縮刷版2000年1月下旬号


【1月31日】 表紙絵に惹かれて「特命高校生」(白泉社、552円)を買う、霊力を持つ二卵性双生児の兄妹が学園やらに怒る怪異を解決していくストーリーは目新しさって点ではそれほどでもないけど、絵の巧さにキャラクターの雰囲気の良さ、そして何より女の子の可愛さ描かれるヌードの美しさであたしゃこの漫画支持します。普段は力のカケラも見せない兄が、いざとなったら力を発揮するって設定が活かされているのが第1話だけだったりするのは勿体ないけど、3話あってさてその次はと考えても、「第1巻」って付いている訳じゃないからどーなるのか解らない。どシリアスな展開の中を敵がどんとんとインフレーションしていく懸念もあるけれど、ラブコメっぽいテイストの中でちょっとした怪異を解決していく展開がなかなか良さげなんで、続いていくんだったら同じテイストで淡々と描かれてって欲しい。エッチはインフレしても構いません。

 三軒茶屋の僻地(って単に歩くと結構かかるって意味だけど)にあるアスキーに「浜さんのとっても良い話」を聞きに行く。有り難くもかしこくも浜村御大が新聞記者や通信社の記者に最近のゲーム業界事情をレクチャーしてくれるって企画があって折角なんでのぞいたもの。最前列に陣取って聞いたテレビと一緒な顔&声な浜村さんのレクチャーで、セガ・エンタープライゼスに対する認識では、出てくるタイトルへの高い期待度からしばらくは良さげに推移するって点で、僕の所感とそれほど違いはなかったと言っておこー、グループだからって決して贔屓はしてなかったみたいだし。マイクロソフトの「Xボックス」は不明な点が多いけれど、可能性としては出てくる方が高いみたいで、注目は「プレイステーション2」の発売を牽制して来るか否かが注目とか。これ以上言うと道頓堀でも屈斜路湖でも、死体で浮かびかねない極秘事項がいっぱい含まれているから省略。しかしあんな僻地に通ってるアスキーのエンタテインメントチームの人たちには、やっぱり拍手を贈りたいねー。

 役人は敵であり企業は悪とのスタンスを取り、庶民の見方面をして来た朝日新聞社だけど、役人にだって企業にだって良い人良い会社はあって、それを告発する人こそ敵だってなスタンスに、いよいよ認識を改めて来たのかな。「週刊朝日」の2月11日号に掲載された記事は、山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」について「私たちは許せない」とゆー見出しを付けて、モデルとされた日本航空の役員元役員や現役OB含めた政治家・官僚たちの「自分らそんな酷いことしておまへん」ってな反論”ばかり”を掲載してる。労働組合運動への弾圧を続けた企業を告発し企業と政治家や官僚の癒着を告発し、大勢の読者たちを涙にくれさせた小説を、従来の認識だったらあの「朝日新聞社」が、たとえ本紙とは別の媒体であっても本文だけで5ページも使って告発なんかしただろーか。やはり日本を導く政治家官僚にエスタブリッシュメントが集う企業は”正しい”のだとゆーことに朝日新聞社も気付いたのだろーと讃え……

 る訳ないじゃん。なるほどモデル小説がはらむ問題は、柳美里さんとモデルにされた女性との係争とか、古くは三島由紀夫さんの小説をめぐるプライバシー裁判なんかがあって常に取りざたされることで、フィクションではあってもモデルと目される人物が特定されるよーな場合に、実際を超えて誹謗・中傷のレベルにまで貶めて良いのか否かとゆー趣旨で記事を書くのだったら、それはそれで好ましいアプローチだと思う。もっともその場合でも、山崎さんが「沈まぬ太陽」で告発しよーとした事が、オーバーであっても本質の部分で正しい点が多々あるか否かを検証するなり指摘し、企業でも政治家官僚でも糺すべき部分があるなら糺した上で、「それでもなお」と行き過ぎを指摘し、名誉回復を図ってあげるのが、ステップとして相応しいんじゃないのかな。

 マスコミの中にある怒りの声として取りあげた「大手新聞社のある経済記者」のコメントには、山崎さんが多分好意的に書いただろー会長のモデルが実際は結構大変なことをしていたにも関わらず、小説では触れられなかった点を取りあげて、「一方的な情報を頼りに、故意に曲げた視点で書こうとしていたと疑われても仕方ないのではないか」と憤らせているけれど、だったらこの記事自体が事実としてどんな差別や弾圧が行われていたかに一切触れず、誹謗・中傷されたとゆー役人政治家企業のコメントばかりを紹介した「一方的」なものとゆーことにどう応えるんだろー? 国公労連って公務員で構成する労働組合が実は山崎さんにインタビューしてて、そこでは執筆にあたって結構取材妨害なんかを受けたことを明らかにしてるけれど、これが事実か否かは確認したのかな。一方はニュース、一方は小説とゆー違いはあっても「表現者」としてペンにかけてる新聞屋と小説家の、これは取材をする上で絶対に打破しなくちゃいけない共通の問題のよーな気がするけれど。

 とは言え山崎さんも「週刊朝日」では「いちいち説明しないのが私の信条」とコメントを出していながらも、インタビューを受けて本編に出したこと出さなかったことについて自分で説明しているからちょっとチグハグ。あるは最初から喧嘩腰で質問をしてコメントを引き出そーとしたことに、言質をとられまいと警戒したのかもしれないけれど、「小説だから」と主張するにしてもしないにしても、現実として何が行われていたのかをつまびらかにし、かつインタビューにあるよーな取材妨害があったんだったらそれも明らかにした上で、一般に真を問えば答えも得られるんじゃなかろーか。

 もし「週刊朝日」がモデルのプライバシーにまでとことん配慮するのを主義としてるんだったら、連載中の西村京太郎さん作「女流作家」で明らかにモデルとされている女性推理作家の故山村美紗さんの関係者は、この小説に納得してるって考えて良いんだよね。でもって篠田節子さんの「百年の恋」でモデルにされていると目されているSF翻訳家の某さんは、小説どおりに「下膨れの顔に分厚いレンズの眼鏡をかけ、小太りの体をピンクのトレーナーに包んだ、彼らの仲間とはごく標準的なタイプの女に思いを寄せた」ことがあって、最新号に掲載されているよーに箱の中から「箱いっぱい。真ん中が黄色くなった」女性のパンツを手にし、「汚れた面を平然とさらして洗濯篭につっこんである妻のパンティーを洗濯機に入れ」ているんだと考えて良いんだよね、「自分とかけ離れた悪人に描かれた」とは怒ってないんだよね、いや個人的にはそれはそれなりに羨ましい事だと思うけど。

 最近出た元産経新聞編集局長の青木彰さんが書いた「新聞との約束 戦後ジャーナリズム私論」(NHK出版、2500円)って本に、青木さんが鹿内信隆社長から朝日について聞かれた時に出した答えがなかなかに興味深い。青木さんが言っている「一番したたかなのは、左寄りのイデオロギーをコマーシャリズムの中に包含してしまっているところ」「朝日新聞社を支えている中心的な人たちは、インテリ中産階級に属する進歩的読者の共感をどうしたら得ることができるのかを常に考慮し、微妙なカジ取りをしているはず」(234ページ)とゆー指摘がもしも当たっているんだったら、1億総中流総インテリ総保守化している現代社会でメディアを売るために、政治家官僚企業を支持するのもなるほど当然ってことになるんだろー、なるほどなるほど。

 「週刊朝日」の記事の方は、あれだけ大量の分量を使ったにも関わらず、「以下次号」なんて結語があってまだまだ続く雰囲気で、これはもはやキャンペーンと言っても言い過ぎじゃないくらいの力の入れようが感じられる。来週の記事には今週号の反響を受けて山崎さんの何らかのコメントが出るかもしれないし、軌道修正なりが行われる可能性が無い訳じゃないけれど、何せタイトルが「読者を涙させた大ベストセラーのカラクリ」って「週刊文春」「週刊新潮」と見紛うばかり(御免よ文春、新潮)の煽りだから、おそらくは立派な人たちによる立派なコメントばかりが連ねられることになるんだろー。そーなったらこれでこそ日本のエスタブリッシュメントに支持されるアサヒだと、諸手をあげて万歳三唱、ついでに3度柏手打って築地を拝んでやろーじゃないか。


【1月30日】 ミュージシャンの久富隆司(くどみ・たかし)氏死去、っていった誰だいと思ってサンケイスポーツの死亡欄に目をこらして仰天吃驚、かつて一世を風靡はしなかったけどその筋で高い評価を受けたバンド「ローザ・ルクセンブルク」「ボ・ガンボス」のボーカルの「どんと」だっとは。「ローザ」時代の活動はアルバムで知るのみだけど、「ボ・ガンボス」に関してはえっとあれは88年末の名古屋レインボーホールでの徹夜イベント「ロックンロール・バンドスタンド」だったっけ? 「ローザ」のドライブ感あるテンポとは違うグルーブかかった音楽を目にしたよーな記憶がある。テレビか別のイベントで見たのを勝手に捏造した模造記憶かもしれないけれど。

 ともかくもなかなか渋い線を行って行きすぎたせいで第1線から見なくなったけど、その後は沖縄音楽なんかをやりながら今もまだ音楽活動をしていたとか。残念至極。言っちゃー何だけどガンと戦って逝ったミュージシャンが先だって騒がれていたけれど、普通に急逝してしまうミュージシャンに存外世間の関心ってのは細いもので、どんとなんて知らない人の方が圧倒的なミュージシャンの死が新聞に載っただけでも良しとしなくちゃいかんのか。それでも「JAGATARA」の故江戸アケミに最近スポットが浴びせられつつある状況なんかを見ると、少ないけれど根強いファンの支持が続けば記憶とそして作った音楽は受け継がれるもの、ここにも1人いることだし、その名を心に永遠に刻み込んで冥途の果てまで持って行こう。合掌。

 秋葉原デパートの本屋に1冊しか残っていなくって売れてんのかなと思って買った「シリウスの痕」(高田慎一郎、角川書店、560円)を読む。ちょっと未来のどこかの世界、人間の脳だけを取り出し戦闘用のボディに移し変えた一種のサイボーグどうしを戦わせるモグリの競技があって、何かしら理由があって体を売って「闘犬」になった少女が自我を取り戻してしまったが為に脱走し、弟と逃亡生活に入るってストーリー。サイボーグの戦闘美少女って意味で木城ゆきとさんの「銃夢」がちょっと思い浮かぶけど、雰囲気は全然違って残された脳が放っておけば腐り出すとゆーリミットが設定されながらも、絵柄やキャラの表情に遊びがあって割と気楽に読める。

 とは言え1巻のエンディング近くに登場する脳を移植されたサイボーグ戦闘機の登場を見るにつけ、「闘犬」の娯楽が単なる娯楽に留まっておらず、たとえは古いけど「サイボーグ009」に登場した死の商人「ブラックゴースト」なんかにも似た軍需産業の暗躍なんかも想像できて今後の広がりに興味が湧く。と同時に単なる逃亡者に過ぎない姉と弟がそれほどまでに強大な敵とどう戦っていくのかってな心配も。しかし見返しの部分じゃないけれど、全裸でアクションしかも大股開きありのヒロインなのにこれほど嬉しくないマンガが過去にあっただろーか、そーいやガリィもあんまり色気はなかったっけか、女性でもサイボーグは見栄えを大事にして下さい。

 青山ブックセンター本店での「とり・みきサイン会&対談」をのぞく、髪型が前の雰囲気と違っていたんで入って奥に立っていた人が本人だととはすぐに気付かず、遠巻きにながめているうちにやって来た人と会話を初めてそーだったのかと解る、「しまった」挨拶するんだった。展覧会の方は主に「石神伝説」のページや口絵が張られていたけど、中に山下達郎さんを描いた「TATSUROMANIA」とかゆー多分ファンクラブ会報誌か何かに描いたイラストがあって、独特のデフォルメを施されてもやっぱり解るタツローさんがサンタになったり何かになったりして面白い。会場の隅にはその達郎さんからも花が届けられていて、交流の長さ深さを改めて知る、とり・みきファン歴21年よりは短いけど達郎ファン歴20年の身としてなんか羨ましー。

 サイン会で挨拶し余った時間を書店内なんかを散策したり青山あたりをぶらついて潰す。どこかで見たどころか先日も「ロフトプラスワン」のイベント会場で見たばかりの開田裕二・あや夫妻の姿があったり、横で立ち聞きした雰囲気ではフリー編集者で西原マンガでお馴染みの新保さんっぽい人がいたりと結構な業界度の高さ。伊藤和典さんとのトークの後でバッと見渡したら「あかね雲」でフォークデュオを組んでる関さんっぽい金髪眼鏡の人もいたし、気付かなかったけど他にもいっぱいいっぱい有名人がいたっぽい。勿論引っ込み思案の自意識過剰なんで挨拶もせずストーカーばっかしてたけど。会場を歩いていた子供はとりさんの娘さんかな? いやこれがなかなかな以上の可愛さで、是非とも挨拶したかったですお父さん。

 本多猪四郎監督や怪獣映画への思い入れが妙に深い司会の兄ちゃんの固いフリをウザく、じゃない背筋を正して聞きつつ始まった伊藤和典さんとのトークは、諸星大二郎星野之宣と使われて来た「伝奇」な要素をマンガに盛り込む上で気持ちに制約はないのかってな話になって、「『ガメラ』なんかだと自分が使う材料がバッティングした時は、あっやられたと思っても別にいやじゃないけど、『カムナビ』は……」といったSF政治的に複雑なコメントが発せられて場内のファン大爆笑。理由については不明だけど小松左京研究会、通称コマケン出身にして日本SF作家クラブ会員なとりさんだけにいろいろある、のかもしれない。「石神伝説」の第3巻にも「アラハバキ神」って出てくるんだけど、先に「カムナビ」読んでるとやっぱ思っちゃうからね、あの超絶壮大にて驚天動地な「アラハバキ神」の姿をさ。

 問題となってる第3巻の続きについてはプロットは出来ているものの発表する媒体について未決定で、第3巻の後半のよーな描き下ろしを全編でやって「描き下ろし単行本」として刊行するってことにはちょっとならなそー。読者としてはどこでも良いから即座に連載を始めさせてやって欲しいものだけど、本人もスケジュールがあるからお任せしよー、あと気になる例の「13」は夏くらいまでに映画が出来るとかで、会場に流れていたこれが初公開になるらしー予告編の絵を見ると、「2」とも違うけどいわゆるリアル系なキャラクターになっていて、シリアスな中にホラーなドラマが繰り広げられることになりそー。けどバンダイビジュアル海外で評判の「人狼」ですら公開するための小屋を確保できない状況なんで、完成しても年内に公開されるかどーか解らないのがとても不安、せめて今世紀中に見せてくれー。

 ささっと抜け出して秋葉原に寄ってアナログプレーヤーを購入、回転系はデンオンってな妙な頭があってデンオンの安プレーヤーを買って帰りAVアンプにつないで少女隊のライブアルバムを聞く。流れる「Foever2001」「ハレーロマンス」の声に往時が甦り胸がワクワクしてくる、やっぱ歌うまかったんだなー。ジャケットに入っているライナーの写真がフリフリヒラヒラで「パーフェクトブルー」に出てきたチャムっぽく、ダンスしている姿とかやっぱ映像で見てみたいと強く思う。ビデオとか出てなかったっけ。LPも探したけれど持っている分以外のは秋葉原では発見できず、やっぱ専門の店で探すしかないのか、韓国のソウルオリンピックに絡めたアルバムがあったよーな記憶があって、それが結構気に入ってたんで這ってでも探そう。プレーヤーも買ったことだし我がセーシュンのアイドルをアナログで聴きまくるか、「Babe」とか(何でやねん)。


【1月29日】 サンリオ文庫で「夢の蛇」だかを買った記憶があるヴォンダ・N・マッキンタイアのネビュラ賞受賞作「太陽の王と月の妖獣」(幹遥子訳)の上巻を読む。太陽王のルイ14世が治めるフランスのヴェルサイユ宮殿を舞台に、遠方から海の妖獣を連れて帰った修道士の妹が、不死の妙薬とゆーことで殺されそーになった妖獣と交流し、助けよーとする物語ってことになりそーだけど、それを方便に語られるのはあの時代の才能ある女性が否応なくあたらなくてはならなかった壁のよーな物らしく、数学も音楽も絵画も得意な主人公の女性が、その才能を発揮しよーとすると決まって入る男たち貴族たちの邪魔に女性たちの嫉妬に、女性だったら読んできっといろいろ思うことだろー。

 個人的にもそーした才能が伝統なり制度なりによってスポイルされる状況への憤りは感じるけれど、それが現代の感覚から見ればいかに非人道的なことであっても、当時のそれが当たり前だった状況を考慮に入れると、何て周囲が見えていない人間なんだってことも思い浮かんで難しい。根が小心者で引っ込み思案なんで、場をわきまえず出しゃばったり無礼を働く輩を半ば羨ましいと思いつつ半ば憎々しげに思う感情が、自分から話しかけるのは侮辱と知りながらも貴族に向かって話しかけ、王が見たい時にするのが絶対不可避と解っていても自分の知的好奇心を優先させて王のいない時に妖獣の解剖をやりたがったりするマリー=ジョセフの振る舞いを、さてはてどう評価したものかと悩ませる。

 まあそんな昔の女性が大変だった時代を掘り起こすことで、今もたいして変わっていないことを告発しよーとしたフェミニズム入った作品なんだと別に思わずとも、チャキチャキ頑張る女性の姿に共感しつつ、往時のヴェルサイユ宮殿の貴族王族の暮らしを勉強しつつつ、謎めいた妖獣と人間の心温まるのか悲しいのかは下巻を読んないから解らないけど、近年でもなかなか読めない人間のドラマがふんだんに盛り込まれた歴史SFを堪能出来そー。「歴史改変」ってあるのがちょっと気にかかるけど、これは今へと影響を及ぼす改変があるってことなのかな、それともルイ14世の時代にだけ関係することなのかな。中世ヨーロッパと女性の関係で思い浮かぶコニー・ウィリスの「ドゥームズデイ・ブック」と比べて読むのも面白いかな、途中で投げたまんまの「ドゥームズデイ」、掘らなきゃ。

 「反響ページ」の14にあるぎょえーじゃないけど「ひえええええ」とウィーツィ・バットみたく叫んじゃいましたよスタジオ・トゥ・ネオって有限会社のページがちゃんと存在していたことに。「知性体ストーカー」ってな言葉の早速の引用にまずは御礼申し上げます頑張って何とか今年の新語流行語大賞への潜り込みを狙ってるんですけどそこまでメジャーになるにはやっぱり”事件”が不可欠ですんで東浩紀さん山形浩生さんにおかれましては迷惑千万でしょーけれどこらえてストーカれて下さい高度の研究能力と豊かな学識を有する正規の女子学生で、将来社会に貢献し、活躍しようという意志と能力のある三坂知絵子さんへのそれは1つの学術的な貢献ですし。

 はるばる1都2県をまたいで「横浜パシフィコ」で開かれたスクウェアのイベントに出向く。かつて某「シェンムー」とかゆーソフトが発表された、ゲーム業界的には縁起が極めて良さそーな会場でのイベントは、5000人が2回入って計1万人もの来場者を前に、これからのスクウェアの展望なんかを発表するのが主な内容。当然のことながら期待の「ファイナルファンタジー9」の発表もあるんだろーと思っていったら、これが大きな間違いで「9」についてはチラリと画面が登場しただけで、あの美麗な8頭身キャラで圧倒された「8」から何故か「7」へと戻ったよーな雰囲気の頭身のキャラクターが、ポリゴンの3Dマップを走り回っていて驚く。

 しかし驚いたのはそれだけではなく、何と同じ会場で「ファイナルファンタジー10」とそして「ファイナルファンタジー11」までもが一気に明らかにされたことで、3本一挙公開では当然ながら「9」だけにかける時間も短く成らざるを得なかったことが、さっきの「大きな間違い」って言葉につながってる。さてその「10」と「11」。当然ながら「10」については「プレイステーション2」向けに開発されていて、これは「8」に近い8頭身キャラがリアルタイムでフィールドを駆け回るゲームになりそーとの雰囲気が、まだ途中だけど相変わらず美麗なグラフィック画面から見て取れた。自由度と美麗度の双方を満たすゲームとして、「9」の発売から期間もわずかな2001年春には発売される見通しで、来年度はマジにスクウェアにとってカッパギ・イヤーになりそーな予感がしてる。

 そして「11」、これは何とスクウェアでも初の完全ネットワークゲームとして発売される見通しとかで、サーバー型なのかクライアントどうしをマッチさせるタイプなのかで言えば前者に属するタイプのよーで、バーチャルな空間に入ってキャラクターを操作し、パーティーを募って冒険を旅を繰り広げる「ネットワークRPG」って感じのタイトルになるみたい。グラフィックについてはネットとゆー制約がどこまでかかるのか不明だけど、ここでスクウェアが組んだ相手が何あろー日本でもナンバー1のキャリア、つまりはNTTコミュニケーションズで、そのパワーを使えば値段の面でも技術の面でも強いバックアップが受けられるだろーから、電話線でダイアルアップ接続してチマチマとも、CATVを使ってひっそりとも違う、全国レベルで全市民を対象にした高品質のサービスになる可能性が極めて高い。

 そこまでしてNTTが協力するのは何も「FF」ゲームだけの為じゃなく、スクウェアが「プレイオンライン」って一種の電子モールの構築をもくろんでいることが背景にあると見るのが妥当かも。言うなればゲームを核にして様々なコンテンツが集い発信される超強力なエンターテインメント・ポータルサイトを立ち上げようって構想で、音楽では既にエイベックスの協力を取り付けオンライン配信を行う準備が進められていて、「マンガ」とゆーセグメントでは「スラムダンク」の井上雄彦さん「サラリーマン金太郎」の本宮ひろ志さんが手を挙げデジタルコミックを提供する意向を示してる。

 日々のスポーツの結果や蓄積されたデータなんかを配信し、これがユーザーの持っているスポーツゲームに反映されて野球だったら昨晩の試合を途中から選手を買えてシミュレーションしてみたりとか、レースだったら違うセッティングなり違うシチュエーションで走らせてみたりとかいった、現実とシンクロしつつもバーチャルなドリームを模索できる、過去にない新しい「スポーツ空間」もそこに作り上げられる予定。お馴染み「デジキューブ」あたりも一緒になってのオンラインショッピング・サイト(デモ画面のリストで「ファイナルステージ」が入っていたのはやっぱりって感じ)にも、この「プレイ・オンライン」のメニューから行ける仕掛けになっているから、ユーザーはここに入るだけで十分過ぎるくらいのサービスを受けられる。NTTが協力したくなるのも解るでしょ。

 この強力なサイトが名前も堂々と「プレイオンライン」ってなっているのは、本家ソニーをも差し置いて「PS2」を使ったオンラインサービスでは唯一無二な存在になろーとゆー意志の現れか、あるいはハードメーカーに撤するソニーになり代わってスクウェアなりデジキューブが核となって「e−ディストリビューション」のインフラを作ろうとしているのか。いきなりな立ち上げによって1つに他のメーカーがどーゆー反応を示すのかが目下興味のあるところで、NTTも後ろ盾になって立ち上がる強力なインフラを利用しない手がないと、「プレイオンライン」の上で情報流通を行おうとする他のソフト会社が出てくるのか、でもって「プレオンライン」ではそーゆーコンテンツを受け入れてますます強力な「ポータル」になっていくのか、その出方にちょっと注目してる。登壇したデジキューブの鈴木尚さんがコンテンツホルダーに壇上から呼びかけていたあたりを聞くと、本体よりもデジキューブへと運営を移して、コンビニ端末とはまた違ったネット上の”KIOSK”として「プレイオンライン」を育てていくのかもしれない。

 もー1点、興味があるのはスクウェアがこの「プレイオンライン」でやろーとしているネットを使った攻略方法の提供で、プレイ中に解らないところがあってアクセスすると、ネット上で攻略本を読むかの如き感覚で攻略方法を知ることができる。自分がうろついている場所とかステータスから自動的に最適な攻略情報を提供されるから、ページをめくって今の自分はどこら辺? なんて悩まなくっても良くなる。こんなもの出てきてセッセと攻略本を作って売って来た出版社って一体どーなるんだろー。なあに攻略本はあれでノウハウがいるもの、本じゃなくってもデータの形でネットで公開すれば良いんだよってことになるんだろーけど、ネットで連動させるってことは本体のソフトとセットで情報が作り込まれてるってことだから、選ばれて参加できるだけの関係が深いところしか生き残れないってことになるのかなー、ネットで見られるのにわざわざ本になった情報を買うって人も少なくなるだろーし。

 何もゲームに限らずネットによる情報流通インフラの構築は、既存の情報プロバイダーたる出版や放送にも何らかの影響を与える訳で、いみじくも本宮ひろ志先生が出版社がいらなくなる可能性だってあるんだと盛んにアジってたよーに、ネット上でマンガが漫画家の元から直接発信されれば、出版社は中抜きされることになる。すぐにすべてが置き換わることはなくても、いつか幾つかは置き換わる訳だからその分の収入はネットの運営者の方に移って行く。放送こそが世界にあまねく情報を伝える手段だから、今はそこに様々なコンテンツが集まって放送局を潤しているけど、世界に1億台なにがしの出口を持つ位にまで「PS2」及び「プレイオンライン」が普及した暁に、テレビの圧倒的な優位性は薄れるだろー。

 新聞はまだニュースとゆー素材を掘り起こし、加工し価値付けして手渡す権能があるけれど、いざ流通となると宅配に頼ってばかりではいられなくなるのは必至で、だったらネットも使おうと考えた時、巨大な出口への元栓となった「プレイオンライン」を、果たして無視できるだろーか。まあこれは買いかぶりかもしれないけれど、超然として無能にも紙媒体の「匂い」に固執し続けているばかりでは行き詰まるのも必至だから、単なるゲーム屋のネット事業と冷ややかに見ず、新しいメディアがそこに立ち上がろーとしているんだと認識した上で、利用するにしても敵対するにしても、何からの対応を考えていくのが大切だろー。AOLがタイム・ワーナーを食べたと対岸の火事のよーに騒いでいる間に、日本じゃゲーム会社がメディアを飲み込んじゃうかもしれないよ、うちはその前に潰れるけどね。


【1月28日】 南青山の「イッセイ・ミヤケ・メン」で始まった村上隆さんとのコラボレーションを誰も関係者がいない開店直後にチラリとのぞく。「KAIKAIKIKI」とかってなタイトルが付いて新キャラクターを披露しつつそれをデザインに折り込んだ「イッセイ・ミヤケ・メン」の衣装を展示・販売するとゆー試みは、例えばプリーツ系のレディースの衣装に森村泰昌さんの作品が使われているのよりもアートの主張が強く出ていて、帽子へのスプラッシュやら目玉のプリントの仕方、ネクタイへの柄、靴にさらにはキャラクター人形入りのTシャツを篭に入れて売る凝りようとかに村上流なテイストが出ていて面白い。目玉の絵柄の靴の底まで目玉に造形されているのにはちょっと仰天、ズック靴(古いねえ表現が)の癖に値段が15000円もしやがるのはやっぱ”アート作品”だからでしょーか。キャラのワッペン(これまた古いねえ)が付いたTシャツ1万円ってのにも仰天したけど。

 ファッションの立場に立って見ると、村上さんが描くスプラッシュの形、キノコのサイケなのにポップな雰囲気、そしれ目玉の名前どおりにアイキャッチぶりは魅力たっぷりのモチーフで、加えてカラフルな色使いが春夏の明るい日差しのもとで醸し出す冗談ぶりは、シンプルだったりカラスだったりするのがお洒落っぽいファッションの世界に別の刺激を与えてくれるんじゃなかろーか。背中に2本のスプラッシュが走った薄いグレーのコートなんて、着て歩いたらカッコ良い。スケッチにあった巨大なキノコが男性器よろしく背中にドカンと描かれたジャケットが、塗られた淡く滲んだ色ともども良い雰囲気で欲しい度が高かったけど、見たところ実物として制作されてなかったのはやっぱファショ倫(ファッション倫理委員会、なんてあるかい?)に配慮したのかな。

 一方で村上さんがあれほどまでに拘って入り込みたがっていたオタクの側の立場に立つと、珍奇な色にカッコ悪い目玉やキャラクターがご大層にも描かれた、ユニクロン(全身ユニクロな人の意、今考えた造語)にとっては天文学的値段の服で、決して手に取り着て歩こーとは思えない、よーな気がする。ザクの目玉が描かれたコスパのTシャツの方がよほご心にドンと来るし、譲ってパルコのイベントとかで売ってた「HIROPONちゃん」Tシャツの方が、ファッションとオタクの双方から異論反論を生みかねないって意味でアートしてて好ましく見えた。

 オタクっぽいアイコンを借り出し美味しく料理した、だけなんだと見られかねない今回のコラボレーションの情報が、メディアを通じてオタクな人たちの側へ「こないだまでワンフェスで何かやってたアーティストが今度はファッションで何かやってるみたい」ってな感じで逆流して来た時の反応はだから、優しいものにはなりそーもない。とは言え村上さんの真意が、もはや対話は無理と見た上での一方的なイメージの簒奪などでは決してなく、ファッションへとポック(ポップとオタクを合わせた語、とか)な意匠の素晴らしさを潜り込ませる戦略の1つなんだとゆー可能性もある訳で、見極めるなり聞くなり教えてもらうのを待って結論を出したい。今はともかくファッションでウケなきゃやった意味が丸っきりないんで、とりあえずはクロスオーバーなセッションの形だと認識した上で、応援しつつ行方を注視していこー。ネクタイは幾らだったっけ?

 池袋へと回ってパチスロな会社の傘下になってしまうシグマがゲームファンタジアのサンシャイン通り店に導入した珍奇な業務用ゲーム機の発表会を見に行く。3階のフロアに入ると、道着をまとった黒帯の兄ちゃんが、でかい画面で流れる「鉄拳3」に向かってケリやら突きやらを入れているのを発見する。つまりはジャンボーグA系、ってほどでもないけど遠隔操作が可能なゲームってことで、アメリカの何とかって会社が作ったシステムを積み込んだこのマシンは、CMOSセンサーが手足の動きを読みとり、足下のシートがジャンプとか8方向への移動を読みとって、画面の中のキャラクターに伝えるよーになっている。

 ジャンボーグAだとコードが手足の動きをまんまロボットに伝えるけれど、残念ながらそこまでのモーションキャプチャはされてなくって、単純に言えば両手用足の動きを読みとるセンサーが4つのボタン、踏んで八方向にステップできる足下のコントローラーがアーケードのレバーの代わりをするだけの、いわば人間大(人間だもの当たり前だわな)コントローラーを装備した格闘ゲームってことになる。それでも殴れば手を、蹴れば足を画面の中のキャラクターも動かすし、前に出れば前で、横に踏み出せば横へと進むから何となくでもキャラになった気分を味わえる。今はまだ過渡期でも、いずれ人間の動きをまんま画面に反映させつつ立体眼鏡でさも画面に入り込んでいるよーな気分にさせるゲームも登場するだろーから、そんな時代に向けて研究なり調査なりする1つのステップとして見れば、結構面白いゲームかも、って訳で興味のある人はサンシャインの「ゲームファンタジア」へとGOだ、道着は別にいらないよ。

 池袋パルコに寄ったら古CD古レコードの即売会をやっていたんで適当に漁ると、LPレコードノアイドルから「少女隊」のが結構出てきて、折しも「十兵衛ちゃん」「風まかせ月影蘭」と続く大地丙太郎&安原麗子のあつあつぶりに当てられ少女隊熱がぶり返し(って前も熱っぽかったのか?)始めたんでプレーヤーもないのに買ってしまう、いやCDって探しても「少女隊」のってないんすよ。オリジナルアルバムもライブアルバムも企画アルバムもごっちゃで何が何やら解らないけど、トモがまだ入っていない時代の3人が水着になって立ってる写真がジャケットの裏になってる奴がビジュアル的になかなかで、広い画面のLPレコードの有難みを久々に感じる。

 思い起こせば大学生の頃にどっかのイベント屋が適当にバラ巻いたタダ券で、金山にある名古屋市民会館の中ホールだかで開かれていた「少女隊」のコンサートに潜り込んだことがあったっけ、なかなかのライブパフォーマンスぶりでアーティストとしても行けるじゃんと思ったら解散だったから、あれは結構貴重な体験だったなー。うーんせっかく出た熱、明日もどっかでアルバム探そ、ついでにプレーヤーも買って来よ。MYSCONとかSFセミナーの合宿会場にモノラルのポーターブルのプレーヤーを持ってって廊下とかでかけて聞いてたら、我が行動規範その1に数え上げられる「意表を突け」には合致するけど、やっぱ迷惑だろーなー。

 ついにとゆーか遅蒔きながらとゆーか、静岡の先生ならどんな雑誌か良く知ってる、らしー「財界展望」の3月号に「産業界の専門紙『工業新聞』に忍び寄る存亡の危機」とゆー見出しで、僕は詳しく知らないけれど「日本工業新聞」とゆー会社の40人くらいしかいない記者のうち、中堅どころが10人も退社したってな記事が載っていて、「昨秋に断行した紙面改革が見事に失敗。腹に据えかねた中堅記者が説部尾して社を去った」と、どこで聞いたか調べたか理由まで書いてある。「周辺からはブジッリニュース(原文ママ)社や最近やけに羽振りがよいブルーンバーグ社への『トラバーユ』もささやかれている」とあって、本当はブリッジなのにブジッリと書いたりブームバーグをブルーンバーグ、加えて死語の「トラバーユ」なんてものを持ち出す辺りに流行にイケてない人が書いた記事かとも考えたけど、本当は若いのをそーやってごまかそうとする戦略かもしれず、犯人探しは洋として進まない、なってことが該当する新聞社で行われているかどーか僕新人なんで解りません。

 並べて同じ項目に「一方、双璧をなす日刊工業新聞もジリ貧」とあり、かつ「日本経済新聞でも置かれた状況はよく似ている」と産業関連3紙をまとめなければ1本の記事にならない辺り、ピンを張れる朝日読売毎日に譲って産経も含めてメジャーな新聞に比べて知名度が劣る工業新聞のカナシサが滲む。よーやく記事になったってのもそこいら辺のマイナー感があったからなんだろーなー。とは言え、「そもそも工業新聞も業界紙も収益の源は企業からの広告収入が大部分を占める(中略)記者あがりの編集幹部や記者連中が『広告取り』と同じようなコメツキバッタ状態では救いようがない」とゆー例えは、コメツキバッタなら跳ね返せるだけのバネは持っているど、今の不景気に広告を取るにはひたすら垂れる「たれぱんだ」状態にならなければ無理だから、ここを取り出せばあんまり当たっているとはいーがたい、んで10人止めたってのもあるいはただのガセなのかも、本当は20人だったりして(あっ、冗談になってない)。


【1月27日】 ラッシュアワーのよーな新刊からめぼしい所をピックアップ。出る出ると聞いていた中田雅喜さんが「永遠のSAMURAI月形龍之介」で一所懸命になってクローズアップさせよーとしている役者、月形龍之介さんの本でその名もまんまな「月形龍之介」(月形哲之介監修、円尾敏郎・高橋かおる・中田雅樹編、ワイズ出版、3800円)を購入、思っていたよーな超絶美形って訳でもなく、とくに79ページに掲載されてる友人たちと写った素の写真を見ると俳優って顔立ちすらしてなくて、月形長じて競演した中村錦之介やら大川橋蔵の方がよほどが”美形”な顔をしてるけど、これが化粧してカツラを被って剣を持てばピタリと決まる見栄えの良さは、さすがにスタアだけいことはある。

 加えて歳を経て渋みが出た頃の風貌から滲む貫禄もなかなかなで、実は若い頃も歳とってからも、演技をしている所を見た記憶はまったくないんだけど、今回の仕事がきっかけになって映画が劇場にかかるなんてことになれば、是非ともスクリーンでその勇姿を拝んでみたい。出演作品としてズラリと並ぶ時代劇の作品名に、日本人にとって時代劇が最大の活劇で娯楽だった時代が確実にあったとゆーことを改めて思い知る。今は週に大河ドラマと月8のTBSくらいしか新作時代劇ってないからなー。おっと第1話も放映されてなかなかに好評だったり問題だったりする大地丙太郎さんの「風まかせ 月影蘭」が立派に時代劇で剣劇で風来坊な酒乱だった、っても放映がWOWOWなんで見られないんだよ我が家では。専門映画館とか出来ないかなー。

 美形と言えば超絶美形ばかりがズラリと揃った中川勝海さんて人の「姫麿!愛の千年ストーカー」(集英社、530円)なんかを女装男子物っぽい内容紹介に惹かれて買ってしまう。なるほど主人公の姫麿(ってことは男かい)の美貌ぶりはストップひばりくんすら超えてるかもしれず、さらにはその兄たち友人たち生徒会長たちの美形ぶりもしっかりしたもので、見て目の保養にしたい人にはそれだけの価値はあるかも。ただ物語の根幹を為すべき呪いの方向性も発現の仕方も腑に落ちず、姫麿が姫でい続けなければいけない理由とか、副題の元になった1000年ものストーカーとなった帝の魂の執着心の源とかも不思議で考えると悩む。巻末に来て進展があったけど次巻に厳しい展開だったんで、それがあるならどんな絵面を見せてくれるのかに興味が及ぶ。

 買ったけど読んでいない本として「V」「リトル・ビッグ」「エンディミオン」と並ぶ「ゴーメンガースト」他なマーヴィン・ピークって人が書いたらしー「行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙」(横山茂雄訳、国書刊行会、1900円)も買う。文字どおりに行方不明になっていたヘンテコな伯父さんが突然送ってきたヘンテコな手紙を絵付きで楽しめる本で、日本語版にした時にどーゆー操作をしたのか興味深いくらいに誤字脱字ヘタ字ぶりが出ている文字が使われた絵手紙が全ページに渡って繰り広げられていて、その癖のある字並びに決して厚い本じゃないけどなかなか苦労する。とにかくヘンテコな伯父さんだから話す冒険物語りもホラ吹き男爵並に奇妙なものばかり。飲み込まれ巻き込まれる感覚を味わいつつ不思議で奇妙な世界を絵と字といっしょに堪能できそー。週末にベッドで眠りつつ読もう。

 根っからのミステリー者とは言えないだけにプレは遠慮したMYSCONだけど本編では電子本の可能性に関する井上夢人さんのトークなんかがありそーなんで参加を決めてメールを送った後、毀誉褒貶の激しい映画「エンド・オブ・デイズ」に続くのか続いたらマズいのかは不明ながらも、ギャガ・ヒューマックスが今年最初でかつ最高に気合いを入れて宣伝しそーな映画「グリーンマイル」を試写で見る。アカデミー賞俳優のトム・ハンクスが主演で「ショーシャンクの空に」がアカデミー賞候補になったフラク・ダラボンが監督で原作を言わずと知れたスティーブン・キングな映画だってことだけで話題になる事は請負だけど、かのシュワちゃんにガブリエル・バーンをしても質的向上に困難を来した映画を持って来たギャガだから、タイトルが「グリーンマイル」でも中身は鼻に「グリーン豆」を入れてポンポンと飛ばすアメリカ版梅垣を何でもできるトム・ハンクスがやってんじゃないかと心配する。

 結論から言えば杞憂も杞憂、あのギャガにしてはおそらく「セブン」を超えてそれどころか今年のあらゆる洋画を超えるだけのインパクトを持った映画であったと断言。プレスにあったスピルバーグの「試写の間、私はこらえきれずに4回泣いてしまった」とゆーコメントもあながち嘘じゃないほど、笑わせ泣かせ感動させる映画は過去に決して幾つもなく、3時間8分もの長尺ながらもその長さを微塵も感じさえないくらいに、見ている人を感動の渦へと引きずり込む。原作を読んだ人なら知っているとーり、死刑囚のいる監獄の緑に塗られた廊下から取った「グリーンマイル」とゆー言葉をタイトルに使っているこの話は、2人の少女をレイプして殺したとされた黒人の男が見るからに純朴そーで、そのうちに刑務所の中で不思議な力を見せるよーになって看守たちの気持ちを引きつけ、果たして彼は死刑囚なのか、そうだとしても人を救う人をどーして死刑台に送れよーかと悩む展開になっていて、生きることへの喜びやら死刑制度への憤りなどを喚起しつつ、観客はラストシーンに至るまで散りばめられた感動に酔い溺れる。

 ビリビリと電気が流れる電気椅子で人間が「殺害」される場面を映すことで、人間が人間を合法的にでも「殺害」することに違いない死刑制度への疑問を提示した映画と讃えられる可能性もあったりして、ネズミが友達のフランス移民らしき死刑囚やネイティブアメリカンでどこか達観したことろすら見せる死刑囚が相次ぎ死刑台に上がって死んで行く様が、そんな思いに拍車をかける。しかしながら、考えてみれば彼らは、もしかするとマイノリティだからとゆー点で何らかの複雑な事情があったかもしれないと推察出来るものの、コーフィと呼ばれる癒しの力を持った黒人の死刑囚とは違って、何からの死刑を宣告されるだけの事をしでかしんだと考えるのが妥当な線。だとすれば、もう1人の残酷な野郎に与えられる、余りにも必然的な死を「悪い奴は死ぬのが当然」と許容する気持ちを観劇中に抱く観客が、一方でフランス系ネイティブ系の死刑は残酷と思うのは、どこか矛盾してやしないだろーか。

 何かをしでかされた人たちが、電気椅子で死刑囚が苦しむ場面を日本じゃちょっと考えられないけど真正面に座って注視している場面を見て、何かしでかした人はそれなりの報いを受けるのが当然と考える人がいることを、映画で確認する「死刑制度賛成」な観客がいることへの理解を巡らせた上で、死刑制度が内包するとりかえしのつかなさ加減を考えるならまだ解る。それは人が人に「死」を与えることを全て否定するものではないからね。「何であれ死刑制度は絶対反対」とゆー耳障りの良い主張が出て、それに対する反論が出てさらにそれへの反論が出てといろいろ議論を呼びそーな映画って意味でも、ヒットするとしないとに関わらず、大勢の人に見て考えてもらいたい。ハンクスは言うに及ばず大男のマイケル・クラーク・ダンカンも、コネを振りかざす執念深いガキな看守を演じたダグ・ハッチソンも最高だけど、驚きの演技を見せたネズミの「ミスター・ジングルズ」に助演賞を与えたい。男か女かは知らないけれど。アカデミー穫ったらプレゼンターはやっぱミッキーマウスかなあ。


【1月26日】 日曜日に開かれるとり・みきさんのイベントの詳しい日程なんかを再チェックしよーと青山ブックセンターのページにアクセスしたら、「戦後責任論」なんかを書いた高橋哲哉って人の講演会が開かれるってなお知らせがあって、ナチ政権下でユダヤ人をどんどんと収容所へ送り込んだ能吏、アドルフ・アイヒマンについての映画とか書籍についての講演なんで面白そーだったんで申し込む。それは実は半分で、残り半分は映画のチケットを先着でくれるってな文言に惹かれてまだ間に合うかなと思ったからで、おそるおそる電話したら余裕があったみたいで超ラッキー。ペア券なんてもらっても困るけど2度見ればいーな(誘え美人を!)。

 それはさておき実際のところ映画も本も興味のある題材である点には違いなく、あの時代に生きた人間がどーゆー気分でナチスドイツの今から思えばすさまじすぎる行為を見、支持し荷担していったのかを知ることは、妙な気分が台頭してそれ1色に染まる世が来るかもしれない未来を想像する上で、それに飲み込まれるにしろそれを打破するにしろ大いに必要なことだから、講演会でも何がどーしてどーなった挙げ句に、「凡庸」なアイヒマンをして地獄の案内人にならしめたのかを聞いて来よう。同じく超分厚いナチ政権下のドイツの文化社会を考察した本もどっかから出ていたことでもあるし、この拠り所なき時代を束ねよーとする勇ましくもうすら寒い導きが、果たしてどこに向かっている道のかをちょっと考えてみよー。天国への階段かそれとも地獄の門なのか。

 DVDのSF特撮映画4本がセットになったコレクションボックスを買う。第2弾となったワーナー・ホームビデオのコレクションボックスに入っているのは「2001年宇宙の旅」と「2010年」と「2300年未来への旅」と「ブレードランナー最終版」。箱から取り出すと値段シールの「3400円」なりが1枚1枚に張られてて、つまりは市販品にパッケージをつけたお手軽抱き合わせ商品ってことになるけれど、定価だったら1本分が得ってことになる9800円とゆー定価も許容範囲だったし、どれも一応は持っていたって悪くはないソフトだったんで、「ブレラン」だけ買っときゃ良かったなんてことは微塵にも思わないことにしておこー。「ブレラン」はビデオを持っているけど、ガングロに目のまわりを白く塗るコギャルファッションとは逆な白い顔に目のまわりだけが黒いプリスの顔を、パパッと取り出しれ見られる便利さは捨てがたい。「2001年」は退屈なスターゲートをパパッと飛ばせるから嬉しい、って嬉しがってはいかんのか。

 やっぱり延期になりゃーがった「ドラゴンクエスト7」の発売は、期をまたいで5月の末あたりが目標ってことでエニックスがもくろんでいた今期の売上高は一気に半分になってしまう。それでも何10億円とかってな利益が出ているのは凄いけど。度重なる延期の理由が表向きはクオリティーアップの為となっているけど、去年の年末に勃発した堀井雄二さんの心傷つき事件がどこまで関係しているのかってのは興味があるところで、出られなかった会見でエニックスの人がどー言ったのか明日の新聞が楽しみ、堀井さんの件について言及してるかってことも含めて。けど不思議なのは堀井さんが自分のホームページに掲載していた「安心宣言」がいつの間にか消えてアクセスできなくなっている点で、優しい人なんでああまで言って延期になってしまったのは、やっぱ心苦しいんだろーか。それとも単に軋轢を避けただけ? どっちでも言いけどやっぱちゃんと出てきて(ウェブで良いから)説明して欲しいなー。

 さらに驚愕のリリースが飛び込んで来て気分はもーアウシュビッツ。ゲーム業界の良心とまで言われたシグマ(「ゲームファンタジア」とか運営してたりメダルゲームを作ってる会社)がパチスロ大手のアルゼに買収されてしまうってんで、あちらこちらのアミューズメント施設運営会社なんかに電話して感想を聞くとやっぱり吃驚してた。何年か前に将棋ソフトのセタを買い、ちょい前にはSNKを傘下に収めてこれで一段落かと思っていた矢先の大物食いは儲かってる会社ならではの技だけど、情報の上げ底ぶりが鼻にはついてもビジネスライクとゆー点ではクリアに見えるソフトバンクとは違って、週刊誌等に書かれている噂は決して良い話ばかりではないアルゼだけに、「たれぱんだ」の取りやすかった「ゲームファンタジア」がどーなってしまうのかも含めて、行く末に興味が尽きない。何度か合ったシグマの社長の人がゲーム事業にかける熱情の真面目さを知っているだけに、やはりこの世界、独立独歩で清廉を貫いて行くのが難しいほど行き詰まっているのかなー。さのたえ(謎)どー思う?


【1月25日】 毎度のこったけど「週刊プレイボーイ」を購入、今週号は特集のグラビアで仲間由紀恵さま様さまが超絶美形なお顔を薄いけどそれなりな胸もあるボディともども披露してくれているのが最高に嬉しかったけど、一方じゃ「セイシュンの本棚」のコーナーに我らが(誰がだ)山形浩生さんが「新教養主義宣言」(晶文社、1800円)の著者としてインタビューなんか受けていて、年初の「東京新聞」といー間もなく掲載な「SPA!」といー、まずもってメジャーと言われるメディアへの露出相次ぐ事態は、バロウズが死んだ時リナックスが流行し始めた時以上で、こりゃまじで「ロフトプラスワン」から「朝まで生テレビ」へと流れる(そんな筋があったのかい?)「J知性」な人への道を歩み始めているんじゃなかろーかってな気になって来る。終着点の「サイゾー」には既に連載持ってるくらいだし。

 ここいら辺にサイトの主の森太郎さんが大森望さんあたりが言い出した事として自らを「プチ山形」と読んでいる記述があるけれど、思想のタイプなのか文体なのか何が「プチ山形」なのかを考え続けていたのが、「週プレ」の記事を見てアッと納得、なーんだ顔が似てるのか。某「広告」とかのイラストや「日経産業新聞」でオープンソースに答えていた記事に添えられた写真ではあんまり気付かなかったけど、斜めから撮った写真の表情の細面に写っている雰囲気が、髪型目鼻立ちに眼鏡をかけた印象なんかで森さんと言えないこともない。何せさんざんっぱらネタにしてても当方1度たりとも山形さんと面会したことがなく、文章は知っていてもしゃべり方や顔の雰囲気を間近に捉える機会がなく、「週プレ」の写真を見て感じたことがそのまま当てはまっているのかも正直よく解りません。とりあえず似てるとするならば、重なる業界に2人はやっぱり困るから、森太郎氏には眉と両耳以外のそうだね鼻と瞼と舌に是非、ピアスを付けて「SFセミナー」とかに登場して来て頂きたい。首を何10もの輪っかで巻くとか下唇に円盤を入れるとかでもオッケーです。

 「SFマガジン」の3月号は恒例のベストなんかが別冊になるみたいで普通の作りでそれでも表紙の鶴田謙二さんが描く女の子は毎度ながら可愛くってもっと大きく描いてくれれば言うことないのにと悔やみつつも載ってるだけで有り難いってな気持ちも浮かんでちょっち複雑。ヤングアダルトのレビューでは「E.G.コンバット」には辛いとの噂が蔓延している三村美衣さんが同じ秋山瑞人さんの「猫の地球儀 焔の章」(メディアワークス、510円)について「SFファンには絶対お薦め」と手放しの誉め様なのが印象的。この発見により「E.G」への言及がどう変化していくかにちょっと関心を持ってる。三雲岳斗さんの「コールドゲヘナ」についても傑作と書いているけど「SFファンタジイ」って定義が範疇とするジャンルがなかなかに難しく、評論って断言すれば攻められるけど曖昧でも嘲笑される不利な役割だなーと他人事のよーに実感する。

 同じ三村さんで「闇色の戦天使 ダークネス・ウォーエンジェル」(神野オキナ、アスキー、640円)も「続編が期待される」と結構な評価がされていて、とりあえずは1つの関門を突破したってことでお慶び下さい神野オキナ様。マガジンは巻末の表2にバンダイビジュアルがいつまで作ってるんだろー状態の中をひたすらに作っている「星界の紋章」のプレイステーション対応ゲーム版の広告が掲載されてて、赤井孝美さん描くポチャポチャでプニプニしてそーで可愛い女性キャラが掲載されてて、ゲームにもまんま出て欲しいと願ったけど広告にチラリでテイル正面からのラフィールが、っぽくないのがちょっと気にかかる。あんまり正面から見て対話するキャラじゃないしなー、理不尽なこと言われそーだし。

 珍しく記者発表なんかをハシゴ。後に行った方は銀座の「ワーナー・ブラザース」関連グッズが山と置かれたショップの2階を区切ってオンリーにして開催された、2000年夏公開の映画を東芝とタイム・ワーナーと日本テレビ放送紋が出資して設立した会社「トワーニ」が手がける発の映画作品「さくや 妖怪伝」の発表会で、その筋で有名らしー特殊メイクなんかの原口智生さんと「ガメラ」シリーズで名を挙げた樋口真嗣さんがそれぞれ監督、特技監督の立場で関わることが明らかにされ、江戸時代を舞台に妖怪退治の専門家として活躍していた少女を描くストーリーが披露される。初めてのナマ見だったりする樋口さんは髭こそ生やしながらも細く四角い眼鏡が某秋元な雰囲気だったことにちょっと笑う。

 主演は「ガメラ3」なんかにも出ていたらしー安藤希さんが務めていて、映画では妖刀・村正を手にバッタバッタと切り倒していく物語、になるらしー。会見の安藤さんは流行なのか濡れたっぽい唇にしていて思わずしゃぶり付きたくなったけど、あーゆーメイクって誰がいつ頃どーやって流行らせたんだろー。小悪魔っぽくって色っぽくって幼くって大人びたあの顔あの表情そして唇を毎日のよーに拝めるなんて、嗚呼うらやましいで樋口さん。隙見て色紙に唇押しつけさせて配ってやっちゃーくれまいか。間違えても黒田勇樹クンなら許すけど嶋田久作さんのはご勘弁、なんか呪われそーだし。


【1月24日】 今まで手を出してなかったけど表紙のボーイッシュな女の子のスパッツに包まれた小さなヒップがズキドキッだったんで赤城毅さんの「有翼騎士団」(中央公論新社)の2巻を1巻とまとめて買う。で1巻をバババっと読んだらこれがなかなか面白い、1889年のドイツ帝国を舞台に幕を開けた物語は武士の魂を受け継ぐ青年士官が喧嘩にはやって駐在武官の道を棒に振って決闘三昧、挙げ句に分割されて消滅したポーランドの王家の末裔であるお姫さまが持つ、至宝をめぐる大国どうしのドタバタに巻き込まれる。

 弱きを助ける武士の魂な浪人青年光太郎を筆頭に、メンチの1億倍は利口で勇気もある白いムク犬吹雪やら、美人でやんちゃな嬢ちゃんやら、ロシア帝国の暗殺集団やら全身毒の美貌の少女やら果ては新撰組の残党やらと、出てくるキャラクターの何とまあ個性豊なこととよ。現実の歴史ではポーランドはこの後100年、ドイツだソ連だといった大国に翻弄され続ける訳で王家の末裔が返り咲くなんてことはないけれど、そーした史実を改変せずとも往年の欧州を舞台にした剣と恋の物語として、存分に楽しませてくれそうな気がしてる。2巻もはよ読も。

 ニーハイメディア・ジャパンってとこが編集している日本語英語がバイリンガルで掲載されてる東京発世界行きな雑誌「TOKION MAGAZINE」の第16号を買う。表紙に入っているのがマークとそれに「NEW」って文字だけなんで「ニューマガジン?」とか思ってしまうけど、よく見るとちゃんと小さく「TOKION」って入っているから気を付けよう、で今回の特集は文字どおり2000年代の世界を担うアートやファッションや文学や漫画や映画やイラストや何やらかんやらの最先端を紹介するってコンセプトらしく、あれやこれやの新しい人の作品が紹介されているけど、文学はだいたい知っているのに他に紹介されている人を誰1人として知らず、いかに知識と興味が偏っているかが解る。このほんよんでべんきょしよ。

 文学を知っているのも多分偶然で、J文学な神栄二さんの「涅槃刑」(河出書房新社)とか鹿島田真希さんの「二匹」(これも河出書房新社、まさしくJだ)とか貞奴星野智幸あたりは結構知られていても、永井宏さんの「smile」(永井宏、サンライト・ラボ、505円)とか大塚ヒロユキさんの「APE LITTLE FOOL」(新風舎、1500円)なんてきっと誰も気付いてないだろーからなー、サーチかけて引っかかるのは自分の感想文のページ(ちょっと更新、アクセスまーじき10万でーす)くらいだし。それでも目敏く見つけて読んでいたってのは表紙とかの見栄えが良かったからで、今時の本って「J」とかってマークや「絶賛」とかってな推薦と同じか以上に装丁が大事なんだってことを改めて自覚する。

 デザインだけならホントに日本の小説? って思えるくらいにキレイでカッコ良い「ウサギムササビ」をモチーフにしたデザインが施されている「APE LITTLE FOOL」の大塚ヒロユキさんは、聞くところによるとすでに長編第2作目の「コキコカンポリ」270枚なりを完成しているそーで、内容については第1作を読む限りモーマンタイすなわち無問題、きっと楽しく面白い小説になっていると確信しつつ、さてもどんなデザインになるのかが楽しみだけど、問題はどこから出すかが確定していないぽいところで、当方の勝手な希望を言うならば、やっぱりここはドカンと大手の出版社から刊行されて、もっともっと注目されてその煽りで第1作目にも日の目があたって、持ってる「APE」の価値が上がれば嬉しいな、ってな下心は別にして、本意として是非とも知られて欲しい作家なんで、どこかが引っ張ってくれることを期待なんかしちゃったりして。ところで「コキコパンポリ」って何語なの?

 「TOKION MAGAZINE」の第16号で目立つのは表紙の砂漠に並ぶ黒尽くめの蝙蝠傘野郎で、これってすっげー植田正治さんぽいじゃん、真似したのかなーと思ってよくよく見たら真似じゃなくって本家の植田さんの作品だったんで椅子から転げる。1913年生まれだから2000年で数えの米寿な爺さん写真家のどこが「NEW」なんだと思うなかれ。誰よりも早くシュールでコンセプチュアルな写真を取り続けて来た写真家は今でもやっぱり最先端を行おニューな感性の持ち主らしいー。

 それが証拠に「TOKION」の表紙が放つインパクトは、書店の平台に置かれたどのキレイ綺麗雑誌よりも強い印象を放ってる。静謐で無味乾燥な砂丘が悪天候だった関係からヌトっとして崩れたりしてて過去の作品とちょっぴり印象が違うけど、それもまた新味があって善哉善哉。巻末の特集も含め記事の密度も広告の格好良さも加えてお値段本体934円の雑誌、見かけないけど見かけたら気にしてやって下さいな。バイリンガルなんで英語日本語の勉強だって出来るしね。

 世界のデンツーな会社の役員懇親会に行って超エラい人を間近に見る。かつて対組合の闘士(ってゆーのかこーゆー場合)として辣腕を震ったとか震わなかったとかゆーだけあって歳はいってても醸す雰囲気のなかなかに胆力ありそーなことよ。Hな会社の社長人事がどーしてこの時期に突然起こったのか気にしてたみたいだけど、自分と比べられるのがやっぱり気になったのかなー、もー結構長いし。あるいは「山田くんがヘロヘロでしたからねえ」なんて答えたら受けたかな、そーゆーヤングな文化に通暁してるとも思えないけど、「もののけ姫」を手がける時はちゃんと知ってたみたいだからなー。本当の理由は僕も知りません。

 しかし背広組な役員たちの「NEW」とは無縁のドメスティックにたたき上げな雰囲気が漂うのは広告会社もレコード会社も映画会社も出版社も同様で、例えばゲームとかアニメとかってな日本が世界に誇る(と僕が勝手に思ってる)コンテンツの話にさてはてどこまでついて来れるかどーか。政治的な関心でもってメディアの合従連衡を話すうちは、インターネットの会社とくっつきライバルだったレコード会社とも共闘を組む柔軟さと素早さを備えた海外のメディアの動きなんて、きっと理解でないだろー。日本語の壁が立ちはだかる日本のメディアに民族資本としての屹立が許されている間に、世界標準なコンテンツを世界から金を集めて作れる海外のメディアに川下が全部埋められ、やがては全部が飲み込まれてしまうんだろーなー。上から下までカチカチ爺さんだったりする新聞屋より、現場が柔らかい広告雑誌レコードテレビの方がそれでも遥かにマシだけど。


【1月23日】 富士見ファンタジア文庫から新刊を4冊か。「魔人を呼び出すドジ妖精」清水文化さんは例の「迎撃の二・〇×一〇の一五乗ジュール!」が爆裂してた「正しい台風の起こし方」(富士見書房、580円)から離れた新シリーズでさてはてどんな炸裂ぶりを見せてくれているかが気に掛かるけど後に回して、とりあえずは新人賞から出てきた3人に注目。なかでも「めぐりくるはる」(ワニマガジン社、505円)のOKAMAさんがイラストを担当している「魔魚戦記」吉村夜、520円)の、とにかくブッ飛んだ設定に惹かれて読んで、あまりのブッ飛びぶりにこっちまでブッ飛ぶ。

 いや凄い、過去にこれほどまでに壮大稀有にして唖然呆然なファーストコンタクトがあったらどーか。地球を救う力を持った宇宙人に求婚された美少女が、連れて行かれた宇宙で出逢った”王子様”は……って設定自体に新味はなくてもとにかく圧倒される。折り返しのあらすじや口絵でネタを割っているのが個人的には残念だけどそれがキャッチになるって事もあるから気分は複雑。読んだ身としてあらすじ口絵はとばしてとにかく一気に本文に突入せよと言っておこー。

 続く「覇壊の宴」(日昌晶、580円)もバカさ加減では「魔魚戦記」に負けずとも劣らない小説で、ファンタジックな異世界を舞台に繰り広げられるのは戦闘大好きな美人女性自衛官率いる自衛隊と剣に魔法の軍隊との血みどろ火薬まみれな戦闘シーン。そこにラブコメチックな展開やら大国の陰謀やら第3世界への先進国の悪行やら臓器移植やら民族差別やらがごちゃっと詰め込まれて、読んでいてどこに力点を置けば良いのかに迷う。エンディングへと近づくにつれて古代の遺産をめぐる争いやら古代の遺産そのものの意味やらが描かれる伝奇的な要素も出てきて気分は小説ルーレット、ころころとかわる目によって気分もぐらぐらと左右され、スピード感いっぱいながらもぎゅうぎゅう詰めの密度を感じさせる不思議な小説に仕上がっている。

 新人のデビュー作らしーと言えばなるほどこれだけ「すべてが詰まった」作品はないかも。人によっては無茶苦茶さがマイナスポイントになるかもしれないけれど、語り口の良さと女戦車乗りの炸裂ぶりと残酷な王女様の冷徹ぶりが気にいったんで許す。次がどーなるのかが鍵だろーけど弟が東大出て高級官僚になったららしーんで疎まれようと蔑まされようとしがみつき、筆を曲げずに突っ走って頂きたいもの。文化勲章は無理だろーけど記憶に残る作家になってね。

 あとは未読の「並列バイオ」(秋口ぎぐる)が残るけど、それにしても「魔魚戦記」に「覇壊の宴」と並んだタイトルが実に何といーますか固いっていーますか。これが応募作そのままなのか編集部が付け替えたのかは知らないけれど、パッと見でググっと引きつける色気に欠けてるよーな気がするなー。これが電撃文庫になると「ブギー・ポップ」って何か甘辛い響きを感じさせるし「コールド・ゲヘナ」もそれっぽいし「E.G.コンバット」も「やみなべの陰謀」もインパクトや色気で群を抜く。

 その点、「並列バイオ」ってタイトルから想像できるのは野菜のクローンが並ぶビニールハウスってーか赤ん坊のホルマリン漬けが並ぶ地下研究所ってーか、とにかく色気とは無縁なイメージ。もちろんそれが中身を端的に表してるんだったら文句も何もないけれど、元より色気にかける富士見ファンタジア文庫の装丁で、白地に「並列バイオ」と書かれている様はなかなかに質素過ぎ。もっとも逆もまた真なりでネガティブなイメージも注目を集める要素なのかもしれず、手に取らせて読ませれば納得の逸品かもしれないし「魔魚」「覇壊」に関しては問題なし(あり過ぎるって意見も)だったから、有り体なタイトルよりは良いのかも。しかしやっぱり「並列バイオ」はなあ。

 実は粉砕されてしまっていた「メビウス」が直ったんで改修に秋葉原へ。液晶の破損に保険が効くかが問題だったけど「正当な」理由を書いて真正したら通ってラッキー、じゃない当然当然。割れた液晶もキレイになり取れたゴムの丸ポッチも復活して元どおりの「メビウス」となって帰って来た。表面の傷はさすがに取れてなかったけど。もしも四の五の言うよーだったら昔もらった大川功名刺の裏とかに「よろしく」なんて書いて見せようとか、シャープに手を回してSVGAの液晶をXGAに換えさせようとか(出来るんかいな?)タクらんでいたけどしなくて良かった有り難い。やっぱり保険は重要です、「T−ZONE」は立派なパソコン屋です。

 直ったパソコンを改修してから中央通りを上野方面へと歩くと、昔だったら「リバティ」の向こうはオタク不毛地帯だったものが、例の「ゲーマーズ本店」のおかげでしかっりとトレーディングカードを路上で交換している人たちがいて、心配していたロケーションも「でじこ」パワーでもってカバーしてる実態が見てとれる。中に入ると人もわんさで「でじこ」「ゲマ」のお面が並んでたりして大繁盛、世の中いったい何はどう流行るか解らない不思議な時代になってます。


【1月22日】 ウィっすエクセルっす1日遅れだけととりあえず見た感想を言うなら流石はテレビでテコイレ必須なだけあって六本松くんがバージョン2のみならずバージョン2も復活でドッヒー幾ら金のため視聴率の為とはいえ美少女マニヤに魂売っていーんですか六道紳士よを遠く最南端なドームの地へと叫びつつもその内心は当然ながら「いーんです」の肯定なニュアンスに満ち満ちていてそんな関東からのハッピーな声に押されてきっと来週以降も1とか2だけじゃなくって大勢の六本松くんが登場しては画面に大人の魅力子供の純真ロボット野郎の間抜けさを見せまくってくれるのかくれないのか残りの話数はまだまだあるぞお話しのストックは大丈夫なのかナベシン頑張れワンフェスで売らないか六本松フィギュアバージョン1。

 さらに遅れて「ブギーポップは笑わない」の第3話、本編では直接の描写はなかったエピソードだと思うが、記憶が曖昧なんでよく覚えてない。基本的にはマンティコアと早乙女正美が倒された後、その残留思念めいた物が心に傷を持つ人たちを誘惑する様を複数の視点から見せ、散らばるパズルのピースを1つ、また1つと埋めていくような展開になっている、ような気がする。今回は世界愛なるものを訴えていた友人が殺された後で、その意志を受け継いだフリを意識的か無意識なのかはともかくしていた少女が、心の奥底にある闇をつかれ破綻していく様が描かれて行く。偽ブギーと電気早乙女は狂言回しみたいなもので、知らなくっても単独のエピソードとして理解できないこともない。解ってるようで人間理解なんて出来ないし、悟っているようで内奥はドロドロだったりする人間の辛さ、やるせなさが伝わって来る。ラストに見えた、パトカーの後部座席に放り込まれて雑踏を運ばれて行くバラバラ死体の絵が強烈。さてもパズルは1枚の絵を描くのか、隙間を想像で埋めさせられるのか。原作ファンでもなくっても1話たりとも見逃せない作品であることは確か、評価はその後だ。

 眼鏡のゆーとーせーで実はカンニングしてまでも自分の成績を維持することに懸命だった哀しい少女が電気早乙女によって喉へと何かを流し込まれ、目覚めることなく机の上に突っ伏してしまったシーンの口から垂れ下がるヨダレに妙に色気を感じてしまったイケナイ僕は、待望の第4巻が出た鬼頭莫宏さんの「なるたる」(講談社、505円)でパンダ学園(違うーっ!)に通うお嬢様な小沢さんが、自分の竜の子アマポーラを自衛隊のヘリのローターで引き裂かれた瞬間に悶絶して失禁して目から涙口からヨダレを流してぶっ倒れてしまったシーンにも、同じ官能を覚えてしまいましたが、これってアブナイ兆候なんでしょーか、蹂躙したいとか悶絶させたいとかいった気持ちが心の奥底に願望として眠っている現れなんでしょーか。まあ双方ともに美人でかつ「絵」なんで直視してニタニタしてられるんだろーとは思うけど。リアルな臭いとか残酷さとかとは隔てられた紙なりブラウン管の向こうの痴態に惑う人間は、かくして醜悪な現実への幻滅を畏れて現実からどんどんと乖離していくのであった。

 小学館が仕掛けてる「次世代ワールドホビーショー」をのぞく。午前の10時前ではや即売コーナーへは幕張メッセのホールからNTTわきあたりまで行列が出来ていて、多分メインなんだろー「ポケットモンスター」あたりのグッズの人気が未だに全然衰えておらず、むしろ逆輸入され輸出され逆輸入される形で増幅されてんじゃないかってな印象を受ける。場内も混雑の度合いは外に負けてなく、それぞれのブースに行列が出来て話題の新製品なんかを遊んでいた。中でも気になったのはバンダイが売り出す「カプセラ」とかゆー電子玩具。簡単に言えば球状の電子ブロックみたいな玩具で、さまざまな機能を内蔵されたユニットを組み合わせることで走ったり動いたりする「ロボット」なり「乗り物」を作ることが出来るらしー。値段は最もゴージャスな製品で7000円だったかな、近くに出ていた「レゴ」の「マインドストーム」に比べれば安いけど、自由度とゆー意味でどこまで子供たちの気持ちにフィットするかが鍵。いっそ10段階の検定制度でも作って玩具やの店頭でランキング認定でも行うかい? あるいは「ワンダースワン」でプログラムを転送できるよーな仕組みを入れるとかね。

 携帯ゲームでは「ゲームボーイ」と連動させて使うメディアファクトリーの奇妙な玩具が登場。GBに向けて星座のマークかウルトラサインみたいな絵をハンディ型の機械を振ると、GBの画面に変化が現れゲームが進むってな「ぞくぞくヒーローズ」って賞品だけど、仕組みについてはイマイ不明、GBに読み取り用のデバイスを接続する必要があるのか、それともガンコンよろしく赤外線が直接画面なり赤外線装置に働いているのか。ともかくも単独のゲーム機なりゲームの世界を肉体による動作と伴うデバイスによって補強し拡張していく動きの現れの1つと言え、その意味ではコナミの「DDR」あたりとも共通するテイストがある。

 子供がゲームをやりたがるのは肉体を使おうと使わなかろうとさして理由に違いはないけど、大人の場合は子供に肉体を使わせることで「ゲームばっかりさせてて良いんだろーか」ってな不安を納得させられるから、こーゆーゲームへの期待はやっぱあるんだろー。って訳でやっぱり早く実現して頂きたいですねー、グローブを振るとかじゃなく、それこそジャンボーグAみたく肉体を動かすとその動きをセンサーが読みとり、画面の中のロボットを動かして敵と戦うってなデバイスを。そーいや光センサーでぐるりと囲むってなデカいのは昔あったなー。

 何だろートミーは「スター・ウォーズ」のライトセーバーを新しいファッションアイティムみたくブーム化しよーとしているみたいで、振り回したりして遊ぶ技を披露してた。あと小学館が勘違いなのか確信犯なのか中ボー向けに「コロコロコミック」のテイストを打ち出しつつもちょっぴりアダルトな雰囲気をつけ加えた遊びを抵抗する「GOTTA」の一大デモンストレーションが行われて、スケボーとかインラインスケートとかってなフツーのスポーツを、「X−SPORTS」なるジャンルで括って堂々とやって見せて子供たちの関心を集めていた。モロ肉体を駆使した遊びへの関心はバンダイの「ハイパーゲーム」シリーズの頃から上がっていたけど、否が応でも「玩具」のテイストを残さなくっちゃいけないかったバンダイの方策を突き抜けて、一気にスポーツの分野へと行ってしまうのは「コロコロ」なりが仕掛けたゲームと玩具とスポーツの融合めいた「次世代ホビー」の枠組みを、さてはて否定するものなのか拡張するものなのか。展開にちょっち注目。

 久々に海浜幕張から南船橋経由で「船橋ららぽーと」を散策、自転車を売ってる店で「クラブパンターニ」じゃないけどポルシェの自転車にヨダレを流す。折り畳み系の自転車がいろいろあって欲望が動くけどすでにあるマウンテンバイクすら埃にまみれている身には無駄でしかないからあきらめる。プジョーのは折り畳んでもデカいけどサドルが皮でカッコ良い。プロンプトとかってな奴はやっぱいーなー。南側の2階だかにある「チチカカ」って店は名前の表すとーりに中南米のグッズが並べられていて、中にしばらく前に見た世界のお守り大事典本に載っていた、ボリビアの奇妙な人形「エケッコー」の実物が売られていたんでついつい買ってしまう。決して中国の鶏(それはウコッケイ)じゃないエケッコーはチョロリと髭を生やし、両手を広げて口をあけてスックと立った人形で、ボリビアの人たちはこれに自分が欲しい物のミニチュアを背負わせて願うんだとか。初エビスの熊手みたいなもん、なのかな。

 買った15センチくらいのエケッコーは、まず背中に家を背負ってるし肩にはコーヒーとかお菓子とか航空券とかを下げられて大変そー。南米では小さいプレイステーションとか車とかなんかを背負わせている人もいるそーで、そんな人形の口に毎週火曜日と金曜日、煙草をくわえさせて祈りを捧げるんだとか。見た目の胡散臭さがホントに利くんかいなと日本人には疑問を抱かせるけど、向こうの人が見れば仏像なんて薄着で貧相な奴にしか見えないかもしれないからそこは文化の違いと納得し、ともかくも福を呼び込むためにいろいろと自分でも背負わせてみよー、まずはキーホルダータイプの「リカちゃん人形」なんかを背負わせて女性をゲット、でもって「チョロQ」で車をゲットだ。ドールショウで手作りのヴィトンとか買って持たせてあげるのも吉かも。しかしホントに胡散臭い顔だなー。


【1月21日】 「ロフトプラスワン」でのイベントに関して、酩酊のうちに脳味噌の襞へと押し込まれた記憶が僅か浮かび上がって来たんでちょっとだけ。最近またSFの企画なんかがあちらこちらでわき上がっていることについて、肯定しつつも「編集者発でホラーが来たから次はSFかといった雰囲気がある」的ニュアンスのことを津原泰水さんが話していたのが気にかかる。1つにはホラーが来たから次はSFとどーしてなるのかが繋がらない点、2つに編集者発のブームでは何か拙い点があるんだろーかとゆー点で、仮に編集主導のブーム化だとすると、ほんの2年ほど前に”低迷”していて”売れない”ジャンルの代名詞みたく言われているの言われてないのと大論争を巻き起こしたSFが、今になってホラーの次の役割を担わせてもらえるだけの地位にどーして上がったのかについて補足めいたことを考えてみる。

 例えば今の20代後半から30代前半といった油まみれなノリノリ編集者には、筒井小松星平井半村光瀬矢野といった元祖も山田かんべ横田田中梶尾森下を経て新井神林大原岬火浦草上といった世代もひっくるめて、SFとゆージャンルに親近感があるからここに復活の狼煙を上げよーとしたとか。だったら読者も含めた世代的な願望と言っていえなくもないから、編集者はその代弁者に過ぎず「仕掛け」と言うほどのことでもない。あるいは人によっては繋がりは希薄とは言うものの、アニメにしても漫画にしてもヤングアダルトにしてもSFな物も含めてSF的なるものに囲まれて育った世代にとって、ホラー以上に親和性の高いジャンルとして認知され希求されて来ている、とか。

 単純にレッテルの張り替えによって新鮮な感じを出そうとするマーケティング的発想なだけなのかもしれないけれど、編集者の意識のベクトルがSFに向かっているならそれはそれで喜ばしいことで、まさしく干天の慈雨、は意味が違う雨後の筍、はちょっと近いかな、ともかくも種をまかずば芽は生えない、土が悪くても育たない中で、少数派ではあってもSFなる言葉のメジャ化を渇望する読者としては、土壌を整え種が撒かれて来るのをひたすらに待ち、落ちて来たら来たで全栄養分を使って芽を空へと伸ばしやがて周囲を鬱蒼と繁る森に出来れば幸いである。だから毒蔓草とか食虫植物とかってな種は撒かないでね編集な人たちぃ。

 そうそうSFと言えば今や大ベストセラー作家の貴志祐介さんが「週刊朝日」の1月28日号に掲載された林真理子さんとの対談で次は「SFを書こうと思っているんです」と明言、言うに事欠いて林さんが「へー、SF。SFって、今ちょっと元気ないですよね。二十年くらい前に全盛期があったけど」と返事していて、ここいらあたりがやっぱり今の年齢言った人たちの認識なのかと思ってみたり。興味深いのは貴志さんが「SFと一部の純文学が退潮傾向にあるのは、『こんなものはSFじゃない』『純文学じゃない』とどんどん排除していった結果だと思うんです。ホラーやミステリーは来る者拒まず(以下略)」と、まるで特定の誰かを指摘するよーなことを言っていたことで、いったい誰かと周囲を見回すといっぱい思い当たって怖いこわい。

 林さんも「北朝鮮にしちゃったんですね、SFは。(笑)」とゆーなかなかにデンジャラスな言葉を発してて、偉大なる北朝鮮の首領様は言うに及ばず、偉大なるSFの首領様から「こんなものSFじゃない」ミサイルが林邸へとゲシゲシ打ち込まれやしないかと、日和見SFファンとして教条主義派の暴走を心配するけれど、それは置いてもSFとゆージャンルにいささかなりとも関わった人にとって、「これはSFじゃない」攻撃をどう咀嚼しあるいは排斥して、やっぱりSFと言うのはなかなかに胆力のいるもので、それでも挑もうとする以上はそれなりな「SF」を見せてくれるものと信じて貴志さんの書き下ろしを待ちたいです。しかしやっぱりトラウマになるのかなー「これはSFじゃない」アタックって。

 フランチェスカ・リア・ブロックの「ウイッチ・ベイビ」(金原瑞人・小川美紀訳、東京創元社、980円)を読む。子供欲しさに同居しているゲイのカップルから精子をもらって娘を作ったウィーツィ・バットに愕然とした夫が外で女性に作らせた子供が、よりを戻したウィーツィと夫のもとへと届けられて育ってなったのが本編の主人公のウィッチ・ベイビ。愛されてはいるものの本人としてはどうにも居心地の悪さを覚えてイジワルなことばっかりを繰り返す、その様に複雑な家庭で暮らす子供の悩みをどう見、どう感じどう受け入れていくべきなのかを考えさせられる。「自分さがし」とゆー小説に自分自身、いい加減辟易としているけれどウイッチ・ベイビの破天荒な行動ぶりや自分の気持ちに素直な様には好感が持て、読んで結構胸に来た。

 フランチェスカ・リア・ブロックの「チェロキー・バット」(金原瑞人・小川美紀訳、東京創元社、980円)を読む。子供欲しさに同居しているゲイのカップルから精子をもらって作ったウィーツィ・バットの娘チェロキー・バットが好きな男の子とバンドを組んでライブハウスに出ようとしたものの、馴れておらず失態した挙げ句に男の子は意気消沈してしまう。そこをインディアンの知恵なのか両親の友人のコヨーテから魔法みたいなヤギの毛付きパンツをもらい、男の子はそれをはいて立ち直って実力を出して人気者となる。バンドでいっしょにやってるウィッチ・ベイビもその彼氏のエンジェル・ファンも精霊の力を得て、出世していくバンドだけどやがて起こった諍いと破局に苦しんだ挙げ句、テロキー・バットたちは精霊の力を捨てて自分を取り戻す。自信は自分で育むものって事を教えてくれて、自分に不安な青少年たちの気持ちを優しく包む。

 フランチェスカ・リア・ブロックの「エンジェル・ファン」(金原瑞人・小川美紀訳、東京創元社、980円)を読む。ニューヨークへ行ってしまったエンジェル・ファンを追って自分もニューヨークへと向かったウィッチ・ベイビ。一応の母親のウィーツィ・バットの父親、つまりはおじいちゃんが住んでいたアパートに寝泊まりすることにしたその夜に、なぜかその祖父チャーリー・バットが幽霊となって現れてウィッチ・ベイビを誘ってニューヨークの街を探索する。第1巻の「ウィーツィ・バット」でランプの精霊(ジン)が登場してウィーツィ・バットの願いを叶えて以来のファンタジックな物語に、喜ぶファンタジーファンも多いはず。エンジェルと巡り会うことの出来たウィッチともは別に、強いフリをして結局は父親の死に悩み苦しんでいたウィーツィ・バットの本音も見えて、成長していく様が描かれていて大人になることの辛さと喜びを共に味わわせてくれる。さて残る1巻「ベイビー・ビバップ」ではどんな物語が繰り広げられるのか、どんな感動と哀しみと怒りと喜びを教えてくれるのか。楽しみたのしみ。


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