していた戦艦に乗り合わせることになる。

 ガメリアも決してふぬけではなく、艦隊の旗艦を真っ先に撃破し続く艦船も最新技術を駆使して沈めていく。これはまずいと立ち上がったクロトがイザヤの全体を俯瞰する異能の力も借りて逆襲して多くを沈めるもそこに新たな敵。互いに沈め合う中でどうにかこうにか生き延びる、といったストーリーは太平洋戦争時の日本とアメリカの戦いを模した感じになっている。とはいえちょっとだけ陽ノ雄が有利。真珠湾だけであとは続かずミッドウェーで決定的に敗北した日本とは違った感じに描かれているけれど、これからの展開でも物量的に不足している陽ノ雄が勝てるとはちょっと思えない。悲惨な戦いになるのかそれとも。そこが気になるところか。

 あとは飛行船めいた戦艦はあっても飛行機がないことで、技術的に達してないのかそれとも概念として飛行機が存在し得ない世界なのか。1200メートルあたりを覆う浮遊圏にだけ、浮かぶことができる浮遊石の塊に船を吊すことだけが空を飛ぶ手段なのか。ずっと飛行機が登場する飛空士の物語を描いてきた作家だけに、あえて飛行機を出さない意図があるかが気になる。そこも含めて展開を見守っていこう。あとはやっぱり姫たちが浸かった風呂の残り湯を、何に使っているのかとうことも。嗅ぐのか浴びるのかやっぱり飲むのか。飲むと良いことでもあるのか。まねはしたくないけど気になるなあ。真水にすり替えるとバレるくらいに鋭敏な兵士たちが飲んだらとんでもないことにあんりそうだけれど。


【9月18日】 東映アニメーションの若手が「リアルサイズ古生物図鑑」という本からインスパイアされて「ジュラしっく!」というショートアニメーションを作ったみたいで、しばらく前から話題にはなっていたけどその監督が石谷恵さんだとようやく気付いて、最近の情報を貪欲に吸収しては咀嚼する能力も気概も衰えている感じを強くする。昔だったらすぐさま調べて石谷さんじゃん凄いなあ東京藝術大学大学院アニメーション専攻の修了制作で「かたすみの鱗」というのを作って話題になった人だよって自慢げに語っただろうけれど、今ははるかに後れての反応。というか石谷さんが東映アニメーションに入っていたことすら気付いていなかった。拙いなあ。

 まあでも「かたすみの鱗」自体が東京藝大院という場所から浮かぶアートよりのアニメーソンって感じではなく、それこそ宮崎駿監督すら思い浮かべるような優しくて柔らかい普通のアニメーションだったから、商業へと進んでいたって不思議はない。そこで魅力的な題材を魅力的に描いてのけただけ。何も驚くことはないのかもしれない。とはいえアニメーションを大学院で学問として極めた人が商業アニメーションの現場で作品を作っているのは珍しいかもしれない。あるいはそうしたアート的な完成が商業の分野でも求められる状況が来ているのかもしれない。

 あとショートアニメーションという場も作家が個性や感性を出しやすいカテゴリー。それが各所で求められるようになっているからこそ、石谷さんであり「モブサイコ」のエンディングを手がけた佐藤美代さんが活躍できるんだろう。石谷さん、シリーズ物の各話演出からやがて監督へとなっていくのかな。「スタートゥインクルプリキュア」のプロデューサーを務めている柳川あかりさんは、アート系のインディペンデントなアニメーションが好きで、それをもっと広めるために商業アニメーションの老舗に入ったってどこかで話していたから、石谷さんを起用して何か作ってくれるかもしれないと期待。日大芸術学部でアニメーションを手がけた人も東映アニメーションで「ゲゲゲの鬼太郎」とか参加しているし。老舗にして先端。そんな会社がやっぱり生き残っていくんだろう。

 ショートアニメーションといえばスタジオコロリドで石田祐康さんと良く組んで「ペンギンハイウェイ」を作ったり「台風のノルダ」を監督したりしている新井陽次郎さんがカゴメと組んで「なつのにわ」って作品を出して来た。コロリドではなくFILMONYってチームでの制作で可愛らしくってよく動いてそしてほのぼのとさせられるストーリー。日常がちょっとだけ変化して不思議な感じになるあたり、「ペンギンハイウェイ」的ではあるけれど、石田監督とはまた違ったさわやかさがあるって感じかな。もう組まないかは知らないけれど、2人で「ペンギンハイウェイ」級のをまた作って欲しいなあ。

 「安達としまむら」が人気となってアニメーション化が決まっているけどそればっかりではなく合間に不思議な小説も書いてしまうのが入間人間さんという作家。海辺の街で少年が近所に暮らす小学5年生の女の子と海に行ったりクジラの死がいを見たりして戯れていて、そういう「ロウきゅーぶ」的なJS物かと持ったもののどうにも肌触りが違うというか世界が捻れているというか、2人が暮らしている街が書き割りみたいで2人の関係性も年の離れた友人同士といった感じがしない。そして展開も奇妙さに溢れている。

 目覚めると少年だったはずの主人公は海野幸という名の17歳の女子高生になっていて、さあ3日間くらいをそれでどうにかやり過ごすぞといった決意が吐露される。ってことは「君の名は。」みたいな期間とか限定された入れ替わりものかというとそうでもなくって、少年や城ヶ崎君と呼ばれているJSはどうやら妄想だか空想だか分裂だかの産物らしく暮らす世界もインナスペース的なもの。そこから呼び出されるように主の体に意識が戻るというか、主の意識が多重の人格から少年を選んで表に出すというか、そんな感じ。

 でもって表の世界で違和感を覚えながら暮らし続けることはなく、元の世界に戻っては自分の水死体と界隈したり城ヶ崎君の正体を感じたりするという展開。その果てに何が起こるということもなく、主人公の世界はそれで付いていくし時々は表の世界へと出て胸があって股間になにもないことを感じ取る。淡々として抑揚がない中に人間の複雑さを表したようなストーリー。対立する自分自身を吟味しながらこの世知辛い世の中を乗り切っていこうとしているのかもしれない。辛い時に誰か別人格が出て乗り切ってくれていると有り難いなあ。でも困った人格が出てぶちこわしにされても困る。そんなことを考えさせてくれる物語。相変わらずとらえどころがないけれどシンミリとくる小説を書かせたら天下一品。文芸の世界にも知られて欲しい作家だ。

 2位から3位に下がったけれども「天気の子」は週末の興行ランキングでしっかりと上位をキープ。「かぐや様は告らせたい」が1位から2位に落ちて1位に「記憶にございません!」が来て、三谷幸喜さんの監督作品として相変わらずの人気ぶりを見せてくれた。「ギャラクシー街道」がいろいろだったけど作れる人はやっぱり強い。でも来週以降どうなるか。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝−永遠と自動書記人形−」も6位から8位に下がりながらもしっかりランクイン。それほど大きくない興行の規模でこれは立派だろう。入場者特典ももちろんあるけど作品として何度も見たい人がいるんじゃないかなあ。僕も見に行きたい。昔だったらもう3度は見ていただろうなあ。そこが辛いけど仕方が無い。週末に隙間を見つけて行ければ行こう。「Hello World」が先だけど。


  【9月17日】 6枚目まで来たんだなあ、ラスマス・フェイバーによるアニメソングのジャズアレンジを集めた「プラチナジャズ」の新作に入る楽曲が発表になって、「ようこそジャパリパークへ」が入っててすっごーたーのしーと叫んで躍る。勤め人だったらビルボードのライブを絶対に見に行っていたけれど、今はお金もないし時間もないので行けそうにないのだった。ちょっと寂しい。ラインアップには京都アニメーションの作品から「もってけセーラーふく」が入っていたりしてとても嬉しい。あと「前々前世」をどうジャズアレンジするかかなあ。「サムライチャンプルー」からも持ってきていてどんな曲だっけかと頭を捻っても思い出せない。会社ももうないしなあ。アルバムだけはやっかり買おう、頑張って。

 「ディリリとパリの時間旅行」を恵比寿ガーデンシネマで観でそのまま帰って寝てしまおうかと最初は思っていたけれど、終映後に新津ちせちゃんがロビーにいたりするのを眺めていたら時間も経って次の回まで2時間を切っていたので、チョコクロで時間を過ごしてから、吹き替え版ではない字幕版の方で「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」を東京都写真美術館で観る。まずまずの入り。「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」とか「若おかみは小学生!」とかマイナーなカテゴリーに入れられそうなアニメーション映画でも、小規模で口コミドライブが聞くとお客さんも来るということがだんだんと浸透して来た感じ。「マイマイ新子と千年の魔法」で瀬戸際からの口コミドライブを効かせられたから、観客の方でもそうしたドライブに乗ってみたいし乗れば安心という心理がはぐくまれているのかもしれない。

 でもって映画の方はといえばとにかくまっすぐな物語。祖父が北極航路を切り開く探検に出たきり戻ってこないサーシャという少女が、そうした探検にお金がかかることを厭う帝政ロシアの王子に捜索を頼んでもいれられず、逆に不興をかってローマ大使への任命を狙っていた父親にも迷惑をかけてちょっと大変。それでも諦めず新たに見つかった祖父が選んだだろう航路のメモを手に列車を乗り継ぎ港へと出向く。そこで見つけた北方行きのノルゲ号という船に乗ろうとして乗せてもらえず、1ヶ月月間食堂で手伝いをしながらノルゲ号が戻ってくるのを待つ。

 この1ヶ月で皿洗いどころか皮むきも薪割りも料理も配膳も覚えて完璧にこなせるようになる適応性の高さに、未だエクセル表すら触るのが怖い我が身を感じてちょっと落ち込む。おまけにサーシャはどうにか船に乗れてもそこで隔離されながらロープワークを独学して、大時化となった海で船が傾き救命艇が流されそうになった時に披露してピンチをしのいで船員に存在だけは認めさせる。自分の力と自分の努力で居場所を見つけるその前向きさを、とうに失っている自分が情けない。

 そうしてたどり着いた極地で一行を待っていたのは過酷な運命。引くことはままならず進めば待つのは死かもしれない状況の中、他に道もなかったこともあって進んでいった先にあったのは? 映画である以上はある程度、ハッピーエンドも予想されるから不安はそれほどなかったけれど、過程で起こる様々な事態をどうこなすか、ってところにいろいろな見せ場があってサーシャという少女の強さを感じさせられた。ちょっと強すぎるかもしれないけれど。お嬢様なのに。

 探索であり生還といったひとつの目標にたどり着いたらあとは余韻とか余計なエピローグとかつけずにすっとまとめるあたりが海外の映画というか、直前に観た「ディリリとパリの時間旅行」もストンと終わって余韻に浸る場合が多くエピローグもつくケースが多々な日本のアニメーション映画とは作法が違っていた。それともそっちが標準なのか。伝えたいことを伝えるにはそっちの方が良いかもしれないけれど、それからどうしたのといった興味を満足させることも大切。そこはそれ、エンディングにスチルを混ぜる方法でどうにかしていた。良かったねえ、サーシャ。

 絵としてはもちろん日本の商業アニメーションとはまるで違うし、東映動画時代のアニメーション映画ともやっぱり違う。「太陽の王子ホルスの大冒険」あたりが高畑勲監督の推薦付きということもあって比べられるけれど、しっかり描き混まれて表情も豊かな「ホルス」と違って「ロング・ウェイ・ノース」はイラストが動いているかのよう。それでもしっかり動きは分かるし表情も伝わるし心理だって見えてくる。船については簡略されておらずそこで働く大変さも伝わるし自然の雄大さも描き混まれてなくてもしっかり伝わる。北極の苛烈さも。

 新海誠監督の「天気の子」なんかがもう極限まで描き混まれたリアルな町並みなり自然でもってリアル感を醸しだし、そこにいるような感じを与えてくれている。「海獣の子供」の海もやっぱり海っぽさを極限まで追求している。対して書き割りとまではいかなくてもシンプルな線と塗りで表現された「ロング・ウェイ・ノース」の美術を手抜きと見るかとうと絶対にそんなことはない。キャラクターも十分にかわいいしかっこいい。そう考えると日本の商業アニメーションで進む線の緻密化って何だろうって思えなくもない。もちろん映画だからってこともあるのだろう。1本の作品として統一された絵柄を一定の時間、一定の空間で味わうことにある映画は相手の世界観に自分が入り込む格好になる。テレビは自分の感性を相手に求めがち。その差なのかどうなのか。ちょっと考えてみたくなる。

 作品は「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」でキャラクターはラムに女らんまでエピソードは「ときめきの聖夜」でそして音楽は「愛はブーメラン」と村下孝蔵さんが歌った「陽だまり」だと決まってしまっているような、全るーみっくアニメ大投票だけれどそこはそれ、決まりすぎな感じもするからもうちょっと考えてみたい。実は「境界のRINNE」とか地味に好きだったりするし。しかしNHKもポップカルチャーに聡くなったというか、「ネットスター」とか「MAGネット」とかやっていたころはオタクっぽい番組はどこか日陰の扱いだったのが、今はどうどうとガンダムにマクロスを取り上げ、そしてプリキュアにいたってとてつもない投票を得るまでになった。

 大人から子供まで、ポップカルチャーのファンを呼び込むことが使命となっている感じすらあるNHK。ここで番組ではなく高橋留美子さんという希代のクリエイターをフィーチャーして、その数々の作品群で番組を作ってきたからちょっと驚いた。とはいえ、同じ原作者でここまで作品がアニメ化されている人もほかにいない。「うる星やつら」に「メゾン一刻」「らんま1/2」「犬夜叉」「1ポンドの福音」「境界のRINNNE」「高橋留美子劇場」と多々ある連載のことごとくがアニメになっているから凄いというか。その時代も30年以上に及んでいる。まさに現役として連載をし続けたからこそ成り立つ番組って言えそう。並ぶのはもうあだち充さんくらいしかいないけど、番組の数とかではちょっと及ばないからなあ。かといって「コナン」「こち亀」「ONEPIECE」では単一過ぎるからただの人気投票になってしまう。次にどんな企画を立てるのか。ちょっと気になる。


【9月16日】 「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか2」の殺生石編はやっぱりここで終了のようで最新エピソード、フレイヤに追い詰められたイシュタルが塔の上から突き落とされてはダメージから神の力を使ってルール違反となって天上へと送還。あそこでキャットファイトを演じて逆にフレイアを突き落とせなかったのかって疑問も浮かぶけど、オッタルはともかく別の誰かがそっと影のように寄り添っていて危険となれば現れたに違いない。イシュタルは切り札だった眷属が魅力しまくっていたにも関わらずあっさりとフレイヤに転んでしまったから、他に誰がいても無駄だったし。

 そして春姫はベルに救出されてそのままヘスティアのファミリア入りして打ち出の小槌を時々使って貢献。ベルへの関心も深まってヘスティアにリリにアイズ・ヴァレンシュタインといったベルに関心を抱く女子の仲間入りをするんだけれど、そうやってモテても自分から何かしでかせば成長が止まってしまうような恩寵の持ち主だけに、誰と仲良くもならない日々が続いていくっていうか、すでに小説版はどんどんと先へと進んで言葉を喋るモンスターの一党と仲良くなって悪の組織との戦いへと向かっていくことになる。

 アイズを思い強くなっていくベルの成長物語はちょっと逸れてその正体めいたものもなかなか解明はされず。ただ炎上するイシュタルファミリアの街を見下ろしヘルメスが、ゼウスの名を口にした辺りにベル・クラネルの出自と正体という問題は、ちゃんと残されていると感じられたので、回り道をしつつ膨らみおしながら綴られていく物語が、ベルとそしてアイズの出自を確かめるようなエピソードを挟んで2人の関係をぐっと近づけてくれるのか、アイズの物語は外伝「ソードオラトリオ」へと移換されてそこで繰り広げられていくようになるのか。同じGA文庫だとポリフォニカもニャル子もあれだけ話題になりながら、今は沈黙しているIPが幾つもあるだけに、IPとしてデカくなりすぎて簡単には終わらせられずまとめられもしない「ダンまち」だけど決着だけはちゃんとつけて欲しいなあ。

 どこにだって自由に行けて何だって好きに見られる休日がやって来たというのに気分は沈みがちというか、平日よりも深く沈んでしまうのは、月給取りと違って働かない日は何の稼ぎにもならないと感じているからで、こんなことをしてて良いんだろいうかという切迫感もあって映画を見ていても本を読んでいても落ち着かない。恵比寿ガーデンシネマに「ディリリとパリの時間旅行」を観にいくついでに、お隣の東京都写真美術館でやってる「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」にも観て帰ろうと昔だったら思ったけれど、今は眼が覚めて起きていると映画を観ている間も含めて諸々不安がよぎる、だったら帰って寝てしまえ、そうすれば平日が来て仕事ができるという安心感に浸れるといった気持ちのサイクルにハマっている。

 これはもう徹底的に異常で、普通は稼ぎのために仕事をしなくちゃいけない平日から開放される休日を誰もが待ち望んでいて、到来したら仕事のことなんか忘れて存分に楽しもうとするものだった。使える時間を目いっぱいに使って見られない映画をまとめて観るとかやっていた。展覧会にも行ったし遠出もした。それが今は、休日に何もしないことを不安に思い、逆に仕事ができる平日が来ることを望んでいる。働けば稼げるからというのもあるけれど、稼いでどうするといった答えを休日の過ごし方に乗せてそちらを主として日々を送ろうというサイクルをとりもどせていない。

 それがフリーなんだと言われて当然だけれど、まだ慣れてないんだよなあ、そういう暮らしに。だから休日が休みの職場に平日、通う道を今は選んでいる。そこでカイシャイン的サイクルを取り戻すのか、毎日が休日でも平気な心理を構築するのか。半年が迫っていいかんげん決めたいけれど決まらない。決められたらこんな境遇にはそもそも陥っていないだろうなあ。ともあれ今は今なのでとりあえず、休日でも家を出てお金の許す範囲で遊興に講じることにする。映画でも本でも。それを主と思える生活を撮り戻すためにも。出来るかなあ。やっぱりしっかりした身分がないと落ち着けない人間なのかなあ。

 さて「ディリリとパリの時間旅行」は「キリクと魔女」「アズールとアズマール」のミッシェル・オスロ監督による2018年の作品で、冒頭にどこか原住民然とした人たちが暮らしている場面が映し出されてそんな話だったっけと思ったらすっとカメラが引かれて、現地の生活を再現した空間だということが判明、そんな一座に混じっているディリリという少女に配達人をしているオレルという男子が声をかけ、会話をし仲良くなっていくなかディリリがニューカレドニアからやって来て、伯爵夫人の家に世話になって先生も付けてもらって言葉や教育を受けているから普通にフランス語だって喋れるし、知的なことにも関心を抱いていることが見えて来る。

 つまりは言語であり教育といったもので当時のフランスにとって、あるいは今の世界にとって見下しがちな先進ではない地域の人々であっても、同じ人間であって機会が均等ならばフランス人にだって負けず劣らない知性と教養を持って運用できるんだということを冒頭から訴えている感じ。映画事態も全体を通してキュリー夫人とか登場しながらも差別され抑圧されている女性の像を描き出しているし、核となるストーリーも男性支配団なる組織によって女性たちが不要の存在として捕らえられ四つん這いの姿を強要され椅子にされている状況から、女性たちが虐げられていることを示している。それを非道とし、ディリリが仲間たちを募って解放へと導くストーリーを、昔だからといって懐かしむのではなく今も女性の家事の表層だけをなぞって1時間で澄んだと嘯く男の横暴さを抉る糧を得て欲しいなあ。炎上目的としてもあれはなかなか酷いから。

 上映後にはディリリの声を演じた新津ちせさんが舞台挨拶に登場。しっかりとしたフランス語を喋るというディリリを日本語におきかえ淑女のように明晰でそして勇敢な少女を演じきってた。ミュージカルの「ミス・サイゴン」のタム役ではほとんど喋らなかったし、ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」も出ずっぱりって訳じゃなく、CMも長く喋るわけじゃないから「ディリリとパリの時間旅行」は新津ちせさんにとって声優として最長の作品。噛まず濁らずこもらず知的で聞き取りやすい声で演じてて感心した。

 それこそアニメーション映画版「マジック・ツリーハウス」で聞いた芦田愛菜さんくらいのうまさ。あるいは感情を激しく出す役ではなく、ニューカレドニアから来て貴婦人のところで世話を受けながら教育を受けたという設定から、全体を通して淑女といった雰囲気を保つ必要があって、手堅く演技をできたのかもしれない。舞台挨拶ではいろいろな職業を試したいというディリリにならって何をしたいか聞かれて新津ちせさん、今は学校の先生になりたいという話をしていたけれど、昔は医者になりたいとも言っていたそうだし他にもいろいろやりたいことはあるだろうし、女優とか声優とかだってきっとやってみたくなるだろうからそこは今後の活動を観ていくしかない。とりあえず主演映画「駅までの道をおしえて」が控えているのでこちらは顔出しの演技がどれほどかに注目、と。
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【9月15日】 劇場晩を見たのでこれはやっぱり今が機会だとずっと見てこなかったテレビシリーズの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」をNetflixで全13話分、一気に見通す。大戦が終わって少女兵として激しい戦闘に明け暮れていたヴァイオレットが最後の戦いで両腕を失い、入院しているところから始まって引き取られ郵便屋さんを営んでいる上司の友人の会社で働き始めるものの、軍人で兵士なだけに融通も利かず感情にも乏しいため配達のような仕事はしっかりこなせても、手紙を代筆するような心が伴う仕事は難しい。というより無理だった。

 上司が別れ際に言った「愛してる」という言葉の意味を知りたいという願望。それ事態が普通の感情を知らないで育ったヴァイオレットの境遇を示している。手紙の代筆をする位で覚えられるものでもないのだけれど、そうした仕事出会い対する依頼人とか代筆屋になるための学校で出会った同級生とか先生とかとの交流から、人がそれぞれに感情を持っていてそれを言葉に素直に出しづらいことが分かってきて、表面を聞いて裏も読んで介錯をして忖度をして言葉にして綴ることの意味を知っていく。ちょっとだけ人間らしくなったかな。

 でも、とある王国のお姫さまと別の王国の王子さまとの関係をとりもつための代筆では、外交という場での公の言葉をやりとりするために取り繕ったことを書いていたのが、それでは本当の気持ちは分からないと気付かされて直接思いを言葉に乗せてストレートにぶつけ合うようになっていった。そこでも互いに謙遜が出るけど乗りこえてまっすぐな言葉を交わすようになった先、本当の気持ちがお互いに分かって幸せな帰結を迎える。黙っていては伝わらないし取り繕っても誤解される。必要ならば直接の言葉も必要だ。いろいろと覚えていく中でヴァイオレットに表情が生まれ感情が芽生え愛情も育まれていった先に来るのが、映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝」だったのだとしたら改めて見て、その豊かな表情と心をすくいとる筆の確かさを確かめたい。

 「けいおん!」とか「響け!ユーフォニアム」といった作品を主に見ていたからあまり戦闘といったものと京都アニメーションが結びついていなかったこともあって、後半から出始めるヴァイオレットの元兵士としてのアクションに京アニでもちゃんとこういうのが出来るんだとちょっと驚く。でも考えてみれば「フルメタルパニック」を手がけたときにアクションなんて散々やっている訳だし、より高度に抑制された日常芝居を描ける人たちがアクションを描けないはずもない。すべてを高度な技術で表現できるアニメーションスタジオの現時点での“崩壊”を招いた事件はだからやっぱり大きな損失だった。

 とはいえだからといってそれで京都アニメーションの伝統と技術と志が潰えるとは思えない。劇場晩は鋭意制作中ならきっと、残された人に新しい人も加わって、心の機微が仕草や表情に乗った絵をつくり、アクションつくって見せてくれるだろう。その時を信じて待とう、劇場晩の登場を。それまで原作でも読もうかと思ったらアマゾンでとてつもない値段になっていた。埋もれているのを掘り返すしかないかなあ。

 これなら長く伸ばしたちょんまげを落とさなくても良かったんじゃないかといった場所で今、働いてはいるんだけれど手入れの行き届かない頭だとやっぱり見た目が暑苦しくって鬱陶しいし、よく洗えないから臭いもきっと酷かっただろうから、再就職に向けて髪を切ったのはまあ正解、おかげでスタイリッシュな方面から来てと言われてもそれなりに服装さえ整えれば顔を出せるくらいにはなっているから。そんな頭でも6週間に1度くらいは刈らないとぼさぼさになるんで薄毛の人がよく使うINTIの東京店に出向いて散髪する。

 伸びていてもまあ見られない頭じゃないんだけれど、刈ればさらに見た目も良くなるのでこれはこれで捨て置けない。7650円は時給1500円で働く身にはキツいけど、喰わないでいても高楊枝の例えを拾って頭くらいにはこれからずっと、お金をかけていこう。あとはそんな頭で呼ばれてもらえる仕事があれば万々歳なんだけれど。今ならテレビリポーターだって舞台の司会進行だってやってやれないことはない。地声は良いからラジオだってOKだけど自信のなさが喉に出て、声を張れないのが難点か。年内に居場所が定まらなければナレーションの学校に行ってしゃべり方を教えてもらおうかなあ。声優になてもうなれないのは分かっているから、せめて司会業でもやれるように。

 そして観た「いざ期待だけ満タンで!『天気の子』大合唱上映 」はTOHOシネマズ新宿だけあってご当地感も手伝ってほぼほぼ満席となった中、ペンライトは後方の集団が使う程度で前方はぼくを含めて数人くらいで始終振るというよりはポイントで帆高なら青で陽菜なら白で夏美ならピンクといった感じに点らせ走ったりしている場面で振って応援する感じ。あとは所々で台詞に突っ込みを入れるくらいで、それにリアクションで笑い声が入ってとりあえず、静まりかえりはしないでそこそこのざわめきの中で映画が進んでいく。

 ストーリーを追うのはないがしろにされず映画そのものはちゃんと観ていった途中に流れる歌ではしっかり字幕が出るから、それに併せて口ずさめは自然と大合唱上映になる。歌の途中で台詞がかぶると歌のボリュームが小さくなるから歌っている声がちょっと大きく聞こえてくるのが面白かった。全体に入り組んでおらず同じ旋律を少しバリエーションを変えて繰り返す歌が多いから歌う方も楽は楽。気になったのはRADWIMPSの歌ってそんなにハイトーンでもないのに男子はオクターブ下げて歌っている感じがしたのは今の男子って声が低くなっているのかそれともぼくがもともと高いのか。カラオケとかで歌ったことがもう20年くらいないのでそのあたりは比べようがないのだった。

 でも観客に会わせてぼそぼそと口ずさむ程度でも歌ってみるとこれがなかなか気持ちが良くて、いろいろと浮かぶ思いなんかもすっと引っ込んだ。カラオケとかやっぱり行っておくべきだったかなあ、そうすれば憂さとか不安とか気にせず窓際で暮らし続けていけたかも。でもそのままで定年間際まで茫洋と過ごして気がついたら何もなかったというのも困る。すでに無くしてしまっている今が続くのも困るけど、もう落ちることもないからあとはきっかけを掴んで上がればいい。そのために「僕にできることはまだあるかい」と問い「僕にできることはまだあるよ」と訴える。届くかは知らない。

 「天気の子」自体の感想は当初のネタバレを避けてまだ書いてないけれど、今回で3度目を観ていろいろと変わるところ、変わらないところも出てきているので今日明日あたりに寝ながらいろいろ考えよう。あそこで帆高が撃った拳銃の弾がポン引きを粉砕していたら「JOKER」へと墜ちたかもしれないとかどうとか。公開されたら「JOKER」と「天気の子」との比較をする映画評論家とかきっと出るんじゃないかな。出ないかもしれないな。ぼくにはもうセットでしか観られないんだけれど。新海誠監督が「JOKER」を観て何を思うか知りたい。トッド・フィリップス監督が「天気の子」を観るとは思えないけど観たら何を言うか聞いてみたい。ってか対談させろやどこかのメディア。あと「大合唱上映」はとても気持ちが良いのでもう1度2度、やってくれたら多分行く。行ってもっともっと声を出す。だからみんなももっともっと声を出そう。


【9月14日】 仕事のために試写で見たい映画がことのほか、現在の境遇にシンクロしていたようで、その悲痛ともいえる境遇に心が引きずられてちょっとした沼にはまってしまったよう。昔みたいに午前3時に眼が覚め、そのまま朝まで居たたまれなさに立ったり起きたりを繰り返すことはなく、じっとしてまた眠り起きてといったことでしのげるけれど、いつか自分も向こう側に落ちてしまうんじゃないかという恐怖と、そうした方が楽になれるのかもという誘惑が入り交じって悶々とする。おかげで寝過ごさないで午前7時にはちゃんと起きられ、8時50分から新宿ピカデリーで開かれる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝−永遠と自動書記人形−」の上映には間に合った。

 あの京都アニメーションが事件に遭遇する前日に完成させさという作品ということで、見れば頑張って作り上げて名前をそこに刻みながらも次の作品、外伝ではない本編の劇場版へと進めなかった人たちの無念を思い、生きている自分が出来ることをしっかりやっていくんだという勇気を貰えるかとも思ったけれど、引っ張られた沼は結構粘着質で、エイミー・バートレットという名の声が田中あすか先輩にも聞こえる眼鏡の女性が、お嬢様学校に入る前、まだ日々を必死に稼ぎながら粗末な部屋で生きていた姿に自分の境遇が重なり、どうあがいてもそこからは抜け出せないんだろうなあという思いで正視が辛くなる。

 ヨーク家という名家の血縁だったことでエイミーは引き取られてイザベラ・ヨークとなってとりあえず何不自由のない暮らしはできるようになり、エイミーが拾って妹にしたテイラー・バートレットも孤児院に引き取られてちゃんと普通の暮らしはおくれている。なんと羨ましい。なおかつテイラーは姉の手紙を届けてくれた郵便配達に感謝をしつつ自分も手に職を付けたいと街に出て、そこで受け入れられようとしてる。実に前向き。それに社会が答える展開と、今の自分とを比べた時にやっぱり未来を悲観してしまってどんよりとした気になってしまう。

 違う、毎日ちゃんと通える場所があって仕事もしていてそれが何かの役に立っているという気はあるんだけれど、一方でやっぱり残っていたら楽しい取材の現場に立てたかな、楽しくなくてもお金だけは稼げたかなといった未練が下半身に絡まって離れない。この未練って奴がやっぱり1番のネックで、これを解きほぐすには今の状況、そして将来の可能性を楽しいと思えるようなるしかない。アニメーション会社での作業が持つ意味は意味として噛みしめつつ、生活を普通におくれるような水準へと昇華できるかは重要なところか。

 今はどこかこしかかけで、報酬もそうした立場に見合ったもので持ち出しを乗せてどうにか暮らせる状況にはあるけれど、それは人間としての社会生活ではないからなあ。状況を見ながら今一度、人生の設計図を整える必要があるかもしれない。だからといって他に持ちこまれる案件がやっぱりそのまま将来を支えてくれるかというとこれも未定。退職時にいろいろ言われて消し飛ばされた自信を未だ取り戻せていない状況を振り切って、ひとつふたつ完成させればどうにかスタート地点にたどり着けたという実感が得られるかもしれない。やってみるか引きこもるか。今年の残る3カ月が分水嶺。まずは今をしっかりとこなそう。それがある分、6月あたりよりはマシだから。

 「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」については、物語としてはエイミーことイザベラを、お嬢様として名家に嫁げるようになるまで作法や振る舞いや見識を訓練をするために派遣されたヴァイオレットが、周囲を拒んでいたエイミーと交流を深め次第にエイミーも心を開き過去を話し、そしてヴァイオレットが去った後もどうにかやっていけるようになるまでが前半。後半はエイミーから届けられた手紙を受け取ったテイラーが少しだけ成長してヴァイオレットたちがいる街へとやって来て、郵便配達になりたいと行って見習いを始める中、エイミーに手紙を届けたいと言い出してそれを叶えるといったストーリーになっている。

 両者に当初は断裂があって前編後編を見ているような感じだったけれど、すっかり奥方となったエイミー変じたイザベラが現れ、手紙を受け取る中で過去を振り返って感涙にむせぶ辺りで全体がつながり、1本の映画としてまとまった感じ。そこで感動の再会とはさせず、テイラーに自分が文字を覚えて郵便配達になるまではエイミーとは会わないと決断させたたりも、情動ではなく理知を元に世界は動くものだと分からせ、他力ではなく自決を促していたと言えそう。見て自分も頑張らなきゃと思ったけれど、どう頑張ったら良いかが今はちょっと分からないのが苦しみの原因か。そこを越えてやっぱり頑張らなきゃなあ。

 沈んでいても仕方が無いので神田明神まで行って、等身大アイドルロボットの「高坂ここな」がこちらは人間のアイドルの大畑杏雛さんとユニットを結成し、「プリティエンジェル」として舞を躍るところを見物する。元の職場が取材に来ていてこういう取材をさせてくれるならいくらだって土曜日出勤をしたのにといった未練がまたぞろ持ち上がってくるけれど、そこは続いて開かれた日本SF作家クラブで会った人たちから励まされ、ちょっとばかり意識を持ち上げ週末を乗り切るエネルギーにする。ロボットはシンクロしていたけれど、想像するならロボットが躍っているのに人間が合わせているのかな。いずれにしてもロボットがこうして世間の目に触れる機会があるのは良いことかも。15日にも昼の午後0時半からと午後3時からと午後6時半から実演するので見たい人は神田明神へ。


【9月13日】 「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」で体が硬くなって金になってしまう不治の病の罹った女性と中学生男子との交流を描き、「死体埋め部の悔恨と青春」で大学に入ったばかりの男子が出会った先輩の狂気を寂寥を描いた斜線堂有紀さんが、版元をさらに広げて星海社FICTIONSから「コールミー・バイ・ノーネーム」を刊行。どういう伝でJのところに原稿が行ったかは分からないけれどメディアワークス文庫やポルタ文庫とはまた違った世界をこちらでは引き出しにいった形。何しろ百合だから。その出会いからして衝撃的だった古橋琴葉という名の女子の、改名前の名を当てて彼女と友達になりたい世次愛という女子の探求の物語。仮初めの恋人として付き合いデートにも行く中で、愛自身が持つある種の性質も浮かぶ

 聖人君子。あるいは光。困っている人がいると助けずにはいられない世次愛の振る舞いは、とある一件で広く評判になった果てに自分を追い詰めても、やっぱり変えられないその性質が琴葉と巡り合わせたのか。とはいえただの親切でる結果となって、もう聖人君子ではいないと決めたずだった。それなのに止められなかったからおその出会いだったのだろうか。そして沼へとはまっていく。何しろ相手は関西弁でずけずけと入ってきておまけに美人。壊れてはいないけれど危険なところもあるキャラクターが魅力的で、愛でなくても惹かれてしまう。

 そんな琴葉と付き合う中でだんだんと見えてきた琴葉の過去。愛と出会う前は男をとっかえひっかえしていたのは、過去にすり込まれたさまざまなものを捨てたいと思ったか、塗り替えられたいと考えたか。一方で染みついた感覚が愛を求めてしまったのか。そんなことが浮かんでしまう。だとしたらその本当の名前を言い当てること、琴葉の傷みにまみれたは過去をえぐることになる。そんな危険を乗り越えて、琴葉と愛との関係がどうなっていくかを見定めたい。百合という言葉が現在、ある種の意味性を含んでしまって憶測と妄想を生んでしまうけど、この物語に関しては徹頭徹尾、純愛の物語だった。こういう関係を百合と呼んで良いのか違うのか。考えたくなる。

 ライター仕事が舞い込んできそうなので午前中にとある映画の試写を観て、しまったこれは今の自分にとって鬼門過ぎると観ながら思ったけれども飛び出すわけにはいかず、いたたまれない気分にジリジリとしながら2時間ちょっとの映画を最後まで見通す。格差社会で貧困層にあって心にも病を抱えて日々を苦悩しながらも、生きていくために仕事をこなし続けている男がいたけれど、それで状況が改善するものでもなくコメディアンになりたいという希望は嘲笑の対象にされ、同居している母親への情愛もゆがんでいく中で犯してしまたひとつの罪。それがだんだんと男の心をむしばみ決定的な場面へと向かわせる。

 上流とは言わないけれども中流にすら這い上がるのが困難な状況に身を置いていて、今日明日にお金に困る身ではないけれど、いつか似たような境遇になるかもしれない不安に苛まれていたりするだけに、そうした不安が見せる妄想や抱かせる心境が、いつ自分にも起こらないとは限らないと思うとちょっと怖くなる。あるいはそうなってしまった方が楽なのかもという誘いに、乗ってしまわないかといった恐怖が身を苛む。自分でもそうなんだからずっとそうした底流であがいてきた人たちが観たら、ストーリーと同様に反発と暴動が起こっても不思議はない。これがきかっけで世界が変わるかも。そんな作品を金獅子賞に選んだヴェネチア映画祭はやっぱり凄いなあ。

 ちょっと思ったのは新海誠監督の「天気の子。」と重なる部分。あるいは呼応する部分というか。将来に展望を抱けない中でいろいろなことを諦めて生きている人たちがいること。そうした中で精一杯に頑張って見いだした道によって世界が混乱へと向かうこと。誰もが上昇して幸福になるような展開なんてもはやフィクションですら描けなくなっているこの世界を、ともに表したものだと言えるかも。もしも来年のアカデミー賞で「天気の子」が国際長編映画賞にノミネートされてあまつさえ受賞し、そしてこの映画がアカデミー賞の作品賞とか監督賞とか受賞して並んだら面白いかもしれないなあ。ってか取るでしょ絶対。それくらいの映画。アメコミ原作にはとてもじゃないけど思えない、って何か分かっちゃうかな。

 名古屋にいた時にどれだけの頻度で通ったかというと年に1度も行けば良かった感じのスガキヤが、大量閉店しているってニュースが流れてきて何があったかと調べても理由は不明。ただ実家にいた頃に1番行ってただろう八事のジャスコというか今はイオンの中にあるスガキヤは閉店にはなっていないみたいなので今度帰って寄ることがあったら食べて来よう。別に安くもないし美味しいとも思わないけど普通に白い塩味といった感じのスープと縮れっ気のある麺を独特のラーメンフォークで巻き取り食べるとそれはそれで不思議な味わいになるのだった。ソフトクリームもセットというけど食べたことはないなあ。スガキヤといえば袋麺の味噌煮込みは最高だけれどこちらもしばらく食べてない。部屋のレンジから本とかどかして作れるようにしたいなあ、身分も身分だし。

 そうか今度はサンジゲンが作るらしい「サクラ大戦」のアニメーション。ゲームではキャラクターが藤島康介さんから久保帯人さんへと代わっているけどアニメの方もそっち準拠になるんだっけ? 「サクラ大戦」とアニメといえばやっぱりゲームの第2作目から劇場版からプロダクション・アイジーが手がけたものが強く印象に残っているけれど、テレビシリーズはマッドハウスが手がけて監督が中村隆太郎さんで、豪華絢爛としたレビューの雰囲気からとい離れたlain的でキノの旅的なものになっていた記憶、ってDVDボックスは中古で買ったけどまだ見てないのだった。今度はサンジゲンだからやっぱり2Dライクなんだろう。「ブブキブランキ」くらいに動いてくれれば嬉しいけれど。


【9月12日】 おっと出るんだ、スーザン・J・ネイピアさんってアメリカにおける日本のアニメーションや漫画の研究で知られた学者が宮崎駿監督について書いた「Miyazakiworld A Life in Art」が日本語版として早川書房から11月下旬にも刊行予定とか。置いてもらっているアーカイブのリーダーが大英博物館に日本のMANGA展を見に行ったついでに見つけて買って来たのを見せてもらって、表紙の可愛らしさに惹かれたけれどそのままの表紙で出るのか、宮崎監督の作品が前面に出るのか、そこは刊行する早川書房次第だろう。

 内容的には「ルパン三世 カリオストロの城」あたりから「風立ちぬ」までの作品をざっと取りあげ解説する、みたいな感じあろうけれど研究者だから作家的なスタンスなり社会的な影響なりを盛り込んだ、日本から出てくるものとはまた違った評論になっていると思いたい。もちろん買うつもり。お金ないけど2時間働けばそれくらい。ついでに英語のキンドル版も買って付き合わせて読みながら、英語の勉強もできればなあ。英語さえ出来ればって思ったことがこの数カ月、どれだけあったか。ってそれは30年前も思ったけれど仕方が無い、次の20年のために今。そうしなければ明日はないと思いたい。

 強制収容所みたいに隔離されては誰とも会わせてもらえず差別意識もあって虐待でも受けているのかと思ったらエゼキエルことアメルは独房ではあってもキャロルとの面会は可能で音源も持ち込めてペンで壁にリリックを書いて歌ってそれを看守たちが手持ちのスマートフォンから火星全域に配信している。アメリカの刑務所だとかは開放的だしコロンビアとか別の意味で自由だったりするけれど、火星もどうしてなかなかに開放的。あるいはエゼキエルというスターに対する関心なり憧憬があって看守たちも許したか、配信によって何か稼げる術があるから規則とかお構いなしに配信したか。

 いずれにしても、日本で違法とされた滞在者が収容所で長く過ごして疲弊している現状とは大違い。そういう方面へのカウンターになっていれば嬉しいんだけれど世間は深夜のアニメーションとか見て選挙における宣伝戦の怖さとか、それに伴い情動を誘うために浮上する過激な差別思想だとかに興味を抱いたりはしないから、今もって大きくブレイクすることはないのだった。まあ「けものフレンズ」あたりを最後に深夜アニメで一般にも広がったのって余りないから仕方が無い。Netflixは世界には突き抜けても同じ関心を抱く人に広がっているだけで、日本でアニメに関心の無かった層を引っ張るウインドウではないのかも。世界で稼げるならそれで良いのか日本で次のアニメ好きを育て広めないで良いのか。迷うなあ。

 タオが逮捕され母親からは倒れ際に本当の親ではないと告げられてアンジェラは精神的に追い詰められていく。キャロル&チューズデイはアルバムのラストを飾る曲をどう作ろうかと迷っていたところに、収容所からのエゼキエルではもうないアメルのラップが届いて何か決心がついた感じ。優しい歌を作ってプロデューサーにも気に入られ、そして登場したクリスタルがグラミー賞での共演を約束して夢の舞台に向けて準備は整った。アンジェラは出生すら不明となって混沌に迷う中、タオに助けを求めたけれども届くのか。復活したアーティガンが何か手を差し伸べるのか。一方で進む大統領選の行方、材料は次々に出てくるけれど、何が奇跡の7分間によって奇跡とされる状況を創り出すのかがまだ見えない。予定調和を重ねながらも結末を見せず想像させて引っ張る巧さが効力を発揮してきた感じ。あとは驚くような“奇跡”を見せてくれることだけを願う。のたうちまわったこの半年を救ってくれるような“奇跡”を。

 衣料品のネット販売をしちているZOZOがヤフー傘下に入るとのこと。創業者の前澤優作さんが持ち株を売る感じで経営から身を引くって形になっていて、ある意味で「ZOZOTOWN」というビジネスの印象を担っていたパーソナリティが消えることで、雰囲気がどう変わるかに興味が向かう。働いている人たちの気分も。イケイケなトップの思想が下の方まで行き渡っていて活気があったのかどうなのか。「Yahoo!」というブランドのかつては上を見て必死だったものの今はビッグブランドとして堅実さも持つ中、ポップなブランドイメージを保ったままで行けるのか。

 そもそもヤフーってコマースとしてどうなんだろう、本はAmazonで旅行は楽天で衣料はユニクロであとは……って状況で総合検索サイト的なイメージが強いヤフーをショップとして何か物を買うような動きが起こるのか。ちょっとイメージが湧かない。情報を掻き集めて配信しつつページビューから広告料を稼ぐビジネスを変えようとしているのは分かるけど、それがZOZOだったってことなんだろうなあ、今は。ニュース強化のためにブランド力だけはあるレガシーメディアの新聞を買ってくれると期待していたけどそっちには来なかったし。来てくれてたら……やっぱり同じか年寄りの運命は。どうしたものかなあ、これからの人生。

 ジョン・W・キャベル新人賞が受賞者の女性によるスピーチもあってアスタウンディング賞に改称されたのに続いて、ジェイムズ・ティプトリー・Jr賞にも改称の動きが出ているらしい。理由は何だろう、その死去に際して認知症が進行した夫を前々からの約束に従って散弾銃だかで射殺し自身も自殺するという心中を遂げたことについて、いろいろと意見が出ているって話もあるけどあのアメリカで、半ば同意による“安楽死”とそして自身の犠牲も含めた行為が問題になるのか、それともアメリカだから問題になるのか、そこのあたりが文化の違いもあるのでちょっと分からない。日本だったらどうだろう、苛烈な妻だけれど夫思いだねといった話で収まるのかなあ。こうやってあらゆる個人名が付けられた賞がその行いを理由に解明されていくなら、やっぱり三島由紀夫賞なんてヤバいよなあ、事件を起こした訳だし、でも監禁くらいで暴行とかは加えてないか、だったら良いのかな。ポリティカルにコネクトネスなアメリカだと次はPKD賞あたり?


【9月11日】 やっぱりということで早速twitterで「iPhone」「museru」を検索したけどヒットはぼちぼち。「iPhone」「votoms」だとまあそれなりに。3眼のカメラの形が「装甲騎兵ボトムズ」に登場するスコープドッグによく似ているということで、「ボトムズ」のオープニングに使われている言葉としていつしか「ボトムズ」を象徴する言葉になった「咽せる」を得てそっくりぶりを語る人もいっぱい出るかと思ったけれど、そこまでジャーゴン化はしていなかったってことなのかも。「votoms」もそれ時代、海外でどこまで知られているのか。小島秀夫さんがスコープドッグかメタルギアマーク2かといった例えをツイートして、それに対する反応があるから日本のファンを介して“真意”が広まる可能性はありそう。

 ってかしかしやっぱり従前より噂に出ていた3眼がそのまま登場するとはなあ。CGだって話だったけど本当だったのか。そして格好いいかと言われると……。いやガジェット的にはこういうごちゃごちゃとした雰囲気は嫌いじゃなくて、それこそG−SHOCKカメラの堅牢感とか好きならその延長めいた感じで受け入れたくなる。ミッドナイトグリーンなんてそうしたハード思考の受け皿として作ったとしか思えないんだけれど、気になるのはAppleってそういうミリタリーでありアウトドアといったカルチャーをデザインに取り入れ来たっけ、ってこと。中身は他のいつもの色と一緒な訳だから、museru色とか形で誘われたヒトが使ってもその期待に答えるヘビーデューティー感は出せないような気がする。

 一方で普段からAppleとiPhoneを使い讃えてきた人たちにとってこのデザインはクールか。自分たちが使うに値するものなのか。たぶん便利で性能も上がっていて楽しいものになっているとは思うけど、使い方が進化している訳でもないだろうものをデザインへのこれで良いのか感を抱えつつ使い続けることができるのか。できるからこそのファンなんだろうけれどえもいつまで続くのか。形状ではなくアプリという仕組みを媒介に自分と世界を繋げるプラットフォームと割り切っているなら、気にせず使い続けるんだろう。見渡すとAndroid陣営がとてつもなく進化していたとしても。iPad miniにミッドナイトグリーンが出て3眼がつく日は来るかなあ。

 台風が過ぎ去った月曜日は普通に起きてクリニックに行って、先生がひとりで受付から診療から処方箋出しからやって大変そうだなあと思った程度で、あとは船橋駅が大混雑だったので海神駅から東葉高速鉄道で西船橋に出たくらいで、ほかにあまり台風の影響は感じていなかったけれど、昨日あたりになってようやく千葉県でも相当な地域が停電になっていて、エアコンが効かず大変な目に遭っている方が大勢いることが分かって、そうした停電も断水も一切無かった船橋が千葉でも特別に恵まれていたんだと実感。もしも電気が来てなかったらエアコンは元より効いてないけどサーキュレーターすら回らず蒸し暑さに沈み込んだかもしれないから。本当に暑かったなあ、昨晩は。

 もちろん被害は停電だけではなくって雨と風によって地域に大きな被害が出ている模様。ゴルフ練習場のネットが倒れて家にめり込んでコスプレイヤーの方が巻き込まれそうになったけれど、その3分前に偶然か虫の知らせか起きて部屋を変えていたそうで無事だったとか。一種の奇跡だろうなあ。そして我らが鴨川も雨風が大変だった模様で、「輪廻のラグランジェ」の制作資料を引き取ってくれた方たちから、保管場所に浸水とかがあったって報告が出ていた。とりあえず資料は無事みたいだけれど、雨で段ボール箱が柔くなっているそうだから早めに取り替えたいという話。台風シーズンだけにまた来るかもしれないし、気象的に不安定になっているから大雨がいつ降らないとも限らないし。

 思えばNHKによる報道が誤解を招いて商業主義的聖地だと思われていた節もあった鴨川が、そうじゃないってところを見せて頑張ってイベントとか開き、そして遂には制作資料をまるごと引き取ってくれることになって、そのままではやっぱり散逸してしまっただろう資料が残されることになった。何しろ制作したのはXEBEC。今年になって会社の清算が決まって保管してあった資料とかにもピンチが降りかかった。大量の制作資料が残っていた「輪廻のラグランジェ」が、もしもXEBECに保管されていたままだったら、その際にきっと処分されていたかもしれないと思うと引き取ってもらってこれ幸い、お陰で今も「輪廻のラグランジェ」は生き続けることになった。

 つまりは救いの神でもある現地の人たちが困っているなら、そんなXEBECのアーカイブに関わっている身として何かしてあげたいものの雇われのアルバイターでは何ができるものでもない。こうして困っているということを書いて喧伝して、何かが動くきっかけを作ることぐらい。マイナーすぎて世間もメディアも動かせないけど、それでもやっぱり書いて置く。「輪廻のラグランジェ」に救いの手を。段ボール箱がぬれたから樹脂製のコンテナケースに移すかもって話で、費用とかかかりそうだけにそこで何か出来ればなあ、あと浸水に強いということは通気性は逆に良くない樹脂に入れて湿気が残っていたら黴びるかもしれないので、そのあたりのアドバイスできる人がいたらお願い。季節が良くなったら言ってみるかなあ、久しぶりに鴨川に。お金ないけど。

 月刊ニュータイプの2019年10月号とか読んでみたけど京都アニメーションに関する特集とかはなし。乃木坂46のメンバーが語るといった程度であとは近況で触れているクリエイターがいるくらいかな。校了日とか考えると亡くなられた方の名前はまだすべては明らかにされていないし、分かっていたとしても乗せて特集を組んではそれはそれで京都アニメーション側なり遺族の意向からズレてしまう可能性もあってこの号では特集を避けたのかもしれない。違うかもしれない。アニメージュとかアニメディアは読んでないからどういう対応をしているかは不明。ただいつか、いずれやっぱり個別にクリエイターさん業績を振り返って欲しいなあ、アニメ誌ならではの方法で。それによって魂は受け継がれ京都アニメーションの名も残り未来へと続いていくのだと思うから。改めて合掌。


【9月10日】 120億円だからまだ250億円の「君の名は」の半分にも届いていないけれど、新海誠監督の「天気の子」は興行通信社の週末ランキングでは返り咲いたT位から落ちたものの未だに2位でもしかしたら1位への返り咲きもあったりするかもしれないと考えると、125億円は突破して150億円くらいには届きそう。200億円となるともうちょっと話題性が欲しいところだけれど、大人の層に口コミドライブが広がり始めているから涼しくなって見に行く人が増えていけば「君の名は」に続いての200億円越えも夢ではないかもしれない。

 というか、日本の映画監督で100億円超えを果たしたのって「千と千尋の神隠し」の宮崎駿監督と「躍る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」の本広克行監督、そして「南極物語」の蔵原惟繕監督しかいない訳で、そして2度となると「躍る大捜査線」を含む本広監督と、「風立ちぬ」「もののけ姫」「崖の上のポニョ」「ハウルの動く城」が並ぶ宮崎監督くらい。5本の宮さんは別格としても2作品を100億円超えにしてなおかつ「大捜査線2」の上に並べられる可能性もある新海誠監督はもはや国民的監督と言って良いんじゃなかろーか。

 なおかつ新海誠監督は世界でも好評といった利点がある。「君の名は」は世界で3億6000万ドルで「千と千尋の神隠し」を抜いて日本映画1位。今回の「天気の子」も中国だとかインドだとかキャパの大きな場所での上映が続々と決まっているから、もしかしたら「君の名は。」だって抜いてしまうかもしれない。男子と女子の入れ替わりという割と日本的で「らんま1/2」的なサブカルっぽさも持っていた「君の名は。」と違って「天気の子」はストレートに少年と少女の今とこれからが、頽廃へと向かう世界の中に描かれている。

 荒ぶる世界の若い世代の共感を誘いそうな内容。これがアカデミー賞の外国語映画賞を取るなり、エントリーされて長編アニメーション賞をとればなお世界ではね上がりそう。そうなると次、何を作るか大変になりそうだけれど前回から今回で商業性が増したかとうと逆だから、作りたいものを作りつつ作って欲しいものも作る采配を見せ、世界に冠たるアニメーション映画監督として君臨していくことになるんだろう。その位置に先に細田守監督が収まるかと思ったけれど、家族と自分に囚われてしまった感じがあるかなあ。テレビとかで商業を長くやった反動? 対してインディーズから遣りたいことを表現してきた新海誠監督が抑制を覚えた結果、ポスト宮崎駿の最前線に立った。ちょっと面白い現象かも。後に続くのは誰だろう。やっぱりインディーズ出身かそれとも商業からのドロップアウトか。要注目。

 書けばネットならすぐさまで、新聞でも翌日とか翌週で雑誌でもムックでも数週間から数ヶ月以内には掲載されて何かやった感が得られる物書き仕事とは違って今、自分がしているこれがいったい何になるのだろうと考えてしまうところに、もやもや感の要因があるのかもしれない。とはいえそうした作業を必要だという確信をもって5年10年と続けてで結果を出した先例があるから、今の作業もきっと何かの役に経っているのだとこちらも確信するしかないのだろう。それにしても「残念くのいち伝」とはいったい何のためのものだったのか。調べてみたてら……。

 いやあ、これは分からない、HDDの内容が書かれたラベルににZNKPVっていうアルファベットが並んでいて、該当するような作品がないか自分で作ったXEBECの制作リストをしらべてもそんなものは存在しない。前鬼とかジンキとかそんな類かというとまったく関係なさそうで、こりゃあ記号のままスルーするかと思い、とりあえずWMPでは開かなかった動画ファイルをダメ元でQuickTimeで開いたら、何と中身が見えて「残念くのいち伝」だと判明した。調べたら介錯さんの漫画で単行本が4巻までリリースされている。でもタイトル名とアニメで調べてもテレビアニメ化された感じは無し。いったいどこでとネットを漁って、柱エ信義監督による単行本のおまけPVだったと判明する。

 あの「宇宙戦艦ヤマト2019」を手がけた羽原監督が、そんな時期に重なるように作っていたとは。なおかつ大々的に単行本付きビデオとしてリリースされた訳じゃなく、ショップの特別限定版として売られたものにCDドラマとともに付属していたというからレアもレア。なるほどこういうのってネットに動画が流れていて不思議じゃないのに、どこにもアップされていなかった訳だ。とはいえ貴重なXEBEC作品な訳で、それが作られた記録はやっぱり残しておかないといけないんだろう。とりあえず8月にどうにかこうにか作り上げた作品リストの1版上くらいにのっけておくか。映像がいつでも見られる状態にしたいけれど、こればっかりは権利者のいるものなので普通には無理。いつかXEBEC展でも開かれたらその時に引っ張り出されれば幸いか。覚えてもらっていられればだけど。

 大河ドラマが渋沢栄一を取りあげるとかで主演が吉沢亮さんだと発表に。大手町から日本橋へと向かう途中にある銅像の渋沢栄一は太って顔立ちも丸い爺さんだけにギャップが激しく老年になった渋沢翁を吉沢さんが演じるかに興味が募る。あと原作が城山三郎さんの「雄気堂々」じゃないのも。現代に出回っている渋沢栄一の物語でそれがほとんど唯一だからなあ。なのでこれから誰かいっぱい書けば便乗本として売れるかも。とりあえるライトノベル作家は現代に女体化転生した渋沢栄一が得意の経済と人心掌握術で経済に切り込み大改革する話だ。敵はこちらも女体化転生した岩崎弥太郎。あるいは若き渋沢栄一が異世界に転生して株式会社を作り取引所を作って経済を持ちこみ財を成さずに庶民を助ける話とか。書かないなら書いちゃうぞ。


【9月9日】 ライター仕事で朝から船橋西図書館にこもっていたので見られなかった日曜美術館の高畑勲監督特集で、出演した片渕須直監督が「この世界の片隅に」とか「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」に続く作品のイメージボードをさらりと見せたとかで、後になって知って見て平安時代の女御たちがわんさかいたりするその光景に、いったい何を描くんだろうかと今から興味津々。もしかしたらこの中にひとり男が混じっていたりして、帝の暗殺を意識しながら後宮で繰り広げられる野球大会に参加していくってストーリーになるのかな、ってそれは「硬球楽園球場 ハレムリーグ・ベースボール」じゃないか。ないない絶対ないい。

 ないとは言っても他にだったら後宮めいた場所で何が繰り広げられるのか。奇妙な事件が起こってそれを女装した陰陽師が潜入して解き明かすのか、それとも女御に見えるのは全員が男性で逆に帝が女性なのを共に隠して異性装していたりするのか。集団型とりかへばやというか。まあそれもなさそうだけれど気になるのはセンターに構えた三ツ目だか五ツ目の鬼みたいな存在だなあ、悪者には見えないけれど主人公めいてもいない。というか誰が広いんだ。ひとり下女めいた娘も混じっているから彼女? でもどちらかというと親友ポジションってことで、姫に下女に化物が組んで事に当たる物語、って想像したけどこれいかに。ちなみに鬼の声は栩野智幸さん。間違いない。

 仲間内での叱咤といった範囲をもはや超えていたってことなんだろうなあ。N国党の党首の人がかつて区議会議員選挙にN国党から出たけど離党した人に向かって脅迫めいたことを言ったとかで、警察が事情聴取に乗り出したとか。自分のところから出て逃げたんだからそりゃあ憤るのも仕方がないって言えたりするのかもしれないけれど、それですまないような何か行使が伴いそうな雰囲気でもあったのかもしれない。これは市会議員選挙の方だけれど演説中に異論を示した人に党首や候補者や支援者が寄って車から引っ張り出したようなこともあったっけ。あとマツコ・デラックスさんが出演している番組への押しかけとか。相手がもっとすごい権力者なら喝采も出ただろうけど有名人とか一般人を相手に憤ってもそれは恐怖しか誘わない。流石に周囲もこれはと思い始めたところにこの件でどうなってしまうのか。気にしていこう。

 千葉あたりを直撃した台風のせいで船橋市も港の方とか浸水がありそうだったり、山側では崖崩れがありそうだったりしていろいろ勧告も出ていたみたいだけれど、駅の回りはいたって静かで風雨で寝られないってこともなく、気付いたら朝になっていた。吹き込んだ空気で蒸し暑さもあってただでさえ気鬱な頭をどんよりとさせたけれど、ちょうど3週間ごとのクリニックだったんで行ってまだまだお世話になろうと思ったものの、果たして開いているのかが心配になって、気鬱さがグッと深まった。

 それというのも、ちょうどその日に薬が切れてすまうことになっていて、文字通りに気休めではあっても齧らないと余計に沈むことは分かっているので、休んでもらっては困ると思いつつ行ったらひとり先生が開業の準備をしていて、ほぼほぼ時間通りに診療してもらえた。泊まったのかな。車なら普通に来られる場所に住んでいるのかな。ともあれいろいろとご相談、といっても状況としては進んでも退いてもいない膠着状態。今の作業賃で当面はどうにかなるという金銭的な楽観を抱きつつ、名古屋人気質が邪魔して不安を誘って落ち着かない。

 あとは何かを伝えて読んでもらうという染み付いた承認欲求がなかなか抜けず、残っていればまだ目もあったかといった気分が浮かんで早まった感をあおり立てる。そういう保証はないし過去、7年も塩漬けにされたんだからあり得ないとは分かっていても、潮目が変わればなんて思いもやっぱり浮かぶのだった。そうした後悔や未練をどうにかするには伝えて稼ぐ仕事でも始めるしかないんだけれど、そんな根性ないから今があるわけだといった不甲斐なさを、抱え続ける限り状況は変わらずいつか目的と化したクリニック通いが続いていくのだろう。

 なんて話を先生として退散。事務の人もいないので会計は後回しにして処方箋だけもらい近所の薬局で薬をもらってこれでしばらくは大丈夫か。効いているなら楽観ばかりに浸れるのかというと問題の先送りでしかないとわかっているので大きく沈ませない程度の役の立ち方か。それでもない時はひどかったから随分とましになった。薬をもらい駅に行くと船橋駅は人でいっぱい。戻って寝てしまおうかとも思ったけれど、仕事が気持ちの生命線になっているところもあるので行くにはいこうと東葉高速線で西船橋まで出て。直通がないので乗り換えて東西線で西へ。こういう融通が効くのはフリーのありがたみであると同時に、行かなければ何もないというのがフリーのつらみ。晴耕雨読とはなかなかなれないのだった。今日もこうして生きている。

 なろうとかエブリスタといったプラットフォームはまだなくて、個人が自分のサイトだとかブログだとかに小説を“連載”していた時代がしばらくあって、そこから川原礫さんも登場してきたしカルロ・ゼンさんも現れたって言えるのかな。一方でトラックに跳ねられ異世界転生といったある種のフォーマットもまだ固まってなくって、異世界に行って何をするのかを大喜利的に考え打ち出していく今の状況なんて考えられなかっただろう2006年に、こうして異世界転生の物語は書き始められたって感じをあたえてくれる小説が登場した。

 伊藤ヒロさん「異世界誕生2006」(講談社ラノベ文庫)は交通事故でトラックに跳ねられ死んだニートの息子を思って母親が、息子の残した設定を元に小説を書くことで、息子は死んでおらず異世界を旅しているだけだと思い込もうとしているという設定のストーリー。ある意味であり得る動機なだけに世にはびこる異世界転生物語には、本当にそうした無念を晴らそうとしたものが含まれているのかもと思えてきた。当初は異世界転生ものへのカウンターめいた話だったらしいけれど、母親の息子への思いがあり、息子のどうにかなりたいという願いがあってそれが交わらないまま重なるような寂しさと悲しさを、味わわされる話になってちょっっぴり泣けてきた。親不孝してるものなあ、俺。せめて異世界に逃げずに今を生き抜いて、晴れ晴れとした顔を見せられるよう頑張りたい。頑張るぞ。頑張るのだ。何が何でも。


【9月8日】 東京オリンピックに関わることと、メディアに関わることはそれがポン酢っぽいなら徹底的に批判して良いような風潮がネットにあって、まあ確かにメディアはやり過ぎるし東京オリンピックもポン酢ばかりを繰り出しては来ているけれど、中に真っ当な事があるにもかかわらず、それをポン酢めいて報じたり受け取ったりするから、いざというときにそれが受け入れられなくてとんでもない事態にならないかとちょっと心配。何かって夏のマラソンの向けてかち割り氷を配りゴールに氷風呂を用意して熱中症を防ごうという施策のこと。

 かち割り氷を配って脇とか首とか冷やすのが果たして適切なのか、そんなものを持たせるよりミストを降らして涼んでもらうべきなんじゃないかとは思うけれど、早急に冷やすにはやっぱり局所を集中して冷やすしかないのならそういう手段もあるだろう。でも氷水じゃなくそうした専用のパッドかなにかを作って提供して欲しいなあ。商品としてそれが良い物なら灼熱化が進む日本の夏に大いに売れるし。そして氷風呂。すなわちアイスバスは熱を持ってゴールに飛び込んだ選手をいきなりつけて大丈夫かって声も出ている。

 ただこれは、海外なんかだとアイスバスとして実際に導入されている熱中症対策で、アメリカで8月後半に開かれる11キロメートルのロードレースで50人を越える熱中症を思わせる症状の人たちを守り死者を出さずに済ませたという。ただ要点として直腸温を測定して40度以上であることを確かめる必要があり、そしてアイスバスに浸けている間も低体温症にならないかを調べるために、常に直腸温をモニタリングしておく必要がある。とはいえ脇の下とかで測るのと違って、直腸体温計は器具も特殊だし使い方も難しい。すぐにやれと言われても出来るものではない。

 何しろお尻に体温計を刺す訳で、測られている選手も大変なら測っている周囲もなかなかに大変。必要なこととはいえ恥ずかしさも伴うそうした行為を、必要だからとすんなりできる空気なり体制を東京オリンピックの競技の現場にこれから1年未満で作れるか。そこが課題になる。AEDの女性への使用がセクハラ問題を取り沙汰されて躊躇を読んでいる国だけに、メディアの小ばかにしたような報道とそれを受けた一般の蔑みを越えて、真っ当に議論され検証され導入されて欲しいなあ。ボランティアで直腸体温計を担当したい人とかの育成も含めて。

 夜に雨が降るらいしので遠出は避けて、いつもの船橋西図書館で朝から3時間ほどこもって電源とネットを活用しながらCEDEC2019のセッションリポートで書きづらかった、自動運転とゲーム技術の関係に関する本を仕上げ、船橋駅前のドトールに戻って細部を整え送っててとりあえず依頼分は完遂して収入を確保する。これを元手にすればイオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンで「ヴァイオレットエヴァーガーデン外伝」だって見て平気だった気もするけれど、舞台挨拶付きのが当たってたんで見るのはそっちまで我慢する。あと帰って来られなくなる可能性もあるし。

 でも以前だったら関係ないと出かけていって違う環境だからと見たんだろうなあ。そこが前と今とで違うところ。こういうストレスが心を静めてしまうのかなあ。以前ほどにはもう絶対に稼げないという確信も得て、こういう気分が一生続くのかなと思うとなかなかに気分も沈むけど、残ってしばらくむだ遣いをしまくったところで6年後にはもっと高齢で似た境遇になっただろうから早いうちに慣れておけたということを是とみるべきか。早くに次の楽しみが得られれば気鬱も晴れると思い、とりあえず手持ちも豊かな今をのんびりと過ごして、来年にどうにかなるような気楽さで過ごせば良いだけなんだけれど。

 とは言え、今をどうにかしないとという焦りはなかなか抜けないもの。どうしたら良いか考えあぐねているところに流れて来た、折しもデンマークに行ってるアニメーション作家の幸洋子さんのツイートが、日本だと妙に焦ったりやることがあるのに退屈してしまうのが、デンマークにいると目の前のことに集中しなくちゃいけないから焦りも退屈もなくなるって書いていた。自分もどこか遠くの島にでも行って、他にやることがない境遇に自分を追い込んで退屈からの焦りを吹き飛ばすって手もあるかもしれない。沖縄に3カ月とか1年とかいたらどうなるかなあ。それなら実家に1年引きこもるか。それだともっとダメになるかな。今はまだ新しいことを誘われても自信のなさに逃げ出しそうな心境。例えば番組ディレクターとかやってと言われてやれるだろうか。夜に出来そうと思っても朝に出来ないと沈むモメンタム。ここをまず、突破するにはやって成功しないと。頑張ろう。

 そしてぐるりと回って「ヒマワリ」が「ミスマルカ皇国物語」へと繋がった第8巻。ウィル子をさらに発展させたようなゼネフが立ち上がっては世界を支配しようとして、川村ヒデオとそして情報体となったヒマワリによって阻止されたもののヒデオはやがて亡くなりウィル子は存命ながらもテクノロジー事態が衰退した中で力を出せず。けれどもヒマワリはボディを何かに換装してはマヒロとジェスによって掘り返されたみたいで、ここから「ヒマワリ」であり「レイセン」であり「戦闘城塞マスラヲ」であり「お・り・が・み」といったシリーズとのミッシングリンクが埋まり、人類がふたたび勢力を盛り返す物語へと発展していくことになるのかな。

 エーデルワイスらがグランマーセナル帝国とは違った回路で動いていたのはゼネフと関係してたからだっけ。その辺り、忘れてしまっているので掘り出してミスマルカを読まないと。アニメ化もされず漫画も途中で終わるのによく続く。そしてこれからも続いて欲しい。もはやアニメ原作と化さねば生き延びられないか、ネット発で読者の洗礼という振るいにかけられたものしか出せない中、媚びず阿らないで作者の世界観だけで勝負できるライトノベルって貴重だから。本当に貴重だから。頑張れ林トモアキさん。


  【9月7日】 山下達郎さんのライブで今、世界でシティポップが人気になっているという話から「GO AHEAD」に入っているBomberを歌ったり竹内まりやさんの「プラスティック・ラブ」をカバーして、流れてネットで世界で「プラスティック・ラブ」が人気なのを確かめたりしていたけれど、そこからどうやら日本のアニメーションとシティポップをくっつけるMADなムービーがいっぱい作られていることを発見。「プラスティック・ラブ」もあって達郎さんがカバーしたのはたぶん「スペースダンディ」がバックにつけられていて、腰を振る2人の動きがマッチしていてついつい見入ってしまった。

 続けざまに竹内まりやさんの「プラスティック・ラブ」が流れたけれどもこっちは日本アニメ(−ター)見本市から吉崎響監督の「ME! ME! ME!」でキャラクターがいっぱい出てきて腰を振るシーンが延々。これもまた見入る絵ではあるけど、歌と関係があるかとうとそこはまあ微妙かも。とはいえ絶妙なタイミングであることは事実。これは別の映像だけれど達郎さんの「Daydream」に、なぜか列車でドア口に発って外を見る女子学生とつり革につかまった勤め人たちが登場したアニメ(多分ジブリ)が重ねられてあって、リズムに合わせて勤め人の腰が少し揺れるだけなんだけれどこれもタイミングがばっちりでつい見入ってしまった。

 「スペースダンディ」とか「ME! ME! ME!」は選ぶセンスと切り取るタイミングがなかなかで、「少女革命ウテナ」とか「美少女戦士セーラームーン」なんかからも抜かれていて内容とのマッチはともかくリズムと動きのシンクロが抜群。「マクロスプラス」なんかもあってこれもしっかりハマってた。他は1980年代のアニメーションからいっぱい抜いてきている感じでどこから持ってきたんだという驚きと懐かしさ、あと楽曲そのものの懐かしさはあってもマッチングは今ひとつ。センスってのはやっぱり編集に現れるものらしい。いっそだからアニメとシティポップのオーソリティが手を組みシンクロ率の高いものを作れば受けそうだけれど、そうしたプロが介在すると揺らぎが消えて面白みが減るのもネットの勝手映像の世界。だから我はという人たちの積み上げる成果を日々、待ち望むのが良いのかも。

 視聴者としては現役でも取材者としては縁遠くなってしまったNetflixが発表会を開いて4K HDRの手描きアニメーションをプロダクション・アイジーといっしょに制作していることを発表して、その一部とかメイキングの様子がネットで紹介されていた。まだ途中だからエフェクトだとかモーフィングとかいった部分のデジタルくささは残っているけれど、キャラクターの手描き感はやっぱりあってかわいらしくって、そうした部分と融合して効果も乗っていけば観て目に新しく、それでいてアニメーションならではの柔らかさも感じられる映像が仕上がるんじゃなかろーか。

 そんな映像が日々、通っては箱に詰められたアニメーションの原画とかタイムシートが収まったカット袋を段ボール箱から取り出して、撮影をしている部屋のほとんど横で作られているというのも何かの縁。とはいえ向こうは最先端の仕事を世界から求められてやっていて、こちらは未だ晴れないリストラからの気鬱を薬で抑えつつ記録をとるのも重要な仕事といった使命感を覚えて精一杯にこなしているといったところ。間にある壁はだから実際の厚さの何億倍もあって彼我の差に改めて自分の何もなさに震えてしまう。

 そうは言っても積み上げてみたものが違うんだから仕方がない。こちらはこちらでやれるだけのことをやるしかないと心を持ち上げよう。それのしてもフルデジタルの作画に撮影の映像作品を、アーカイブ的にどうやって保存とか収集とか管理とかするんだろう。そこが謎。過程をすべて記録しておく訳にもいかないだろうからなあ。かといって成果物としての映像だけでは何か違う。制作記録も撮っておくべきなんだろうか。

 モメンタムが下がり気味なのか朝イチで図書館にこもって原稿を1本2本と片付ける気力が出ず、ペットボトルのお茶だけ飲みながら今くらいまで部屋でうとうと。前だったら恵比寿に「ロングウェイノース」を見に行って池袋にIMAXの「ブレードランナー」を見に行って「ヴァイオレットエヴァーガーデン外伝」も見て「いなくなれ、群青」も見てと歩き回っていただろうけど、懐が気になるのかそうした気概が衰えつつあるのが何か痛い。いやまあ口座が空っぽって訳じゃなくむしろ……なのだけれど根が貧乏性なのか名古屋人だからなのか宵越しの銭を持ちまくりたいのだ。

 とはいえ、それでは沈み過ぎて立てなくなるので柏まで出てキネマ旬報シアターで「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」を観ることにする。「ヴァイオレットエヴァーガーデン外伝」は舞台挨拶が当たったので来週に。合間に「JK無双 終わる世界の救い方」(レジェンドノベルス)を読む。ゾンビが暴れ出すようになった世界で異能を持たされたプレイヤーがゲームのように示唆されるスキルを得ながらミッションに挑むという展開。クリアしてもフェイズが変わって敵が強くなり他のプレイヤーとの戦いもあって平和は来ない。それどころか滅亡必至という状況にあって未来を知る者が現れ今度こそといった展開が混じって未来は混沌。今回はハッピーエンドなのかバッドエンドなのか。いろいろと要素が混じって面白い。売れてるのかな。

 そして到着した柏のキネマ旬報シアターには嬉しいことに京都アニメーションのキャラクターがいっぱい。ポップを立てて「京アニ魂は永遠に不滅です!」と訴えて、僕たちが楽しんできた京都アニメーションへの感謝とそして激励をアピールしていた。嬉しいなあ。これくらいの特集をだったら本誌のキネマ旬報でもやってくれればと思わないでもないけれど。そしてもう何度目かの、でもって7月19日の事件が起こってからは初めての「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」では関西大会が終わったあと、チューバで出場した1年生の鈴木美玲が出られなかった1年生の鈴木さつきや2年生の加藤葉月に「来年はいっしょに吹きましょう」と言っている場面にジンと来る。

 来年のその場面、3人が一緒に吹いたとしてもそれを一緒に描けなかった少なくない人たち。キャラクターデザインの人もそうだし総作画監督の人もそうだし色彩を手がけた人とかいろいろな人たちが、黄前久美子が3年生になった時の映像にもう携わることができない。亡くなった人の言葉はもう聞けないから分からないけれど、たぶん残念だろうし悔しいだろう。それ以上に残された人は悲しいしやっぱり悔しいはず。時間は永遠ではないし未来は確実ではない。そんな思いを改めて抱かされた次第。まあ自分も明日すら確実ではない中で浮かぶ気持ちもわんさかあって、どうしたものかと迷うけれどもこれも半年が過ぎればいい加減諦めがつくのかな、それとも未来に向かって手がかりを得られるまでは続くのかな、残っていたら楽して稼げて週末は映画三昧だったかもしれないけれど、それが自分にとって何を意味したか。来年になればもうちょっと分かっているかもしれない。それまでは毎日を確実にしっかりと生きていこう。エクセル覚えよう。


【9月6日】 フジテレビというか名古屋では東海テレビの午後7時台といったらだいたいがアニメーションで「マジンガーZ」やら「ドラゴンボール」やら「うる星やつら」やら「北斗の拳」やらと様々な番組をそこで見てアニメーション好きってやつにさせられた。なるほど「機動戦士ガンダム」とかは土曜日の夕方で「新世紀エヴァンゲリオン」だって午後6時半とちょっと外れてはいたけれど、そうしたマニアックなアニメとは違って国民的な人気と認知を得るならやっぱり午後7時台。そうすることで日本のアニメーション文化が広い裾野を持つに至った。

 でも今はアニメーションでは視聴率がとれないということで、ゴールデンからどんどんとアニメーションが消えてフジテレビなんかは日曜朝とそれから日曜日の6時台に集められてしまった感じ。TBSかはら土曜日6時台も日曜日の5時台もともに消え、深夜帯に押し込められてしまっている。日本テレビも夕方で「ポケットモンスター」なんかを放送していたテレビ東京も引き気味の中、かろうじて橋頭堡を保っていたテレビ朝日から「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」が午後7時台から撤退して土曜日の夕方に枠を移す。そこにはすでに日本テレビがいるんだけれど前後を挟む感じにするのかな。そうやってアニメを見る層を協力して固めようって腹なのかもしれない。

 アニメ時代は深夜にわんさかやっているし、夕方だって朝だって見ようと思えばそこで見られるしネットを開けばあらゆるアニメがそこに揃っている。だからもうゴールデンだという限定された時間にアニメを放送する必要なんてないって言えば言えるけど、それはバラエティだってドラマだって同じこと。でも続いているのにアニメだけが軽んじられているのはやっぱり少子化高齢化でもってアニメを主流としている層が減り、効果が期待できないって判断なんだろう。

 問題はそんななけなしの子供たちがアニメを見る機会を奪われ親しむことなく成長していった果て、アニメ市場全体がシュリンクしてしまわないかってこと。今やゲームですら子供たちがやらなくなっているそうで、将来において新しい流入が期待できないとか。だからもう大人たちを対象にして大人たちのためのアニメを作っていくしかないんだとしても、それも30年くらいで限界が来た時にいった日本のアニメ文化はどうなってしまうんだろうか。ゲーム文化は残っているんだろうか。ポップカルチャーの勃興から隆昌を見た目がその終焉ももしかしたら見るかも知れない。そんな国になってしまたんだなあ。

 消費税の引き上げに伴い導入される軽減税率の適用をどうするかってあたりで様々な議論が飛び交っているけどどうしてそこまで人は間抜けになれるのかといったレベル。コンビニでイートインがあったとしてそこで腰掛けて食べるのを飲食店と同等だと規定して軽減税率を適用せず、購入して外に出てコンビニの前でしゃがんで食べれば持ち帰りとなって軽減税率の対象になるとかどうとか。見た目もあまり美しくないコンビニ前のたむろを助長するような施策を、国が作り出して平気ってところに民度といったものの衰退が見えて悲しくなる。何が美しい国だよ。

 最近聞いた話では、映画館でポップコーンを買ってその場で食べればそれは外食になるけれど、シアターに持ち込んで食べればそれは飲食が目的ではなく映画が目的だから持ち帰りと同等になるとか。いやいや映画館という場で食べているんだからそれこそレストランと同じ外食であってロビーで食べる方が持ち帰りに近いじゃんと思うんだけれど、もはやそうしたまっとうな議論も起こらないほど人の考える力は低下しているみたい。いっそだったら近所同士のコンビニで連携して,買って別のコンビニのイートインを使えば持ち帰りになるから軽減税率ってなれば楽しいけれど、そうした了解は認められないって感じなんだろう。もう本当にめちゃくちゃ。そして始まればさらにめちゃくちゃな現象が起こりそう。一流レストランでサーブされるなり持って外に出て食べ戻るなんて食べ方が出たりして。

 電撃小説大賞の読者賞という斉藤すずさんの「由比ヶ浜機械修理相談所」が文庫じゃなくってソフトカバーの単行本として登場。TOWAと呼ばれる精巧なアンドロイドを作りだした会社に念願かなって就職できて、さあ少女のTOWAを世の中に送り届けるぞと張り切っていたものの、そんな仕事で自分は何をやっているか気付いて愕然としてしまった若宮氷雨という青年。事件もあって社長が会社をたたんでしまい、自身はニートになって実家でごろごろとしていた。そこに朗報。親戚が一軒家を相続したけどもてあましているので行って住んで欲しいと頼まれた。

 家にいるのもしのびないからと出向いた氷雨は、工学部出身だったこともあって知識と技術を活かして修理屋を始めたところ、そのTOWAが持ちこまれて買い手を探してくれと頼まれた。アンドロイドでロボットだから決して人身売買ではないけれど、人間以上に人間っぽいTOWAを世話して親しくなったにも関わらず、誰かの慰み者にされていた実態に気づいて立ち上がれなくなったことが過去にあり迷う。でも、別の誰かに介在されてひどい引き受け手に当たってはいけあにと引き受ける。

 そして始まる結という名のTOWAとの暮らし。人間そっくりというかほとんど人間な感じで、親切で清楚な女性と暮らし始めた青年の日常として描かれても違和感がない。ロボットなのにAIだとかライフハックといった技術関係をめぐるやりとりは少なく、人に生み出された“命”でもやはり”命”として認めたい、認めなくちゃと思うに至る過程が綴られる感じ。エイミー・トムスンの「ヴァーチャル・ガールや山本弘さん「プラスティックの恋人」のように機械知性と人との関わりに迫るSF性は薄いけれど、いつか訪れるそうした社会でどう振る舞うべきかは諭される。あと手に技術があればニートも安心といった示唆。リストラ渦中の身にこれが1晩刺さった。TOWAに幸あれ。


【9月5日】 CEDEC2019では「ファンベース」という言概念を流行らせようとしている佐藤尚之さんのセッションも聞いて、新規の顧客を獲得しようと頑張るよりは既存の顧客を大事にした方が、売り上げの大半を占めていることもあて収益的には安定するって話にそりゃそうだろうと納得。もちろん新しい顧客を取り込んでいかないと売り上げはなかなか伸びないものだけれど、今時の少子化高齢化社会で市場がどんどんと縮んでいく中で、小さなパイを奪い合ったところでなかなか勝てるものではにあ。それならやっぱり確実な既存顧客を大事に使用ってことになる。

 飲料ブランドだと8%のコアな顧客が売り上げの45%を占めているって話もあるし、なんとかの法則じゃないけれど2割の顧客で8割を占めるのがだいたいのマーケット。それでも右肩上がりの経済なら既存顧客から少しこぼれても新しい顧客で上回れたものが、そうではないなら既存顧客をこぼさないようにするしかないって話らしい。ただゲームの場合もこれが当てはまるかどうか、ってなるともはや「ドラゴンクエスト」だって「ファイナルファンタジー」だって新しいタイトルが出るまで相当な時間がかかる。その間をつなぐ非ナンバータイトルにまでコアなファンだからといって群がるかどうか。ブランドだから、会社が好きだからといっても時間を奪われるゲームに心を寄せるのはなかなか厳しい。

 一方でスマートフォン向けゲームとなると上位ブランドがなかなか揺るがないレッドオーシャンと化していて、新規のゲームで打って出るなら新しい顧客を獲得しなくちゃいけないのにそれが出来ない状況でファンベースもなにもない。その辺り、ゲーム業界にマッチした言説にチューニングしていく必要があるかもしれない。大枠の理念としてファンを得て育て育み囲い込むのは正解。「艦隊これくしょん 艦これ」も「刀剣乱舞」も「Fate/GrandOrder」もそんな感じで確固としたファン層を得て揺らがない訳だから。そしてコアなファンの言説で新しいファンも巻き込んでいく。そうなるためのとっっかかりをどこで得るか。ブランドがキャラクターか。考えないと。

 あとファンといっても中身はやっぱり濃淡があって傾向もあって、その中の濃いところだけに向かって突き進んでいくと濃縮が高まってちょっとおかしなことになる可能性なんかも想像してしまう。どことは言わないけれどもとあるメディアとか、ライティな層へのアプローチでどうにか話題は得たけれど、そこから濃縮が進んで韓国嫌い中国嫌いな言説をエスカレートさせては一部の喝采は得つつも、周囲にいたまっとうな保守は眉をひそめて離れていって、結果としてシュリンクが続いている。そこで振り返って広げるかというと、それこそファンベースしか縋るものがないのかさらに濃さを増していこうとしているから果たしてどうなってしまうのか。気にしたって仕方が無いけどやっぱり気になる。未練だねえ。

 一気にきな臭ささが増してきた「キャロル&チューズデイ」はアンジェラのAIを作り上げたタオがパトロンの要請をことわりチューズデイの母親が立候補している大統領選挙の協力を拒んだことで検挙され、残されたアンジェラは母親が怒り心頭の中で倒れてちょっと先行きが見えず。そしてグラミー賞だかにアンジェラ、キャロル&チューズデイと供にノミネートされていたラッパーは移民排斥への反対を煽る楽曲を出して煽ったことが咎められ、不法滞在だとされて検挙されてしまう。もうグラミー賞でまともに歌えるのってキャロル&チューズデイしかないってこと? でもキャロルの幼なじみだったラッパーの逮捕は心痛だし、母親の移民排斥運動にチューズデイも心痛めている。そんな中でまともな音楽祭になるのかどうか。暴動とか検挙とか陰謀とかいろいろうごめくんだろうなあ。

 そうした中で浮かんでくるのが「奇跡の7分間」って奴で、いったい何が起こるのかが第1話からずっと気になっていたけれどもやっぱり移民排斥で大暴動が起こり大混乱に陥った火星で一触即発の危機一髪を2人の歌声が救う、ってことになるのかな。それじゃあ単純すぎるけれども常に単純な定番ストーリーを美麗な絵とそして素晴らしい楽曲で彩り引っ張っていったのが「キャロル&チューズデイ」。ここで変化球なんか投げずとも最後までストレートに音楽は世界を救う展開を見せてくれると思いたい。火星人襲来とかあり得ないから。あったりして。

 もう、何度目になるか分からないくらい見ているけれど、今回ばかりはやっぱり見ておきたったので新宿ピカデリーへと出向いて「リズと青い鳥」。あの事件があってちょうど49日となるらしい9月5日の劇場は満席で、そして一瞬たりともその音を聞き逃すまいとする人たちで物音のまるで立たない静かな空間を、鎧塚みぞれのオーボエが響き渡って改めて離別の悲しみにじんとくる。

 8月に帰省した際にブルーレイを持って帰ってオーディオコメンタリーを再生しながら見たこともあって、いろいろなシーンで石田奈央美さんが関わった色彩設計の工夫だとか、西屋太志さんによるキャラクターデザインの要点だとかを見に入れてまた見直して、それらがどれだけ映画の中に溶け込んでいて生かされているかが感じられて、1本のアニメーション映画に込められた思いと努力のすさまじさを知る。

 ラストに近い理科教室へと鎧塚みぞれの覚醒を耳にして逃げるように入り込んだ笠木希美をみぞれが追いかけた場面は、確か最初と最後で明るさが結構違うそうだけれど、それを気づかせないでじわじわとやっているという。見て沈んだ気持ちがだんだんと持ち直して理解から信頼へと戻っていくのを目からの情報でも感じるんだろう。最後のシーンでは山田尚子監督が西屋さんの顔色をうかがいながら絵コンテを切っていたそうだからそこにはやっぱり思いも遺されているのだろう。

 そうした知恵の結集は、誰のためといえば観客のためであり、自分たちの思いのためでもあったそうした努力の結晶を、こうして劇場で見られることはある意味では幸福であってこれまでも、そしてこれからも上映さえ続けばまた会えるし味わえる。だから今回ばかりとしないでまたいつか、来年とは言わないから何年かおきに上映されて欲しい。それは京都アニメーションの作品に限らず、いろいろな映画についても言えること。映画ってやっぱり映画館で見るためのものなのだから。

 「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」に1年先だって公開された映画のために、黄前久美子たちから1年後輩の生徒たちが先んじてデザインをされてそれらが改めて、池田晶子さんによって本編の中に取り込まれていったとするなら、そうした西屋から池田さんを経て次に久美子たちから2年後輩の生徒たちが、どういった形になるのかを今はいろいろと気にしている。期待とか心待ちというとやはりちょっと違うし、残念さと悔しさが募るけれどもそれでも続いてくれるなら、続けてくれるのなら池田さんを、西屋さんを受け継いでくれる人がいるだろう。そんな新顔たちを見て僕たちは、歩みを止めないで進み続けてくれている京都アニメーションに感謝と喝采を贈るだろう。悼みつつ願う、その時の訪れを。合掌。


【9月4日】 ふと気がついたら「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」の続きにあたる「宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち」の制作が発表になっていて、今まで作っていたXEBECが既にないのにどこがスタジオを持つんだろうかといった興味が浮かんで仕方が無いのは、XEBEC絡みの仕事をしているからなんだろうけれど、スタジオが過去形になってしまったひとつの理由でもあるかもしれない作品を、今また手がける度胸があるというのはなかなか。コントロールさえできれば市場が見込めるって判断があるのかも。でも監督は誰がやるんだろう。出渕裕さんはありえないし柱エ信義さんはサンライズに言っちゃったし。興味津々。元請けはともかくサンライズビヨンドが現場を引き受けたりするのかな。謎めく。

 「JOY」で歌っているのを聞いたから竹内まりあさんの「プラスティック・ラブ」を山下達郎さんが歌ってまるで違和感はないんだけれど、どこかの外国人が日本語で「プラスティック・ラブ」をカバーしていて、それが男性だという映像がYouTubeにあったりして、映像を見ないで聞いているとこれがなかなかにハスキーな竹内まりあさんに聞こえなくもなかったりするから面白いというか、つまりはとっても上手いというか。シティポップが全世界的に人気だそうで、そうした中で筆頭に並ぶ山下達郎さんと竹内まりあさん。カバーする人が増えてくれば面白いなあ。「Love Space」を男性でカバーしたら褒め讃える。

 カバーは日本にも広まっていて、気がついたら森高千里さんと一時コラボしていたtofubeatsさんが「プラスティック・ラブ」を歌っていたけどしっかりtofuだった。そりゃそうか。あとネットで最近カバーしたという人がいて、お台場とかを歩きながら合う立ってるPVを挙げていたけど声がクールなんだけれど情感があってソリッドなんだけれど揺らぎがあるといった不思議な声。竹内まりあに椎名林檎と宇多田ヒカルが混じったようなとでも言うんだろうか。そういうシンガーが市井にいてネットに動画を挙げて全世界に見てもらえる時代はやっぱり素晴らしいなあ、たとえ音楽が金儲けにならなくても、いやなって欲しいけど。そこはやっぱり考えないと。

 流石にNHKホールのキャンセルは当たらなかったようで、これで2019年の山下達郎さんのツアーは聞き納めとなった感じ。2020年は演らないそうだしアコースティックライブなんて当たる気がしないから、あるいは一生の最後の生達郎になったかもしれないと思うとグッズのタツローくん人形は勝っておけば良かったかもしれない。まあ今の部屋だとどこかに埋もれたまんまゴミになる可能性が高いから我慢我慢。誰かが買って持っているならそれは僕も持っているのと同じなんだという気になることが、貧乏になった身で生きる知恵かもしれない。とか言ってたら「舞台けものフレンズ」のチケットがしっかり当選してた。困ったなあ。でも良いんだ、見たいものを我慢していたら気鬱がさらに沈んでしまう。明日のために頑張る糧として見たいものを見て、また見られるために頑張ることで生きていけるんだと思いたい。

 生きていくには稼がなくっちゃと今日はアーカイブをお休みして、雇われのライターとしてCEDEC2019へ。新聞記者時代もずっと通っていたから慣れたものではあるものの、フリーとして行くのとではやっぱり気分が違うなあ、適当に面白そうなものを眺めてVRで遊んでいつか記事にするかもしれないと思っていられるのと、発注を受けたセッションを確実に効いて記事にするのとでは余裕が違う。逆にいうなら記事にすればお金がもらえるという状況が1日だけでなく継続的にあればそれで稼げるんだけれど、そういう感じでもないのがやっぱり厳しい。とはいえ1日で割と稼げるんだから、それを糧に祝日の多い今月のレギュラーをカバーしよう。

 そんなCEDEC2019で、なぜか中国武術のデモンストレーションが。北京とかで本気でジェット・リーの師匠から中国武術を学んだという人が壇上に上がって太極拳から蟷螂拳から見せて歩いて手を使い蹴りを見せては剣を振りライトセーバーを振ってモップまで振っていた。いったいなぜ? ってのはつまりゲームに欠かせないキャラクターとしての中国武術使いをより、リアルに見せるには何が必要なのかといったアピールで、それには正しい中国武術の知識を学び、「型」を知る必要があるっていうのがセッションの理由。そしてスクウェア・エニックスでVFXを担当する傍ら、学んだ中国武術を使ってモーションアクターをしている人が登壇。これが本場といった動きを見せてくれた。

 迫力が違う。どんと足を踏めばしっかりと音がなるし、ブンと棒を振り回してもやっぱり音が鳴る。バンダイナムコで「鉄拳」とかを手がけたクリエイターもそれなりに武術を学んでいたみたいだけれど、半年程度ではやっぱりそうした音はならない。体は小さいのに動きは重く打撃も強そう。そして飛べば空中を舞い構えれば鷹にも虎にもなって周囲を緊張させる。相手の攻撃をすりぬけるようにして自分の掌を相手に当て、指を曲げてのど笛をつかむといった攻撃を目の当たりに見られた参加者は、本気で本場の本当な中国武術はこんなに格好いいと分かったんじゃなかろーか。それを後は応用してゲームに取り入れば、そこでモップを使おうとネギを振り回そうと強そうに見える。まずは型をしっかりと。そのために教室なんかを開いたら、スクウェア・エニックスに日参する人とか出そうだなあ。


【9月3日】 明日からCEDEC2019が始まってその取材を幾つか頼まれた関係で、今日はちょっと休めないんだけれど一方で夕方に市川市文化会館でもって開かれる山下達郎さんのライブのキャンセル待ちが当たってしまってこれは行かなくてはいけないとなった時、いつもより早くから入って何時間でも良いから仕事をしようと思って午前11時前には三鷹に到着。まだ終わっていなかった松屋で朝定食を食べて入ったアニメーション会社は既に人が働いていた。

 まあ当たり前だ、午前11時なら普通だったら重役出勤。でも制作となると本格的なスタートはもうちょっと遅いのかもしれない。棟が別なんでアニメーターさんが実際に動いているのを見ることがないからその辺りは分からないけれど、働き方改革もあって夜遅くまで働くことを良しとしない風潮の中、もしかしたら午前中から集まってせっせと鉛筆を走らせているアニメーターもいたりするのかもしれない。アットホームさで大勢のクリエイターを魅了していた京都アニメーションも午前10時過ぎには大勢がいて、だからこそのあれだけの悲劇に至ってしまったとも言えるけど、その特別さを多くの制作会社が取り入れて、生活と品質を両立させるような業界になっていって欲しいかな。そんなお手伝いが果たしてできているのかどうか。そこが問題なんだよなあ、目下。

 杉谷庄吾[人間ポンプ]さんによる「映画大好きポンポさん」のスピンオフ漫画「映画大好きフランちゃん NYALLYWOOD STUDIOS SERIES」(KADOKAWA)を読んで、古傷を抉られているというか尻を蹴飛ばされているような気がしてちょっと立腰が砕ける。ポンポさんの2巻でポンポさんが撮った映画のヒロインに抜擢されたダイナーのウエイトレスのフランちゃんを主役にして、夢だった女優になるまでを描いたストーリーでは、やりたいことをやるためにやれる場所を自ら作って動かなきゃって語られていて、やってきたことをやり続けられるために自分は何かしたのかと振り返って思わされて悔いが浮かんで気が沈む。

 女優を夢みてオーディションを受けまくっても演技が硬直していて自分ではよくやっているともりでもスタッフには通らず、落ちてばかりいるフランちゃんにポンポさんがアドバイスめいたことをして、だんだんと立ち直らせていくといったストーリー。ただあからさまなアドバイスではなく、例えばオーディションに言ったら台本なんか読んでないで他の人の演技を見ろと諭して自分がどれだけヘマをしてきたかを分からせるあたりに、敏案プロデューサーとしての才気って奴がのぞく。自分から気付かなければ意味が無い。そういう意味でのスパルタであり愛情あるアドバイスにちゃんと気付けたフランちゃんを主役に1本、映画を撮って終わりじゃないところが凄い。

 スターに近づいたもののその後、映画のオファーを断り続けたフランちゃんがやっていたのは企画を考えること。自分がやってみたい映画のための企画を練り上げてポンポさんに見せることで、誰かの顔色をうかがって過ごすんじゃなく自分の力で自分の居場所をつかもうとする。そうした前向きで積極的なスタンスにポンポさんものって仲間の脚本家や音楽家を引き込みフラちゃんを守り立てていこうとする。そんなストーリーからはいくら自分では頑張っている気になっても、誰かに必要とされているとは限らないから必要とされるように努力しなきゃいけないってこと。そのためにフランちゃんは自分が輝ける場所を自分で作った。

 振り返って僕はどうっだっただろう。与えられた場所で目一杯にやっていれば次もちゃんと続けられると思っていたし、実際にどうにか続けてこられたんだけれども気がつけば経営が妙な方向にシフトする中で不要とされて次の居場所はもうなさそうに。そこでしばらく雌伏をすればまた必要とされたかと思っていたりするのが未練となって、今をなかなか前向きにさせてくれない。そんな状況になる前にフランちゃんじゃないけど手練手管で居場所を作って居座ってしまえばよかったか、なんて後悔も浮かぶけどそんな可能性があったか否か。それこそ10年とかけて準備をしなきゃいけなかったんだろうなあ。

 などと言ってももう遅い。だったら今から自分で自分の居場所を作れば良いと言われても、今となっては果たして自分がやりたいことって何だろうって気分もあってすぐさま動ける感じでもない。そんな状態で示された今の道が自分にとって、あるいは誰かにとってどんな意味を持つのかを今は考えるしかないんだろう。そこにおいてやるべきことが浮かぶか否か、やってほしいと思ってもらえるか否か。2ヶ月じゃあまだ何もわからないんだから、迷っている暇があったら手を動かしていくしかないのかな。3年後にどうなってるかなんて考えて焦るより。

 さて山下達郎さん。2年ぶりくらいという市川市文化会館は自分にとってもその時以来になるのかな。キャンセル待ちでも2階席では前目で達郎さんが近くに見えて声もよく聞こえた。幅がなく奥行きがある感じの中野サンプラザよりキャパはだいたい同じなのに近いのは設計がそういう感じになっているからなのかも。楽曲的には割と知っているものが多かったというか、新しいところのシングルってあんまりやらないんだよなあ、「未来のミライ」の2曲ともやらなかったし。「ナミヤ雑貨店の奇跡」の主題歌ややったから最近の曲だからやらないって訳じゃない。やっぱり自分たちにとっても観客にとってもやって欲しい楽曲を集めるってことなんだろう。「スパークル」とか「ライドオンタイム」とか。

 そんな中で珍しかったのは大滝詠一さんの「君は天然色」か、カラオケに行って大滝さんから君にやるとか言われたそうで、だったらといってすぐにはやらなかったけれども今年の末で7回忌となる大滝さんをしのんで歌ってくれた。上手かった。あとは竹内まりあさんの新譜が出たこともあり、またシティポップが全世界的に人気ということで達郎さんと並んで世界が聞いた「プラスティックラブ」を披露。以前からライブではやっていてライブ集にも入っているけど僕は生で聞いたことがあったっけ。忘れっぽいんで覚えてない。でも大好きなので嬉しかった。竹内さんのアルバムとシングルを買って応募することで竹内さんのライブに行けるかもしれないんで、それに行けたらご本家のも聞けたりすると嬉しいな。

 来年の東京五輪で首都圏に限らず地方もホールやホテルの手配が夏場に難しくなるそうで、それならと来年はツアーを休むらしいから今回がしばらくの見納めになりそう。ってか身分も不安定な中で達郎さんのライブにいつまでも行ってられるものではないから、今回を今生の別れとも思っておくのが良いのかも知れない。でも2021年から再開されたツアーに自分の居場所をしっかりと得た状態で行けてこそ、それからも続く人生を歩んでいけるのかもしれないのなら堂々と行けるよう、今を頑張り明日に繋げて明後日から来週来月来年再来年を確かなものにするのが先決か。どうなることかなあ。じゃない自分でどうにかするんだ。そう教わったじゃないかフランちゃんとポンポさんに。でもそう簡単には前向きにはなれないんだよなあ、そんなお年頃。


【9月2日】 とある漫画の評論を仕上げて、ミステリマガジン向けのレビューを送って、さあ未読の本を読むタームだとなっても気力が高まらず、枕元に積んだままiPadからNetflixで「このすば」の1期2期とOVA2本をだらだらと見て週末を過ごしてしまって、アニサマだ何だと盛り上がってる世間から遠ざかっている感じに、はじき出されて置いていかれてしまった諸々浮かんでシンミリとする。

 まあ、アニサマは去年から取材を拒否されていたから、今年いたって自分では記事に出来なかっただけれど、とある漫画とかライトノベルは読んで紹介を書けるのだから自分はまだ、居場所をもらえていると思えばそれで納得できるかというと、もうちょっとかかるのだろうなあ。とか思いつつ、とりあえず日本SF大賞にエントリーしたくなる作品を、小説漫画ラノベアニメとジャンルを問わず引っ張り出して書き出す書きものに向こう2週間ほど取り組もう。

 これも2月あたりからの半年間、濃い霧の中に沈んでしまっていたようであまり読めても見られてもいないので、これぞという索引があればいろいろ教えて欲しいものである。小川一水さん「天冥の標」と飛浩隆さん「零號琴」と伴名蓮さん「なめらかな世界と、その敵」のとりわけ「ひかりより速く、ゆるやかに」が並びつつあることは何となく分かるかな。草野原々さんは何か入れられたっけ。アニメーションだと「ケムリクサ」に「revisions リヴィジョンズ」は分かるけど他にアニメは何があったっけ。映画なら「天気の子。」が抜群だけれど「プロメア」も良かったし原作はあるけど「海獣の子供」も迫力だった。漫画は「彼方のアストラ」かなあ。とか考え出したら止まらない。そのあたり拾っていこう。「天冥の標」と「境界線上のホライゾン」を選考員に読ませたいなあ。

 「劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜」に続いて「劇場晩 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディー〜」を新宿ピカデリーで。満席の中で始まった映画はテレビシリーズの第2期を編集したものだけれど、関西大会のあとに合宿が持って来られていたり、傘木希美と鎧塚みぞれの関係が削られていたりして本編とは随分違った感じになっている、というのは本編を見た人だったら思うことで映画が初見だとそれはそれでスッとまとまっていて基本、黄前久美子と田中あすかとの関係を軸に久美子と姉、あすかと母親といった家族の近しいけれど難しい関係が描かれた映画になっている。

 そして演奏シーンは冒頭から関西大会の課題曲があって途中に駅ビルコンサートがあってそれはテレビシリーズより長尺で更に最後に全国大会の「三日月の舞」が入ってくるという大盤振る舞い。演奏シーンだけ見ていても演者が切り替わり過去の回想が混じり応援している人たちのカットがはいってと耳だけでなく目も引きつけられる。そうした展開を支える演出の巧さがあり、高橋博行さんんいよる楽器の設定と作画があるんだけれど、事件によってその仕事が今後は続けられないとなった時、果たしてどんな映像ができるのだろうか。前も書いたけど後進からその才能に追いつき追い越す人が出て来欲しいのだけれど……。

 あとはキャラクター。駅ビルコンサートでアルトサックスのソロを吹く岡本来夢とか原作にだって姿は書かれず挿絵なんかもないのをしかりとデザインして、屈指の美少女に仕立て上げたりした池田晶子さんの冴えを次の展開、久美子たちが3年生になった時に入ってくる1年生について見ることができないのだなあという残念さがあらためて浮かぶ。これもだから後進から越えてやるといった気概を持った人が出てきて欲しいのだけれど、やっぱり池田さん流の想像力を見たかったなあ。改めて失ったものの大きさを噛みしめながら最後まで見て拍手。次は「リズと青い鳥」で西屋太志さんのキャラクター、石田奈央美さんの色彩を存分に味わい噛みしめて来よう。

 多分、言い抜けられると考えていたのだろう。実際に「『間欠性爆発性障害(IED)』だ。取るに足りないことに突然怒ったり暴力を振るったりする。ストレスを調節できなかったり自尊感の欠如に苦しめられる社会的弱者で起きやすい。大韓神経精神医学会によると、韓国の成人のうち治療が必要なレベルの高危険群は11%に達する」という記事が、2008年に韓国紙の中央日報に出て自分たちの怒りっぽさについて自省を交えつつ、ナッツ姫等々の権力を嵩に着て怒りまくる者たちへと矛先を向けて批判している。

 韓国の人たち事態が韓国の研究を元に自分たちは怒りっぽいと言っている。エビデンスがあるのだから、それを紹介したところでヘイトにはならない。だから週刊ポストも「10人に1人は治療が必要」(大韓神経精神医学会)といった見出しをわざわざ添えたのだろう。批判を受けて出してきた「怒りを抑えられない『韓国人という病理』記事に関しては、韓国で発表・報道された論文を基にしたものとはいえ、誤解を広めかねず、配慮に欠けておりました。お詫びするとともに、他のご意見と合わせ、真摯に受け止めて参ります」といった釈明にも、そうしたニュアンスが漂っている。

 けれど、そこで「怒りを抑制できない『韓国人という病理』」とやってしまったことが拙かった。怒りを抑制できない人はいてもそれは11%であって全員ではない。つまりは総体としての「韓国人」ではなく、従って「韓国人という病理」ではない。傾向としてはあってもそれを一括りにして「病理」とレッテルを貼ってしまっては、ヘイト表現と見なされても仕方がない。そういったところで慎重さに慎重さを重ねて表現に気を配ろうとしても、すり抜けてしまうくらいに批判をすることを当然と感じている空気が、編集している人たちにはあるし世間にもあったりするのだろう。結果としてこうした事態になってなお、釈明してしまうところに染まってしまった意識が垣間見える。

 ヤバさでいうなら「WILL」の10月号別冊の方がさらにヤバくて「韓国人はなぜウソつきなのか」とか「文在寅に囁かれる『認知症』疑惑」といった特定の民族全体にレッテルを貼るようなヘイト表現があり、個人に対する名誉毀損的な指摘があって訴えられた負けるレベルにありそう。けそどこは「WILL」だしといったニュアンスで受け流されるくらいに、世の中にそうした表現が流布することが半ば公然とされてしまっている。これはとても拙いことなんだけれど、億歩譲ってまあ「WILL」ならとはなっても、小学館となるとそこは児童にも向けて良書を出そうと頑張っている版元であって、にも関わらずヘイト混じりの記事を堂々と載せてしまったところにヤバさがある。自分たちの立ち位置を理解できていないか、できていてもなおこれくらなら大丈夫だろうという意識が漂っているか。そんな感じ。

  公器たるべき新聞社が系列の出版社を通して出しているオピニオン誌がまた「病根は文在寅」といった記事を載せ、一方で公然と権力側でありながら民間の表現に挑みかかった参議院議員を登場させてNHK批判を載せといった具合に歯止めを失い底が抜けていたりする。たとえ経営までもがヤバい状態になっても、ここで止めたらさらに売れなくなってしまうという恐怖心でもあるのか、本気で韓国もNHKも敵だと思っているのか。「反日」などという自分たちがあがめ奉る国体としての「日本」をのみ正当としてそれに反するすべてを「反日」呼ばわりするヤバさもどんどんときわまっている感じ。もう何歩か踏み越えたら新潮45の二の舞になるのかなあ。二の舞だと感じ取る神経があればだけど。どうなんだろう。


【9月1日】 映画の日だけど今日見に行くつもりだった「映画 この素晴らしい世界に祝福を! 紅伝説」は時間ができたので昨日のうちに見てしまって、明日は明日で京都アニメーションを偲ぶ上映の流れで「響け!ユーフォニアム〜届かないメロディー〜」を見なくちゃいけないので、連続して見るのは自重。銀行口座的にはマイナスになっていても、貯金とかできていた以前とは違って使った分をすぐさま稼げる身ではもうないので、ここは我慢しなくちゃいけない。

 一方でしこしこと稼ぐために書いていた原稿は、対象がとてつもなくビッグで何を書けば良いかわからず悶えていたけれど、締め切りということでどうにかこうにかかき揚げ送信。5000字ほど。書きあがったんで前よりは気も楽になったけれど、論旨に無理やり感があるので、これからやり直しとか出るかもしれない。そういうのがあるから原稿仕事ってなかなか慣れない。一方でこれで仕事が途切れてしまうのかもという不安もあって、やっぱり気鬱さが滲むのだった。受けたら受けたでやっぱり書けるんだろうかと悶々とするんだけれど。そういうものなんだなあ、ライターって。

 それでもどうにか仕事は確保できて、月収で15万円くらいなら稼げる状態だけは築けた。それで足りるわけではないので、週末の原稿仕事を足して20万円から25万円くらいにあげたいけれど、そこがやっぱり難しいんだよなあ。もうちょっと頑張ればカロリーの高い原稿仕事を付に10本で30万円とか稼げるようになるんだろうか。なれれば嬉しいんだ得れど、それでもやっぱり足りてはおらず、得られた仕事も1年後3年後5年後10年後にやっぱりあるんだろうかといった不安にも苛まれる。まあ6年後に定年を迎えて同じ境遇になるよりは、早くに手を打てたとここは思うのが良いのかな。残ってたって確実に将来を得られたとは限らない訳だし。自由って案外に不自由だ。

 ささやかな力でもうまく使えば世界征服ができるのか、ってあたりを軸に工夫と想像で本当に世界をとってしまう展開になるかと思ったものの、さすがにそこまでの力はなかった感じ。でも日常に変化はもたらされて個々に心の安寧は得られたとでも言うのだろうか。海老名龍人さんによる「世界は愛を救わない」(講談社ラノベ文庫)に登場する少年少女には“グリッチ”と呼ばれるちょっとした異能が備わっている。石野美香はミントガムを噛みながら手鏡を割ると姿を消せる。阿久津吾郎は手順どおりに指を動かすと差し出した手と誰もが握手をするようになる。

 壇上貫也は誰かが持っている“グリッチ”がどういうものかを見抜く能力。潜入できて握手できて能力者を探せるのなら或いは、と思ったもののガムの味がなくなると姿が見えてしまうから美香は長時間は姿を消せない。握手できたってそれが何かの契約に向かう訳ではない。能力者を探すには相手の名前を知っていてはいけない。制約も多々ある中でそれでも石野美香は能力を使って憧れの先輩のストーカーを続け、貫也は探し出してきた開田環子という少女が持つ能力を利用してあることをしようと考えている。

 その能力こそは本当にいろいろ使えそうだったにもかかわらず、阿久津吾郎も壇上貫也も他者にそれを利用はしない。では誰のため。そこに見え隠れする少年少女が抱える心の問題。思うだけならそれは自由でも行動に移したとき、決して理解されない感情を3人とも抱えていたりして、それをどうにかするために環子の能力が利用されることになった。それはでも正しいことなのか。抱えたままで居続けることはできなかったのか。人はいつ壊れるかもしれない。

 暴走するかもしれないならやはり消すしかなかったのか。それも含めて人間じゃないのか。考えさせられる。世界征服はどうなったんだろう。能力は消えた訳ではないので、再利用の中でプロジェクトは動き出すのかも知れない。そうした異能バトルが求められればだろうけど、今のままの能力をひとつの媒介にして青春のもやもやを浮かび上がらせ、その始末をどうすべきかを問いかける文学だと思ってもこれは良いかも。ライトノベルとしてではなく一般文芸として出して多くに感想を聞いてみたかったかもしれないなあ。こういうのをライトノベルとして出してくる講談社ラノベ文庫の粋さを感じてもなお。

 「キャロル&チューズデイ」の他に見ているアニメがこれくらいしかない「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか2」ではイシュタルファミリアに使ったものの春姫によって救い出されたベルくんがアイシャと対峙。そこでアイシャがイシュタルに何をされたかが明かされたけれど、アニメーションとして動く絵ではなく文庫本の口絵にあったイラストがそのままの構図で使われていたって感じ。2人の胸がぶつかりあってひしゃげていたりして、いやらしいことはいやらしいんだけれど動きとかあればどういうふうにこすれ合っていたかも分かったと思うとやや残念かもしれない。

 まあそこは、イシュタルがベルくんを捕まえて思いっきり魅了しようとするシーンに期待しよう。イラストでもあったけれどそれが動けばきっと……。裏ではベルくんにちょっかい出されてぶち切れたフレイアがファミリアを動かし始めていよいよ戦争が始まりそう。9月いっぱいかけずにあと2話くらいで決着させ、残りで第8巻を描くかどうか。それが終わっても残りをアニメ化してくとなると10年プロジェクトになるかなあ。今やGA文庫の看板。ポリフォニカもニャル子も至れなかった境地になぜダンまちが至れたのか。ちょっと考えてみたくなる。



(ACCESS COUNTER '96.07.20)


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