縮刷版2001年8月下旬号


【8月31日】 夏休みの宿題の読書感想文を書こうと思って書けず悶々としている所に襲ってきた眠気と戦い呆気なく敗北。ここんところずっとそうしているよーに、椅子とゆーより本の山の上に椅子の座面だけ置いて椅子代わりにしている所から、地続きになったベッドへと足を伸ばし椅子部分から流れて積み上がった本の山の天辺に、クッションを置いてそれを枕代わりにして頭を下ろして横になり、背中が痛いのも構わずしばし微睡む。「ノワール」の時間には起きようと思ったけれどやっぱり無理で気が付くと朝。どんどんと扉を叩く音に目覚めて傍目にはゴミにしか見えない本の山を乗り越え玄関まで行き、予約からずいぶんと経ってようやく発売になった阿部和重さんの芥川賞残念賞受賞作「ニッポニアニッポン」(新潮社、1200円)を受け取りそのまま読み出し最後まで一気に読んでしまう。やあこれは面白い。

 日本では絶滅が確実なトキを絶やしてはいけないと中国から番(つがい)のトキを連れてきて繁殖させ孵化させ育成しようとするプロジェクトがあって、けれどもよくよく考えてみれば日本原産でもないトキを連れてきて子供を産ませてそれを果たして「日本のトキ」と言っていいものかどうかと悩みつつ怒りつつ、どこかに欺瞞を感じてこれを解き放つなり殺害するなりして「人間の書いたシナリオ」に反抗しようとする17歳の少年が主人公とゆー設定がまず響く。でもってトキの繁殖にはしゃぐ人々の欺瞞性の源を、「ニッポニア・ニッポン」とゆー学名がそもそもトキに付けられているからなんだとゆー点に見出していく思考は、17歳の少年とは思えないくらいに聡明だけど一方で妥協せず愚直なまでに考え抜かれていて、そーした結論へと達するプロセスの真っ直ぐさは、汚れておらずスレてもいない17歳の少年らしーと言え、よくもまあここまで「17歳」になり切って書いたものだと感心する。

 中学時代に関心を寄せた少女にストーカー気味につきまとった挙げ句に警察沙汰となり故郷に住めなくなって東京へと出たは良いものの、父親の友人が営む洋菓子屋での仕事にはじきに行かなくなり部屋にほとんど閉じこもってはインターネットで情報を見て回って過ごす日々。そうなってしまった理由が自分の少女への執着心にあるにも関わらず、それを彼女のためだと正当化して省みない思考プロセスの真っ直ぐな歪みっぷりも実にリアル。ストーカー気味で引き籠もり気味な少年の想いをシミュレートし、なり切って描写したんだとしたら阿部和重、さすがに今を代表する作家だけのことはある。

 芥川賞の選評で誰かがトキを倒しに行く上であれこれ動機が説明され過ぎてるって書いていたけど、それは別に作家が説明しよーとしたんじゃない。17歳の少年が、世間的には犯罪とされている自分の行為を正統化するために必至で理由を考え出し、理屈をこね上げるプロセスを描く小説なんだから説明され過ぎて当然だし、ない方が逆に気持ち悪い。分別のついたご老人たちが読むといかにもな反社会的小説に読めて辟易してしまうのかもしれず、だからこそ選考委員では比較的若手の(ベテランだけど)池澤夏樹さん、宮本輝さんしか誉めてなかった訳だけど、10代ど真ん中かあるいは10代の尻尾を引きずったモラトリアムなコミュニケーション不全人種が読むと、胸とか背筋に結構ヒリヒリと来る小説だろー。様子を見に来た両親のしなだれかかって来るような懸念を足蹴にし、ウザいと怒鳴りつけ最後は無視する行動なんて30過ぎて一人暮らししている男女に結構イタいかも。

 最後の方に登場して来る14歳のプチ家出少女との関わり部分があるいは救いになるのかも、とか思ったけれどそーしたある意味嬉しくある意味安易な展開にはせず、結局最後まで行ってしまってどこか滑稽な、けれども当人的には真摯な結末へと至り、さらに別の同じよーな引き籠もり少年へと伝染していく展開に今っぽさを見た気がする。カタカナのサヨク的な青年たちがパン屋を襲撃するよーな感覚でプチ革命っぽくやっても、閉塞感にあえぐノンポリの中年おじさんたちが元青年の主張っぽくやってもそれなりの展開にはなったと思うけど、自らの鬱屈を世間全体にすり替えて躊躇わない17歳の少年に主役の座を与えたあたりに、今とゆー時代を見る作者の目の冴えを感じる。関係あるのかないのか知らないけれど、主人公が入れ込んだ少女の名前が本木桜ってのがちょい気になる。SFファンも入れ込む位に可愛かったのかな。口癖が「はにゃーん」とかだったら僕だって惚れてたな。

 文中にクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」の詩が出てきて、英語苦手なんで内容判読できないんでどーゆー意味合いを持つのかちょっと分からないんだけど、雰囲気だけで言うならたぶん最後の最後になって主人公に退行したい願望でも出てきたんだろーと推測。そんな場面に「ボヘミアン・ラプソディ」の内容と、フレディ・マーキュリーのあの浪々として切々とした歌声がきっとマッチしてたんだろー。そのフレディと長く友人関係にありパーソナル・アシスタントとして仕事の上でもプライベートな場面でもサポートし続けたピーター・フリーンストーンって人の「フレディ・マーキュリー 華麗なるボヘミアン・ラプソディ」(DHC、田中雅子訳、1800円)が出てたんで読む。同じクイーンのメンバーでもフレディ以外についての言及は皆無に等しく、フレディの才能、フレディのふるまい、フレディのプライベートについてのみ、その死の瞬間に至るまで書いてあって世紀のスーパースターが日常どんな人物だったかを教えてくれる。

 フレディ、といえばつまりはゲイであの服装あの口ひげあの髪型の”いかにもさ”がよく取りざたされるけど、口絵に登場するフレディのプライベートでの友人たちの実に相似形なのにはちょっと吃驚。ニューヨークのジム「ジム・クルツ」で仲間たちと撮った写真なんて5人が5人とも口ひげをたくわえていて、スリムに鍛えられた体をランニングシャツとかTシャツ姿につつみ、笑顔をたたえた5人が方を寄せ合いながら写真に向かって目線を送っている絵面にはなかなかに衝撃的なところがある。風呂に4人で入っているうちの3人がやっぱり口ひげさんだったりする写真もあるし、「ニューヨークの娘たち」と呼ばれた仲間たちと自室のベッドを囲んで談笑する写真なんかも結構あからさま。世の中にはいろいろな人たちがいてそれぞれに触れあいを慈しみながら生きているんだってことが分かって為になる。ベッドの上に乗った愛猫をながめているフレディの写真がちょっと良い感じ。改めて音楽界は惜しい人を亡くしてしまったもんだと感慨にひたる。

 伊藤伸平さんの「素敵なラブリーボーイ」(少年画報社、495円)を読む。演劇部に入ったらそこは女子部員しかいない花園で部長はロングヘアーの前髪をカチューシャで上にまとめた委員長タイプの眼鏡っ娘でおまけにグラマーと来て、好意を寄せて言いつけは何でも聞く使いっぱしりをやっている少年が主人公だったりして、おまけに主人公には幼なじみがて生活はキツいんだけどシャイな所があって少年が好きなのについつい乱暴なことをしてまう、ってゆーお約束の人物配置。さらに加えて主人公に好意を抱く第3の女性まで出てきて……ってな展開だけを聞くとよくあるラブコメなんかを想像するけど、そこは微妙にズレたキャラクターの造形で定評のある伊藤さん。基本になるよーなカップルを配置してそこに色々な妨害なりちょっかいなりが絡む展開にはしなくって、それぞれにてんでバラバラな方向を向かせたまんま、ハッピーエンドにはせずかといってバッドエンドでもないフェイドアウト的な展開にしてあってちょっと不思議な読後感を得る。連載が終わってしまって最後まで描けなかった、って可能性もあるのかな。

 西園寺まりいにちょい似てるけどまりいほど性格がキツくない部長の京子さんも良いけれど、元空手部でそばかすがあってお姉さま風な容貌の姫もあれでなかなかだし、2年生で後に部長・副部長になる、いつもつるんでて喫茶店でぼけらっとしている2人組もそれなりにそそられる。主人公の少年に突如本気で告白をする由也(よしなり)さんって何考えてるんだか分からない少女の何考えてるんだか分からないぶりには戸惑うけれど、その何考えてんだか分からない様にもやっぱり惹かれてしまう辺りの節操の無さに、我ながら頭が痛くなる、どれも二次元な訳だし。

 美人度で言うなら演劇の天才らしー後藤先輩が抜群だけど何せ名前が久美雄だったりするんで迷うところ、って迷うのか? でも迷うんだよなあ。幼なじみで乱暴物で告白したいのに出来ない尋子が実は案外とラブコメのキャラっぽいんだけど、あんまり絡まないまま不撓不屈の信念だけを燃やしつつ一巻の終わりとともにフェイドアウトしていく展開はちょっと可哀想な気が。可能性はゼロ以下だろーけど機会があれば同じよーなキャラ造形で続編なり枝編なり別編なりを描いて頂きたいところです。


【8月30日】 「ヤングキングアワーズ」10月号は冒頭で冲方丁さんが原作で「LAD:UNA」の伊藤真実さんが絵を担当した「ピルグリム・イェーガー」ってマンガがスタート。16世紀のたぶんヨーロッパかどっかを舞台に。業を背負ったよーな陰を漂わせながら、市民たちを危険に陥れる妖怪変化の類と戦う少女たちの活躍を描いた内容で、アメコミとは違うんだけど日本人ばなれした雰囲気の絵が、重苦しさの漂う時代背景や神秘的なものが絡む物語の内容と妙にマッチしていて堪能できる。男はともかく女性の美しさが抜群。ローライズのパンツにへそ出しルックはあんまり中世っぽくはないけれど、全身を覆ったよーな衣装じゃ楽しみもスポイルされてしまんで良しとしよー。写楽クンの使ってた槍に似た武器とか手の包帯から生えてくる角とかいった不思議な道具に能力を駆使して戦う美少女たちの活躍に、今は期待が膨らんでます。

 緻密にして重厚な作品を書く人ってことでどこか神経質だったり学者っぽかったり逆にオタクっぽかったりする人を最初は想像していたんだけど、「第40回日本SF大会」の会場で見かけた原作者の冲方丁さんは、身長で言うなら軽く180センチは超えていそーな長身痩躯の顔立ちも含めた良い男。モデルだって務まりそーなビジュアル系で、作品世界以上にファンを集めそーな印象を受けた。ビジュアルだったら京極夏彦さんとだってため張れそー。作品に盛り込む知識の豊富さでも結構競ってて、「ピルグリム・イェーガー」だと「愚者」とか「運命の輪」とかいったタロット絡みの設定が折り込まれていて、大アルカナの数だけいろんなキャラが出てストーリーの深みを増して行きそー。これまた楽しみ。

 斜めから見ると細面の美女あるいは美男子でも、真正面から見ると意外にふっくらとしていてガッカリだったりするのはよくあること。角度が人間の目に及ぼす錯覚の恐ろしさを痛感させられるシチュエーションだろー。逆にちょっぴり顔がふっくらしてきたなあと鏡をながめて思った時、ちょい斜に構えて鏡に映してまだまだ十分に細いじゃんと、無理矢理自分を納得させることも結構ある。ちょい斜めにしている関係で、首筋も引っ張られて顎の線とかちゃんと出るからますます痩せてるよーに思える。もちろん見る人が正面から見れば、容赦なく「太ったね」「顎が消えたね」「デブになったね」と言うんだろーけれど。

 2次元のマンガ描きさんとゆー人はその辺が巧みで正面から見て細面の美男子が斜めから見た時に細過ぎてしまうよーなことには絶対ならず、正面から見て受けた印象をそのまま引き継いだ格好良い顔を斜め45度だろーと斜め60度だろーとまったくの真横だろーと描いてしまう。アニメーションも同様で、どんな角度であろーと常にベストの顔にちゃんとなるよーに、原画も動画も描かれている関係からか、ぐるりとカメラが回り込んでも顔の可愛さ、格好良さに劣化はない。物理的にリアルじゃないってのは百も承知。けれどそれが心に嬉しいリアリティってものだと、誰もが理解してマンガを読みアニメを見ている。

 いった何の話かと訝る人ももうちょっとだけ我慢を。さて最近になって続々と登場して来た3DCGのキャラクターは、モデルさえ作ってしまえば後は自在に正面だろーと真横だろーとカメラのポジションさえ移動させれば原画も中割も必要とせずに、顔を映し出すことができて、動画の手間とかいらなくなって作る上で結構な効率化を実現できるらしい。それはそれで結構なことだけど、哀しいかなリアリティがリアルになってしまった関係で、斜めから見て美人あるいは美男子だったキャラクターが正面に回って見た時に、何かとんでもないものになってしまう可能性を浮かび上がらせてしまった。いやいや例えば映画「ファイナルファンタジー」の主人公のアキは正面からも斜めからもちゃんと美人に見えるじゃんと言う人もいるだろー。たぶんそれは幸運な例だ。最高のモデルを最高の技術で作り上げ、可能な限り質感を人間に近づけた結果、ふだんの生活で見慣れている範囲の変化しか見る人は感じないで済んだ。美女はどこから見ても美女ってこと。

 けれどもこれがデフォルメの行き届いたアニメ的なキャラクターだったらどーだろーか。その答えを知りたい人は12月20日にいよいよ発売となるコナミの恋愛シミュレーションゲームシリーズ最新作「ときめきメモリアル3」を買えば良い。3DCGで描かれた美少女の斜め45度のバストショットにときめいた人に、少女が正面を向いた途端襲いかかるだろー衝撃が、果たしてどんな波紋を疾走させるか今から楽しみで仕方がない。もちろんこれまでだって3DCGの美少女はいたし、どこから見たって可愛く見えたキャラクターもあった。光の加減がちゃんと付けられ影が描かれてさえいれば、化粧じゃないけど丸顔だって細く見えるものだろー。

 が、「ときめきメモリアル3」のために導入された「トゥーンレンダリング」とゆー技術は、3DCGの微妙なグラデーションを排除しベタっと2段階くらいに塗り分けてしまうとゆー、それはそれでちょっと凄いテクノロジーなんだけど、段階のあった陰影がとれてしまった結果起こるのは、例えでいうなら影絵として映った円柱みたいなもので、実物は光の当たり具合で細く見えても、影になったらただのベタっとした長方形にしか見えない。これを「トゥーンレンダリング」の技術を採用した「ときメモ3」のキャラクターにあてはめてみた時に、起こるのはいったいどーいった現象だろー。想像はできる。けどあんまり想像したくない。実物を見てしまった今ですら。

 つまりはだから「ときメモ3」のキャラがどーなんだと言われても、やっぱり12月20日発売のソフトを見て感動して下さいとしか言えないんだけど、冬場ってのは餅でも肉マンでも暖かみのあるふっくらとしたものに惹かれるのが実状。そんな時期に投入の潰れ甘食軍団、じゃないサトウの切り餅集団、でもない「ときメモ3ガールズ」の、母性を思い出させてくれるよーな柔らかみ暖かみにきっと大勢の男性が惹かれ憧れることだろー。期して待て。ちなみに今作では野尻抱介さん待望の眼鏡っ娘がキャラクターに登場、その名も河合理佳ちゃんは、ピンク色の髪はともかく丸い大きな眼鏡にお下げとゆービジュアルが眼鏡っ娘な人にとってインパクト大。でもってそれにとどまらず、リカちゃんだけあって「科学の力を信じ科学の道を突き進む、破天荒な『メカトロニクス少女』。生みだすメカは陸海空を問わず、重厚長大から軽薄短小へと多岐にわたる」性格だそーで、理科系眼鏡つ娘として「ふわふわの泉」の泉の向こうを張った活躍を、きっと見せてくれることだろー、萌え萌え。

 そうそう「ヤングキングアワーズ」10月号のコラム「ゲームへその穴」で任天堂がちょろりと見せた「ねこぢるゼルダ」の話題が出ていて、「トゥーンシェーダー」の技術に関して「色彩調整ですとか、ポリゴンモデルの調整が非常に難しい。きちんとした3Dをのっぺりと見せ、なおかつデフォルメとしておかしくない陰影をつけるのは、至難の業なのであります。というか、現時点でまだどのメーカーも成功していない」って書いている。でもって「けれども登場したそれ(ゼルダのこと)は、どう見てもディズニーのアニメみたいなフルアニメーションの画面の世界。さらにその中で、キャラクターがちゃんとマンガチックな動きもしてくれる」って言っていて、任天堂の仕事ぶりを讃えている。同じ筆者が「ときメモ3」に何と言うか興味のあるところ。「実に見事のロリプニ感を出していて頬摺りしたくなった」とか言うのかな。来月の同コーナーに期待。でもやっぱ「ゲームキューブ」関連になるんだろーな、発売直後だし。


【8月29日】 夏バテ気味で体調悪く零時を回ると椅子の上で眠ってしまう状況が続いてて、あんまり長い文章が書けなくなっててすいません。ナチスのお抱え建築家としてあの有名なニュルンベルグの党大会の会場を設計してナチスドがカッコ良さを演出するのに大きな役割を果たしたアルベルト・シュペーアの自伝「第三帝国の神殿にて」(中公文庫)の下巻が登場。前にテレビで「ヒトラーの側近たち」とかいったドキュメンタリーを放映していた時に、その若さその才能にちょっぴり興味を持って注目して、大昔に読売新聞から出た本を探したけど見つからなかっただけに、読売に買収されたってこともあって中央公論新社から文庫で再刊なっていたのを見つけて先月に上巻、今月は下巻をその場で買ってしまった。しかしこ「中公文庫BIBLO」、ほかに読売が編纂した「20世紀 大日本帝国」とか毛沢東の「遊撃戦論」とか北一輝の「支那革命外史」とか石原完爾「最終戦争論」とか大杉栄「大杉栄自叙伝」とか郭末若「抗日戦回想録」とか、左右硬軟入り混じってるなかなかに不思議なラインアップ。左右に揺れた某ワンマンマンの趣味なのかなあ。

 シュペーアの場合は最終的にはナチスの軍需相として効率的な生産体制の構築とか、ジェット・エンジンやロケットといった新兵器の開発の能力を発揮してしまった関係で、戦後ニュルンベルグの裁判で戦犯に問われて20年の禁固刑を受けることになったけれど、シュペーアが建築でもってナチスの威光を国民に示し世界に喧伝したのと同様に、こちらは映像でもってナチスって何か格好良いじゃん、ヒトラーの言ってることって正しいじゃん、と思わせドイツの進んだ道に結構大きな影響を与えた映画監督のレーニ・リーフェンシュタールの場合、あくまでも映像作家としてナチスの依頼を受けて仕事師として己が美学を貫き通して格好良い映像を作っただけ、ってことで戦後も戦犯に問われるおとなく、それどころか今なお健在で海に潜ったりアフリカに行ったりしてドキュメンタリーを撮り続けている。

 そのレーニ・リーフェンシュタールの党大会3部作「意志の勝利」「信念の勝利」「自由の日」の主に「意志の勝利」と、これまたその運営のビチっとした統制ぶりと、ヒトラー総統の威厳を見せることでナチスの力を世界に喧伝する役割を果たしたベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」で使われたさまざまな編集テックニックを、逐一調べて明らかにした瀬川裕司さんの「美の魔力 レーニ・リーフェンシュタールの真実」(現代書館、3500円)を読むと、ドキュメンタリーと言いながらも後から撮影した映像を混ぜたり、同じ場面をバンクよろしく何回も使い回していることが分かって、レーニ・リーフェンシュタールの「映像美」へのこだわりぶりが伺える。党大会なんて実話の7日が映画だと5日になってしまうんだから、やり過ぎっていったらやり過ぎかも。それで許されたんだからやっぱり相当に総統のお気に入りだったとも言えるけど。

 結果として、あるいは深層心理の部分では「芸術的であると同時に政治的」(310ページ)な映像を作っていた人だけど、同じ日本人が違う競技の応援に同じ格好で何度も登場したり、見栄えのために特定のシーンを裏焼きにしてつないだりする行動には、ナチス礼賛といった政治性よりはやっぱり「<美しいか美しくないか>もしくは<強いか弱いか>」とゆー基準がありそー。かくも映像作家として重用された人が、同じアーティスト上がりであるにも関わらず、シュペーアと違って党とか政府で重要なポストに就かなかった背景に、果たして性差があったんだろーか、だとしたらリーフェンシュタールは阻害されたが故に助かったんだろーか、ってなことも考えてしまったけど、絶対非演出の絶対スナップなんでどこ吹く風と、記録映像をいじくり倒して動じない”映像バカ”ぶりを知るにつけ、やっぱり単に政治音痴の純粋なアーティストだったんだろーと思えて来た。本書によれば、戦後に一切の謝罪を拒否して挙げ句に長い不遇をかこったのも、そんな政治音痴ぶり故のことらしー。アーティストってやっぱり生きるに難難い職業なんだなー。

 永江朗さんが評論家とかライターとかジャーナリストとかいった肩書きで一家言を持っていろいろと論じている90年代デビューorブレイクの”論客”たち44人を紹介しつつ批評している「批評の事情 不良のための論壇案内」(原書房、1600円)を読む。前からネット書店なんかに予告が載ってリストも挙がっていたからだいたい誰が出るかは知っていたけど、あらためて紹介されている人たちの名前をながめてみて、その「いまどき」ぶりに強く納得する。なるほどこの面々だったら単なる90年代デビューorブレイクで終わらず、21世紀のあとしばらく10年くらいは最前線で”論客”を張っていってくれそー。そーした人たちを一挙にまとめて紹介することで、全共闘からニューアカを未だ引きずる世代なりジャーナリズムなり論壇への「ほらほら後にはこんなに続いているんだよ」とゆーアピールが出来るって意味で、ひとつ指標的でありカタログ的な意味を持つ仕事って気がする。同時にそーした新しい人たちへの目配りをちゃんと効かせてる永江さん自身の感性をアピールできる著作ってことにもなるけれど。

 あとがきで「この人が含まれるのはおかしいとか、あの人がはいっていないのはなぜだ、と思う方は多いでしょう」と書いていて、実際リストをザッと眺めてカメラ評論だと重鎮中の重鎮じゃないかと認識していた田中長徳さんとか、近年ほどではないにしろ80年代から結構ジャーナリスティックな活動もしていた田中康夫さんとか、「デキゴトロジー」で活躍していた夏目房之助さんといった超メジャーが入っていたりする一方で、B級文化の評論で活躍中の唐沢俊一さんなり日曜評論家の串間務さんといった名前はないし、「正論」で常連の櫻田淳さんなりといった名前もないといった具合に、総じて「おたく」と「右派」には辛目のセレクションになっているよーな気がする。岡田斗司夫さん大塚英志さんの両名があれば十分って声もあるだろーけど、永江さん自身「オタクを相対化した語るのは、もはやオタクではない」と書いているよーに、「オタクを」評論する人としてであって「オタクの」評論家としてはどうも取りあげていない。

 出てきたのが90年代末ってことで、「機会不平等」「カルト資本主義」といった著書でメキメキを頭角を現してきている斎藤貴男さんの名前がないのもちょっと残念、あと東浩紀さんよりもちょっとだけ早くアカデミズムの側から「おたく」について論じていた大澤真幸さんとか、最近は小説も話題だけどもともとはエッセイのフィールドで人気を集めた田口ランディさんとか。あるいはドキュメンタリーという形でオウムや超能力をルポする森達也さん、漫画という形式で世の微温的な風潮に切り込む西原理恵子さんといった文章以外の場所で活躍する人の名前がないのも気になったけど、とりあえずやっぱり文章で表現する人から、って配慮があったからなんだろーか。

 まあ、これもあとがきで「もし本書が好評ならば(つまり売れ行きがよければ)、書き続けたいと思うのですが……。」と言っていることだし、コラムを任せたいコメントを頼みたい寄稿して欲しい取材に行って欲しい等々の理由から、「いまどきの」論客を鵜の目鷹の目で探そーとしている編集者の人とかが、論客カタログ代わりにこぞってこの本を買いまくって、結果部数もそれなりに行って続刊の刊行もあっさりと決まるだろーと想像して、次こそは好き嫌いは関係なしに、というより嫌いなら嫌いな理由をガシガシ書いて葬り去るくらいの意気でもって、「右」も「おたく」も「サブカル」も「アーティスト」も含めて広く「いまどきの論客」を紹介してやって下さいな。

 以下蛇足。44人のうちで実物を見たことのある人が13人いて、9月2日のイベントでさらに1人見られる訳で、田舎にいたらたぶん1人だって見られなかっただろーことを考えると、東京ってやっぱり都会なんだなあ、情報の集積地なんだなあってことがよく分かる。それと44人も論客がいて自分より年下がまだ3人しかいなかったりする辺りに、20代とか30代でも前半が多かったよーに記憶している一時の「新人類」に比べると、ポッと出の人じゃなく著作があって活動も地に足のついて来た人を紹介しよーとしたってスタンスもあるんだろーけれど、全共闘にニューアカな人がつかえていた分、それなりに認められるよーになるまで年齢もそれなりに重ねる必要が高まって来ているよーな気もする。こーゆー層がこんどは上にどっかり座って、若い人たちの出現の支障になるのかな。

 さらに蛇足。柳下毅一郎さん(よくぞ紹介してくれました)の項で「私はあるSF関係者の集会に呼ばれたことがあり、そのときに大森望に『柳下は来ないの』と聞いたら、『彼はこういう場所に出てくるのは好きじゃない』といっていた。おたく的雰囲気が嫌いなのだろう」と書いているけれど、この集会ってのが「DASACON」だとしてそれを「おたく的雰囲気」って言われてしまうと、「SFセミナー」とか「日本SF大会」とかいった一段と濃さの増す集会に来たら永江さん、いったいなんて感想を持つんだろー。ちなみに柳下さん、そーゆー集会にはたいてい顔を見せているんだけど。やっぱり「おたく」が苦手なのかなあ、永江さん。


【8月28日】 スーパーダッシュ文庫で登場のゆうきりんさん「オーパーツ・ラブ いけません!ファラオさま」(集英社、533円)を読む。独り暮らしでやや引きこもり気味の男子高校生のの家に世界で財宝を掘り返しては売り飛ばして稼いでいるトレジャーハンターの父親から怪しげな棺が届いて開いてみたらこれが何と。中から麗しのエジプト王女イプネフェルさまが現れて高校生を僕に同居をはじめ、そこに幼なじみの女子高生と祖父の代から居着く猫又が絡んでくんずほぐれつ恋の鞘当て合戦を繰り広げる、なんて設定を聞くと「タツモリ家の食卓」「天地無用!」「うる星やつら」「ああっ、女神様っ!」っていった先達たちを思い浮かべつつ、「ああ、またいつもの異星人同居モノかあ」なんて受け取る人も相当な数いそーで、ってこの辺は昨日の名取なずなさん「サンプル家族 乙女ゴコロとエイリアン」(集英社、571円)と一緒。

 ただし「サンプル家族」は同居をネタにしつつも家族の絆めいたテーマへと発展していったのに対して、「オーパーツ・ラブ」は王女イプネフェルがやや高ビーで主人公に情愛よりもやっぱり下僕的な感情くらいしかとりあえず抱いていない点をのぞけば、過去あまた例のある異星人同居モノの割と王道に近い線をいっていて、当人にその気はとりあえずないのに見目麗しくバストも巨大なイプネフェルの存在そのものが主人公を惑わすといって、女子高生も猫又も敵愾心を燃やし挑むあたりにいつもどーりのパターンが見え、たぶんやっぱり最後には王女さまとどーにかなっちゃうんだろーと思いつつもプロセスとしてどんなドタバタが描かれていくんだろーか、ってないつもどーりの想像に胸躍らせる。

 棺の中にミイラ化して治められていたイプネフェルさまがどーして復活したのかってあたりのSF的な考証は当然ない。だいたいが牛乳と血でどーして復活するのかも不明なんだけど、混ぜるといちご牛乳っぽくなってイプネフェルさまはいちご牛乳が好きだったってことにとりあえずしておくか。それよりどーして3000年を超えて復活したイプネフェルさまがペラペラと日本語を喋れるんだろーとゆー疑問の方が大きいけれど、話によると一応は神様化して復活したってことになっているんで、主人公も別に「ヒエログリフを読もう」とか読なくっても、王女さまと日常的に会話が交わせるなと納得……しておこー、とりあえず。

 王女さまなんで高ビーが地なのは当然としても、主人公の男子高校生に無理難題を押しつけても、天然の高ビーでもって女子高生や猫又を苛立たせても、そうした苛立ちを受けるキャラにあんまりなっていないのがちょっと気になる。同じ高ビーが地でも「星界の紋章」のラフィールはパンピーなジントと対になっている関係で目立つ位置にいるし、スポール提督の場合は高ビーぶりを意識して発揮しているから分かりやすい。まあ何か復活にも深い秘密があるよーだし、自分の置かれた立場を意識して多少は考え始めたみたいなんで、次巻以降はもっともっと存在感を高めて、そのチョコレート色をした巨大なバストを左右にデッド・オア・アライブbyテクモさせながら、官能と感動のドラマに読む方を引きずり込んでくれるだろー、たぶん。

 「ユリイカ」増刊「宮崎駿[千と千尋の神隠し]の世界  ファンタジーの力」を読む。口絵の色には驚いたけれど本文の方は監督本人へのインタビューに始まって、小児科医に精神科医に心理学者に文化人類学者といった学術系な人のそれぞれの専門領域から見た登場人物の分析、アーティスト、詩人、作家といった人の物語なり映像への感想、アニメ関係者による作品的、マーケット的分析といった多方面からの分析がなされていて楽しめる。帯に宮崎監督が文章を寄せていたからたぶん何か関係があるんだろーアーティストのD(でぃー)さんは「ファンタスティック・サイレント」に出てくる角のある熊のキャラやカオナシやメーヴェなんかが立つ草原のイラストをバックに、引っ越しにまつわる不安な気持ちを吐露し、親に連れ回されて行った先で出会った人々の「カエル男やナメクジ女のようによっぽど理解を超えた異形のモノ達にみえていた」ってことを書いていて、あれやこれや物語的矛盾を考える大人じゃなく、ただひたすらにお話しと動きに目をこらす子供にきっと、自分との重なりを千尋に感じさせるんじゃないかってことを示唆している。

 奈良美智さんと村上隆さんの今をトキメク現代アーティストの2人がともに文章を寄せている点も注目。奈良さんが映画を見てそこに描かれている心理的な部分でのリアリティに注目して、映画から子供達が受ける影響なりを、自分の感じたことも含めて(タイトルからして「湯女のリンが好きだ」だし、僕も同感)言及しているのとは対称的に、村上さんは映画としての構造なり、プロモーションの方法なり、背景美術の凝りようなり世界で勝負できる可能性といった外殻の部分について書いている。内から湧き出るものを割とストレートにぶつけていくっぽい奈良さんの作品と、プロデューサー気質も交えて考え抜きプロジェクト的に仕上げていく村上さんの作品との違いなんかを現しているよーで面白い。

 ちょい前に突発的に「奈良=宮崎」「村上=高畑」説なんてものを妄想して、作品性とか活動の様式とかでアーティストとアニメ監督との間で似通ってる部分はないかなあ、なんて探してたんだけど、同じ増刊に収録の小黒祐一郎さんと鈴木敏夫さんの対話の最後に、「何が面白いかって言うとね、やっぱり高畑さんと宮さんの違いだよ。当たり前だけれど、高畑さんは絵を描かない。そして、宮さんは画を描く。画を描く人は保守的ですよ」「そして自分がやってきた事の完成度を高めていく。しかし、画を描かない人は、色んなアイディアを思いつく。そして、それをやってみたくなる」ってゆー鈴木さんの発言があって、絵が描けない訳じゃないけど最近はファクトリーを作ってあれやこれや湧き出るアイディアを試している村上さんに、「画を描かない人」の例えが妙にハマってるよーな感じを受ける。

 まあ奈良さんもいろいろ試してたりする訳だけど、元になるモチーフはあんまり大きくは変わってないんでどちらかと言えば保守的。アニメの界隈だと活動が目立ったからなのか、今は割に村上さんの名前が出てきてアニメの人と対談なんかもしてるけど、奈良さんと宮崎監督との掛け合いとかちょっと読んでみたい気もしてきた。村上さん高畑さんの対談でも悪くないけど、バトルっぽくなる可能性はそれとして。


【8月27日】 間違えた147センチの「ZAKU」はミニモニ級ね、150センチ以下ってことで。4つ並べてコキカキ動かしながら「ミニモニ。じゃんけんぴょん!」とか唄わせる映像とか誰か作ってくれたらそれはそれで迫力かもとか思ったけど、新しいバンダイのガンダムゲームのCMに登場する3人の横に巨大なスカート付きガングロ女子高生が放つジェットストリームアタックのド迫力に比べたらもう蟻と象。足を踏み下ろすたびに轟かせるだろー女子高生三連星の地響きが、ペットボトルでシャンプー容器で巨大なジャンボマシンダーな中味カラッポの「ZAKU」を振動で中空に舞わせ、地面をのたうち回らせてバラバラに粉砕してしまうだろー。恐るべし生スカート付き(中身たっぷり)。それにしてもあのCMを撮影した人は今もちゃんと生きてるんだろーか、振り下ろされた拳に頭カチ割られてなきゃ良いんだけど。

 ネットなどに触り始めて6年ちょっと。オタク系とか滅茶苦茶とまではいかなくっても、まあそれなりに詳しいつもりでいたし、自分のこともネットでは少しだけど知られている人間かも、なんて思っていたんだけど、やっぱりまだまだ初心者の、それも下の下だったんだってことを、「週刊朝日」9月7日号の記事を読んで強く痛感させられる。例の黒磯で起こった少女の略取誘拐事件で容疑者として逮捕された人間のことを取り上げたこの記事。幼児GYさのことを差して「オタク・ネットの有名人だった」って見出しが付けられていて、オタクの間で有名だったとゆーことはつまりオタクのコアな部分で活躍していた人間が、かくも不気味な事件を起こしたとゆーことはつまりオタクってそーゆー人なんだ、なんて雰囲気を醸し出そうとしている。ちょっと深読みし過ぎ?

 それはともかく、よほどメジャーな人物でもない限り”有名人”だなんて断定するはずのない天下の朝日をして、「マニアのホームページでは、作品と一緒に『新人同人作家』などと紹介されたり、『夜ノ森先生』と呼ばれて『ギャグのセンスがある』などと評される有名人だった」と言わしめる人間を、つい最近まで知らなかった自分がオタクに詳しいなんて言えるはずがない。それほどまでに有名な「夜ノ森先生」のページには、おそらく1日に20万件とかのアクセスがあって、「google」で検索すれば1万2万は軽くヒットするんだろー。今は消えてなくなってしまったみたいだけど、事件を起こす直前にいったいどれだけカウンターが回っていたのか知りたいもの。とうてたどり着けない数字だろーけれど、何かあった時に天下の朝日様に「ネットの有名人だった」と言われる存在になるよー、頑張って日々更新に努めます。

 スーパーダッシュ文庫で登場の名取なずなさん「サンプル家族 乙女ゴコロとエイリアン」(集英社、571円)を読む。独り暮らしの女子高生の女の子の家に宇宙人がやって来て同居する、なんて設定を聞くと「タツモリ家の食卓」「天地無用!」「うる星やつら」「ああっ女神さまっ」っていった先達たちを思い浮かべつつ、「ああ、またいつもの異星人同居モノかあ」なんて受け取る人も相当な数いそーで、実際最初はそんな雰囲気も感じて読み始めたんだけど、冒頭から登場するのは人間とはちょい違う、ってゆーかヒューマノイドですらない異星人が人間に化けて家族になって独り暮らしの女の子の家に居候するとゆー設定、でもって彼ら一家の目的がその女の子を「殺す」ことにあるとゆー具合に、他の愛するだとか守るだとかいったテーマとはまるで逆のものになっていて、呆気にとられつつ一体どーゆー展開になるんだろーとページを先へと繰らされる。

 まあ目的が「殺す」なら殺すできっと情が移って殺せなくなるんだろーなー、とかゆー予想も立つんだけど、それはそれとして(そーなんだな)目的を遂行しよーとする疑似家族たちの研究している割には地球人を研究し切れていなくって変装に失敗するエピソードのおかしさに、コンタクトの難しさなんかを感じて、なるほどそーゆーコミュニケーションギャップを楽しむ小説なんだろーかと思っていたらこれまた間違い。まあ完全に間違いって訳でもないんだけど、父親は死に母親は海外で恋人と繰らしているとゆー女子高生が奇妙過ぎる一家をベネズエラから来た遠縁と信じ込んであっけなく招き入れてしまう行為に隠された心理が程なく明かされ、女子高生の担任と彼が一緒に繰らしている祖母との実に冷たく痛々しい関係が明らかになっていくに連れて、家族の情愛とは無縁の疑似家族とゆー鏡を通して「家族って何だろー」「家族って良いものなのかな」ってな辺りを描き出そーとした話なんだってことが見えて来る。

 異星人たちの正体が糸状の生命体でいろんな物質を操作して人間にも犬にもなれるし服だって何だって作り出せるとゆー設定の他にはない凝り様とか、彼らが目的とする母星の救援に必要な物質の正体とかが科学的に正しいかどーかはともかく、チャレンジブルな姿勢はなかなかに評価出来そーだし、そんな凝った設定の上でドタバタとしたドラマを繰り広げつつ、社会的で思弁的なテーマを描き出そーとしたスタンスもなかかなに挑戦的。続かせよーとする色気の見えるラストはあんまし好きくないけどそれも商売だし、糸状で男も女もあるものかと思ったけれど一応は男らしー異星人が変身した女の子キャラの胸の大きさにも惚れ込んでしまったんたんで、そこいらあたりがもっとメインになるよーな続編も期待したいところ。頑張って下さい。イラストはOKAMAさんで中のイラストなんかは口の形とかポーズの付け方にOKAMAさんぽさが出てるんだけど、表紙だけだと目の雰囲気とか色の塗りとかがあんまりOKAMAさんっぽくない。いろいろ描けるってことなのかな、それともタッチが変わりかけてるのかな。


【8月26日】 「スタジアムへ行こう その……えっと……もうどうでもいいや」な平塚行きで思い出したことあれこれ。試合前に地元の少年サッカーチームが紅白に別れて試合してたんだけど、その間中にかかっている曲がなぜか「MISIA」。スピーカに良いのを使っているのか大昔のスキー場で割れそうな音で「ノーランズ」とかかかってるのを聞かされいてた時代とは隔世の観があるなあと関心したけど(いつの時代だ)、知らない人にはやっぱり違和感あったかも。試合のハーフタイムの「PARTY NIGHT」とどっこいどっこい。そーいえば競技場へと向かう途中の商店街でもやっぱり「でじこ」からみの曲が流れていたけど、これってやっぱり「ベルマーレ」絡み? だとすればブロッコリーのミスマッチ覚悟のスポンサー作戦も、あれで結構役だっているのかも。10年後の湘南はサザンじゃなくTUBEでもなく「でじこ」が1番。

 夏の湾岸詣でもそろそろ最終段階。今年から「C3PRE」って模型系のイベントがスタートしたってんで見物に行く。全高147センチとミニモニ級に大きい(微妙にズレてる表現)組立式の「ZAKU」が出るってんで前々から評判になっていたイベントだけど、「JAF−CON」では当日版権が降りなくなった「ガンダム」関連のキットがこちらではオッケーになっていたりするからなのか、そーしたキットを目当てに集まるガンダマーな老若男女がワンサと押し寄せ到着した午前10時ちょっと前の時点でファッションタウン前まで続く行列が出来ていた。

 もっとも2時間前ではるか彼方の「ワンダーフェスティバル」に比べると全然少ない数だったから、「ワンフェス」でさえ動き始めたら45分で入場出来たんで、これは楽勝で15分以内に入れるだろーと思ったら大間違い。ちょろりと進んではまた止まる繰り返しが続いた上に、この8月のイベントではたぶん1番くらいに照りかえっている太陽に体を炙られ、連日のイベント続きに弱っていた体をさらに疲弊へと追い込む。

 待つことおよそ1時間、どーにか入り口までたどりついて、いったい何やってやがんだと見ると入り口前でカタログを購入しよーとする人の列が相当規模できていて、これが相当なボトルネックになって行列の進行を妨げていた模様。大半の人がカタログを事前購入している「ワンフェス」だと、カタログを見せさえすればスンナリと入れるから人数こそケタ違いでも結構な数を短時間で捌けるんだけど、ひとつの行列に事前購入者も当日購入者も並べざるを得なかった関係で、最後の最後で人が詰まる事態に陥ってしまった。朝くらいは外で販売して、入り口前は素通しにするよーな配慮が欲しかったなー。来年もやるなら再考を。

 もちろん「プレス」で入るって手もあるし、実際にバンダイからは「ZAKU」の取材案内も来てたんだけど、並んで入ってこそイベントの規模であったり参加する人の熱意といったものが肌身に感じられるもの、まあマイナー過ぎるメディアなんで入り口で名刺を裏表見られ光に透かされ訝しげな目で見られる嫌な思いをする可能性も多々あって、生来の気の弱さがそーゆー事態を事前に避けよーとしてるってこともあるんだけど。どーゆー媒体かを一所懸命喋ってると、だんだん悲しくなるんだよ。

 まあ「プレス」で入ったところで真っ先に買いあさっては顰蹙を買うから、限定品を買うならやっぱり条件はイーブンで行きたいところ。「F−Face」のソフビ製「ちよちゃん」は変な顔の方が売り切れていて、ハマーン様やレッシィの良さげなフィギュアもソールドアウトが目立って出遅れをちょっと悔やんだけれど、こーゆー飛び道具みたいなコンテンツに王道を行くバンダイがどーしてと思った「あずまんが大王」のTシャツも、残り数枚とゆーところで「おーさか&ちよちゃん」の絵柄(背中のマークは「あはははは」)を確保できたし、会場先行販売だった「ガシャポン」の「あずまんが大王」のリアル系フィギュアも全6種コンプリートできたんで、完全ではないものの気持ち的にはズルなしで勝利できたと喜ぼー。しかしやっぱりなぜにバンダイが「あずまんが大王」を手がけ始めたのかがちょっと不思議。担当に相当に好きな人とかいたんだろーか。絵柄も「お父さん」とかあって結構ひねってあったし。

 プッチモニ級ザク(やっぱり誤解招きそーな表現だなあ)は予想していたとはいえ流石の迫力で、ディティールの確かさなんかも含めて20万円とゆー値段でもそれほどに違和感のない品物に仕上がっていた。そー思った人が多かったからなんだろー、現金かもしくはクレジットカードによる現場決済であるにも関わらず、受付カウンターの前にはみるまに長蛇の列が出来てあの超高価な商品が次々と売れていく。その数だいたいどーだろー、側にいたバンダイの偉い人に聞いたらすでに50体くらいは出ているよーなことを言っていたから、あるいは1日で100体は売れてしまったのかも。

 25万円の「AIBO」が数千体、即品切れになった記憶もまだ新しいこのご時世に、20万円もする喋りも歩きもしないただの人形が100体売れ、2000万円の売上がまたたく間に立ってしまうこの状況の、どこが不況なんだろー。お金はあるところにはあるし、そんな人が欲しがるものさえ出せばちゃんと売れるんだってゆーひとつの見本。デフレばかりがもてはやされるけど、問題は価値に見合っているかどーかなんだってことを、不景気だリストラだと流行語のよーに唱えるエコノミストもジャーナリストも「ザク」見てひとつ考えて欲しい。

 不思議だったのは買っている人たちで、決して模型一筋ってなイメージの人ばかりでなく、ポップな雰囲気の若い兄ちゃんなんかもいて、「ガンダム」ってゆー名前が相当な世代の相当な範囲にさまざまな形で浸透しているってことが見えて来る。模型の専門化じゃないと作れないって訳じゃないのもこーゆー人が買う理由なのかも。入っているパーツをネジとビスで組み立てるだけでオッケーとゆーのは確かに有り難く、色とかは展示してあったメタリック系統にするにはちょいテクいりそーだけど、ノーマル版だったらとくに塗装派必要ないみたいで若い人にはこれも助かる。問題はやっぱり置場所かあ。買った人がいったいどーゆー場所に置いて愛でているかを模型なメディアは是非ともレポートして欲しいもの。冷蔵庫をどかしたとかタンスを1つつぶしたとか月並みな答えばかりじゃなく、本尊の代わりに買いましたとかシャア専用も合わせて山門の仁王さまにしますとゆー寺の住職とか混じっていたら楽しいかも。

 反対側のホールで自動車の展示会「オートギャラリー」もやっていたんでのぞく。「レッシィ」とかが結構良かったりした、フィギュアのスカートの下に曲線も鮮やかに皺も含めて懇切丁寧に作り上げられたパンツと、生身のコンパニオンがポーズやダンスの合間にのぞかせる明かな見せパンとでは、どっちが真に官能的かを問われた場合、ちょっと迷うかもと心配したけど(誰も問わないけれど)、フィギュアが自分では作れないのと同様に、コンパニオンだって自分で触れる訳ではなく、あくまでも見て楽しむとゆー意味ではどっちもどっちで好きだってゆーことになる。触れる触れないでは問題がとっとズレてるよーな気もするけど気にしない。

 「C3PRE」でキットを撮る人と「オートギャラリー」でコンパニオンを撮る人の、行為の上での違いめいたものがあるかどーかは別にして、プラモデルを買ってきたり自分で1から削り出して好きなキャラクターを作っていく感覚、時には激しくカスタマイズして満足度を挙げるとゆー感覚は、車をさまざまな部品でチューンして色も変え必要ならば形さえリファインしてしまう車好きの感覚にたぶん近い。とはいえ「車が好きです」と「人形が好きです」では社会的に持たれる印象がまるで違うのが気がかりと言えば気がかり。市場の大きさ積み重ねた歴史の重さを比較すると、今はそれでも仕方がないのかもとか考えてみたり。

 車を銀色に塗ったり金色に塗ったりする行為と、「ガンプラ」を迷彩に塗る行為のベクトルにたいした違いはないんだけど、それぞれの趣味の人が例えばだよ、少女でも誘拐したら激しく叩かれるのは後者、つまりは模型に生きてる人の方になりそうって不穏な予感がある。罪は等しく罪と認識しつつ、それでもヤンママが息子を袋詰めして捨てた事件と、オタクな青年が少女を連れていって今は解き放している事件のその後の伝えられ方の差、あるいは同一性を鑑みるにつけ、やっぱりなかなかに拭い切れないものがあるんだなってことを痛感する。あるいは何か得体のしれない運動が、メディアをしてさして「凶悪」でもない行為を「凶悪」と断じさせているとか。こーなったらバンダイには乗り物メーカーとしての活動を始めてもらい、「キャラウィール」の実写版とか建機として使える「ガンダム」あるいは「パトレイバー」とかを作って、産業界の中枢に食い込んで政界にロビィ活動をもっともっとしてもらおー。


【8月25日】 「村上隆 召還するかドアを開けるか回復するか全滅するか」のカタログをペラペラ、おお、俺の名前が載ってるぞ。「月刊モデルフラフィックス」の2000年11月号で例「S.M.Pko2」の「ワンダーフェスティバル」での展示を総括するショートリポート「模型文脈的大団円」を書いたのが、村上さんに関する文献を網羅したリストにちゃんと挙げられている。読んでるなあ。「モデグラ」に関しては別に見開き2ページを使って村上さん本人が報道された内容とか、掲載された記事とかにコメントを付けていて、アート界でまるっきり黙殺される中で何故か唯一「モデグラ」がフォローしてくれたことを喜んでいる。僕が記事を書いた号も写真で紹介してあるけど「あさの的オタク業界大団円のショートレポート」だって。そんなもんだ。

 カタログにはあと過去に開いた個展の詳細なリストもあって、ざっと読み返して自分が最初に村上さんを見に行った展覧会が、谷中の「バスハウス」で95年6月に開催された「狂ったZ」だったことを再確認する。この日記が始まったのが96年2月なんで当然ながら過去の記述はないけれど、カタログから日付を確認して読み返した96年10月18日の日記に、村上さんが河岸を変えて「小山登美夫ギャラリー」で開催した「727」とそれからカタログにもコメントを寄せているMr.(ミスター)がデビューした「ピコピコショー」の記述があって、まだ多分相当に安かったこの頃買っておけばよかったなー、なんてちょっとした後悔にとらわれる。

 そうそう、「ピコピコショー」で会った時、Mr.なんてまだ岩本正勝さんって名前だったんだよなー、名刺交換した記憶があるけど覚えてるはずないよなー。しかし読み返してその芸風の変わってなさには感心。「東京都現代美術館」で同時開催中の「A・HIROPON・SHOW」に出展の作品なんか見ても、オタクなテイストが抜けてしまった村上さんに比べると、未だ美少女一直線だもんなあ、Mr.は。その清々しさその純真さその凶暴さで、あるいは頭良すぎる村上さんには為し得なかった、よりオタク濃度の高いアートを生みだしていってくれるかも。期待大。おなじ部屋には仕事してるのかしてないのか音信不明なタカノ綾さんが穂村弘さんの歌集「手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)」(小学館、1600円)の表紙とか中のイラストとかも無造作に飾ってあるんで、歌集を見てファンになった人ももとからのタカノ綾ファンも木場にゴー。

 切通理作さんの新刊「宮崎駿の<世界>」(ちくま新書、940円)を読む。大ヒット連日満員御礼で日本記録更新確実な「千と千尋の神隠し」の公開にタイミングを合わせての刊行なんだろーけれど、「千尋」に絞ったガイド本でもなければいわゆる便乗本でも当然なく、宮崎駿監督のこれまでの仕事のすべてについて、貫き通されている部分と変わって来ている部分を克明に綴ろうとしていてなかなかに読み応えがあるし、すべての作品について詳細な内容説明があって、「未来少年コナン」なんんて各話のあらすじが新書の限界に挑戦するよーに2段組のレイアウトで細かく紹介されていて、それだけを読んいても作品のさまざまな場面が蘇って来て楽しめる。あったなあ、「死の翼アルバトロス」での不二子のケリ。

 その大昔に読んでいたアニメ誌で1番好きだったのが「アニメック」ってゆーのもテレビで放映されてるアニメの詳細な各話紹介が、本誌だったか後で刊行された「大事典」のシリーズだったかに、放映終了後とかに掲載されていたからで、テレビをあんまり見せてもらえずビデオなんて持ってなかった家庭では、あれが作品の流れを知る唯一の情報源だった。読んで見た気になっていたのも随分あったかも、「重戦機エルガイム」の最終回なんて未だに見覚えがない程だし。「アニメック」の各話紹介は、本編を見てなくっても前後がちゃんとつながって内容も見せ場なんかの雰囲気もほぼ分かるのが良かったけど、切通さんの「宮崎駿の<世界>」も、「未来少年コナン」の各話紹介なんか結構詳細で雰囲気も分かる上に、ところどころ説明もあって既に見ている人なら懐かしさを交えた話の再確認に有効。見てしまってるんで見てない人の反応はちょい不明だけど、たぶん大丈夫でしょー。ちなみに「コナン」は9月25日にDVDが単品で再発売。これまたグッドタイミングだねえ。

 「千尋」についてもいち早く詳細な紹介と解説があって、そのの辻褄のあってなさにもちゃんと触れられていて楽しめる。「水の中のレールを走る二両編成の列車が、現在帰りの電車がなく『行きっぱなし』だというのは、合理性を問うこと自体野暮だと示す。宮崎は、子どもより大人が見て途方にくれる映画だと型っている」(322ページ)と書いてある辺り、何でも知ってる大人が見て突っ込む映画じゃなく、子供がそのアクションを楽しみその雰囲気を味わいつつ何かちょっとだけ気持ちに引っかかることを得る映画、って感じで捉えていてるんだってことが分かる。

 「千尋」の「もののけ姫」なんかにはなかったアクションの漫画映画っぽさについての言及が幾つかあって、ちゃんと見ているなあって印象を受ける。そーした動きが実現したことを宮崎さんの原点回帰かと理解してたんだけど、切通さんによると「今回、宮崎は前作までのやり方である、原画の修整までを自分で行うという形態から自由になり、作画監督の安藤雅司ほか若いスタッフを信頼することで、彼らの感覚を取り入れて作られている」(324ページ)んだそーで、逆に宮崎さんが一歩身を引いたからこそのあの動きだったらしーってことが見えてくる。そーだったんだ。あと映画「風の谷のナウシカ」の初動についての記述は、1冊目のまだ1枚紙の表紙だった頃の単行本を買って驚嘆して以降、アニメ化をひたすらに待ち望んでいた身として見るのが当たり前だったんで、劇場側であんまり持ちあげてくれなかったって状況は、当時としては仕方がなかったとは言えちょっと不思議。隔世の感があるなあ。

 同じ「スタジオジブリ」とゆースタジオで仕事しながらタイプの多分全然違う高畑勲さんについての「宮崎が理屈以前の感性と画力で表現してしまうところを、高畑はある時は理論的に補填し、また批評的な立場にも廻る」(275ページ)とゆー言及なんかも読みつつ、22日から小山登美夫ギャラリーで始まった同じギャラリーが押すアーティストの奈良美智さんと村上隆さんの展覧会「奈良/村上」で見た展示物なんかを思い出しつつ、例えるならどっちがどっちなんだろーかってなことを考えて、内からあふれ出るものを割とまっすぐ描く奈良さんが宮崎さんで、図面なんか引いて理詰めで作り上げていく村上さんが高畑さんかなあ、なんてことを思う。とてつもなく強引。しかも村上さんは去年とか高畑さんを批判してたから、「村上=高畑」なんて思われると心外なことこの上ないかも。

 強引は承知で解読するなら「小山登美夫ギャラリー」に展示してあるのは、両名とも作品以前のアイディアスケッチ的なドローイングが中心で、奈良さんの方には女の子とか犬とかいったものの他に、ぐにゃぐにゃとした得体のしれないものがべたべたと書き殴られてある作品とかあって、「横浜美術館」で展示されているよーなしっかりと絵につながる、初期・中間段階での”想い”みたいなものが漂っていて、こじつけるなら宮崎さんのイメージボードとの重なりを感じる。一方村上さんの方は、キノコとか「DOB」とかいったキャラクターが登場するまさしく設計図と言えるものを並べていて、作品と同一の輪郭線を持った型紙に色指定なんかもちゃんとしてあって、これはこれで細かく指定のある宮崎さんの絵コンテに通じるものがあるけれど、曖昧さとかライブ感覚とかなく徹頭徹尾をコントロールして突っ走る冷静さみたいな部分が、高畑さんと重なるような気がする。だから強引は承知だって。

 才気、って意味では村上さん高畑さんともに凄いものがあって、方や東京芸大こなた東大とゆーそれぞれにおいての最高学府を経ているって部分もちょっと似てる。けど才気が勝ちすぎた挙げ句に見える堅さみたいなものが見ている人にきゅうくつ感を与えてしまう可能性があることもまた共通。対して奈良さん宮崎さんの方は、残酷さ醜さ弱さも含めて子供の強さ明るさを描いているモチーフとか、内からほとばしる感性をライブ感覚で描き上げていく感じとかに無理矢理なががらも共通性が見いだせる。とゆーことは、今は才気でもってインテリ受けでは抜きんでた感じのある村上さんだけど、広く一般に受け入れられてまさしく”国民的”なアーティストへと発展するのは奈良さんの方、ってことになるのかな。単純に比較の出来る世界でもないし似てる似てないの分け方も強引なんで、あくまでも仮設以前の妄想として読み流して頂ければこれ幸い。富野さんは会田誠さんか? 押井さんは誰になるんだ?

 義務であることは自明なんで平塚へと出向く。なにが義務かは説明無用だとは思うけど、とりあえず触れておくなら「Jリーグ ディビジョン2」の公式戦第26節「湘南ベルマーレVS山形モンテディオ」の試合を見に行ったもの。だからどーして義務なのかなんて聞くのも鬱陶しいだろーけど、ナノの単位で知らない人がいる可能性もあるかもしれないんでさらりと流しておくなら、「ベルマーレ」をスポンサードしている「ブロッコリー」のスペシャルサンクスデーだったんだよ、今日のモンテディオ山形戦は。分かったでしょ、「デ・ジ・キャラット星」で「でじこ王女」にひざまづく家来たち臣民たちファンたちにとってまさしく義務以外のなにものでもないんだってことが。

 にも関わらず、ハーフタイムにでじことぷちことうさだとぴよこの4人が茅ヶ崎高校チアリーダー部の卒業生たちちいっしょに「PARTY NIGHT」を唄い踊っていた絶好の場面で、スタンドにいた4000人近い人たちのほとんどまったく誰もいっしょに拳を振り上げ「でーじこちゃーん」とか「ぷーちこちゃーん」とか言ってくれないし、「ヴェルファーレ」とか「横浜アリーナ」とかのコンサートの映像に必ず映ってる例の帽子を被って跳ね回る、体重に多いか少ないかの両極で不自由な「武」「喜美」系の人も自分をのぞけばまるっきり見えず、とてつもなく寂しい思いにとらわれる。やっぱりサッカー場なんてハレの場に、秋葉原のよい子たちは来られないんだろーか。まあ遠すぎるってのもあるけどね、「平塚競技場」自体が。

溶け込んでるね  もっともそんな熱烈応援が心情の秋葉系が来なくたってゲートを歩いていれば「でじこ」に「うさだ」にまとわりついて一緒に写真を取っている未来のJリーガーかあるいはサポーターの少年少女がいっぱいいたし、あれ何って顔で見ていてもダンスが追わればちゃんと拍手はするし、選手たちだって練習のウェアにもビブスにもしっかり「ブロッコリー」のロゴと「でじこ」の顔を胸につけて歩いていたし、スタッフだってビブスの背中に「でじこ」の顔を掲げてあちらこちらを歩いていたんで、金の力ってのはあるけれどとりあえずは着々と「でじこ」の「平塚征服計画」は進んでいそーだってことが伺える。来場者プレゼントにもSFな業界で超有名になってしまった「でじこの人生ゲーム」が入ってたし(1つだけとは少ないんじゃない?)。地道な洗脳が未来を生むってことで、記念写真を撮って「でじこ」魅力にメロメロになった子供の中から次世代の中田英寿が生まれ大活躍をした挙げ句に「セリエA」に移籍すれば、いっしょにイタリア進出だって果たせるかも。

 これで試合に勝てば「でじこ」も「勝利の女神」と讃えられたんだろーけれど、ゴールキーパーを筆頭に守備陣にどこか温い部分があって、中央を突破されたりサイドを振り切られたりした挙げ句に、スピードのある根本って山形モンテディオのフォワードにゴールを決められまくる体たらく。サイドへとはたいて中央へともどし切り返しサイドへと流して中央へのセンタリングからシュートってゆー、前線での形が結構良かっただけに、ゴールに嫌われサイドネットに突き刺し続けたとゆー不幸で得点こそ奪えなかった事情を勘案すると、点さえとられないよーにすれば再び上位へとかけあがれるよーな気もしてくる。4番と7番のエムボマっぽい2人のフィジカルはさすがにすさまじいものがあって、ちょい見えるひとりよがりな部分を押さえるなり、逆に徹底したリーダーシップを発揮させれば、破壊力抜群の攻撃陣が出来そー。きっかけこそ個人的には純粋なんだけど傍目にはおそらくは不純な「でじこ」とゆー動機で見た平塚だけど、ちょっと応援したくなって来た。相変わらず状況に流されやすい僕、でも萌えるのは「でじこ様」だけっす。「ぷちこちゃん」も好きっす。違うじゃん。


熱い願いだなあ 【8月24日】 「モノリス願い事一覧」より某有名イラストレーターな方のお願い。「コメットさんがあと10年放映されますように」……とりあえず来年を何とかせねば。適当に仕事を切り上げて「東京都現代美術館」で明日から始まる「村上隆 召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」のオープニングを見に行く。木場から歩いていると脇を例のニコニコ笑った花が描かれたラッピングバスが走り去って行く姿に遭遇、同じ都営とはいえここまでの連携ぶりに都の力の入れ様を感じる。もっともバスにはアサヒビールだかのロゴも入っていたから第三者的に展覧会を支援しよーとする企業メセナの一貫だっただけかも、真偽は不明、そーいえば今の館長ってアサヒビール名誉会長の樋口廣太郎さんだったっけ、そのつながりか。どっちにしたって「村上隆」の作品がバスにくっついて走るんだから、凄いことになっているのは間違いない。

 それよりなにより「東京都現代美術館」で個展が開催されるとゆーのが凄い。「東京都写真美術館」で「アリーテ姫」が上映されている次くらいに凄いことで(「式日」は実写だしモダンアートだったんでまだ近い)、何億円もかけて漫画(リキテンシュタインのこと)を買うなんて何事と怒っていた人とかマスコミなんかがあった当時からの様子の変わりように驚く。まだ購入した訳じゃないけど、今度は漫画どころじゃなくって例のスペルマ投げ縄な「マイ・ロンサム・カウボーイ」に乳縄跳びの「Hiropon」が2体並んでの展示だもん、漫画以上に衝撃は大きいと思う、あと女性器波動法の「S.M.Pko2」なんかも。98年に青山のスパイラルガーデンで開かれた「G9 ニューダイレクション」の時なんかは、前とか隠すための筒を確か用意してたからなあ。”予言”した吹き抜けでの展示にはさすがにならなかったけど、わずか3年でかくも超メジャーな場所へと突っ走ってしまった村上隆さんに拍手。

 展示は3階で入ると正面に「マイ・ロンサム・カウボーイ」と「Hiropon」の2体が並んで、右に「S.M.Pko2」、左に2体のメイドバージョン「ko2」といった感じにこれまでのフィギュアが勢揃い。「マイ・ロンサム・ジャウボーイ」と「Hiropon」は色が新しくなってて髪の毛の色なんかが違ってて「マイ・ロンサム・カイボーイ」は銀の神で目の色も記憶薄いけど赤をベースに幾何学的な細かい塗りが入ってて、遠目に見ると以前のバージョンとは違って神々しさが増している感じ、メカっぽいともいうかも。「Hiropon」は確か金色系の髪で、2体並んでいると神々しさも一段と増す。まさに21世紀のアポロン&アフロディーテだ、現美は絶対に購入すべし、「今度は人形か」なんて言われたよーとも。

 順路をたどって脇の通路を抜けて入る北側の展示室は、「んチャ!!」を立体化した「不思議の国のDOBくん」を中央に「DOB」くんの初期から近作までが並んでて壮観。とりわけ単なるカラーバリエーションの変化、あるいは日本画的塗り削りの差で違いをつけていた「DOB」くんが、ベーシックなのからだんだん融解して目なんかも増えてぐちゃぐちゃになっていく変化を綴った「Mellting DOB」のシリーズが、差別化からひたすらに過剰な方向へと走るキャラクターの現状なんかを示唆しているよーで、作品的にも状況的にも興味をそそられた。

 すでに1つ決まった型を持つと、そこをひろげていろいろ考えていけばしばらく遊べるって感じで傍目には楽に見えるけど、1つ土台に縛られながらアイディアをひねり出してバリエーションを付けていく大変さってのは多分あって、時には縛られっぱなしの虚しさなんかも感じつつ、それでもひとつこれ、と決めたら突っ走らざるを得ない作家の思いをちょっと聞いてみたい気がしてきた。たとえば「二重螺旋 逆転」って新作は、金色の背景に「DOB」が沈み込む感じで描かれていて、隣の作品とのポジとネガ的雰囲気を醸し出していて、バリエーションの付け方の妙を感じた。

 なにより前日に完成したらしー「たんたん坊」って巨大な作品は、中央に「DOB」らしきものを起きながらもその姿は幾何学模様ってゆーかベジェ曲線的な線やら形やら色によって蝕まれ増殖しながら変容していて、その恒星然とした「DOB」の周囲を小さいさまざまな「DOB」や「花」やら色物形が衛星っぽく、あるいは塵っぽく取りまいていて、迫力とともにイジり倒しもこもまで来たかってな感銘を与えてくれる。これ以上進んでも鬱陶しいだけだろーギリギリのポイントにある見事な作品って感じもしたけど、だとしたらこれからがさらに大変。絵としてのキモチ良さを残しつつバリエーションのタコツボにはまらず、どこまでイジり倒せるのか。

 現美で個展を開いて日本の凱旋した形になって巧なり名とげた感がって、あとはウォーホルみたく同じモチーフ、同じトーンで反復しつづけたって行為としてはアートっぽいし存分にやって行けそーだけど、そーゆー場所でとどまるタイプの人じゃないし、村上隆さんて。あるいは「かいかいきき」みたく新キャラだったり新モチーフで変化をつけていくって手もあるけど、それとていずれは過剰さに走りバリエーションの地獄にハマりこまざるを得ないのは明白。かといって今一度「フィギュア」のシリーズのよーに、オタクなモチーフへと切り込んで行ったって、あれ以上の衝撃はちょっと出て来そーもない。

 当人の中でケジメもついてしまったんだろーか、ペインティングへと戻った最近の作品には、キャラってアイコンはあってもオタク的な匂いはまるでなくって、一時期のあの入れ込みようはいったい何だったんだろー、やっぱり「エヴァ」ブームでオタクなモチーフがもてはやされていた風潮にスリ寄って名前を売りたかっただけなのかなー、なんて気もしてくる。「スーパーフラット展」でオタク本流の作品をキュレーションとゆーメディア的活動を通して世界に押し出してるって見方もあるけど、こーなって来るとそれとて自作の根っこを説明する材料だっただけじゃないか、なんてイジワルな妄想も浮かんで来る。まあアート的にアーティストがアートの世界で名を高めるにはそれもありなんで、別に異論はないけれど、ただやっぱりちょっと寂しい。

 オープニングが単なるパーティじゃつまらんと、祭りの要素を採り入れ中庭にやぐらを組んで「DOB」を置いて応援団のエールやらコスプレーヤーの導入やらをやってはいたけど、それとて現代美術っぽいかぽくないかってゆー概念への挑戦であって、サッカーの試合で「デ・ジ・キャラット」が応援に登場するのと僕的にはさほど違わない、ってゆーか「でじこ」の方がより凄いし楽しい。まあいろいろと壁を壊しあれこれ試してくれる人が生まれたってことはそれで素晴らしいことなんで、今はとにかくここを頂点にあとは浸透から拡散から雲散から霧消へと行かず踏みとどまり、アート界での高みを目指すんじゃなくすべての表現形式をつなぐとか、間をぶち壊すとかいった活動でもって楽しませて欲しい。「ヒロポン・ファクトリー」が進化した有限会社カイカイキキがアートの工房でありつつ世界最大の玩具メーカー、どころか財閥にでもなったらそれはそれで快挙かも。オーナーになった大リーグで「DOB」が始球式してボールが「オーバル」でそれを「マイ・ロンサム・カウボーイ」がかっとばすんだ、もちろん屹立したあのペニスで。


【8月23日】 週末でもないのにお台場へ。もちろん平日だってあれやこれや展示会なんかが開かれているんだけど、7月と8月のお台場は週末ごとのオタクなイベントしか眼中になく、行けば行ったで入場まで何時間? ってな行列が当たり前になっていたりするんで、人でごったがえしていなくって、コスプレも皆無な8月の「東京ビッグサイト」はそれはそれで新鮮に見えてしまう。

 さてのぞいたのは明日からお台場じゃなく幕張で開幕する「ニンテンドー スペースワールド2001」の前哨戦みたいなプレス向けの「ゲームキューブ」お披露目会で、明日から幕張なのにどーして東京なんかでやるんだろーと不思議に思って、幕張なんて遠い所へ行けるかベランメエ的なメディアの多々あった可能性なんかを想像したけど真偽は不明。単に今日だと幕張で開くには場所がなかったってことなのかもしれないけれど、明日だって午後には内覧会が始まる訳で準備は万端、整っている可能性は低くない。うーんやっぱり謎だ。まあ大手町から行くのに近かったんで有り難かったんで「ビッグサイト」開催有り難うと御礼申し述べ、京都に向かって柏手の3つ4つ打っておこー。

 「ゲームキューブ」の本体については去年から明らかになっているからとりたてて目新しい情報はなく、どちらかと言えばどんなゲームが出るんだろう的興味で見に行った人が多かった模様。その期待に果たしてどれだけ応えられたのか、ゲームソフトのとりわけ任天堂ソフトに知識の乏しい僕では正確な所は分からないけれど、少なくとも「どうぶつの森」が「ゲームキューブ」対応でも出るって話は重要っぽい感じがしたし、不思議な群体を引き連れて自然を逃げまどう「ピクミン」ってソフトも、見た目のデザインや仕草の可愛らしさと、「ピクミン」たちが食われたり踏みつぶされてタマシイみたくなって衝天していくシチュエーションの残酷さが入り交じった、任天堂らしからぬとゆーかまさしく任天堂らしーとゆーか、不思議な味わいがあって出れば話題になりそーな予感がした。「E3」でも評判になってたみたいだし、「マリオ」とも「ゼルダ」とも違う宮本茂さんの1面を示すタイトルとして後世まで語り継がれそー。

 しかし何より話題はやっぱり任天堂と宮本茂さんが誇る2大キャラクター、「マリオ」と「ゼルダ」がどーなるかって点で、そーゆー期待にちゃんと応えるところが小憎らしいばかりにうまい任天堂、宮本さん直々に紹介させては場内の話題をかっさらっていた。とりあえず「マリオ」は「マリオサンシャイン」って名前で出るみたいで、壁を蹴って登っていったりいろんな場所を走り回ったりする動きが、「ニンテンドー64」よりも当然ながらはるかに美麗なグラフィックで描かれて、移動可能な範囲なんかも「64」を超えて広そーで、買えば相当な楽しみ甲斐を得られそーな印象を抱く。けど駆け回るリゾート地っぽい舞台にマリオの他には誰もいないってのは、なあ。「ワリオ」だか「クッパ大王」だかにさらわれてゴーストタウンにされたんだ、ってな理由でも付ければ成り立たない訳じゃないけど、それもいささか強引過ぎるしなあ。リアルになればなるほど浮かび上がる現実とのギャップとどう折り合いをつけながら、進歩し続けるハードの上でシリーズ物を展開していくのか興味津々。

 同じ意味でリアルさの追究に走らず非リアルながらも独特の雰囲気を持ったキャラクターにして意外感を与え人気を継続させよーとした印象を受けたのが「ゼルダ」。何しろリアルな8頭身に行くどころか、「ポポロクロイス物語」のよーな頭身を持って「ねこぢる」みたいな目をしたリンクとか動物のキャラクターたちが、ディズニーアニメの「ターザン」やら「ラマになった王様」みたく、いかにもカートゥン的な大仰なアクションをする内容になっていて、米国人受けを狙ったのか、それとも日本向けに慣れている部分と意外な部分を組み合わせて見せつけよーと考えたのかは分からないけれど、過去営々と「ゼルダ」を楽しみ続けてマンネリ気味になっていた人の意表を思いっきりつ付いたことだけは確実だろー。意表を付けば勝てるかは別だけど。

 ソフトの発売は来年なんでこれからどーなるかもやっぱり分からないけれど、過去の遺産も前作の雰囲気もすっ飛ばして今とゆー時点でのユーザーニーズを掴もーとする貪欲さにはただただ脱帽。「ねこぢる」目なんで可愛くないけど3Dなのに2Dアニメっぽい彩色になって動きもちょこまかとして可愛らしさ爆発の新しいリンクの雰囲気と、一体どこからそんな動きを付けられるアニメーターを引っ張って来たのか調べてもらいたいアクションでもって、割かし定性進化な感じがあって凄いけど意外性には乏しい「ゲームキューブ」版「マリオ」を押しのけて、話題になる可能性だってありそー。見た人とかプレイした人からどんな評価が上がって来るのか、今後の展開が今は楽しみ。もちろん買うつもりだけど、やっぱり難しくって最後まで行けないんだろーなー、「64」版だって未だに最初に出てくる大木の生えてる村から当方、抜け出せないでいるくらいだし。

 台風一過の割にはあんまり清々しくないジトっとした空気の中を歌舞伎町までトコトコ。歌舞伎町と言えば説明無用な「ロフトプラスワン」に、エロ漫画が絶滅しかかってるらしーけどどーよ? ってな感じのテーマでのトークライブを聞きに行く。メインはエロ漫画な分野でその人ありな山本夜羽さんだったけど、前半は主にゲストとして登壇した砂さんが持ち前の理論でもって主に70年代以降の漫画史をエロ漫画とも絡めて振り返る内容になっていて、ほぼリアルタイムで90年代直前までを眺めて着た身には、懐かしさとも相まって頷ける説明になっていた。確かにあの時代、番長物の残滓があった「男組」「男大空」がラブコメの典型「みゆき」「タッチ」へと急旋回したよなー、読んでる時はどちらも割と平気に受け入れてたんだけど、改めて考えると漫画史的にも文化史的にも何かすさまじい時代だったのかもしれない。ちなみに真似してやりました猛虎硬破山、でもって肘を痛めました。

 過去はともかく個人的な関心は現在と未来で、そのうちの未来については砂さんをして「?」を出すほどに混沌としているのか茫洋としているのかハッキリとは分からないみたい。とゆーのも既にして現在自体をどう捉えるのかが難儀なよーで、90年代前半は実験的な傾向があったエロ漫画が90年代後半には衰えはじめ、最近は再び物語り的なものを持ったレトロな雰囲気の漫画が復活して来ているらしー。もっとも「3流劇画論争」なんかがあった時代のよーな作品に回帰しているかと言うとそーでもなさそーで、ゲストで来ていた山田タヒチさんを筆頭とするらしー「ネオ劇画」なんてのが最近の先端にあって、それはかつての劇画のよーなリアルっぽい描線を持ちながらも、キャラの部分なんかはアニメっぽかったりするハイブリッドな作品で、決して1周グルリを回って元どおりに着地したんじゃなく、1周回って似ているけれどどこか違う、パラレルワールドに降り立ったよーな印象を受けた。

 そーいえば「第40回日本SF大会」の「SF論争史」パネルなんかでも、永瀬唯さんと東浩紀さんが対話して、アニメのスタイルに理想を追い求める風潮が復古しているのかそれとも以前とはやっぱり違うものなのかとゆー議論を戦わせていたけれど、オタク的な文化の流行なり表現の雰囲気が何年だか何十年だかの単位でクルリと回転してスタート地点に戻っているって指摘は、エロ漫画の場合にもやっぱり当てはまっている感じがあって、直接の関係はないけど歴史認識の復古主義的風潮なんかも勘案しつつ、あるいは現在に自身を失ってしまっている状況が、あらゆる場面で良かった過去の再認識へと人々を走らせているんだろーか、ってなことを考えてしまった。

 とは言えそこはクリエーターな人たち、時代と寝るのも悪くはないんだけどそれより時代にどう切り結ぶかを考えているよーで、砂さん山本さん山田さんほか来場していたエロ漫画の人たちが、後で登壇舌長山薫さん伊藤剛さんらが評論の立場から分析し指摘した歴史なんかも踏まえつつ、この行き詰まった状況をどう打破していくのか、未来をどう作っていくのかにとりあえず強い関心を送りたい。森山塔さんをほとんど唯一神にまるでほとんどエロ漫画は読まない身ではあるんだけど、迫力のレイアウトに参った山田タヒチさんや砂さんあたりがみてもパンツの描き方に凄みのある鬼ノ仁さんに、持参していた90年代初頭の同人誌とはまるで絵柄が変わってしまった砂さん等々、一線の人たちの活動をまずは確認だ。ティッシュ1箱で足りるかな。

 とはいえ未来を語る上で問題になっていることがあって、それは言わずもがなの規制問題で、イベント自体も実はそっち方面へと関心を導くのが目的だった感じがあって、最後の方になって山本夜羽さんがいわゆる「児童ポルノ法案」の改正で起こりそーな「絵」の規制の可能性あたりを指摘して、抵抗の必要性なんかを訴えていた。とりわけ昨今、テレビに新聞を賑わせている栃木だか群馬だかで起こった、美が付くかどーかは趣味に依る部分なんで不明だけれど、いちおうは少女をさらって何日間か手元においていた事件で、犯人の男性が美少女を愛でる同人誌なんかを出しコスプレなんかも趣味にしていた人ってことで、そーゆー趣味志向を指し示す表現をすべて禁止するよーな動きが高まりそーな雰囲気があって、ますますもって抵抗の必要性が高まっていたりする。

 たとえ趣味志向としてはあっても、実際に犯罪に走る例などレア中のレアだとゆー認識をメディアにも一般にも持ってもらう必要性があるにも関わらず、事件があれば十把一絡げに「コミケが悪い」「ロリは害毒」といった主張がまかり通り、いずれ規制へと突っ走ってしまうのが現状であり将来の可能性。そーした自体を憂慮する漫画家さんたちは少なくないけれど、だったら具体的にどんな行動を取り得て、それが有効に機能するのかを判断し切れない辺りが悩ましい。「SF大会」で徹夜もしたのに今日も深夜まで議論してそーな東浩紀さんが、出版社とか団体とかが代表して活動するよりもまず、クリエーターたちが個別でもまとまってでもメディアに「コミケが悪だなんて感じの報道は間違っている」と抗議すべき、メディアはそーした抗議は捨てておけない筈だといった主張をしてて、それなりの賛同を受けていた。

 ただクリエーターが国の意向を組みたい出版社の思惑に背いて主張をすれば、やっぱり来るのは生活に関わるしっぺ返しだったりする訳で、勇気を持ってメディアに抗議を行えるかどーかがまずは最初のハードル。あと業界では著名でも世間一般的には無名なエロ漫画家の人たちが、エゴではない理由付けをしながら抗議をした所で、内容ではなくバリューが弱いと言ってメディア側で抗議に取り合わない可能性もあるんで、個人の抗議がどこまで有効性を持ち得るのかも判断に迷う。けどそー思っていては1歩も進めないのもまた事実。はじめの一歩があってこその反応な訳で、東さんの指摘ってゆーか半ば挑発に、さてはてどれだけの人が抗議に乗り出すのかちょっと見守りたい気分がある。

 世間的に無名な人が異論を申し立てて来たからと言って、そのすべてをメディアが取りあげるのかってゆーと決してそうじゃないあたりに、東さんの思惑とはズレた状況が生じる可能性も高い。例にあげた「ちびくろサンボ」の抗議にしても、なるほど少数の限定された勢力(親子とか)による意見だったかもしれないけれど、取りあげるメディア側が掲げたい「反差別」とゆーお題目を補強するに相応しい抗議だったりしたってこともあったんだろー、「ちびくろサンボ」の件は無事取りあげられて大きな話題になった。よーするにすでにメディア内部にある旗色を鮮明にするのために、自分たちに都合の良い事件なり意見をかき集めては報道するのが今のメディアの特徴で、そこにポルノ法案の改正を妥当と信じている編集幹部がドカンと鎮座していたとしたら、いくら現場の1社員が良識でもって反旗を翻したところで、主張も社論も容易にはひっくり返せない。

 とは言いながらも、果たして実直な声がそのまま築地まで届くのか、それともエゴ集団と排除されるかは分からないけれどなにがしかのアクションを起こすことはやっぱり大切だったりする。あまりに立場とかけはなれていたとしたら、そーゆーニュースの根源すら消してしまうのが日本って国だけど、それでも必要とあったら抗議に立つ姿勢なりを積み重ねていくことでしか、スタンスは変えることはできない。今回のイベントを経て目覚めた人とかが何かしらのアクションを起こすだろーことに期待をしつつ、これもやっぱり成り行きを注視して行きたい。

 しかしホント、個人レベルの抗議が新聞の主義主張をどこまで変えられるんだろーか知りたいところ。可愛かったからさらったとゆー、ある意味実に分かりやすく、当人は恐怖に脅えていたかもしれないけれど全体的には凶悪っぽさの微塵もない事件を挙げて、「凶悪」とか非難する「なんとかステーション」のコメンテーターもいたりする訳で、そーゆー短絡がテレビを通じて純化・増幅された果てに来る、理ではなく情で押し寄せる弾圧の予感に身震いする。だからこそ喫緊の戦いとして、謂れのない同人誌批判、コスプレ批判、ロリ批判を繰り出して来るメディアに対して、リスクを背負いつつ固有名詞でもって異論を唱えていく運動の行方にとりあえず注目したい。勝ってくれい、勝たせてやってくれい。


【8月22日】 背広を着て立て板に水と喋る斎藤由多加さんって何か始めて見たよーな気が。白衣の受付が迎え実験室めいたセットの組まれた会場で開かれた記者会見は、「アスキーが超話題の新作プレイステーション2向けタイトルを発表する」って内容から想像した「ティアリングなんとか」の続編は会社が違うから別にして「ダビスタなんとか」でも「トゥールーラブなんとか」でも全然なくって、今は亡き「ドリームキャスト」の上で最大のヒットを記録した「シーマン 禁断のペット」のPS2版をアスキーが作って売るって内容で、以前はともかく最近は地味めなアスキーにしてはよくぞってな意外感を受ける。けど会見でもアスキーってセガ、CSKの関連な訳で会見でも斎藤さんが大川功さんからPS2版を出すならアスキーでって頼まれたことを開かしてて、たどれば糸は結構太いのかもしれない。

 あとアスキーっていえばゲーム機の周辺機器ではなかなかな会社で、今回もソニー・コンピュータエンタテインメント自体ではサポートしないマイクデバイスをコントローラに組み込んだものを、アスキーが開発したからこそ実現した企画とも言えそー。中味の方もいろいろと味付けが変わっていて、割と箱庭的立ったDC版に比べて「ぼくの夏休み」的な楽しさがPS2版では加わって、広いフィールドで奥深い飼育体験を出来そー。すでにDC版はマイクデバイスがコントローラもろとも本の地層の舌に埋もれて粉砕され気味なんで、11月に出たらPS2版もきっと買ってしまいそー。予約すると海洋堂謹製「シーマン」「フロッグマン」フィギュアがもらえるとか。ありがちだけど、まあ流行りだし出来も悪くないんで頑張ってこれもゲットだ。

 締め切りも迫って来てたんで課題図書の野沢尚さん著「眠れぬ夜を抱いて」(幻冬舎、1700円)を読み始めたら、これが以外とテンポ良くって1時間ちょっとで最後まで読み切ってしまう、って中味スカスカ? そんなことはなくって中味は文字なら結構ギッシリ。たぶん予想はしていながらも改めて知らされるとやっぱり驚ける”意外”な真相と、それぞれにピンと立ったキャラクターと合間合間に挟まれる濃密なセックスシーンが、飽きさせずに読む人を最後まで引っ張って行ってくれるんだろー。流石は売れっ子ドラマ脚本家、小説もドラマみたいだ、実際来年ドラマ化の予定らしーし。

 冒頭に登場するのはマイアミでの銀行強盗シーン。計画が漏れていたとしか思えない手際の良さで金を奪い逃亡した犯人たちの後に、東京から出稼ぎに、じゃなくって転職して副支店長っぽいことをしていた女性だけが1人、射殺体となって残された。それからえっと10年くらい? 東京では大手銀行を脱サラして始めたデベロッパーが清澄にリゾート型の住宅地を開発して分譲を始めていて、最近の”自然と仲良くしましょう”ブームなんかの追い風を受けてそれなりに人気となっている。すでに何家族か引っ越して来ていて、開発会社の社長一家も近く移住の予定とか。そんなこんなで社長夫人の悠子も既に在住の人たちとの交流をしていて、外資系生保勤務の進藤一家、Jリーグで通訳をしているとゆー山路一家とは、一緒に河原でバーベキューパーティーなんかもする程になっていた。

 ところがこの進藤、山路の一家が移り住んでいた家から揃って失踪するとゆー事件が勃発、当然ながらブキミで危険と評判の悪くなって住宅を購入していた人からキャンセルが相次いで悠子の夫の会社は結構ヤバくなる。これは困ったと探偵よろしく進藤、山路の一家との交流の過程で得た情報を元に東京やら静岡へと出向いた悠子だったが、そこで浮かび上がって来たのは2つの家族の謎めいた過去、そして自分と家族を愛しているはずの夫の心の闇だった……って感じであとは場面をスイッチしながら冒頭のマイアミの事件を発端にした復讐のドラマが語られていく。

 過去にとらわれ怒り悩む独りよがりな夫たちと、現在とそしてこれからの幸せを求め家族を思う気持ちを強く持った妻たちとの対比が興味深い。頑張る女たちの姿は主婦層、OL層狙いって感じがありありだけど、だからこそドラマ化されたら話題になりそー。悠子役は誰だろ、浅野ゆうこ? 鈴木京香? 黒木香? 濃密な性交シーンをまんま、映像化してくれたら男だって見るぞ。

 なるほどやっぱり出ましたか、って感じで「毎日新聞」が映画「蝶の舌」を今の社会状況と結びつけながら紹介。8月22日付の夕刊で、児童文学作家で”戦時史研究家”とゆー肩書きも付いている山中亘さんが「日本の子どもを取りまく状況と酷似」だなんて4段見出しが立った長めのレビューを寄せている。「子ども」だなんて矢玉四郎さんなら怒り心頭の見出しだけど、日本語破壊の権化たる新聞社のこれが杓子定規な規則なんで仕方がない、山中さんが「子ども派」なのかもしれないけれど。

 さて文章の方は言わずもがなに、映画のラストでファシズムの弾圧で引っ張られていく先生に向かって、悪罵を浴びせながら石を投げる少年の行為を取りあげて「今の状況に余りにも酷似していて政治状況に流される子どもの悲しさがリアルに語られている」と批評して、最近起こりつつある「日本の今日の戦後民主主義否定の勢力の教育現場への介入と、『新しい歴史教科書をつくる会』の復古主義教科書、首相の靖国参拝を支えている事大主義」が、知らず子供たちの心をねじ曲げているんじゃないか、ってなことを示唆している。

 まあそれは確かにそーなんだけど、ひとつ主義でもって子供たちに自分で考える時間も余裕もあたえずに染め上げ、違和感が唱えられない雰囲気を作り出したのは右も左も同様で、日の丸を掲げ君が代を唄わなければいけないよーな空気が生まれつつあるとゆー批判があるならば、しばらく前までは日の丸は引きずり落とし君が代は拒絶しなければいけないよーな空気があったことも同様に批判されなければならない。「事大主義的復古主義に異論を申し立てると『公正中立でない』と排除する空気が状況を覆いつつあるからだ」と言うなら「教条主義的進歩主義に云々」とも言うべき、でしょー。「産経新聞」だったら同じ映画で教科書採択の際に起こった抵抗とか、学校の現場でのいろいろなことを取りあげ批判出来ちゃいそー。

 もちろん今現在問題となっているのはまさしく「事大主義的復古主義」への急旋回だったりする訳で、そこにクエスチョンを投げかけるのが喫緊の課題とゆーのも分からないでもないから、今出る文章の内容はこれで悪くない。ただやっぱり一方的に「事大主義的復古主義への異論」とだけ「蝶の舌」をとらえて子供を連れていって「だから『新しい歴史教科書』はダメ、日の丸君が代はダメ」なんて吹き込むのはやっぱりなんだか不気味で仕方がない。

 「一人でも多くの人たちに、特に若い人たちにこの映画を見てもらいたいと思う」とゆー山中さんの結語には同感だけど、見せるなら右だろーと左だろーと思想心情言論行動の自由を抑圧してくるものに対し、等しく断固として異論を唱える力を持つ必要性があるんだってことを感じさせるべきだろー。一方で家族の幸せを願い夫の、子供の安全を守ろうとして子供には恩人だった、夫には同志だった先生に向かって悪口雑言の類を投げるよううながさざるを得なかった妻の心情にも理解を及ぼすべきだろ。

 悲しみと痛みしか生まない悲惨な状況は主義主張の左右を問わず起こるもの。なのに現在の状況に反発する一方の勢力がもう一方の勢力を貶めるプロパガンダに使うのは本末転倒のよーな気がする。と言ってる当方だって「公立中正」とゆー悪しき相対主義に逃げて結論をごまかす野郎だったりするからしょーもない。言論ってのは何かにつけてやっぱり立場が絡むもので、説明すればするほど極論のドツボにはまるか埒外の彼方に逃避していってしまう。映画自体もあるいは人民派の立場に立ったプロパガンダ自体かもしれないけれど、そーした言説による背景は極力最小限におさえて、親切にしてもらった人に自分の気持ちをねじ曲げて、あるいは知らずねじ曲げられて悪態を投げつけなければならない悲しい状況がかつてあったし、今もあり、そしてこれからも起こりうるとゆー認識だけを汲み取ってもらうのが、つるぺたへの感動は別にして「蝶の舌」の個人的には嬉しい見方かも。「蝶の舌」は「シネスイッチ銀座」で上映中。


【8月21日】 箱根を越え大井川を渡り比叡山を焼き討ちし琵琶湖を周航して(琵琶湖は周航しませんが)ようやく到着できる場所で開催される「京都SFフェスティバル」にすら、体力・金力に不足していることに加え、寒い晩秋の京都では凍死の恐れもあって外には逃げられない密室環境の中で、夜を徹してその道ウン10年のSFな重鎮たちを目前に過ごすだけの知力・酒力にも足りない関係で、参加したことのないこの軟弱な身の上。さらに遠方に位置する神さまがいっぱいぱーいのラオックスな出雲の地まで足を伸ばし、夜を徹して温泉で裸の付き合いをするなんてとてもじゃないけど差し出がましい(女湯だったら良いけど)と思い込み、一昨日の「第40回日本SF大会」が終了した時点で半ば来年はパスしよーと心に決めていた。

 それがどうしたことか、続々とネット上にアップされて来るリポートに、偉い哲学の人を囲んでの真夜中の萌えバトルとか、有名人には珍しい酔った勢いのアジテーションなんかがそこかしこで行われていたって話が出ているのを読むにつけ、しまった日和って家に帰らなきゃよかったとゆー後悔がジグジグと沸いて来たのが運の尽き。気が付くと最初にもらった袋に入っていた申込所にいそいそと記入して、財布にあった3万円の金を握って郵便局へと駆けつけて、振り込みを行い申込用紙を封筒に入れて指定の宛先へと郵送し、といった具合にしっかり「第41回日本SF大会 ゆーこん」に申し込んでいる自分がいて、我ながら「よわっ」と思ったりする。

 けど京都ですら新幹線を使えば往復3万円は軽くかかってしまうご時世に、はるか地の果て、神の領域にある出雲なんて行こうと思ったら、いったい幾らかかるんだと調べたらこれが吃驚、飛行機で行こうとブルートレインで行こうとだいたい往復で5万円は覚悟しておく必要がありそーで、渋谷あたりから出ているバスなら3万円弱と若干安くはなるみたいだけど快適性からはやや遠く、利用を逡巡してしまう。「青春18キップ」で行くって手もない訳じゃないけど、「18」を倍した身では流石に鈍行列車の直角シートは腰に来そうでちょっと遠慮したい気分。運転免許はあるからレンタカー屋で車を借りてゆっくりのんびり走っていくって手段も考えたけれど、1人だとガソリン台に高速料金もバカにならず、かといって誰かを誘って一緒に乗って行こーとも言えないジレンマがある。なぜってもう12年も運転してないゴールド免許だもん、同乗者どころか運転している自分が一番恐ろしい。

 航空券なら割引が聞くけど2カ月前で4割引きじゃあ無茶美味しいって感じでもなく、それでも時間を金で買うんなら仕方がないと思いながらもあれやこれや「日本エアシステム」の割引情報を検索していると……おおこれは! 国内線なら時期さえ夏休みとかにかかってなければ土曜日曜関係成しに、どこでも片道1万円になるってゆー超お得な割引サービスが提供されていることが判明。その名も「バースデー割得」は、誕生日から15日以内だったら1万円で乗れますよって内容の割引サービスで、7月13日と14日に開催される「日本SF大会」の期間は見事にピッタリ重なっている。SF大会に安く参加できるよーこの日に生んでくれた両親に心からの感謝を捧げよー。

 加えてこのサービス、同乗1人までは同じ割引が適用されるってことで、これをエサに「お嬢さん、いっしょにSF大会にいきませんか、SFの有名な人が温泉を裸で歩いてますよ」と言ってモーションかけられるかも、ついでに首に縄付けて出雲大社まで引っ張って行って縁固めまでしやおっか、なんて妄想が膨らむ。ところがどっこいこのサービス、今のところ期間が5月14日までってなっていやがって、大会が開かれる7月にはもう終わっていそーな雰囲気がある。これはまずい、婚期が遅れる、とまではさすがに思わないけど(物理的に思いよーがないけれど)、来年の今頃に果たして真っ当な社会人を続けているのか微妙な状況で、金を節約できるサービスの選択肢が減ってしまうのは正直痛い。困ったなあ。そうとは言っても、デフレな世の中なんで他に何らかの割引サービスが出来るか、そのまま継続されるだろーと期待して、来年7月が来るのをひっそりと待つことにしよー。誕生日割引サービスがもしもちゃんと続いていたら、1人限定になるけど同行者を募るかも、女性で18歳以下とか限定で。えっ? 大会は18歳以下は参加不可? 36歳までオッケーにします。

 パネルの面子はともかく客にどんな人が来るのかそっちの方に興味津々な「網状言論F」、幕張での一夜を何時もながらのハイテンションで貫き通して京都から参加の美少女(未確認)SFファンたちにキャッキャ言われた、かどーかは不明ながらもSFな人たちの間にもしっかりとその存在感を印象づけた人が筆頭に鎮座ましましているだけに、あるいはそちらからの客もどっぷりと流れて来そうな予感がしないでもないけれど、”萌え”対決をのぞむ人もVS大塚に巻き込もーとする人も良いから、出来れば若い女性(8歳から36歳くらい、って幅広過ぎ)の人に、わんさとつめかけて欲しい気が。こちらが何か出来るって訳じゃ当然ないけれど、普段見慣れてない分、見ているだけで気持ちが嬉しくなるんです。

 それにしても気が付かないうちにフジサンケイともまんざら縁がない訳じゃないアミューズメントメディア総合学院に加えて、もう1社増えていた協賛企業の存在がちょっとブキミ。いや個人的にはとてつもなく嬉しいんだけど、「第40回SF大会」での大盤振舞ぶりにややもすると食傷気味な人もいないでもなく、またいやがったってな反発を増幅させかねない懸念があるから。よもや参加者全員に「でじこの人生ゲーム」をお土産で配るなんてことはしないだろーなー。勿論個人的にはしてくれても全然オッケーなんだけど、それだったらあの大きくて目立つ箱を入れて持ち歩くための紙袋か、包む風呂敷を持っていかなくっちゃいけないんで、できれば早めに教えて頂けると助かります。それともパネルの途中で実例を示す時に例の巨大な着ぐるみをモデルに貸し出すとか。来場者ともども楽しみがまたひとつ増えました。


"裏"日本工業新聞へ戻る
リウイチのホームページへ戻る