Last Updated 2019/8/19
日刊リウイチ
TUNAGATTEIRUNOYO
「1998-1999年lain日記」

リウイチとは誰だ?
リウイチとは奴だ!

薄い髪に伸びた髭
趣味はアニメと女子サッカー

日刊リウイチとは
そんな胡乱な野郎の日々を
無限に綴ったページなのだ

ワーニングワーニング

(ホントはただの日記です)

◎積み上げた本の数が這々の体で1800冊に達した『積ん読パラダイス』だけど記念事業もなく、これからも地味に静かに増量方針。ライブドアブログの方で『積ん読パラダイスinBlog』なんてのも作ってみたけど誰が見ているのやら。
落ち行く世界で孤独な少女がロボットと出逢い、つかの間の交流を経てそれぞれの道を選ぶ。切なくも哀しく、そして愛おしい狩野典洋の短編アニメーション『ノアのハコ庭』に全人類よ、涙せよ。
【8月19日】 かろうじて見れているアニメーションから「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか2」をNetflixの配信で見ていよいよ突入したイシュタル編に登場するキツネ娘の春姫の声を、もうちょっと大人びたものだと想像していたら割と子どもっぽくて、清楚な姉系というより不思議な妹系だったのかと今さらながらに理解。まあ男の鎖骨を見て驚いて居ひっくり返って目を回すくらいの初心さなら、そういった声の方が合うかも知れない。

 イシュタルファミリーきっての姐御なアイシャは渡辺明乃さんでこれはピッタリ。そしてイシュタルは本田貴子さんでこれもベスト。怖い怖いアマゾネスによる強くて甘い攻撃にベルくんは耐えられるか? エロティックなシーンも多いのでいろいろと期待しちゃいたい。けどフリュネだけはなあ。イラストだともうちょっとボかして怪物的に描かれていたからそれはそうだと了解できたものが、アニメーションだとしっかりデザインされて現実にいそうでいなさそうな線にまとめられている。これは出会ったら怖いかも。でも実は男を悦ばせることには長けている? 女性は顔じゃないからなあ。でもやっぱりイシュタル様が。魅了されたいされ尽くしたい。

 たぶん1月あたりから気質に乱れが生じて2月あたりは将来への不安と根拠のない期待が交錯してモヤモヤとしていて3月はまだ最後のご奉公と張り詰めていたものに、4月に入ってつなぎ止めていたヒモが切れると浮き上がるどころが逆にどんどんと沈み込んでいって、5月6月はもう真っ暗で泥の中を漂っている感じ。朝に起きることすら苦痛だった状況の中、スタートしていた新番組の「スター☆トゥインクルプリキュア」でプロデューサーに就いた人がかつて「アニメミライ」という若手アニメーター育成プロジェクトで、公式リポーターを務めていた柳川あかりさんだということに最近になってようやく気がついた。

 才女でなおかつミスコンにも出ていたりして、表に立つことが好きそうでこのままマスコミの方面へと向かって伝える仕事を続けるのが当然のように見えた経歴なのに、選んだのはアニメーション制作では最大手の東映アニメーション。以前からアートアニメーションとかインディペンデントアニメーションを世に出したいとう意識を持っていて、それをするにはどこが良いかと考えてインディーズの配給とかをやってる場所ではなく、またそうした作品の情報を伝えるメディアでもなく、商業アニメーションの総本山とも言える東映アニメーションを選んだところが凄いというか、戦略的というか。

 インディペンデントアニメーションはいくら作っても世に問われる機会がまったくなく、頑張ってNHKのEテレで紹介されたりする程度であとはCMとか。それすらも最近は商業系のアニメーションが進出してきてタイアップなんかもガンガンとかかるようになって、個人のクリエイターが手がけるアニメーションが動きの面白さで使われるようなケースが少なくなっている。それを世に出すならやっぱり場が必要だし余裕も必要なら、そうした場を余裕を持って作れる会社にまずは入って居場所を作る。そう考えたんだろう。

 irodoriのたつき監督のように同人誌即売会で自主制作を売り続けて目を掛けられ、商業へと進出しながらインディペンデントの良さを維持しつつ傑作を作る例も出て来たから、状況は改善しているのかもしれない。土居伸彰さんのようにインディペンデントアニメーションを作り配給も手がけて映画祭すら開いてしまった人もいて、少しずつでもフィールドは広がってきているような気がする。大学院でアニメーションを学んだ作家が大勢投入された「ポプテピピック」もあったし。ただ、そうしたインディペンデントなアニメーションが前面に出るかというとなかなか道は険しそう。過去にワーナーが内外の短篇アニメーションを紹介するサイトを作ったけれど、ディストリビューターでは集めて流すのがやっとで、それすらも先細りとなってしまった。

 アカデミー賞にノミネートされた山村浩二さんの新作が間もなく登場するけど、果たしてどういう広がり方をするだろう。アカデミー賞を受賞をしたって加藤久仁生さんが大活躍しているかというとそうでもない。世界中で賞を取りまくっている当麻一茂さんにしばらく未来はありそうだけれど、そこからどうすればブレイクさせられるのか。そこで今はプリキュアで天下を取ってその実力で、埋もれたり足踏みしていたいるするインディペンデントなアニメーションを世に問い面白がらせる、なんてことをしてくれたら喝采を贈りたくなる。そして、作り手はもとよりメディアとしても何もできない自分の身の情けなさに沈むんだ。もう終わったんだと自覚して、過去を切り離せないから今も沈んでいるんだろうなあ、自分。どうしたら良いんだろう。

 興行通信社の週末映画興行ランキングで1位は「ライオンキング」が2位から上がって1位となって、代わって1位だった「劇場版ONE PIECE STAMPEDE」が2位かと思ったら3位まで下がってそこに3位から「天気の子」が浮上した。1度下がればズルズルと落ちるのが日本の映画興行の特徴だけれど、トップ付近で再浮上っていうのはお盆休みに見に行った人が多かったって現れか。「ONE PIECE」だって悪い映画じゃないけれどもやっぱりテレビシリーズの番外編。オリジナルのストーリーを持っている上に世代であったり都市であったりといった現代の問題についていろいろと考えさせてくれるところがある。ちょっと背伸びしたい子どもから今を知りたい大人まで、広い層を巻き込んで盛り上がってきた感じ。ここで口コミのドライブがかかれば1位に返り咲きなんてこともあり得そう。100億円超えは確実だからあとはどこまで迫れるか、だなあ。

 日本じゃそもそもカテゴリーが存在しなさそうで、賞レースとかとは縁遠かった飯田将茂監督のドーム映像作品「HIRUKO」だけれど、海外にはそうした部門があるらしく、アメリカはジョージア州で開催中の映画祭、Macon Film Festivalに出品されてフルドーム部門で「最高賞」を受賞したとか。過去に日本のドーム映像作品が出品されたことがあって、受賞したことがあるのか調べがつかないけれど、今回の受賞は確かな訳でここは心から喜びの言葉を贈りたい。飯田将茂監督おめでとうございます。そして最上和子さん。主演女優! なのかどうなのか。幸いなことに9月にまだ1回、西新井のギャラクシティで上映があるので受賞作としての凱旋をしつつ日本に飯田監督あり、最上和子さんあり、そして「HIRUKO」ありってところを見せて付けてやって下さいな。その上でさらに他のドームでの上映なんかを期待しよう。


【8月18日】 ノベルズといっても新書サイズのものではなく、四六判のソフトカバーでもっぱら小説投稿サイトで連載されたものをまとめて刊行するレーベルから出て来るものが最近はそう呼ばれるようになっていて、例えばカルロ・ゼンさん「幼女戦記」だとか伏瀬さん「転生したらスライムだった件」なんかが人気作に挙げられているけれど、そんな作品に混じって置かれていながら出自はネット小説ではなく、小説現代長編新人賞というあたりが変わっていたりするのが夏原エヰジさんの「Cocoon−修羅の目覚め−」(講談社)という作品だ。

 読んで見たらなるほどこれはノベルズの棚がピッタリに思えるし、文庫で並ぶライトノベルやライト文芸のコーナーに置かれても不思議はないくらい、内容が小説現代的な時代小説とは趣を異にしている。何しろ伝奇ファンタジー。それもバトル系。刀を携え河を流れて来た瑠璃という名の少女は、芝居の一座に拾われ成長したものの、座長が死んで女形の次男が後を継いだ際に追い出されて、吉原にある妓楼へと入れられる。15歳での吉原入りははっきり言って襲いけれどもそれには美貌とは別にいろいろと秘密があったみたい。瑠璃はいきなり妓楼でも最高峰の花魁となってしまう。

 それが鬼退治。江戸の街に現れて人を襲う人が化身した鬼共を相手に、瑠璃は筆頭としてチームを率い刀を振るい膂力も活かし幽霊すら操って鬼を始末していく。そのこととを同じ妓楼の遊女たちの多くは知らないけれど、楼主も新造も遣り手婆も亡八の男たちも知っていて、それで瑠璃を花魁の地位につけて自由に振る舞わせていた。もちろん花魁としても一級であるよう日々に務めていた瑠璃を、その事情も含めて慕う遊女もいたようで、支えられ闘っていった先、瑠璃を悲しい出来事が待ち受ける。それは……。

 そもそもどうして瑠璃には異能があるのか。周囲に集まる妖たちが見えて交流できるのか。そんな謎が出生と関わってくる状況を筋として1本通しつつ、個々に事情を抱え鬼となった者たちの苦渋が描かれていて、いつの世にもある生きづらさを感じさせて胸を痛くする。一方で、花魁でありながら刀を振るって強い鬼を切り伏せていく瑠璃の戦いぶりは映像になればとても華やかでエキサイティングなものになりそう。女の生き様を描くドラマチックな物語と合わさって、奥深い世界を見せてくれそうだ。

 クライマックスでの慟哭の戦いを経て残された者たちによる追善は、そうなったかもしれない自分たちへの慰めなのかもしれない。その場面に苦海に共にある者たちの決意が見えて泣けた。ここをエンディングにしてテレビシリーズなり映画なりになったら大受けしそうあよなあ。企画屋さんは読んですぐさま権利を撮りに行くべき。それにしてもどう読んでもライトノベルに向いた和風の伝奇バトルを小説現代長編新人賞に出した作者も凄ければ、ミスマッチと斬らず奨励賞に選んだ選考も凄い。あるいは時代がそういう小説すら一般の層に届くものにしているのかも。20年25年とそういうラノベが続いていれば、上も当然にそうなるか。

 話し合いがうまくいかなかったのか、表明をした相手を尊重したのあ愛知トリエンナーレ2019で「表現の不自由展・その後」の公開中止を受けた参加アーティストの出展辞退が8月20日から実施に移されるそうで、その中には会場へと上がるフロアの正面い吊り下げられた、ロックTシャツをパッチワークして作った「Telon de Boca」という作品も含まれていて、部屋にピエロが並んだウーゴ・ロンディノーネによる「孤独のボキャブラリー」とともに展覧会のランドマーク的存在になっていただけに、「展示内容の変更」がどういった見た目の変化をもたらすのかが気に掛かる。一方のウーゴ・ロンディノーネが協議中なのは部屋1個まるまる使って看板にもなっているからか。これが消えたら相当な部分が消えてしまった印象を受けるから。

 他にも名前が挙がっているアーティストがいて、新たに変更が決まった8人のうちの6人が女性アーティストというところに今回の事態が海外でどう受け止められているかが推察できる。展示を男女で半々にしようということで実施されたからには何かあっても半々になるかというとそうではにのは、「表現の不自由展・その後」で糾弾された作品に、女性への迫害を指摘するものがあって、それを攻撃することはすなわち、自分たちへの攻撃だと感じたかどうか。個々に聞いてみたいもののそれはかなわないとして、世界がかかる事案をどう見ているかが伺える。

 それに対して国内で相手にも非があり自分たちは悪くないといったニュアンスの主張を売り返し、何かあれば攻撃する人たちがいて、あまつさえ外に出て行って同じ主張をして「恥を知れ」と激怒された過去もある。にも関わらず同じ主張を国内向けに繰り返してしまって世界が相手の展覧会で、改めて世界に知られてしまったということか。そこの誤解を解かないと戻ってきてはくれなさそう。でもそこを誤解と世界で訴えても国内の勢力は違うと言って訴えアピールしてきっと電凸も行うだろう。安全は得られず平穏も戻らない中で再開は得られずそしてアーティストも戻ってこない。これから永久に日本には戻って来ないかもしれない。世界から経済でも技術でも取り残されてアートでも置き去りにされる日本。その行方は? 五輪を前にしてすべてが崩れ去りそうだ。早めに実家に帰って警備でも配送でも仕事を得つつ、日々を静かに生きる算段でもした方が良いかなあ。

 部屋にいたら暑さで斃れるのでさっさと家を出て船橋西図書館へ。月末の原稿への構想を練るふりをしながら涼みつつ、月明けのラノベミステリの紹介原稿に向けた選書を考えるふりをしながら涼みつつ、3時間の制限時間を過ごして河岸を変え、茅場町のベローチェで3時間くらい過ごしてから西新井のプラネタリウムへと行って、原初舞踏家最上和子さんが出演しているドーム映像作品「HIRUKO」を見る。3回目。5月に2回見たけど精神状態がどん底へと向かっていく中での鑑賞だったので、まどろみの中で見た夢のような印象があったのと、あと最上さんの舞踏のスタイルをよく掴んでなかったので身じろぎしないようで動いている原初舞踏の姿を改めてしっかり目に刻む。

 とかいいつつちょっとばかりまぶたが下がったけど、それでも最後の舞踏のシーンでは最上さんがどういった感覚で演じてというか、舞踏をしているかが分かったような気がした。意識してシナリオにそって演技しているのでは決してなく、あの時間に自分の中から出てくる動きへの衝動が、現れたものなんだと自分でやってみて分かった。もちろん最上産は素人じゃないからそれがどういう形になっているかも意識し、演出はしているらしい。その結果としてのあのイメージ。原始的で緊張感があって静寂の中に熱もある。そんな不思議な映像をあと1度、西新井で見られる機会があるので見たい人はみんな行こう。宇野常寛さんがトークをやって枝を重ねるシーンの儀式を説明しているような感じに異論を唱えていた。飯田将茂監督にも言い分はあってその激突が楽しかった。あのシーンは押井守監督もいるかどうかって話してたっけ。僕は流れの中であって良い派。そうした“対決”が今度は最上和子さんとネット番組であるみたいなんで見られたら見よう。


【8月17日】 あいちトリエンナーレ2019が引き起こした問題について、評論家の藤田直哉さんがいろいろと、海外での不自由さをわざと掲げてそうした不自由さをあぶり出すようなアートについて色々と紹介している。人々に気付きを与える方法としてそれは有効に働いているようで、これは拙いといったリアクションを呼んで対抗する力になっているように見えるけれど、それとおなじ事が日本でも起こるかどうかが実はよく分からない。というかむしろ悲観している。

 藤田さんは「ひょっとすると、『不和』や『敵対』を顕在化させ、議論を巻き起こすことで『公共圏』『デモクラシー』を活性化させ、社会を変えることを狙った? と読めば、そのことの力をこそ評価しなければならないのかもしれない」と書いている。それは希望であり理想だけれど、現実の今の日本では、暴れ回ったことで気に入らない表現がひとつ中止へと追い込めたという“成功体験”が顕在化されてしまって、これはちょっと拙いんじゃないかという議論へとは向かわない。

 起こるのは、表現の自由なり気に入らないものを攻撃すれば破壊できるという状況の認知と喧伝であって、そういう手があったと気付いてしまった人たちの共感を誘って同類を呼び集めては拡散されていく。同じ様なことが別の場所でも相次ぐようになってそれに集まる勝算によって承認されたと喜ぶ人たちに、また集まっていく共感の声。以前、弁護士への懲戒請求への呼びかけが、正義と信じた人によって膨大な数へと増えたように、今回の一件もそれが正義と感じた人たちの応援を得て広がっていき、やがて社会的な正当性まで得てしまいそうな気がする。

 そんな莫迦なと言ったところで過去、とんでもない状況が積み重なっていった果てに雁字搦めにされた人たちが、流されるように誘われるよういして破滅に向かったことがある。20年前なら許されなかった言説が称賛を浴びて持ち上げられ、人間としてどうなのと思われた振る舞いが喝采を浴びてそのまま選良として国政の場へと送り込まれてしまう。最初の段階で徹底的に話し合わず糾弾もせず、そうされて当然じゃんといった空気を残してしまった結果が今のこの状況だとしたら、トリエンナーレの件もそうした空気へとなってこの国を包み込むだろう。どうすれば良い? と悩んだところでもはや常識も理性も通じない社会に迫られている。困ったなあ。本当に困った。

 今の自分が置かれた状況は薬を飲んだところで変わらないし、寝たところで夢だからといって醒める訳ではないけれど、それでも寝ていれば考えないで済むからだろうか、映画を見ていても途中で意識がスッと薄れてしまうことが割と増えてきた。精神を落ち着かせる薬が眠気を誘っていることも大きくて、見るのが2度目3度目の映画になると見たからというのを言い訳にして意識を遠のかせてしまう感じで、せっかくdts−xで上映が始まった「ガールズ&パンツァー最終章第2話」をシアタス調布まで見に行ったのに、知波単戦が始まってパンツァーフォーから戦車前身とそれぞれが戦いに向かったところで意識が途切れた。

 足踏み突撃あたりで突っ込まれてかわす所は聞けていたけどそこからあまた途切れて歌うあたりで目が覚めてと斑模様な意識の浮き沈み。大洗女子学園が泥濘地にハマって抜けだし水辺に布陣する所は記憶から飛んでいるものの、その後はトイレが近くなったこともあってずっと起きていられたから、気を失っていたのはトータルで数分といったところか。それすらも耐えられないくらいに精神が弱まっているとなると、やっぱりしばらくはクリニック通いは止められないなあ。

 前にいたところに居続けたら何かできたかもしれない、1年とか2年は暗いところに沈められても、その間は安定した賃金をもらって、そして浮上できたかもしれないていう想像が自分を縛っているとしたら、今いる場所でこれが出来ているってこと、それがしっかりと身についていることを確信する必要がありそう。その自信が持てるのはいったい何時? 半年以内には意識にケリをつけないと、そのまま張りついてしまいそう。だから頑張ろう、ルリルリの見極めを。

 それにしてもマリー様はやっぱり身体能力が高いなあ。クネクネからのジャンプと着地はまだ起きていたのでしっかり見られた。そこを見に行ったといっても過言ではないからまあ、行った意味はあった。サウンドについてはひとりひとりのキャラクターが映っている位置から声が聞こえてくるような感じ。最前列だから後ろ側からどいった感じに響いていたかは分からなかったけど、真ん中あたりで聴いていれば空間の中で前後左右に声がしっかりと分かれて聞こえて来たんじゃなかろーか。

 爆音系になると大きくても個々のセリフが潰れてしまう場合が考えられたりする。これなら声は声として聞かせつつ爆音もしっかり響かせられる。理想の音響。それをあらかじめて作って置いて、「こんなこともあろうかと」上映してのける岩浪和美さんのチームはやっぱり日本の映画を買えようとしている。そこで見る意味を感じさせて映画館へと足を運ばせるという意味で。他も真似すればいいのに。しなくても売れちゃうからしないのかなあ。

 天道あかねという存在についてずっと考えている。いわずとしれた高橋留美子の人気シリーズ「らんま1/2」に登場するヒロインで、主人公の早乙女乱馬と相対する立ち位置いある。かすみ、なびきといった姉がいる天道道場の3人娘の末っ子だけれど、父親から武道の手ほどきを受けたのはあかねひとりで、それだけに自分は強いと思っているし実際、周囲の男子に比べればそれなりの強さは持っていそう。女の子が相手ならなおのこと、近所では敵なしといった立場にあっただろう。だからといって奢らず誇らず大好きな接骨医の先生の前では乙女らしいところを見せている。

 そんなあかねでも格闘技を極めた早乙女乱馬やその父親や、続々と現れる響良牙や久能帯刀といった男たちに限らず久遠寺右京でありシャンプーといった異能のキャラクターに力で及ばないところを見せてもらう。変態過ぎる周囲にくらべてあまりに普通のちょっとだけ武道の嗜みをもった女の子。その立ち位置が「らんま1/2」というロングストーリーを持って起伏にも富んだ漫画の中で、もしかしたらとてつもなく重要なのではないかと呼んでいるうちに思えてきた。核というか。へそというか。その属性でありその設定でありその性格でありその言動が少しでもズレていたら、「らんま1/2」という漫画は成立しなかったのではないか、なんてことも考えてしまっている。

 「うる星やつら」のラムではそんな立ち位置にはならない。宇宙人で鬼で電撃を放って焼き餅焼きでダーリンを相手にいろいろと仕掛けてみせるし強さもダーリンを上回る。天道あかねとはまったく違う。「めぞん一刻」の音無響子も五代裕作より年上で未亡人という社会経験で主人公を上回る強さと濃さを持つ。ごくごく普通の女子で強くなくって異能もない。そんなヒロインだからこそ強くありたいと願いそうすることでいっしょに場所に立ちたいと願って行動が前向きになる。それを見てらんまも良牙も久能も動いて物語が進んでいく。

 何とも絶妙な立ち位置にあるヒロイン像。「犬夜叉」の日暮かごめはもちょっと強いし出自に運命めいたものがある。「境界のRINNE」の真宮桜はヒロインだけれど六道りんねの行動を見守るというか支えるというか巻き込まれても動じないでそのままりんねといっしょに時間を過ごしていく感じ。恋心といったものを明らかに見せるのは終盤で、あまりヒロインらしさといったものを感じさせない。そんな数ある高橋留美子ヒロインズにあってやっぱり天道あかねは特別なのかもしれない。とはいえ女性化したらんまから放たれる強烈なヒロイン的オーラもあって、怒りと意思を持たざるを得なかったのかもしれない。カップルではなく三角関係のヒロインということがあるいは、特別製の理由になっているのだとしたらそれをこの1週間くらい、考えて解き明かしたいけど頭がうまく働くかなあ。暑すぎるんだ今。


【8月16日】 そして気がついたら初月給めいたものが出ていた感じ。といっても社員でも契約でもなく業務委託なんで、月給というよりは月極の報酬で額も新人サラリーマンの初任給にきっと及んでない。同じ期間を何もしないで就職活動だけしていたら、失業保険でもっともらえたけれどもそんな何もしていない時間を過ごしていたら、きっと精神が保たなかっただろうしスキルも何も身につかなかったから、たとえ失業保険より少なくても何かをしにどこかへと向かう道を選んだことは間違っていないと確信している。

 それでも抜けない気鬱さがあるとしたら、たとえば選んだ道を1年くらい進んだところで次に繋がる何かが得られるかどうかがまだ見えていないってことで、伝手が生まれるかスキルが溜まるかどちらかなり両方なりが得られれば良いんだけれど、まだ始めたばかりの業務でそこまで深い考察が生まれて来ない。ライター業のように頼まれて書く繰り返しをしているのなら、依頼してくれる先があるかどうかが重要で、やっていくうちに広がりも期待できない訳ではないけれど、今の仕事がそんな感じに次もまた次も続いてくれるか分からない。

 だったら伝手でもって別の方面に行こうにも、その道筋がまだ見えない。なんてことを始めて1カ月半しか経っていない段階で考えてしまうところに、焦りって奴があるんだと多くの人から言われるし、自分でもそう思っていたりする。こればっかりは性分なんですぐには引っ込まないけれど、とりあえず労働に対する対価としての報酬を得たことで足下だけは固まった。足りるかどうかでは足りてないけど新人アニメーターよりはもらっていると思えば気分も休まるし、失業保険の残り分の幾ばくかがお祝い金として入ったのでそれで半年は保ちそう。そう思い焦りを押さえて気鬱さを沈めて今はとにかく1歩1歩、進んでいくしかないんだろうなあ。その前に月末締め切りの原稿をどうにかしないと。気鬱さの8割は原稿が書けるかどうかって不安だったりするみたいだし。

 やっぱり間抜けとしか言い様がない東京オリンピックという取り組み。お台場でのトライアスロンが酷い水質の中でやらされて大変そうだったりして、暑さ以外の環境とも向き合わなくちゃいけない選手に同情したくなっているのは既に出ている話。そして今またボランティアに対して凄まじい対応がとられそうで、実行されたらどれだけの人が倒れるかって今から不安になってくる。暑さ対策で早朝から始まる競技がトライアスロンに限らずいろいろあるけれど、その対応にあたるボランティアが早朝に始発で現場に向かっては間に合わないこともあるという。

 だったらと深夜に終電で集合するよう求めていこうとしている運営側。そこで仮眠でもとってもらって元気に朝から働いて、ってなるかと思ったら終電で出勤したらそのまま朝まで待機だってことになっているらしい。つまりは徹夜。なおかつそうして集まったボランティアに対して「交流機会や士気を高めるような取り組みを検討していく」ことになったという。もうアホかと。ポン酢かと。選手のように鍛えられてもいない体で夜通し交流と研鑽を積んで送り出されたら、どんどんと暑くなる東京の気候の中で倒れる人がきっと続出するだろう。中には斃れる人だって出そう。

 選手は数時間の競技で会場を後に出来てもボランティアは事前と事後に仕事がある。12時間は起きっぱなしでいたりするかもしれない。終電で来る前にたっぷりと寝ましょうってお達しが出るかもしれないけれど、それで生活のリズムが崩れてしまうこともある。他のボランティアがあって夜まで寝ていられないことだってあるかもしれない。そういった懸念がいくらでも浮かんでくるにもかかわらず、一致団結で苦難を乗り切ろうって感覚に凝り固まっているところが恐ろしい。先の大戦も精神論で乗り切ろうとして乗り切れず大量の死者を出した訳で、その反省がまるで生きてないこの国に、未来はあるのかそれとも。せめて冷夏になってくれることを祈りたい。あるいは五輪期間中は交通機関が夜通し動くようになることを。

 津田大介さんがが芸術監督を務めているあいちトリエンナーレ2019の問題について何か文章を出していて、読んだらやっぱり相当に事前にリアクションについて準備はしていたことが分かった。電話の回線を増やしたり警備をしっかりしたり。でもそれを上回って抗議が寄せられてしまったことで、安全性が確保できずスタッフも対応が仕切れないことから公開中止を余儀なくされた。つまりはやっぱり警備上の問題であって、なおかつひとりが逮捕されたところで何百件もの抗議があって、それが爆発する可能性があるならやっぱりすぐには再開は難しい。そんな理解ができた。

 表現として不適切だから公開はしない、なんてことがあったらそれこそ表現の自由に関わってくるからそこはやっぱり避けて欲しいと思っていた。対応として表現の自由には最大限に配慮をし、企画展を主導する人たちの思惑もちゃんと受け入れた。ちょっと受け入れ過ぎなところもあって、会田誠さんの檄文をどうして排除したのか分からないし、それをゴリ押ししてでも入れようとしなかったのかがフシギだけれど、そこを説得できないからといって止めてしまってはやっぱり意味がないから、そこは引いたというのも納得するしかなさそう。

 つまりはやっぱり警備上の問題であって、表現の自由を守るにはそこの解決が必要だということを、内外にアピールするのが今、一番に求められていることかもしれない。県民の気持ちを傷つけたから企画そのものが悪かった、なんてアドバイザーの東浩紀さんの意見にこの場合は与しない。あとはだからどこまでの厳重に厳密に警備がなされて公開されればベターなんだけれど、そこにかかるコストとか考えるとやっぱり無理かもしれない。そういう説明をだから早くに世界に向けて発信し、あいちトリエンナーレは他にも見どころがたくさんあると言って欲しい。それが愛知県民への責任なんじゃないかなあ。

 逆に分厚すぎて目から外れてしまっていたかもしれない南海遊さんという人の「傭兵と小説家」(星海社FICTIONS)。とてつもなく分厚くてそれこと1冊でも分厚いラグビー宇宙人バトル「花園」の上下巻を足したくらいになりながらも、たったの900円というお値打ち価格なのはすでにネットのサイトで読めたりするからなんだろうか。それとも売りたいからなんだろうか。店頭に積み上げても他が10冊つめるとことを3冊だったり、5冊させるところに1冊しかさせなかったりで効率も悪いから店頭で見かける機会が足りず今日まで気付かなかった。気付いてもSF枠はいっぱいだったからなあ。まあ読んでミステリ枠でいれるかどうか考えよう。読めればだけれど。


【8月15日】 もしかしたら今までて1番面白くって、そしてアーティストの神髄が見られたかもしれない「キャロル&チューズデイ」。使っていたAIが悪さをして人気DJのアーティガンの金を全部持ち逃げをして呆然とするアーティガン。ロディが駆けつけ誘って音楽を取り戻せと背中を押し、キャロルたちが使っているキーボードで作曲をさせることによって出来た曲を、アンジェラのプロデュースをしているタオのところに行って聞かせたら食いついた。

 ボイスパーカッションでチュクチュクドンドンと唸ってただけのあの音楽のどこにタオを引きつける要素が? きっと分かる何かがあったんだろうってことで、そこがやっぱり音楽で生きる者たちの共通言語ってことなのかも。近くで聞いてて何が何だかさっぱり分からなさそうにしているアンジェラの表情とか態度が面白くって楽しめたけれど、一方ではアンジェラを付け狙うストーカーがいて、アンジェラにちょっかいを出していたAI起業家に遂に攻撃をしかけてのけた。次はアンジェラに迫るのか。火星の代表を決める選挙の行方は。混沌としてきた展開の中、まずはアルバムを作って人気となってその先で音楽によって火星を救い、宇宙を救うような展開があると信じよう。奇跡の7分間。いったい何を見せて(聴かせて)くれるんだろう。

 N国党がマツコ・デラックスさんへと街宣をかけて一騒動となった延長で、出演していた「5時に夢中!」のスポンサーらしいシウマイの崎陽軒を自分はもう買わないとYouTubeでアピールしたとかどうとか。受けて自分は崎陽軒を応援するぜといった声がわき起こって頼もしい限りではあるけれど、今の状況にちょっと不思議な政治家にイジられたので、みんなで支えようぜという意識で連帯している感じがあって、この先どうなっていくかで将来が左右されそうな気がして不安が募る。

 政治権力による私人あり私企業への抑圧的な言動だといった認識が先に立たず、フシギな人がイジって来たんでイジり返そうぜってなって、そしたらまた別のイジりが始まってそれにもイジり返すといったネタの連鎖になった先、それが日常の光景にハマってしまって面白がられていった果てに、一線を超えて弱者への弾圧めいたことになってもそれもまた日常の延長として消費され、気がついたら酷いことになっていたりしないかが心配でならない。

 1980年代後半から90年代にかけてまだ色濃く漂っていた、アサヒ的で教条的な左寄りの論調に情で挑んでモヤモヤしていた人たちの琴線を揺らし、愛国的な意識を浸透させていって中道あたりに戻したまではまずまずだったけれど、やがて排外主義的で攻撃性を帯びた言説も繰り出されるようになり、いつしか”反日”などというタームが新聞紙面を堂々と飾るよようになったこの20年くらいを見るにつけ、今回の一件をどこか面白がっているような空気感が漂っているのはやっぱり拙い。

 マツコ・デラックスさんという人気者で才人だけれどやっぱりサブカルチャー的な立ち位置にある人に攻撃をしかけて、大勢は反発しつつもどこかにマツコ・デラックスさんだからなあといった意識が漂ってはいないだろうか。崎陽軒という老舗で親しまれているお店ではあっても、ポップさを持ったアイコンとして機能してしまってはいないか。そうしたイジりイジられイジり返していくネタ感の枠から抜け出せないか、あるいはネタ感の中だけで消費されててしまいそうな雰囲気がある。問題はそこではないのに関わらず。

 国会議員という凄まじいばかりの権力を持った人が、批判を浴びせられたといはいえ私人に過ぎない人間を激しく攻撃し、その出演番組のスポンサーであるだけで、自分は拒絶するといった態度を見せることで結果として同調者を誘いプレッシャーをかける。それは業務にたいする妨害にも等しい行為であって、法的にリアルでシリアスな対応をした方が後に引かない気がする。支援する人もそれを野暮とは言わないで行方を真面目に見守る。そうすることでネタがマジになって妙な排外意識が蔓延ってしまった今へと至らないようにしなくちゃいけない気がしてるけど、訴訟ですら歯止めにならず断罪もされないまま、同じことを続けて親派を増やして大きくなっていく時代だからなあ。政治も。メディアも。何もかも。やれやれだ。

 抑圧への抗議も混じっていた行為を束ねて「反日展」と括ってそれを平気で紙面の載せては、開催に反対する意見ばかりを集めて束ねて紹介して、中止を批判する声をいっさい拾わないという言論がまかり通っていることは問題として、そうした紙面に掲載された意見が少なからずあいちトリエンナーレ2019の監督アドバイザーを務める東浩紀さんが言い始めたことに重なっていて、言論の自由の前に国民の感情というものがあって、その国民がどこまでの誰なのかは吟味せず峻別しないで使われてしまっても構わず全体の意見となって批判へと向かう状況を、是認してしまっているようで気持が乱れる。

 県民の気持ちって言うけど僕だって本籍は愛知県民で、けれどもそうした批判から中止を求める声には与してないし、他の大勢も同様だろう。一部の言いたいことがある人だけが言い、そrがメジャーな意見として受け止められてしまって良いのか、なんて思うけれどもそれを認めて謝らないと他の作家も続々と引くと言っている。でも他の作家は中止になって公開され続けないことを問題視して安全を確保し公開を続けることができれば戻って来ると言っている感じ。そうした作家の意見は気にせず強くて激しい批判をのみ、正当としてしまうなんて“らしく”ないけどそれが今の“らしさ”なのかも。ピエロが並んだあの部屋が閉鎖されたら寂しくなるなあ、あいちトリエンナーレ2019。喧噪の果てに歯が抜けたようになった会場をまた、見に帰省するかどうするか。

 1982年に公開された大林宣彦監督の映画「転校生」で斉藤一美になった斉藤一夫が胸をまさぐり股間に手を伸ばしてついていたり、いなかったりするのを確かめたんだっけどうだったっけ。入れ替わった男女というか女の子になった男の子だったら必ずやる行為として、新海誠監督の「君の名は。」にも取り入れられては三葉に入り込んだ滝は必ずその時の自分の胸を揉んでは寒色を確かめ、妹の四葉に気味悪がられている。だったら滝に入った三葉はというと、直接的な描写こそないもののトイレに行って小用を足す、というハードルを越えさせる描写をちゃんと入れて、自分自身を確かめさせている。こすったかどうかは知らない。

 そうした描写が半ば定番となっている入れ替わりにあって、入れ替わり物が隆盛となった今を形作ったと言える高橋留美子の「らんま1/2」で不思議なことに早乙女乱馬は女体となった瞬間に自分の胸を見ただけで、揉んでもいないし股間に手を触れてもいない。娘溺泉に落ちて変身してしまった一瞬だけを驚きながらも、そこにセクシャルな好奇心だとか戸惑いだとか脱落感といったものをまったく添えなかったのはなぜなのか。あるいはそうした描写を入れなかったにもかかわらず、女体への好奇心めいたものを「らんま1/2」が誘って定番へと上り詰めながらも他の作品で未だ定番の胸を揉み、股間に触れてあまつさえ入れたりこすったりする描写が絶えないどころかジャンルとして確立し、広がっているのはなぜなのか。考えても分からないけど考えなくちゃいけないので週末あたりに考えよう。


【8月14日】 新紀元社から創刊のこれはライトノベルなのだろうか、キャラノベなのだろうかキャラ文芸なのだろうか、分からないけどとりあえず一般文芸が取りあげそうもないのでライトノベルとして取りあげることになりそうなポルタ文庫より、まずは霜月りつさん「託児処の巫師さま」を読む。後宮ならぬ奥宮で起こる怪異を巫師と呼ばれる一種の陰陽師が解決するという中華風あやかしミステリー。皇帝の住居で巫師をしていたくらい優秀だったものの、なぜか辞めて今は託児処を営む美貌の昴に解決の依頼が来るも。

 その仕事場書は奥宮。すなわち男子禁制ということで、託児処の経営のためにお金を稼がなくてはならない昴は受け入れ女装して、奥宮を警護する花練兵の兵長・翠珠に連れられ奥宮に入り込んでは現れるぶよぶよとした青い何かの正体を突き止めようとする。それは……といった展開には、事前に起こっていたいろろな現象と、関係していそうな意人たちの言動、そして現れたものの見た目などから“正体”を推理していくミステリ的な味わいを堪能できる。

 ひとまず解決してその後も、たびたび起こる奥宮での怪異を潜入せず女装もせずに解決していく昴。背は高いけど似合う女装をもっと見たかったなあと思っていたら、昴と因縁があった皇子に頼み事をする必要ができて、再度の女装をさせられたりするからこれは楽しい。イラストがないのが残念至極。普段は兵士の恰好をしている翠珠もどんな風になっていたか見たかったなあ。ってことでコミカライズを希望。物語はそこで暴かれた事件の余波が今後も奥宮に昴を呼びそう。つまりはシリーズ化。アラサーの女性武人が皇后になって後宮とか宮廷の争い事に巻き込まれたり闘ったりする「紅霞後宮物語」とは少し違った堅物だけどまだ若い女性兵長と美貌で凄腕ながら訳ありで託児処を営む昴と軽薄な皇子の活躍を、きっと読ませてくれるだろう。

 体が次第に硬化していき、死ぬと金塊になる不治の病に冒されている女子大生と、彼女の死体の相続人に選ばれた中学生の少年との交流を描き、純粋なはずの離別の悲しみに莫大な遺産という“毒”がどう作用するかを見せた「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」(メディアワークス文庫)に続けて、新紀元社から創刊された新レーベルのポルタ文庫から「死体埋め部の悔恨と青春」を発表した斜線堂有紀さん。大学に入った祝部という男子学生が夜に何者かに襲われもみ合っているうちに相手が死亡。そこに現れた織賀という大学の先輩らしい男が助けてやると言い、死体を乗っていたジャガーのトランクに積み込む。祝部がジャガーに乗ると、そこにはすでに女性の死体があった。

 死体を埋めるのが織賀の仕事。そして祝部にどうして死体の左手の指が全部折れているのかを訪ねる。推理して答える祝部に織賀が告げる「承認」の言葉。以後、辞書を大量に持って死んだ女や、スクール水着姿で指されて死んだ女の死体を運びながら、どういう状況で殺されたのかを祝部が推理していく。事件の真相には迫っても、事件は摘発されず手を下した祝部も罪に問われない。それどころか二人はこれを部活動のようしてこなす。寂しい暮らしを埋める猟奇と狂気。行き着いた先で祝部が気付いた真実は果たして死体埋め部をどう変える? 完結したように見えて意外としぶとく続いていくのかもしれない。

 これはどうだろう、あいちトリエンナーレ2019のアドバイザーを辞任したらしい東浩紀さんがツイッターとかでいろいろと語っているけれど、それがちょっと方向性として合っているのか判断に迷う。たとえばいろいろと言われた慰安婦蔵とも呼ばれる少女像について、「『慰安婦像については、政治家やメディア(海外含む)に政治的に利用されてしまいました。天皇作品については、過激な表現が多くの市民にショックを与えました」と語っているけれど、すでに政治的に利用されたが故に展示が不自由となった作品を集めてどうして不自由とされたのかを示すのが目的の展示会だった訳で、改めて作品を示してああこりゃ不自由で当然と思うのもあり、どうして不自由なんだと驚くのもありといった”議論のぶつかり合い”を作り出そうとしていたのに、過去の不自由にされた理由ばかりを改めて持ち出してやっぱり不自由なものなんだよと指摘するのはどこか周回遅れな気がする。

 「ぼくの観察するかぎり、今回『表現の不自由展』が展示中止に追い込まれた中心的な理由は、政治家による圧力や一部テロリストによる脅迫にあるのではなく(それもたしかに存在しましたが)、天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声にあります。津田さんはここに真摯に向かい合っていません」。そう芸術監督の津田大介さんに対して言葉を向けているけれど、東さんには一般市民による広範な抗議とやらが、本当にマジョリティなものだという確信でもあるのだろうか。愛知県民ってそんな風だと思われるのはちょっと心外だし、仮にそれなりにマジョリティであったとしても、そこに挑むのも表現な訳であって、抗議されて引っ込めて良い物ではない。

 「それら抗議は検閲とはとりあえずべつの問題です。日本人は天皇を用いた表現にセンシティブすぎる、それはダメだと『議論』することはできますが、トリエンナーレはその日本人の税金で運営され、彼らを主要な対象としたお祭りでもあります。芸術監督として顧客の感情に配慮するのは当然の義務です」。いやいや、税金を払っているのは日本人”だけ”ではないし、あいちトリエンナーレは”日本人だけ”を対象にしたお祭りではない。地元の愛知県なり主催国の日本なりを喜ばせることが目的だなんてことは、主催している側も思ってなんじゃないのかなあ。思っていたとしても、そういったスポンサーと観客に顔を向けろと言うのは違う気がする。というか違うと言って欲しかった。

 でも、地元は嫌がっているといった認識から配慮を求める東さん。本籍が愛知県民としてこれはどうにも面はゆい。「津田監督は、早急に、表現の自由は守る、『だからこそ』の展示中止であり再設定なのだという論理をつくり、作家を説得しなければなりません」。ううん、政治的外交的納税者開催地域のお気持ち的に問題がある作品には、表現の自由は認められないけれど他なら自由は守りますと言えと言われて、そんな恥ずかしいことは津田大介さんだって言えないよなあ。さすがに。情としては分からなくはないけれど、理としてやっぱり奇妙すぎる意見。それが平気でするりと出てくるようになってしまった。あずまん。あああずまん。いったいどこへ行こうとしている?

 トライアスロンの会場となる海がトイレのようだと言われてしまう五輪だけれど、水質は浄化でどうにかなってもこの暑さだけはどうしようもない。時間を繰り上げたってそんなに変わらない暑さをどうにかするにはそれこそ晴女ならなぬ冷夏女でも呼ぶしかないんだけれどそんな天気の子はいない。ならばあとは根性だってことでアサガオの鉢植えを並べて涼しい気になってもらったと、組織委員会の偉い人が喋っているのを聞いてこの国はあの大戦から何も学ばなかったんだなあとあきれかえる。いっそだったら本番では、円山応挙や伊藤晴雨、上村松園らが描いた幽霊画でも飾ったらどうだ。その方が視覚的にもゾクッとくるから。外国人にだって通じる怖さだと思うし、そうでなくても文化を伝えられるから良いんじゃないかな。かな?


【8月13日】 午前7時のスタートですら水温が危険といわれる31度にジリジリと近づいていたそうで、なおかつ水質は汚染こそされてはいないものの悪臭がして泳いでいる人たちにとっては相当な苦痛だったみたい。さすがに1年後の本番となればそうした水質面は事前の準備とかで軽減はされると思いたいけど、雨でも続いて流れ込む河川の水が増えればやっぱりいろいろと水質にも影響が出そう。気温についても今年より涼しくなるとは限らず、むしろ暑くなったら午前7時のスタートですら早めなくてはいけなくなるかもしれない。

 そした一時が万事に及びそうなのが2020年の東京オリンピックな訳で、暑さ対策から大勢集まる人の誘導まで、いったいどうなってしまうのか今からだとまるで想像ができない。人の誘導に対して手慣れたところもありまたシミュレーションだってやるだおるコミックマーケットですら、新しい事態に対して対応しきれず少しばかりの混乱を起こしてしまった。すぐに修正してくるところが柔軟性と経験を持った組織らしいけれど、そうした柔軟性を警備だとか面子だとかいった理由から発揮しづらい公的で巨大な組織が果たして、2020年の毎日を乗り切れるのか、なんて心配をしてもきっとそのままオリンピックは開催され、問題があってもなおざりにされて終幕を迎えるんだろう。やれやれ。

 一田和樹さんの「大正地獄浪漫3」(星海社FICTIONS)が出たので早速読む。人形女給兵団がいろいろ大変なことになっているけど、もしかしたらこれは全部の隊の隊長を鬼の家系の者へとすげ替えようとする片目の企みのうちなのかもと思えてしまう。そうでなくても一番隊の本条真白を襲った悲劇とか、敵となってる本屋をあぶり出しては弱体化させるための捨て石な感じすらあるし四番隊隊長の山城京香も結果として蓬莱霞を助け出すことはできないままある種の無駄死にをしてしまった。数もぐっと減ってしまったけれど良家の子女で強い人たちはいなくなって血筋として強靱な鬼の者ばかりが残ったとしたら片目はそれで何を狙う? 完結となる第4巻が今から楽しみ。

 結局、名古屋へと帰省していた5日間のうち、移動日ではなく全日を実家で過ごした3日間で出かけたのは「あいちトリエンナーレ2019」と映画「ONE PIECE STAMPEDE」を見に行った時くらい。あとはエアコンを効かせた部屋にこもってベッドに寝転がりながら悶々としてた。平成から令和になった大型連休の時とかも、同様に実家に居て鬱鬱としながらどこにも出かけなかった。その時にどうにかしてくれると期待をしていたキャリア支援サービスが、通い始めたらまるで役立たずだと分かって絶望から起き上がることすら難しくなり、早くクリニックに行って診断してもらわないとうつ病にでもなりかねないと思ってネットから近所にクリニックを検索して予約を入れた。あの頃は酷かったなあ。

 誘われて諸評価の細谷さんの家に行ったときも気鬱が激しく、将来への不安ばかりを国にしていたような気がする。今はその時ほどに酷くはないけど、毎日が自由なんだだと楽しむ気分より、将来を悲観する気分が勝ってしまう気分は消えていない。30年くらい積み上げて来た自意識という奴を、真っ向否定され木っ端微塵にされた衝撃は数カ月では収まらないものらしい。なので実家に帰っても、去年のように大垣へと足を運んで「映画 聲の形」の聖地を巡礼することはなく、京都へと足を伸ばして京都アニメーションを訪れ献花することもせず、見残していたあいちトリエンナーレ2019の名古屋市美術館と豊田市美術館を確認にいくこともしなかった。

 前々回の「あいちトリエンナーレ」では岡崎の会場も見たし、名古屋もあちらこちらを見て回った。その時と比べると、何でも見てやろうといった気力がグッと萎えてしまっている感じ。お金がもったいないというよりは、見ていったいどうなるのといった気分が先に立って動き出せない。前だって観たからどうだったってことでもなかったけれど、メディア企業に所属していると、将来もしかしたら情報として使う時が来るかもといった期待なりを行動力に変えられた。そうした個人としての勉強を会社が評価してくれればって淡い期待もあったけれど、どれだけ月刊誌にレビュー連載を持とうと、批評誌に何度も評論を発表しようと、10冊近く文庫の解説を手がけようと文化的な活動ができる記者だといった評価は得られず、文化部めいた場所で定年までだらだら過ごすという道は得られなかった。

 だったら外で何かキャリアを築けるかといった期待を、今は抱くより他に道はないんだけれど、そこへとたどり着くまでの道筋がまだぬかるんでいて足を取られている恰好。メディアに所属していることを理由にした自己顕示欲なり自己承認欲求をエネルギーにして活動するという意識もまだぬぐえない。これだけは早く止めないと、どこにも行けなくなるし何も見られなくなってしまう。本だって読めなくなっているしなあ。それでもまだ、何か読んで書いて欲しいと行ってくれている媒体がある分、幸せなのかもしれない。それこそ世界で唯一のジャンル的書き手とも言える訳だし。

 それだけの“実績”を持ちながらも不安に苛まれている状態に対して、元同僚からは焦りすぎなんだと言われるし、早くからフリーで活動している人にも気楽にやれば良いと諭される。まったくもってその通り。多くの人から助力は惜しまないと言われてこんなに嬉しいことなく、その中から得られた職場に今は平日のほとんどを通って、意義のある仕事をしていたりする。稼げはしないけれども食うには困らない蓄えはちゃんとある。それなのに気持がなかなかラクにならないのは、そういう性分だからとしか言い様がない。今やってる仕事の意義が、いつか自己顕示欲なり承認欲求なりを超えて自己満足に至れば、気分もラクになれるだろうと思いたい。

 3週目に入った新海誠監督「天気の子」は興行通信社の週末興行ランキングで3位に下がって2位に「ライオンキング」が入り1位には堂々の「ONE PIECE STAMPEDE」が輝いた。勢いのある映画で何度か見たいと思わせるシーンもあるし展開もあるからさらに伸びそうだけれど、「天気の子」もこれから本番のお盆休みとか夏休みの駆け込みとかでグッと行きそう。何しろ前作「君の名は。」は夏休みも終わりの8月26日公開で歴代2位となる200億円近くまで行った訳で、それより1カ月早く始まって夏休みをまるまる使える「天気の子」がその半分に届かないってことは気分的にあり得ない。すでに80億円くらい行っているから、100億円超えは確かだろうけどそこからどこまで前作に近づけるか。超えるのは難しいとしてそこが次に何を作らせてもらえるかの鍵になりそう。自由な新海誠を僕は観たいのだから。


【8月12日】 せっかく大画面のテレビがある自宅に戻っているのだからと、アパートから持ちこんだ、Amazonだととんでもない値段になっている、昨年末に横須賀の「響け!ユーフォニアム」に関連した演奏会で買った台本付数量限定版の「リズと青い鳥」をPS3で再生しつつオーディオコメンタリーを聞く。キャラクターデザインも手がけた総作画監督西屋太志さんと、色彩設計の石田奈央美さんが参加しているコメンタリーもあっていろいろと偲ばれる。お二方とも京都アニメーションを襲った放火事件によって亡くなられてしまった。映画のビジュアルを司ったお二方に改めて追悼の意を。

 そんなオーディオコメンタリーで、ラストに近い、覚醒したみぞれにショックを受けた希美が逃げ込んだ生物教室のシーンは最初のカットの寒色からだんだんと暖色にしているんだと美術監督の方によって話されていてちょっと驚く。気がつかなかったよ。美術自体も4段階くらいに塗り分けられているそうで、比べると最初のカットと最後のカットで明らかに色が違うらしい。でも見ていてまるで気付かなかった。童話「リズと青い鳥」を再現したパートなんかでは、枠線を途中でかすれさせて一昔前の、セルに動画から枠線を転写していた時代の雰囲気を残して差異を何となく感じさせたとか。そうやって気付かれないところにいろいろと仕込んでいることが分かって、1本の映画に込めた作為の凄さに改めて感じ入った。

 音響でも、大学進学に向けて勉強を始めた希美と、音大受験に向けてオーボエを続けるみぞれが図書室と音楽室に分かれている場面で、パーカッションの音を響かせることでみぞれはオーボエ、希美は吹いてないけどフルートを組み立てているような音を感じさせたとか。それによって2人は場所こと離れていても繋がっている感を出そうとしたらしい。これも見ていた時にはそうだと気付かなかった部分。聞いてもどこまで意味があるんだろうか、即理解はできなかったけれど、何か伝わる部分があるんだろう。

 決してあからさまでないそうした音や色味の演出が、目や耳から入って感情に作用して映画を見ている人の気持を動かす。動きとかセリフだけではない部分へのこだわりを、もっともっと研究すべき映画なのかもしれないけれど、もはや語ってもらえる人の幾人かがいなくなていることにしばし呆然とする。そういう意味ではやり時々のオーラルヒストリーは野推しておかなくちゃいけないと思った。最後のシーンをどうするか、絵コンテを描きながら山田尚子監督は総作画監督でキャラクターデザインの西屋さんの反応を伺い了解を得つつ描いたそうだから、西屋さんの映画へのの影響はビジュアルに留まらず大きものがありそう。それだけに……。次また劇場で上映されることがあったら、絶対に見に行っていろいろ耳そばだて目を凝らして凄さに近づこう。

 一時は15万人も並んでいたラグビーのワールドカップ日本大会のチケット販売サイトだけれど、だんだんと少なくなってすぐにでもアクセスはできるようになって、ニュージーランドかオーストラリアのチケットでもとれればと横浜国際競技場とか東京スタジアムでのそうした国の試合で余っているところを探し、チェックをいれても反応がないのはリアルタイムで在庫が集計されておらず、カートに誰か入れてもそれがまだ在庫として残ってしまっているからなんだろう。とはいえ、同じ様な状態だった3位決定戦のチケットが、別のタイミングでは出てきてとれたこともあるから、待てば現れるかもと何度かトライするもののそこはオールブラックスにワラビーズ、カートに放り込まれ続けたみたいで最後までとれなかった。

 あとで見返してオーストラリアの試合は、最上和子さんが祖師谷で開く久々というソロ公演と重なっていたんで、無理してとっても行けなかった可能性があるからとれずに良かったんだけれど、ニュージーランドはせっかくくるなら1度くらいはちょっと見て起きたかったかも。これで月給が50万円もあればえいやっと3万円とか5万円のチケットを買ったかもしれないけれど、今は新人アニメーターが3年目か4年目で稼げるくらいの月収を得るのがやっと。仮に失業保険をもらっていたままでも8800円で28日分とかで24万円では流石に3万5万といったチケット代は払えないので行かなかっただろう。なので1万円で抑えた3位決定戦がニュージーランドとオーストラリアになるのをちょっと期待だ。決してならないって訳ではないから。そうでなくても前回だったらアルゼンチンと南アフリカ。最高峰だね。

 カリスマ・アニメーターって行ってしまうと何かどこかエキセントリックなところがあるおうに思われてしまうけれど、絵柄の正確さと端正さが多くのアニメーターの手本になっているという意味合いでのカリスマな訳で、ご本人はいたって生真面目そうで実直そうに見える井上俊之さんが、割とキツい口調でもっても昨今、SNSを騒がせた人気キャラクターデザイナーでイラストレーターで漫画家でもあるクリエイターの言動を批判している。それが単純に言葉遣いの酷さによるものか、そんな言葉遣いの影にありそうなどこか見下して虐げるような気持への反発かは分からないけれど、トップクリエイターでなおかつ同じ作品にも関わっている2人の対立が、来年にも完成の映画に影響を及ぼさなければ幸いと今は願うばかり。

 少しだけ考えるならとある像に対して「キッタネー」という言葉を使ったその意味が、純粋に造形的に美しくはなくって美意識に反したもので、たとえそれがアート作品であったとしても美しくないものをキッタネーと指摘して何がいけないと言われてしまえば、イラストレーターでキャラクターデザイナーの仕事の範囲ならそうも言えただろうとは思う。ただ、それはアートであってモデルとなった事件もあって、なおかつ使われている状況の背後には歴史的な問題もあってそれへの単に見た目へのキャラクターデザイナー的な感覚から繰り出される非難が、ストレートにそうだと受け止められない環境にある。

 それは受け取る側の勝手でしょ、って言えば言えるもののそうは言えない状況もあることを、言う側だって考えなくちゃいけないのが理性ある社会、そして大人の世界。そこを考えずに行ってしまったのか、もうちょっと奥深い意識があってそれが汚い言葉を繰り出させてしまったのか。いろいろと想像は浮かぶけれどもいずれにしても、綸言汗の如くで出てしまった言葉は取り返しがつかないので、以後はどういった煙幕を張りつつ着地点を探るか、そして井上俊之さんのような信頼されるクリエイターの指弾をある意味で時の氏神としながらソフトランディングを目指すかってところが注目されそう。いたずらに反発もしていないみたいだし。すぐに忘れ去られる……ってならないのがネットの世界なんだよなあ、そこだえが気になる。

 京都まで足を伸ばそうかとも思ったけれど、行っても自分の気持ちが動くだけで誰のためにもならないからとこことは落ち着き、1日ずとt部屋にいてエアコンを付けっぱなしで26度くらいに設定していたにも関わらず、暑い名古屋って名古屋以外の何者でもない感じ。そうやって悶えながら月末締め切りの漫画評についてぼんやりと考えようとしたものの、将来への不安がやっぱりチラチラと浮かんで落ち着かない。前だったら京都に行くくらい平気だったのがそうではない財政的な不安だったり、飛び歩いてもそれを”仕事”の糧にするという言い訳をエネルギーに変換できない寂しさだったりが浮かんだからなのかもしれない。

 そうしたものより案外に大きいのは、月末締め切りの漫画評でちゃんとした原稿が書けるだろうかといった部分だったりするのかも。こうと決めたらそうと断じて悔い改めない原稿力(げんこう・ちから)が自分にはなく、あれを書くべきかこれを書くべきかやっぱり違うなあとあれこれ考えすぎてしまうのだ。結局、夜まで家から1歩も出ないで考えつつまるで考えられない1日が過ぎる。その間、転職サイトを見てジブリ美術館が募集しているけれど28歳まででは残念とか思ったり、一田和樹さん「大賞地獄浪漫3」を読んだりして時間を使う。あとはこの日記書いて本読んで寝て明日アパートに戻ってあさってからまた三鷹に通って締め日までに30時間くらい働け、ば新人アニメーターくらいの月収にはりそう。それを幸せと思える気持ちを今はどうにか掴まねば。


【8月11日】 「月刊アニメージュ」「月刊アニメディア」と並んで京都アニメーションへの追悼を行っている「ニュータイプ」2019年9月号を購入、「ファイブスターストーリーズ」はまた訳の分からない方へと進んで凶悪な敵が出てきてツバンツヒとか大変そうだけれど、そっちはそれとして最終の1ページを使って連名で追悼とお見舞いの言葉を出している。そこにこれまで各紙が掲載した京都アニメーションが手がけた作品の表紙絵で、きっと原画を描いただろう人たちの今を思っていろいろと複雑な気持ちが浮かぶ。ご存命であって欲しいけどそうでない方もおられそう。ならばと改めて追悼する。

 3紙とも違う表紙絵を選んでいるそうで、ニュータイプの場合はニュータイプからが「涼宮ハルヒの憂鬱」と「日常」でどちらもKADOKAWA版権の作品。アニメージュは「けいおん!」と「映画ハイ☆SPEED」でアニメディアが「Free!」と「たまこまーけっと」といった具合に芳文社版権がひとつと京都アニメーションオリジナルが並ぶあたりに何か意味があるのかどうか。「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」の表紙絵を最近掲載したばかりだから使って欲しかったけれど、それは他に譲ったのかな、黄前久美子の良い表情が池田晶子さんの原画で描かれていたっけ。未だ安否が不明のおひとり。無事であって欲しいとここでも改めてお祈り。

 ラグビーのワールドカップが9月から日本で開幕するけど、どれだけ話題になっているかというと今のこの時期にチケットを売り出しても日本が出場する以外はだいたい余っているという状況がひとつ、人気の度合いを表しているといった感じ。なるほど買うためのコーナーに入る際に10万人以上の待機列めいたものができていて、購入のためのページにたどり着くのに夜通しかかってしまったけれど、その時点で流石にオープニングとなる日本代表の試合は完売になっていたものの、ほかは値段さえ気にしなければたいていの試合で購入できるようになっている感じ。

 これで前みたいに仕事を続けていたら1カ月分に満たなかっただろうボーナスを突っ込み貯金も勘案しながら東京スタジアムとか横浜国際競技場とかでの試合の2万円くらいの席をポンポン買っていたかもしれないけれど、その前にボーナスを充てにして東京オリンピックのチケット抽選に突っ込みまくって不人気狭義の良い席を押さえてすっからかんになっていた可能性が案外高そう。それでも一生に一度だからと、ラグビーのチケットも買いに走ったに違いない。

 現状はそうしたむだ遣いが出来状身の上ではなく日雇いで稼げて1日9000円から1万円といったところで、2万3万のチケットなんて買っていたら貯金に響く。とはいえオリンピックと同様で一生に一度のイベントな訳で日本に住んでて行かないというのも気が引ける。なのでとりあえず1万5000円ではあってもイングランドとアルゼンチンという欧州と南米の強豪が東京スタジアムで激突する試合のC席を確保。以後、チケットセンターの様子を見ながら出てきたカードを拾っていければもうちょっと見る回数を増やせるかも知れない。サマージャンボ宝くじが当たればぶっ込めるんだけれど、それは絶対にないだろうから考慮外。あるとしたら失業保険の再就職手当が運良くもらるくらいか。その5分の1を突っ込めば決勝も見られるのだけれど。いや見ないけど。

 東京ビッグサイトがコミケで賑わう中で、そういや東京ビッグサイトを東京おもちゃショー以来、2カ月くらいのぞいてないなあと気付く。テクノロジー系の展示会とか、ポップカルチャー系のイベントとかがあれば自宅からだと新木場経由でりんかい線で国際展示場駅(今は名前も変わったんだっけ)えと行き、会社からだと新橋からゆりかもめで行って見物していたので、だいたい月に2度くらい、多いと毎週くらいのペースで新木場あたり、新橋あたりを歩いていたけど最近はとんとご無沙汰に。ポスターとかどう貼られ、風景とかどう変わっているかを知らずにいる。

 そういえば大手町からちょっと足を伸ばしてのぞいていた秋葉原も上野も神保町もしばらく足を踏み入れていないし、夕方とかに映画を見に行っていた新宿も渋谷もしばらくのぞいていない。行ったといえばドーム映像が上映された西新井とか勤務地になっている三鷹に行く途中の中野とか。そこでも何かを探すというより電源を使える店を探してネットをのぞくくらいか。まだ4カ月くらいなのに行動範囲が随分と変わってしまった。仕事先が変わり拠点にする場所が変わると、こんな感じに行く場所も変わるものだと改めて実感。それを寂しくではなく当たり前と思えるようになって、過去への未練を鎮め浮かぶ涙も乾き、新しい境遇に馴染めるのかもしれない。どうだろう。新しい環境次第かなあ。今のところは楽しいけれど、浮かぶ将来不安はまだぬぐえてない感じだし。

 はじき出されてしまった感じと、あとはやっぱり収入面での不安からネガティブなスパイラルに陥りそうになったんで、薬をぶっ込み近所のTOHOシネマズ赤池へと劇場版「ONE PIECE STAMPEDE」を見に出かける。今まで影も形もなかった新キャラを持ち出して来てストーリーにはめ込むところは「Z」とか「GOLD」あたりと似た感じ。ルフィですら手こずるようなものすごい奴らが何十年とか姿を見せずに大人しくしていたりするものかって疑問もあるけど、それを言い出すと話になならいから仕方が無い。今回は海賊王ことゴール・D・ロジャーの片腕だったらしい男が久々に牢獄を脱出してはロジャーが残したお宝が存在するという触れ込みで海賊万博に集まってきた海賊たちを相手に大暴れ。そこにルフィたちが挑んで闘う。

 最悪の世代と呼ばれたユースタス・キッドとかトラファルガー・ロウといった辺りが集まりジュエリー・ボニーも混じっていたりしつつ、キャベンディッシュとかもいるから時間的にはパンクハザードを経てドレスローザでドフラミンゴを倒した後、でもってビッグ・マムとかとかとはまだ関わっていないのかな、あるいいはワの国とも。いやいやそれだとサンジも含めて麦わら海賊団が全員集まっているのがおかしいから時間的にはどうなんだろう、って考え出すとまとまらないけど、そこはいつか年表の中にピタリとはめ込まれることになるのだろう。

 でもってそんな麦わら一味に加えてローにボア・ハンコックにサボにバギーにスモーカーまで含めた連合が、キービジュアルそのままに集まって強敵に挑むといった展開。倒されても立ち上がっていく強さ、その裏に諦めないで戦い続けるウソップの格好良さとか描かれていて手に汗握りながらも見てしまう。そして大団円から得られたお宝なんてあっさり捨てて自分たちで道を拓こうとするルフィ。そんなストーリーを圧巻の作画でもって見せてくれるとアニメーションって本当に素晴らしいなあと思えてくる。そんなアニメーションの端っこでアニメーションの歴史を刻み記録を残し未来に繋げる仕事を今はしっかりやろうと思うのだった。大坂で開かれている機動警察パトレイバーの展覧会にもそうやって刻まれ残された原画が使われている訳だし。何かのお役に立ててるという自覚。それが今の自分には必要みたい。その実感を得るためにさて、今週もあと2日くらい休んで水曜あたりから三鷹に通うとするか。


【8月10日】 無敵で不遜で圧倒的な将棋の才能がありながらも体力的な面から九頭竜八一に遅れをとっているだけかと思っていた空銀子だけれど、本人は自分は定跡こそしっかり抑えていても新手を見つけて膨らませる天才には足りてないと自覚して、八一やライバルの神鍋歩夢を“将棋星人”と見なして天上人のように恐れあがめていたりする。そして、イカサマもすれば番外戦術も使ってその将棋を勝とうとするけれど、それではやっぱり追いつけないことを師匠に諭される様に、見かけによらない“凡才”としての空銀子の苦悩が見えた白鳥士郎さん「りゅうおうのおしごと11」(GA文庫)。

 いよいよプロ棋士を目指して三段リーグに上がりながも、三連敗して次負けたらもうおしまいかと言われる状況。そして次に対戦するのが無敗の小学生とあって苦悩し逃げ出したりしたところを八一が見つけて共に旅をしながら過去を思い出していく、ってのが11巻のストーリー。そこでの銀子の八一に対する隠していた情愛めいたもの、そんな八一を喪うまいと将棋を勝つための執念めいたものの凄まじさもなかなかだけれど、供御飯万智なんかがかけた呪いめいたものも凄まじくって、京女のイケズぶりが改めて浮かび上がる。

 八一と呼ぶなと銀子が命令すれば、万智は銀子に「浪速の白雪姫」とあだ名を付けられ重荷にする。そんな関係も女流から抜けだそうとする銀子には後に置いていくもの。強敵を相手に目いっぱいの勝負を仕掛けて棋譜を汚してでも勝とうとした執念があれば、そのままするりと女性発のプロ棋士になってしまうのかな。そうなるまでにはあと数巻。その前に最近あまり目立っていない八一自身の物語が欲しいとおろ。竜王位を防衛して名人のタイトル獲得100期を阻止したものの別のタイトルで100期に達して国民栄誉賞ももらった名人が、残された永世位を狙い竜王位に挑んで来るだろうから。そちらに傾けば今度は雛鶴あいのドラマが薄れる。どうやって裁いていくかなあ。次も期待。

 もとより仕事に行ってない土日祝日なのに、休んでいたら1円にもならないフリー業の現実というものに覆い被さられて、居ても立ってもいられなくなるのはやっぱり心がまだ、フリーであるという現状に適応しきれてない現れなんだろうなあ。その間も書評用の本を読むとか、月末締め切りの原稿について考えるとか、やることはいろいろあるにもかかわらず、そっちに手が向かわないのもトータルで収入を想定する頭に切り替わってないからか。早く慣れないといけないんだけれど、それにはもうちょっと仕事への意義を自分の中に見いださないと。

 これは普段の行動にも関わってくる問題で、以前だったら教養という自己研鑽なり娯楽という自己満足からアニメもアートも見れていたし、音楽だって聴けていたのがいつしか報道という行為に紐付け、それに役立つからだと考えるようにすり替わっていった。結果として、報じることを通じての承認欲求の材料としてアニメやアートやマンガや音楽を見たり聞いたり楽しんだりするようになってしまっていんだけれど、仕事を辞めて出し口を持たなくなってしまった今、見たいから、楽しいから展覧会に行きアニメを見て音楽を聞くといった以前の意識を取り戻すのに時間がかかっていて、あいちトリエンナーレ2019の作品を見ていてもソウナンデスカといった以上の楽しみが湧いてこない。

 これがメディアの少ない時代だったら、自分の日記に書くといった行為でもささやかな自己満足が得られたし、そこから外のメディアに何か書いてと言われる機会も得られていた。今は誰もがメディアを持ってSNSやらインスタやらに投稿するようになっていて、名の知れた人とかハプニングに行き当たった人がピックアップされてバズることはあっても、個人に声がかかることは滅多になくなってしまった。

 そんな状況で、自分がアニメを見てアートを見てマンガや本を読んで音楽を聞く”意味”をどこに置くか、あるいは取り戻すかがこれからを生きていく上で大切になって来るのかもしれない。今のアーカイブの仕事に紐付けて、創造され創作されたものを見せる、残す、伝えるとはどういうことかを考え、理解し糧にして戻そうとするとかありかなあ、それも結局は仕事を理由にしてしまっているから拙いかも。いずれにしても自分の高慢さが生む腰掛け感なり居候感を払拭し、そこに居ても良いんだ感を沸き立てることが今は必要。その延長として美少女を見た、嬉しかったで1日を楽しく追われる心が戻って来るのだと信じたい。

 まあ、それでもせっかく開かれているんだからとあいちトリエンナーレ2019。やっぱりこれが凄いといった感動感慨が湧いてこないんだけれど、たとえばこれだけ世間を騒がせた表現の不自由に関して、現在進行形で権威権力に挑んでいて将来において不自由さを被りそうなものがあるかを探したものの、あまり世間的に話題になっていないのか思い当たらず。敢えてかろうじて目についたのが、路上に描かれたジェームズ・ブライドルによる実物大のグローバルホークの影。いわゆる無人偵察機という奴で、もちろん用途は戦争なり紛争地域への投入なんだけれど、それを日本が買った意味とか考えた時に、外に向かって何かしたいといった意図があって、それを専守防衛から外れた何かと見て取る意味なんかも浮かびそう。あからさまじゃなく、洗練されているから不自由にはならないだけかも。

 ざっと見て名古屋市美術館へと回ろうと思ったらサカナクションによる「暗闇 KURAYAMI」と名付けられたパフォーマンスの当日券を並べば買えそうだったんで、2時間弱ならんだらB席だけど無事確保。東京でのライブすら見たことがないサカナクションがいったい何をしでかすのか、真っ暗になるので途中の入退場はできず暗闇に目立つような服装も避けてといったアナウンスから、黒い服を着た人が目立つパフォーマンスが始まるのと、5階というほとんど見下ろすような場所から鑑賞する。

 といっても暗闇だからステージは見えない。事前に機材が置かれた台がボックスの中に入れられて、そこに現れたメンバーが礼をした後は入って公演がスタート。真っ暗になってしまって何が行われているかがまったく分からない中、ただ音楽だけが響き渡る。それだけなら家で目をつぶって聞けば再現はできるかもしれない。でも、大きなホールの中に響く音が振るわせる空気の振動は家では感じられない。この身体性はライブの会場ならではと言えるだろう。暗くなると飲んでる薬のせいか眠くなって、音楽を聞いているのか暗闇から響いてくるのか分からなくなる曖昧さもあったけど、それも含めて真っ暗闇の中に自分が個として置かれて、音楽に包まれ振動に揺さぶられるような感じがした。観客席とステージとの一体感はなく個とし場に捉えられた感じ? そんなパフォーマンスだった。明るく楽しいサカナクションとはちょっと違った荘厳なサカナクション。1時間と短かったけど、それ以上いるとネガティブな思いがスパイラルを招いて沈んだのでちょうど良いかも。名古屋市美術館は行けなかったけど、まあいっか。


【8月9日】 週末を含めて1週間休もうとも、あらかじめ含まれた休暇として処理されもらう月給には変わりがないサラリーマン的生活を30年は続けて来て、年末とかに6日間は休み夏も4日は休んで帰省とかしたりイベントを見て回ったりしていたのが今年は、休めばそれだけもらえるお金が減ってしまう身となって、休むことに恐怖を覚えてたりするのがある意味で新鮮だけれど、これがいつまでも続くと大変に困ったことになるなあといった不安も浮かんで、抑えてあった焦りが浮かび上がってきて気持を沈ませる。

 これが失業中なら雇用保険が1日幾らで入っていたけれど、そういう身でい続けることの方が恐怖でさっさと自営を選んで抜けてしまった今は、休みは休みでしかなく1銭にもならない。分かってはいたけどこれがなかなか大変。とはいえ、社員となって1週間はびっちり仕事に縛られるというのも、今度は割と時間に融通が利いた記者という職業とは違いすぎてちょっと慣れそうもなかったりするから、そこはお金と引き替えにしてでも自由が得られる今の立場の方が良いのかもしれない。とりあえず休みたい時にはお金さえ犠牲にすれば休めるのだから。

 かといって、それでもうずっと休んでて良いと言われてしまうのもまた恐怖。幸いにして行けば仕事はありつけそうだと分かっているので、この週末を挟んで前後に1日ずつくらいをフリーの身としての夏休みをじっくりと噛みしめよう。とりあえず帰省はしたので、土日あたりを選んであいちトリエンナーレをのぞいてくるつもり。「表現の不自由展、その後」はもう見られないけれど、ほかにもわんさか現代美術が出ていてそれぞれにいろいろと主張はしているだろう。むしろ今、言うべきことは現役のそちらのアート作品にある訳で、見て回っていろいろ感じてみたい。現在進行形に不自由な立場に追い込まれそうな作品はあるのかな。わたし気になります。

 三鷹に通うようになって1カ月とちょっとが経って、その間に社長の人を見たことは1度もなかったけれどオシイさんは1回だけ、店頭にあるナポリピッツァの店の前に用意された喫煙スペースで煙草を吸っている姿を見かけたっけ。そんなオシイさんとは姉と弟にあたる最上和子さんが原初舞踏家ののソロ公演を9月29日に開くというので予約を入れる。バレエはシルヴィ・ギエムによるボレロを上野に観に行ったことがあるけれど、舞踏というのは初めてでそれも土方巽さん大野和男さんといった舞踏ではなく原初舞踏というもの。どんな感じになるかが今からとっても気になっている。

 その一端には出演というかほとんど主演のドーム映像「HIRUKO」でも触れられて、その上映が8月17日にもあって、3度目を観に西新井まで行く予定で、そこに最上さんが登場して宇野常寛さんと一緒にトークするのを聞くけれど、行っても舞踏そのものはそこでは見られないし、映像はやっぱり映像。生とはやっぱり違うだろう。7月にあったワークショップに最上さんも来てはくれていたけれど、教える立場で自身が何か舞踏をするということはなかった。だからいったい、どんな感じで動いているのかをいつか見てみたいと思っていたら、久々というソロ公演。これは行かねばと思った次第。オシイさんが来るかは分からないけれど、お顔がそっくりなので入れ替わっていても分からないかもしれないかな。

 最上さんといえばオシイさんと対談した「身体のリアル」という本も出ているけれど、別に生い立ちを書き記した「私の身体史」という小編がAmazonからKindle版で出ていて、ワークショップのあとにダウンロードして読んだらこれがなかなかに凄まじい生い立ちだった。若いころはまだ学生運動が盛んだったけれども参加することなく過ごしていたらアパートで酒を飲んでゴミに埋もれて暮らす感じになていたとか。今でいうならひきこもりに近い状態で、そして今の自分にちょっぴり重なる感じ。つまりは人間として壊れてしまっていた感じで、そこから最上さんは肉体を取り戻そうと看護の仕事を始めてとりあえず歩き出す。

 やがて資格もとったけれども元より体力のない身での看護はキツかったのか体を痛めてしまったとか。そこから舞踏へと関心を抱くも不倫めいた心境から心を痛めたりもしたのをどうにかしようとお見合いをして結婚をして、居場所を定めつつだんだんと今のような舞踏の世界へと進んでいったらしい。つまりは相当に歳を経るまでは心を壊し体を痛め足掻きながらの暮らしだった訳で、それでもどうにか自分を確立させられたのを見るにつけ、その歳までまだ結構ある自分にもどうにかできるんじゃないかと思えてきた。のめり込める何かがある訳じゃない。使える力がある訳じゃないけれど最上さんだってオシイさんい頼った形跡はまるでなく、自分自身で考え動いて今に至った。それなら自分にも……って思いたいけどそこまでの道を探るためにも今一度、ドーム映像を見てそして公演を見て考えよう、自分の身体のリアルさを。

 9日に発売された「アニメージュ」「アニメディア」「ニュータイプ」のアニメ誌3誌が共に京都アニメーションで起こった痛ましい事件に対する追悼と応援のメッセージを載せた企画を掲載。個別に作られたページかは確認してないけれども3誌が連名で追悼とお見舞いの文章を載せたり、過去に描かれた京アニ作品の表紙絵を乗せたりしているらしい。校了まできっと時間の無かっただろう中で起こった事件で、1ページを作り出すのは大変だっただろうけれど、それでもやらざるを得ない気持を持ってくれたこと、そして3誌が合同で動いてくれたことにアニメーション・ファミリーとしての矜持を感じる。来月号は個別に追悼が行われるのかな。とはいえ発表されてる個人以外で犠牲者もいたりする中で、何をどう扱えば良いか判断に迷いそう。予想はできても推測で動くのは礼を欠く。今はだから見守りつつ応援し続けることが1番なのかもしれない。

 例の小泉進次郎議員と滝川クリステルさんの官邸訪問からその流れでの会見へと至ったことについて、毎日新聞の官邸詰め記者があれば官邸を訪れる人には何かを聞くことになっているぶら下がりであって、小泉進次郎議員が進んで会見をした訳ではないといった状況説明を行ってた上で、そうやって番記者にぶら下がられることを想定して訪ねた2人と、訪問を受けた総理や官房長官の企みにハマって騒いだメディア側に「最後に『こんなに騒ぐことか』という批判がありますが、それは私はその通り」と思うと書き、また「踊らされず冷静に価値判断をすべきで、反省しないといけない」と自省している。

 ごもっとも。とはいえ既に乗ってしまって喧伝の片棒を担いでしまった状況で、いくら反省したって意味がない。「最後に」ではなく「最初」に自省をし自戒をしつつそういう状況に陥っているメディアのあり方を変えるための意思を示して欲しい気がする。でなければ同じ様なことが繰り返されては、ぶら下がりなんだからという言い訳、そして官邸に来る人に話を聞くのも仕事といった意識、なおかつバリューがあるならまずは報じるべきだといった考えに押し切られて、どうでも良い人へのぶら下がりが横行するようになるだろう。その場でこれはぶら下がりをすべき案件ではないから外に出てやれと告げ、それが公然とメディアで伝えられるようにならないと変わらないんじゃないのかな。そういう風になってしまったから、メディアという世界は。やれやれ。


【8月8日】 デズモンドの山寺宏一さんに続いてフローラの林原めぐみさんが出演を果たした「キャロル&チューズデイ」はまるで「日本アニメ(ーター)見本市」って感じだけれどボンズが作っているってことを考えるならむしろ「カウボーイビバップ」か。かたや大成功したシンガーで、こなた成功はしながらも騙されて孤独になって歌えなくなったシンガーという対比。どちらもよくあるパターンでそしていったいキャロルとチューズデイはどちらを目指すのか。

 言えるのは歌うことが素晴らしいのだという境地を保ち続けることかなあ。そのためにはやっぱり成功が不可欠? でも成功してもフローラのようになったりするし。難しい。でもとりあえず火星にもあったサウス・バイ・サウス・ウェストに出演を果たして脚光は浴びそう。道ばたで拾ったバックバンドが上手すぎるけどそもそもギターとドラムとベースという3人でいったい何をやっていたんだあいつらは。ボーカルもいなければジャズみたいにサックスなりトランペットといったリードを取る楽器もない。ピアノだって。そういうご都合も含めてサクセスへの道を走った先に来る衝撃。とりあえずアンジェラの前に何か起こりそうで、それがキャロルとチューズデイにどう跳ね返ってくるかに目下、注目。

 相変わらずというか、言いたいことのためには本来の意味をズラしてでもそちらに心証を持っていこうとするところがあって、それが世間の苦笑いを誘っていることに今も気付いていない。あるいは気付かないふりをしている。あいちトリエンナーレ2019の企画展で起こった中止の騒動について、それが「ヘイト」にまみれた作品であるから中心は当然といったスタンスからいろいろ書いているメディアがある。
B  「芸術であると言い張れば『表現の自由』の名の下にヘイト(憎悪)行為が許されるのか」。いやいや、“ヘイト=憎悪”というのはそうだけど、よくヘイトとして用いられる言葉はヘイトクライムの略であって、それは単純に憎悪とは略せない。そして憎悪なり憎しみなりといった感情の発露もまた表現に数えられる。けれどもヘイトクライムは違う。だから規制もされる。そこの切り分けを曖昧にして印象を操作している。あるいは本気でヘイトもヘイトクライムもいっしょだと信じているとか。

 「『「日本国の象徴であり日本国民の統合』である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった」。なるほど確かに天皇陛下への侮辱は快いものではないだろうけど、憎む気持を持つ人がいるのも理解する。そしてそうした気持はヘイトクライムではなく日本人全体への侮辱でもない。少女像も同様で、戦時下におこなわれたことへの非難は今を生きる者をも含めて糾弾しているものではない。自省しつつ次を探る礎にするべき表現だと思う。

 「作品説明の英文に『Sexual Slavery』(性奴隷制)とあった。史実をねじ曲げた表現である」。そうなんだ。というか狭義では当てはまらなくても国連なんかのいう広義の定義には入ってくることがだいたいのところ認められていて、世界中で指摘を受けていたりするのに未だ引かない。譲れない何かがあるのだろう。そして表現の自由は「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」という憲法の文言によって制約を受けることもあるらしいけど、その「公共の福祉」とは別に公的機関の主義主張ではない。今回は、公的機関の長たちが平気で作品を語り検閲を行い糾弾したから問題になっている。

 そうした原理原則をすっ飛ばして、感情だけで語りそれを正当化させようとする言説に、乗っかるかのように情動を誘うような記事が、どうしていつまでも載り続けるかちうとこの立ち位置から動いたらもはやすべてが崩れてしまうからなんだろう。だから立ち続ける。悩ましいのはその立つ場所が案外に頑強なことで、むしろ強化されつつあるからこその不自由展の不自由になったりする。逮捕されることが分かっていても、正義と思ってファクスを送る普通の人がいる。それは弁護士を懲戒請求した大量の人と同じで、正しいと思ってやっている。その正しさを支える感情を芽生えさせ育て広める装置に国全体がなりつつあって、お先棒を担ぐメディアがある。どうにもこうにも息苦しい。だから出て良かったかとうとそこは月収が……という訳で自分も揺れている。人間貧すると鈍するなあ。

 「たんすわらし。」と「わすれなぐも」は文化庁の若手アニメーター育成プロジェクトから出てきた作品として上映だかパッケージだかで見ているし、湯浅政明監督がクラウドファンディングで作った「Kick− Heart」もパッケージが売っていたのを買って見たから知っている。でも今日マチ子さんの作品に関わっているらしい「みつあみの神様」は実は観てないし、「Oval×Over」という作品もまだ観たことがなくって、そんなプロダクションI.Gが手がけた短編アニメーションを集めたパッケージが海外で出ていると知ってちょっと欲しくなった。DVDとBlu−rayがセットになったスペシャルエディションめいたものがあるみたいで、DVDはともかくBlu−rayならリージョン関わりなく見られるのかな。ネットで調べるとBlu−rayだけのパッケージもあったんで取り寄せるのも良いかも。22ドルくらいだけど送料考えると4000円くらいになるのかなあ。調べてみよう。

 1000日も上映が続くなんて日本のアニメーション映画史どころか日本の映画史としても画期的で革命的なんじゃないのかなあ。片渕須直監督による「この世界の片隅に」の上映がそれだけ続いているってことで、土浦がほとんど専門劇場と化して上映しているのが大きいけれど、それ以外に上映会的な場所でも断続的に上映が行われていて、すっかり国民的映画になった感じ。とはいえジブリ作品のように子どもが喜ぶものとは違うから、まだ見ていない人も結構いそうで、そうした層に広まっていくことによってまだまだ上映が続けられそう。とか言ってると「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が公開されてしまいそう。その場合は1000日に繋がるのか別枠か。「この世界の片隅に」もそのまま上映されるのか。いろいろ気になる。いずれにしても1回くらいは土浦で見ておくかなあ。


【8月7日】 そうかLINEノベルからの出版でもLINE文庫エッジにはイラストが入るけどLINE文庫は表紙絵こそイラストながらも中にはイラストは原則つかないんだ。つまりはメディアワークス文庫的。キャラクター文芸なりの位置づけでもってライトノベルのLINE文庫エッジと切り分けていくんだろう。でも僕が読めばそれはライトノベルなんだけれど。作者もライトノベル出身だし。ってことで三雲岳斗さん「アヤカシ・ヴァリエイション」(LINE文庫、650円)はいわゆる付喪神もの。真継晴という青年が機械の修理屋でアルバイトをしていると、長身の青年が訪ねてきて筺がないかを訪ねてきた。

 見覚えがないと帰ってもらったその機械修理屋にドラッグで正気を失った運転手がトラックを突っ込ませて店は損壊。けれども晴は無事で先に店を訪ねてきた青年たちに助けられる。彼らは特殊骨董処理事業者として、普通ではない骨董を扱うことを生業としてきた店の従業員。そして付喪神。人間に禍をもたらす付喪神を取り締まることで存在を許されていた彼らは、晴の実家にあたる大金持ちの家と関わる奇妙な筺を探していた。そこに絡む遺産相続をめぐる謀略。そして筺を狙う別の特殊骨董処理業者。晴の持つある力が発動して付喪神たちの新しい一面が花開く。

 意識を持って肉体も得た付喪神たちにとって自分を扱うことができる「使者」の存在は心地良いのかそれとも嫌悪すべきか。とりわけ人を斬ることが生業だった刀剣の付喪神にとって、使者によってまた人を斬ることになるのは嫌なのかそれとも自分の本来の力を試せるから嬉しいのか。そこが少し気になった。あと晴自身の出生にも。いっしょに邸を逃げ出しながらも事故にみせかけ殺された感じの母親は、本当に晴の母親だったのかそれとも。そこから始まる新しい関係はつまりあの娘の再登場も意味しそう。SF作家でもあるけど伝奇も得意な三雲岳斗さんのあやかし付喪神ディティクティブストーリー。続いていくなら読んでいこう。

 本番が始まっている全国吹奏楽コンクールで京都府大会が順々に繰り広げられているようで、「響け!ユーフォニアム」のシリーズで北宇治高等学校が目指している高等学校の部Aはまだみたいだけれどもその北宇治高校を描くにあたってモデルにしたという京都府立東宇治高等学校が小編成で出場し、見事に金賞を獲得した。といっても府の代表として関西大会に進めない、いわゆる“ダメ金”と呼ばれているもので、中学時代に高坂麗奈がそれをもらっても嬉しそうな顔を見せず、逆に悔しくて死にそうだと嘆いたもの。最新の映画「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」でも久石奏が同じ様な悔しさを関西大会でもらった“ダメ金”に対して向けていた。

 でも、今年に限っては関係のあった人たちに多大な被害が出て犠牲者も出てしまった一件を身近に感じ、それでもしっかり出場をして金賞に値する演奏をしたことをやっぱり心から讃えたい。取材自体はきっと随分の前に行われていただろうから、今の部員が京都アニメーションの人を知っているかは分からないけれど、それでも映画を観て入部した人、入ってからここだと気付いた人もいるだろう。映像の中にリアルに再現された音楽室の様子に繋がりを感じていたかもしれない。そんなアニメーションを生み出した場所に起こった悲しい出来事を、高校生としていろいろ感じつつ演奏を成し遂げた。立派だなあ。

 やれることをやっただけかもしれない。でもそれが今は1番大事。関わりもなく住まいも遠くの僕にやれることがあるか分からないけれど、今の仕事がアニメーションの何かに繋がるのなら日々、目の前に来る仕事を覚えつつこなしていってその先にあるだろうアニメーションの明るい明日を作りたい。そうなるための仕事なんだと今は信じてる。信じているけど業界全体に漂うモヤモヤとした感じだけはちょっとどうにかしたいなあ。「天気の子」がいくらヒットしても、アニメーション業界が儲かっているようには見えないのだ。テレビシリーズで社会現象になるくらいにヒットしている作品もないしなあ。気付いていないだけかなあ。

 大臣であるとか副大臣といったところだったら、内閣の一員であって総理大臣という役職にある人の元を訪ねて何かを相談することはあっても不思議ではないけれど、もっと下の政務官でしかない人物がまったくの私事に過ぎない結婚を報告に官邸に内閣総理大臣を訪ねて面会できてしまうことも不思議なら、そんな結婚の会見を官邸でやってしまうことも不思議極まりないし、はっきり言えば公私混同であってそれをメディアが何の批判もしないでワイドショーの時間だからと中継し、平気な態度でいることも含めて、この国がどうにかなってしまっていることが伺える。

 これが例えば自民党本部を訪ねて自民党総裁としての安倍晋三を訪ねて了解をもらい、自民党本部で会見するなら文句もなければ異論もない。あるいは自民党総裁としての安倍総理を訪ねただけだと言って、会見は党本部でと言えば異論も疑問も浮かばなかった。それが官邸という行政の場で国会議員が私事の会見を平気で行う。以前だったら非難囂々で役職どころか国会議員の立場ですらかかって来たような異常事態。それがさも明るいトピックとして流されてしまうからたまらない。

 この異常さを、どうやったら異常なんど思ってもらえるようになるのか。メディアが騒ぐしかないんだけれど、そのメディアが特落ちはイヤだと官邸での会見を止めもせず、疑義も挟まないでその場で捕まえ会見させたような感じがあるからむしろ、公私混同を助長しているような節がある。真っ当を真っ当とせず異常を平気で正常の如くにすり替えていくこの条項。すべてがグチャグチャになって底が抜けてしまった。この流れでいろいろなことが官邸で行われるようになって、それを報じることで政府与党の意向なりイメージが世に流布させていくようになりそう。憲法改正とか。たまらなんなあ。


【8月6日】 某所で「這いよれ!ニャル子さん」のアニメーションに関連した資料なんかを眺めていたりするんで、最近何書いているのかちょっと気になっていた逢空万太さんがあのLINE文庫エッジから新作をリリース。その名も「リトルウィッチアカデミア」ではなく「ウィッチクラフトアカデミア ティノと箒と魔女たちの学院」は男の子なのに魔女になって空を飛びたいと思ったティノという少年が、基本は女の子ばかりの魔法学院に入学して空を飛ぶための訓練を始めるというストーリー。

 別に女の子しか魔女になれないって訳ではないようで、資質があれば飛べるけれどもそういう人が滅多にいないという話。でもってティノには資質があったようで、田舎に居たときに師匠からいろいろと鍛えてもらった上に、姉がなかなかの強豪のウィッチクラフトと呼ばれる箒に乗って空を突っ走るレースの選手で、その推薦もあってティノは魔法学院への入学を果たすことができた。そして始まった練習だけれど、飛ぶのがどうもうまくない。

 田舎に居たときは普通に飛べたのに、学院では使っている箒に馴染めないのかどうにも制動が上手くいかずにカーブが曲がれなかったりしてふらついたりする。それでも学院に行く途中で知り合ったウルスラという少女や、最初はレースをふっかけてきてやいじめっ子かと思ったら、その身にティノいじめの烙印を背負うことで他からのちょっかいを防ごうとしたらしいマルタといった同級生に支えられ、ティノは訓練を閑雅って行く。もっとも、やっぱり練習ではうまく飛べずビリばっかりで、このままでは退学の危機。なおかつ氷の女王と呼ばれる正確無比な飛び方で圧倒的な強さを誇る少女が立ちふさがる。

 まさにピンチといったところでティノに対してウルスラの妙な行動があってティノがレースで本当の力らしいものを見せる。それができた理由から推測すると、ティノはもしかしたら天才かというとやっぱり慣れてないだけなのかもしれない。それでも持てる力を発揮して、逆転へと至る歓喜といったものを味わえる。加えてウルスラに漂う謎。彼女はティノの故郷での飛び方から何を推測したのか。そしてどうしてそれを知っているのか。ティノの故郷での師匠とは何者なのか。いろいろ浮かぶ謎が明かされつつ進む展開でティノの成長を味わっていけそう。ニャル子さんほどヒット作に恵まれていなかった感があるけど、これは続いて欲しいなあ。続くと思うし。

 コンピューターゲームをプレイするより先にSFとかに出会って創造された仮想の空間を真実と耽溺して生きていたら、それは現実ではないと教えられて驚き嘆き苦しむような展開にいろいろな形で触れてきた。一生涯をそこに浸り続けることが不可能ならば、いつか戻らなければいけない現実を、思い出させてくれつつも一時の夢を与えてくれる仮想の世界を真っ向から否定し、壊してしまわずそこにいつでも戻っていけることの喜びも、同時に感じさせられたような気がする。

 だから、観たとある映画についてもゲームとはそもそもそいういうものであって、仮想世界の楽しさと現実世界の確かさを共に称揚するようなものだと受け止めれば、別に憤りもしない。喝采を浴びせるということもない。どこかで観てきたストーリー。それが最高品質の3DCGによるビジュアルによって描かれていて、楽しいストーリーとともに繰り広げられているのだから、どこに文句を言えば良いのかが分からないといえば分からなかった。

 ただ、そこに用いられた仮想の世界に強い思い入れがなかったからこそ言える言葉であって、何時間何十時間もそんな世界を歩き回って冒険を繰り返し、良い思い出として抱えていた人たちが、社会に出てふと思い出すこともあった物語を改めてそれは仮想世界だたのだよと突きつけられて嬉しいかと言われて、どうだろうと迷う気持は分からないでもない。確かにそうだったよねと流せる人もいるだろうけれど、言って欲しくなかったと憤る人もいて不思議はない。だから起こっているのだろうなあ、賛否両論の論争が、その映画を巡って。

 これが超ベストセラーのゲームを題材にしたものではなく、架空のコンテンツをめぐって繰り広げられた現実と虚構とのせめぎ合いのような物語だったら、ある種の提言として機能したかもしれない。いやいや、使い古されたネタを今さら出してこられても迷惑だと拒絶されたかもしれない。目覚めればそこは厳しい現実。ならばと戻る夢の世界。今はそうした願望を異世界転生系の物語が満たしている感じもあったりする。そうした異世界から叩き出さる物語が売れるとも思えないように、分かっていることを改めて突きつけられても鬱陶しいだけかもしれない。

 ましてや、自分が青春をかけて耽溺した世界が、どういったストーリーで映像化されるかって点にのみ、興味を持って待っていた人たちがそうしたストーリーと世界観の映像化を越えて、ストーリーと世界の虚構性を突きつけられたのだから、それは違うと叫んでも当然かもしれない。観たかったストーリーがそこになかった。それは嫁のどちらを選ぶべきかという論争とはまったく違う次元での異論を巻き起こした。もっとも、そうしたストーリーへの耽溺がない人間で、虚構は虚構で現実は現実だという主題を幾度となく見せつけられてきた身には、ああ、またそういった作品が出て来たと笑って受け止めつつ、絵が良く動き背景がリアルでキャラが可愛く、それにしては胸が揺れないなあと思って笑って流せる映画になっていた。

 同じクリエイターが関わる「ルパンTHE THERD」というフル3DCGによるアニメーション映画では、予告編を見る限りしっかり揺れそうなのでそこは安心して良さそう。そして同時に、ここまでの映像を作り上げることが可能な監督ならばスタジオは違っても同じだけのクオリティを持った3DCGによるルパン三世を見せてくれるのではといった期待も膨らんでくる。次元大介とか本当に格好良さそうだったから。そうしたキャラクターへの愛があるいは、国民的と言われるゲームのアニメーション化では及んでいなかったのかもしれない。ご長寿アニメーションと違って、ゲームへの愛は世代によって大きくズレることもある。そこにハマりこんで浮かんださまざまな批判と賛辞をどう受け止めて権利元はどう動くか。次に向かう興味はそっちだ。アニメーション化、また動くかなあ。

 もしも「アストラル・アブノーマル鈴木さん」の松本穂香さんを先に見ていれば、「ヒロインにはTBSのドラマ『この世界の片隅に』を見て『若いのにうまいなあと思った。笑い顔が魅力的で感情表現が豊か』と松本に白羽の矢を立てた」とはならなかったかもしれない。それくらいぶっ飛んだ女優で「きみと、波にのれたら」でも妹ちゃんの声を演じていた松本穂香さんを起用してあの角川春樹さんが監督を務める映画「みをつくし料理帖」が登場予定。どんな作品になるかというより、どんな演技を見せてくれるか今から楽しみ。


【8月5日】 こちらが置かれている状況が変わって、会社組織にしがみついてでも仕事をこなしつつ鬱憤をデスメタルを歌うことで晴らしたり、会社の先輩や同僚たちと交流を深めていって自分の居場所を確立させていくようなストーリーを、心が受け付けづらくなっていて「アグレッシブ烈子」のシーズン2を実はまだ観ていないけれど、それでも世界で大ヒットしている様子は伝わってきていた。とはえい日本ではあまり爆発的なブームを呼んでいるといった節はなく、アニメエキスポやコミコンでの発表もなかったから、このまましばらくシーズン2が展開されるのかと思っていた。

 そしたら何と台湾でもってシーズン3が作られることが発表されて、台湾のメタルバンドとの共演も行われたという。これがそのまま台湾を含めたアジア市場にシフトするってことを意味しているのではなく、元よりアジアでも人気はあったけれども欧米に比べるとやや知名度的に下がるところもあるから、アジアでの人気アップにつなげようと発表を行ったとかいった見方もできない訳ではない。やっぱりハローキティにマイメロディにポムポムプリンにリトルツインスターが強い地域なだけに、アグレッシブ烈子の発表を行うことで認知がされて人気も広がる、なんてことはあるのかな。

 だったらまずは日本でって思うけれど、これだけやっても母国なのに広がらないなら敢えて選ぶ必要もないのかも。どうして広がらないのかは謎だけど。まあシーズン2を経てじわじわと認知も上がっているようなので、シーズン3が始まる前までにはどこかで改めてテレビ放送とかされて一気に広がって、「やわらか戦車」なんて越えるブームが来ると思いたい。しかし日本発のアニメーションでシーズン3まで言ったのが、いわゆるクールジャパン的なアニメーションでも萌え系でもなく「アグレッシブ烈子」というのが不思議というか。世界が求めているのはやっぱりこうしたペーソスとアイロニーとパッションを持ったアニメーションってことなのかな。続く作品はあるのかな。

 思想信条の問題ではなく憲法という国の根幹をなす決まり事に対して誠実であるかどうかがまずは問われているのであって、だから愛知県の大村知事があいちトリエンナーレ2019で行われていた「表現の不自由展、それから」に対して名古屋市の河村市長が難癖を付けて中止を求めるような発言をしたことに「憲法違反の疑いが極めて濃厚ではないか」と指摘することに一切の不都合はない。「憲法21条には、“集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。”“検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。”と書いてある」。その憲法を変えたいといった意見があったとしても、現行の憲法に背くようなことを権力者がやってはやはり拙い。それだけのことだ。

 加えて大村知事は、「公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない」と話して、お金を出すからその出しての意見に逆らってはいけないといった風潮を批判する。下準備の段階で行政なりの意見が反映されず気にくわない展示が出てしまったことを嘆き、憤ることはあるかもしれないけれど、いったん出てしまったからには後は、権力の側にあるなら憲法を守るべきだと大村知事は言っている。それに対して反日だのどうだのとレッテルを貼るのはまったく筋が違っている。でも今の風潮は、憲法違反であっても表現の自由への挑戦であっても、気に入らないものでありそれを自分たちが反日と感じたものは、批判され撤去され時に燃やされても当然だといったものになっている。ただひたすらに恐ろしい。

 犯罪被害者なり事故災害の犠牲者の名前を果たして実名で報道すべきかどうかといった問題は古くからあって、メディア的にも議論が重ねられているけれど、基本姿勢として新聞テレビといった報道機関の実名を報じるというスタンスに変化はなく、あとはそこにどういう意味づけを持たせるかといったところでいろいろな意見が繰り出されている。本音はたぶん誰か知りたいじゃないかという好奇心からなんだろうけれど、それを言ってしまえば身もふたもないから今は個々の犠牲者なり被害者の名前を伝えることで、それぞれが匿名の誰かではなく名前を持った個人であるということを訴えられると主張してる。

 でもどうだろう。別にそれが仮名の誰かであっても真実が書かれてあるならそこに人生を感じることは可能だろう。仮名だからといって嘘が書いてあるとは思わない。そう思わせないよう事実だけをメディアが積み重ねてきたかは問われるけれど。憶測が乱れ飛んで存命の誰かが命を落としたと思われ迷惑を被る可能性があるといった主張もあったりするけれど、実名を出すことで憶測から逃れられた誰かの一方で名指しされてメディアに押しかけられる誰かが出て良いのかという話になる。

 むしろ今、実名報道の問題はそうしたメディアスクラムに集約されていて、名前が公表すらされていない段階から散々っぱら調べられては訪問されていろいろと聞かれ、記事にされてしまう。そこの段階で遺族がそうして欲しいと願ったならそれは認められないこともない。でも、実名こそが報道の基本だと言ってしまうと遺族の思いはまったく通らなくなってしまう。いくら自主的に線引きしても他がやればうちもとなるのがメディアの人情。だったら最初から完全非公表の絶対匿名をルールづけるしかない。

 それもでも、どれだけの価値ある存在が喪われたかを世に伝え、これからの助力に繋げるかをオミットしてしまいかねないだけに難しい。京都アニメーションの一件では、ほかにも大勢の知られたクリエイターが安否不明のままでいたりする。どうなったか知りたいと思うしどうなるかを考えたいという思いもあって、それをメディアに仮託して公表してもらって、メディアスクラムだ何だと非難するのはやっぱり卑怯になってしまう。分からないしモヤモヤするけど静寂を求めたい相手方に配慮し自分もメディアも自重すべきか、いっしょになって名を知り悼みつつメディアスクラムの“加害者”という立場を甘受すべきか。問題は根深くそして重い。せめて今までに発表された名前の誰がではなく全ての人たちに、それぞれの人生があり成してきた事があったと感じて等しく悼もう。

 LINEノベルが始まってLINE文庫とLINE文庫エッジがレーベルとして創刊されたので本屋さんで物色。リストラクチャリングを食らって前ほどお金も持ってないので4冊しか買えなかったけれどもSFマガジン向けのSFやファンタジーとミステリマガジン向けのミステリなりサスペンスなりホラーをとりあえず抑えていく方で考えよう。最近とある事情で版権イラストとか観る機会が増えた「這いよれ!ニャル子さん」の逢空万太さんによる新刊とか入っててこれがなかなか面白そう。三雲岳斗さんもいたり知らない誰かもいたりと混交だけれど玉か石かは読んでみないと分からないからなあ。ネットなら無料で読めるけれども本になってないと書評もしづらいので頑張って読んでそして働いて買おう。あとは読む時間か。出歩かないと移動の時間に読むってのが出来ないんだよなあ。


【8月4日】 リリルカ・アーデの試練からアポロン・ファミリア相手のウォー・ゲームでの勝利まで、一気に描いてしまっていてテンポ早すぎな気がしないでもない「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか2」の第4話。原作を読んでいるからどういう流れになっているか分かっているけど、すっと出てきて不安ばかりを口にするカサンドラ・イリオンの存在が、ただの不安症なだけなのか予知の力があってそう言っているのかを理解できたか分からない。横で窘めるダフネ・ラウロスがどうしていつも窘めてばかりなのかも。

 あと「豊穣の女主人」亭で働いているシル・フローヴァがベル・クラネルに何か渡したものがどういう働きをしたのかも。それは何となく分かるかな、身代わりめいたもので大元はフレイアあたり。ベルの存命を見届けているあたりに彼への並々ならぬ関心の深さが分かるけれど、展開がいくら進んでもその成長をスパルタ気味に促しはしても、イシュタルのように直接手は出そうとしていないんだよなあ。ベルの出自とかその能力とかについて何か知っているのかな。エルフなのに魔剣を使ったと誹られている理由もたぶんアニメだけ見て来た人には通じないような気がするリュー・リオンは、戦闘の時に身に着ける緑ブルマが目にも鮮やか。リリはあれで意外とグラマラス。そして得た新しい拠点で借金返すために奔走、と。

 次はイシュタル戦。これも4話くらいですっ飛ばして第8巻のクロッゾの魔剣にまつわるエピソードと、ヘスティアの拉致から始まるベルとの絆の再確認か。でもそこに絡んで来るアイズ・ヴァレンシュタイン。彼女の物語も「ソード・オラトリア」シリーズで進んでいるだけに全部がアニメ化なんてなったらあと10年は戦えるだろう。そして発行部数も5000万を超える、と。ポリフォニカとかニャル子とかいろいろ作って来たけどGA文庫は結果、ダンまち文庫になってしまったしこれからもそうなっていくのかな。いやいや面白いシリーズはきっとまた出てくる。なろう系ノベルズに負けない文庫ライトノベルの牙城を守り続けて欲しいなあ。

 不自由な扱いを受けてきた展示物を敢えてまた展示するからには、どういった不自由さを被ってきたかを理解して、同じことがより激しい形で起こってより不自由な扱いを余儀なくされる可能性も考慮に入れて、それでも展示するための道筋を作り、理解も得て安全も確保した上で挙行したんだろうと思いたいから、あいちトリエンナーレの側がそれでも中止にせざるを得なかったのは、あらゆる予測を上回る反応があり圧力があり危害が加えられる可能性があってもはや守れるレベルを超えていた、といった理解をするのが正しいのか、それともどこか予測に甘さがあって、準備が足りず跳ね返すだけの対策がとられていなかったのか。

 などと挙行したキュレーター側に対して思うところが幾つかあったとしても、この一件は表現に対して展覧会を実行した組織に関わってすらいる権力を持った人間が、議論を踏まえず気持ちだけで断罪して中止を求めた上に、そうした展示をしたことについて誰かを(自分を?)傷つけているから謝罪せよとまで言っていることがとてつもなく恐ろしい。どう言いつくろっても権力を持ち権限を持った側による検閲であり、命令であってそこに表現とは何か、それを守る意義はどれだけ大きいのかといった根幹への議論はまるでない。

 けれども、中止は実行に移されいずれ謝罪を求める声も広まっていくのだろう。国会議員方面に広がりも見せ始めているようだし。たとえば、中止が表現的に不適切であって中止されて当然だと訴えるなら、それがどう表現的に不適切なのかを双方が議論する必要がある。それなくして一方的な理解なり感情だけで撤去されることを許せば、あらゆる表現が右だろうと左だろうと権力側のお気持ちによって揺さぶられることになる。倫理であっても気分であっても、それがどういうものかを開示し合って納得を得るような努力。それがあってしかるべきのような気がする。

 一方で、ガソリンが撒かれるといった脅迫があって中止したのなら、それは気持にそぐおうと反していようと脅迫であり、暴力であり、テロリズムであって絶対に屈するべきではないと訴えるのが権力の側、主催する側の姿勢だろう。それなのに、反意をもってテロに屈することは仕方が無いといった雰囲気を漂わせて、中止を求め叶えられれば正当化する一群がいたりるす状況があり、それを大いに支持する人たちがいたりする状況がある。

 これが割とカジュアルに行われてしまう今の雰囲気がさらに進めば起こるのは何か。権力のお気持ちに反すれば暴力を受けて排除されて当然という流れではないのか。それが意味することは。いよいよもってとんでもない時代になって来た。左へと傾いてしまった状況への小さな反発を認め是正しているうちは良かったけれど、それが感情に働きかけて広がり、右へと傾いた時に諫めず横暴でも少しだからと許してしまって来た積み重ねなんだろう。困ったなあ。

 去年だったらMaker Faire Tokyoに行き真夏のデザインフェスタに行きFGOのイベントに行き刀剣乱舞のゲネプロに行って記事にしていただろうけど、そういう立場でもなくなると、FGOはともかくMaker Faireやデザフェスに一般で入って目新しい技術なりフレッシュなクリエイティブに触れたいという意欲が減ってしまうのがなかなか辛い。どこかの媒体に乗せて喧伝することで世の中の役に経ったような気になって、それで承認欲求を満たしていたのが不要とされて行っても外に出せないなら、自分がわざわざ行かなくても良いと思ってしまう。

 これは自分自身の知りたいという欲求が存在していないことの現れ。昔はそうじゃなくパブリックに外に出さずとも自分の日記で紹介できれば嬉しかった。ここのレベルにまずは自分を戻さないといけないなあ。問題はあらゆる場所に出没するためのお金がないことか。もらったお金ならあるからそれを“投資”と思えるかが鍵かなあ。日々の仕事がいつか途切れるんじゃないかという不安もあったけど、どうやらいっぱいありそうなんでそこは安心して良いのかな。何だってやるさ。

 高橋留美子さんの「らんま1/2」について考え始める。女体化しても乱馬は別に胸を揉んだり股間に触れたりして自分の女性を確かめようとはしないし、心も女性となって男性からの告白にドギマギとはしない。お好み焼き屋を経営している右京も男装で登場するけどそれは生き方の都合であって心が男性化している訳ではないし、店では普通の女性の恰好をしてお好み焼きを焼いている。くノ一の小夏はみためは美少女くノ一でそれで男たちを惑わすけれども意図して女をアピールせず見た目で勝手に騙されてくれている感じ。意識は男性のままで女性が近くにいれば嬉しがる。トランスのらんまですら性自認は男性のままで、右京や小夏といった異性装はそれが“仕事”だからといった感じ。そこに今のTS・性転換ムーブメントにおける性自認の揺れはない。時代だったらか。避けたからか。かがみあきらの「鏡の国のリトル」で主人公は女の子になったら股間に触れる。確かめる。それすらない不思議をどう解釈するのかを1週間くらい考えよう。


【8月3日】 昨夜はせっかく三鷹まで通っているのだからと準備中の阿佐谷パールセンター商店街に立ち寄って、今年のハリボテが何かを確認したらやっぱりだった例の店。一昨年は「けものフレンズ」からサーバルちゃんとセルリアンを出して大いに話題になりながら、いろいろあった翌年にネット発のへんたつ鬼を飾って意地を見せ、絶対的な味方の立場を示してくれた。だかた今年はと思った予想はどんぴしゃ。「ケムリクサ」からりんが抜かれ作られていた。

 夜はまだ制作途中だったので、写真にはとってもそのまま公表は避けて帰って寝て起きた朝、どうせ定期券があるのだからと阿佐谷にあるユジク阿佐谷まで映画を見に行く途中で阿佐谷パールセンター商店街に立ち寄って、始まった阿佐谷七夕まつりの中を歩いてりんのハリボテを確認にいく。他に飾りはなかったけれど、りんが単独でぶら下がっては手にケムリクサを持ってあたりを睥睨していた。彼女に守ってもらえればこんなに心強いことはないよなあ。あるいは時間をおいてわかばとか作られていたかもしれないので、時間があったら明日また行こう。隣は伝説の山田たえだった。バルキリーは見なかったなあ。

 サーバルちゃんが飾られた2017年8月はまだ、「けものフレンズ」の続編に関する期待が大いに高まっていた時で、飾られたサーバルちゃんのクオリティの高さとも相まって、どんどんと盛り上がって日本を代表するコンテンツになるんじゃないかという期待もあったけれど、9月25日に起こった“政変”でもってすべてがひっくり返って、そして翌年のへんたつ鬼になってそして今年は「ケムリクサ」。上がって下がってそして盛り返したたつき監督とirodoriの壮絶な2年がその間の変遷には込められていると言えそう。そして僕自身も。去年とはまるで違った立場で見上げる「ケムリクサ」。放送されていた時はまだ……って思うと浮かぶ苦みもあるけれど、それも含めていろいろあった2年間。そして1年後は何が飾られそれを僕はどういう立場で見上げるんだろう。生きていられればそれで結構なんだけど。頑張ろう。

 ユジク阿佐谷では2015年に1度だけ上映されて、その時も見ていたドキュメンタリー映画「飄々〜拝啓、大塚康生様〜」を鑑賞、割と満席だったのは今、まさに大塚さんがある意味でモデルになっているキャラクターが登場している「なつぞら」がNHKの連続テレビ小説として放送されているからなんだろうなあ。あの奇矯な天才は本当はどんな人なのか、誰だって興味あるだろうし。映画自体は2度目だからだいたい内容は知っていて、大塚さんがルパン三世というかモンキー・パンチさん風の絵を最初はあまり描けなかったのが、練習を重ねたかどんどんと近づいているという話をおおすみ正秋さんがしているのを改めて聞けた。

 子どもの頃から本当に写生好きスケッチ好きで、昭和19年とかに描いた機関者の絵が綴じ込まれた冊子なんかがあってそれがもう完璧に完全な機関車で、子どもの頃から本当に上手かったんだってことが分かった。というかそこまで描き続けて来たから上手くなっていたのか。それなのに最初は麻薬取締役官になって、そこからまた絵の世界に戻っていってアニメーターになる。なおかつさらに練習を重ねてさらに上手くなっていく。天才であると同時に努力家でもある人物。それが大塚康生さんとうアニメーターなんだろう。

 というか、機関車のスケッチが上手いこととアニメーターとして絵を動かすのが得意なこととはまた違う話で、アクション作画とかをどうやって学んでいったのか、それをどうやって絵に落とし込んでいったのかが気になる。静止画としてスケッチするのではなく、動画としてクロッキーをしていくんだろうか。自分の中で動きを思い出しながらつむいでいくんだろうか。今みたいに録画して再生なんて簡単にできる時代ではないし、ましてやYouTubeみたいなネット動画が溢れていて、それを参考に見るなんてこともできない訳だし。

 つまりはだから、徹底した観察と記憶をサルベージするような再現。それを日々重ねていったことで生まれたフォルムと動きの調和。同じことを他のアニメーターができるかはともかく、向かう努力は必要だろうなあ。そうしないともう、かつてのようなアニメーションは生まれなくなってしまう。京都アニメーションで動きの作画を徹底して教えて基礎を作った木上益治さんも喪われてしまった今、改めて動かせるアニメーターの育成を。業界挙げて。国も支えて。

 あいちトリエンナーレでいろいろと騒動が。って別に本来は騒ぐような話じゃないのに、騒いだことで展覧会が意味したものが余計にくっきりと浮かび上がってきた感じ。世にタブーというかいろいろと圧力があって展覧会から撤去された作品が過去に幾つもあって、それらを集めて「表現の不自由展、その後」といったタイトルでこういう作品が展示されなかったんです、どうでしょうとある種総体としてのメッセージ性を持って送り出された企画が、その意図を踏みにじるというか真正面から体現するようにして、ケシカラン作品がまた展示されてケシカランといった反応だけを呼んで、撤去を求める声も誘って不自由な表現の有り様を、まさに可視化させてしまった。

 そういった曰く付きの作品が集まっている場なんだから、どうして撤去されたのかを理路整然と語り表現とはかくも不自由なものである、あるいは不自由な表現があっても許されるといった立場を語ることによって自分たちの味方を増やしつつ、不自由さに押し込めたい表現を狩れるにもかかわらず、ただ気にくわないからと改めて不自由さをつきつけるだけのスタンスに、発展性はまるでない。そうした言動も含め撤去されからっぽになるまでが「表現の不自由展・その後」というアート作品でありインスタレーションでありパフォーマンスなんだと言えば言える気もしてきた。

 ただ、そうやって趣旨のために個々の表現を黙殺され、オミットされる作品があってはいけない気もするから、展覧会そのものがインスタレーションだったとは思わない。ただ、やはり撤去まで含めてアートと嘯けば、そこで表現が不自由さを被るのを認めてしまうことになるので、突っ張って語る場にしようと呼びかけて欲しかった金髪プロデューサー。なのに関係者に迷惑がかかるから、安全のためにといったスタンスで撤去を許そうとしているところがあって、そうやって表現は潰されていくのかと思うと、また類似の圧力を生みかねない可能性にも考えが至って気が滅入る。

 知らん顔して最後まで、貫くのが良かったなあ、そして表現規制に反旗を掲げる与党参議院議員の先生も、表現者の自己責任を言うのではなく表現の場の絶対死守を訴えて欲しかった。個々の表現者に責任なんて押しつけて、危険にさらしてそれでも死んでも表現しろと? 可能な表現が圧力を受ける状況をこそ糾弾して絶対守ると言うのが表現規制に反対して当選した人間としての責務じゃないのか。いろいろとあぶり出されるスタンス。それも含めて記録して、表現の不自由が今の社会にどう蔓延り、そして将来にどんな禍を招くのかをじっくり見ていこう。見ていられれば。


【8月2日】 あれでいきなり歌ったのが「アジアの海賊」だったらキャロルもチューズデイもひっくり返っただろうけれど、喋り声と歌声がまるで違うのは蒼井翔太さんが演じたピョートルでも分かっていたことだから、山寺宏一さんが声を演じたデズモンドの歌声が「アジアの海賊」ではなくても別に不思議はないというか、「アジアの海賊」だったら不思議極まりなかったというか。体が病に冒され変化もしていく中で、デズモンドという伝説のシンガーは温室のような場所に留まりひたすら作曲と歌唱を続けている。

 気まぐれでもなければ偏屈でもなく純粋に、美しい歌を探求したいという思いでそこに留まり続けているけれど、時に気になる歌声があれば招いて交流をする。そんな生き方。そして耳にとまったキャロル&チューズデイの楽曲を気に入って招いて自分が歌い案内し、訪れた人たちから寄せられたサインを見せてそして戻り薬を拒否して歌って長い眠りに就く。あそこで命まで奪わなかったのは作品としての易しさからか、起こるキャロル&チューズデイへの反発を避けたからか。

 ただ、歌い続けるという生命のような行動をここで追えても聞かせておきたかった2人って意味から考えるなら、その2人から生まれる歌声もまた世界を変えていくことになるんだろう。奇跡の7分間。チューズデイの母親が火星の大統領選挙に出て地球に対して厳しい姿勢を見せることで支持率を集めて上に立とうとしている。過激で耳障りの良い言葉で勝っても後が大変なのはこの国の外交が証明しているのに……。そういうことへの指摘も成されてくれるんだろう。今まさに威勢が良いだけの外交が成されて世界から孤立しようとしてるだけに。

 消費税の引き上げが間近に迫っていると言われていながらもあまり駆け込み需要が見られないと、政府だか行政の担当者が言っているって記事が出ていた。たった2%上がるだけだから、なんて意見もあったけれどもとんでもない、その2%はこれまで払っていた分の4分の1の額ですなわち25%も支払い分は上がる訳でそれなら前倒しでいろいろ買っておきたいという気持は起こって当然。でもそれが盛り上がらないのはもはや駆け込み需要をしたくなるほど、消費に対して心が向かないからなんじゃなかろうか。

 ちょっと先に買っておきたいものがあるけど、今ならまだ安いから買うのが駆け込み需要。でもこの疲弊して沈滞した経済や家計ではちょっっと先ですら何か買おうという気を誰も持っていない。だから今あえて買おうという気にならない。そんなことなんじゃないのなああ。そして言われている10年後、20年後の経済不安が、今だろうとちょっと先だろうと何かを買うのを躊躇わせる。それこそその時代にインフレで価値が10分の1に下がると言われれば慌てるけれど、インフレと引き替えの賃金上昇がないため今すぐに動けるだけの蓄えもない。だからだんまり。そして動かず消費は冷え切ったまま続いていく。消費税が上がればなお冷える。そんな悪循環の可能性が見えていてなぜ実施する? 思考能力がやっぱりトロけているんだろうなあ、界隈の人たち。やれやれだ。

 部品を切り取って貼り付けて組み立てて色を塗ってといった手間が膨大で厄介なプラモデルという遊びなんて早くになくなり、完成品のフィギュアや模型に移るかと思っていたけどガチャポンで300円も出せば立派なフィギュアが手に入ったのも昔の話で、生産拠点となっていた中国の人件費とかの高騰もあってか最近は、完成品フィギュアの値段が前より随分と上がってしまっている。そうなるとやっぱりプラモデルってことになるけど、作る手間色を塗る手間はやっぱり厄介というところで、バンダイは10年以上も前から簡単に組み立てられて色を塗る必要もなく動きもフィギュア並みといったプラモデルを作れる工場を運用してきた。ガンプラが今もなお売れ続けているのはそんな背景があるからだおう。

 さらに最近はもっとフィギュア的なプラモデルを作って世の中に送り出している。ドラゴンボールとかラブライブ!とか。そんな多色他材生計の技術を後はだからどう商品と組み合わせるかってところで企画力も問われる時代になっているんだけれど、まずは生産拠点の増強ということで東静岡にあるホビーセンサーを増設させる模様。昔みたいに品切で買えなくなるなんて時代でもないからむしろ品揃えを増やして多くにアプローチできる状況を作るってところか。職を探していろいろと求人サイトを漁っていた時、バンダイホビーセンターも勤務地に入ったプラモデルの企画担当者の募集もあったっけ。そういう中から何か新しいものが生まれて来るのかも。期待して展開を見守ろう。

 京都アニメーションを襲った放火事件によって亡くなられた方のうち、10人の方の名前が公表されたとか。見てだいたいが事前に情報が出ていた方で、葬儀などが営まれた際に取材が入っている人がいたりして、ひとつの線引きになっているような気がした。とはいえ、改めて武本康弘監督に西尾太志さんに木上益治さんといった名前を見ると、心に浮かぶ残念な気持もさらに益す。西尾太志さんは「リズと青い鳥」や「映画 聲の形」のキャラクターデザインを手がけた方で、あの独特のフォルムなり表情なりを持ったキャラクターの印象が、やはり亡くなられたことが親族から明らかにされている石田奈央美さんの色指定と相まって、映画の世界をビジュアル面から印象づけてくれていた。

 ある意味では演出や声優による声、音楽以上に映画の印象を左右するセクターの責任者を失って、同じ映像はもう出来ないのかと思うと寂しさと悔しさがさらに増す。どうしてだ。どうしてなんだ。憤りすら浮かんでくるけどどうしようもないこの状況が、これからどうなっていくのかはまったく見えない。まだ10人という状況が意味するこれからのショックも覚悟しておかなくてはいけないのかもしれない。今は未来をどうこう言うときではないのだとしたら、悼みつつ負傷された方々の快復をひたすらに祈りたい。頑張れ。頑張れ。世界は、そして僕たちは応援し続ける。あなたがたを。京都アニメーションを。


【8月1日】 そして目覚めたら「シン・ウルトラマン」の製作が発表になっていた。前から噂は出ていたけれども「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の完成も見えない中での噂ではやっぱり信用に関わると公式の発表は抑えつつ、エヴァの方の公開月を発表してからの公表となった感じ。見ると監督は樋口真嗣さんで庵野秀明さんは「シン・ゴジラ」とは違い総監督ではなく企画と脚本が今のところ。でも「シン・エヴァンゲリオン劇場版」をアップ次第、合流するそうなのでいろいろとアイデアなんかも入れ込んで、それを樋口監督が入れつついなしつつ良い感じに庵野色を交えた作品にしていくのだろう。

 というか、庵野秀明監督といえばやっぱりDAICONフィルムでの「帰って来たウルトラマン」であったウィンドブレイカーを来た庵野秀明さんが巨大化して怪獣と闘うストーリーが頭に強く残っている。それをまさか再現はしないだろうけれど、ウルトラマンより帰って来たウルトラマンの世界をどこか再現したものにしてくれそうな気がする。子ども向けでありながらも深いストーリーを持った。怪獣映画が根底にあるゴジラとは違いヒーロー物を捻ったり曲げたりは出来ないだろうから。

 ところでやっぱり気になたのは「東宝」ということろか。昔はそりゃあ円谷英二は東宝でいろいろと作っていたけど、円谷プロダクションを立ち上げてからはテレビ向けに作っていたし最近のウルトラマン関係の映画は松竹が配給していたりする。そうした路線とはまた違ったものを配給元を変えて提供していくという色分けを考えているのか、庵野……ではなく樋口監督が意図する映像を作るためには松竹では足りない東宝だとなっているのか。カラーも製作に入っているから出資はするんだろうけれど、元は円谷プロダクション経由でフィールズってことになるのかな。そう思えば結構なバジェットを確保できるかも。さてもどうなる。2021年かあ。生きていられるかなあ、それまで。頑張ろう.

 難病物、って括っちゃっえば括れそうな設定で、同じメディアワークス文庫から出て映画化もされた佐野徹夜さん「君は月夜に光り輝く」とも重なるけれど、そんな難病を経ての詞が死が浮かび上がらせる関わった人たちの心の色彩を思うと、有り体には括れないところがある物語。それが斜線堂有紀さんによる「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」(メディアワークス文庫)だ。体が硬化しやがて死ぬと体が金塊に変わる病気に罹った都村弥子という女子大生が、海の近くにあるその病気専用に作られたサナトリウムに入院していた。

 経済的な観点から行政によって誘致活動が行われた一方で、反対運動も行われたりしたサナトリウムの壁にはペンキでいろいろな落書きが描かれていて、その中には黒々としたクジラの絵もあったりした、そんな施設から顔を出した弥子が落としたマフラーを拾った中学生の少年、江都日向は弥子に誘われるようにして病室を尋ねて行く。そこで日向は弥子からゲームのチェッカーをして自分に勝てたら死んで3億円もの金塊になる自分を相続させるよと言われる。

 父親が消えて母親はサナトリウムの反対運動にのめりこみ、ころ柿混んで来た男は地域の活性化に早くから取り組みながらも挫折して引きこもり状態。こんな家から、こんな街から早く抜け出したいと思う江都には3億円は魅力的に映ったけれど、それにのみ執着する雰囲気は見せないまま、江都は弥子の病室に通いチェッカーをして負け続ける。すべて正解の手を指せば絶対に引き分けになるチェッカーというゲームで。それは正解を知らないからなのか。知って引き分けた先に受ける相続という成果にどこかためらいがあるからなのか。単純にまだ弱いから、なのかもしれない。

 それでも勝負は進み、弥子の病状も進む。足首から先など硬化した部分を切断しながら生き続ける弥子の姿に江都は涙を落とし、見ている僕たちも涙する。このあたりは、親しくなった人の近づく死を思い悲しむという意味で難病物の定式と言える。とはいえ、どこかに3億円が手に入れば、嫌いな街から抜け出せるのではといった思いを巡らすこともあって、弥子の死を純粋に悲しんでいるのかを迷わせる。ただそれは、不動産や金銀財宝といった一般的な財産を持った親しい人の死とも同種。弥子の肉体の死と引き替えに生まれる金塊を受け継ぐこととは少し違う。

 いや、金塊とても引き取られて金に換わるのだから財産と同じかもしれないけれど、ダイレクトにつながる手の中の金と親しくなった人の死を、同列に思えるかどうか。そこはなってみないと分からないのかもしれない。僕は未だ死にともなう相続という状態を過ごしたことがないだけい。江都の場合は揺れ始める気持に、大金と引き替えにはし難い思いの形、強さが感じられた。だから受け入れて受け止めて歩き出せたのだろう。後悔はせず。

 弥子の側は何を思って江都に接近を揺るし相続を持ちかけたのかにも興味が向かう。寂しかったからか。からかっただけなのか。自分という存在を誰かに残したかったからなのか。それがどうして江都だったのか。そもそも江都と決めていたのか。そして最後はどうしてああいった決定を下したのか。そこにもいろいろな想像を促される。『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』。人は好意を抱いた人の死に何を思う。人は好意を抱いた人に死をどう残す。そんな問いかけをもらえる物語。映画化されるかなあ。

 笑うというか噴き出すというか、天下のセブン&アイ・ホールディングスの傘下で始まったスマートフォン決済の「7pay」が9月でサービス終了との報。いきなりハッキングか何かを食らって勝手にチャージされては持っていかれる事案が続出し、いったん閉めてさて再開となったら今度はパスワードだかを強制リセットされてしまって、そして再設定してアクセスしたらチャージしていたはずのお金が消えてしまう事案が続出したらしい。もうサービスとして最悪というかサービス以前の問題で、これをどうして導入しようとしたのかが分からなくなって来る。テストとかしてないんだろうか。してもこうなんだろうか。謎。せめて11月まで運用してくれればセブンでイレブンなんだけれど、そこまで持たなかったんだろうなあ。でも流通にとってスマートフォン決済はいずれ来る道、どこかに乗るのかな、ファミマペイとか。

 今日から解体のための工事がスタートするということで、代々木にあって新海誠監督の映画「天気の子」に登場した代々木会館を見物に行く。近辺を歩いていた時はあることは知っていても特に気にもとめなかった建物が、ああやって映画で“大活躍”すると途端に特別なものに見えて来る。「傷だらけの天使」でも使われていたけど時代が古すぎてピント来ないのがアニメーションだとグッとくるのはやっぱ新しいからかなあ。他にも見物に来ていた人がいて写真とかにとっていた。テレビ局も来ていたとか。テレビ朝日だったら解体も含めてメイキングをとっておけば後でテレビ放送する時に使えるのに。そういう千恵が回る人はいないかなあ。パッケージ化の際にロケハン映像が使われることを願おう。



(ACCESS COUNTER '96.07.20)


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