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1.テレビジョン・シティ 2.改造版少年アリス 3.野川 4.デカルコマニア 5.チマチマ記 6.45° (文庫改題:45° ここだけの話) 7.ささみみささめ 8.団地で暮らそう! 10.冥途あり |
フランダースの帽子、銀河の通信所、さくらうるわし−左近の桜−、銀河鉄道の夜−カムパネルラ版− |
「テレビジョン・シティ」 ★☆ |
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1996年07月 2016年04月
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表紙裏の紹介文をそのまま引用させてもらうと、 「アナナスとイーイーは<鐶の星>の巨大なビルディングで同室に暮らしている。二人は、父と母が住むという碧い惑星に憧れ、帰還を夢みている。出口を求めて迷路をひた走る二人に脱出の道はあるのか。そして、碧い惑星はまだ存在しているのか? ・・・SF巨篇を一冊で待望の復刊!」というもの。 という訳で読んでみたのですが・・・う〜ん、何と言えば良いのだろうか、というのが正直な感想。 まず、舞台は地球外の惑星らしい(碧い惑星とは地球のことか。距離にして15億キロ)のですが、主人公たちが居住するのは何棟もある巨大なビルディングの中であり、外部がどのような様子なのかは一切分らず。彼らが目にする景色は全てテレビジョンに映し出されたものだけ、ということから「テレヴィジョン・シティ」という題名に繋がっています。 徹底的に隔離された社会という点から、映画「アイランド」を思い出したのですが、両者に共通点はあるのかどうか。ついそう考えながら本書を読んでしまいました。 彼らが生きる世界、状況についての説明は最後まで一切なく、彼らの存在についてすら何の説明もありません。 そして登場する人間らしい存在といえば、アナナスとイーイー以外は、ジロ、シルルという同じ立場の仲間のみ。もしかすると、この隔離された社会の外は破滅に向かって進みつつ世界なのかもしれない。 そんな中でアナナスは、彼らの父母とされているママ・ダリアとパパ・ノエルに宛てた手紙を書き続け、イーイーらは父母などいない、この状況からどうやって抜け出すべきかと考えている。 本書を読んでいてSF小説という気はほとんどしません ただ、破滅しつつあるのではないかと思われる外界から閉ざされた隔離社会に残された少年たちがどう考え、どう行動しようとするのか。そうした実験的な小説という印象を受けます。 人類が最後の時を迎える状況というのは、こうしたものではないかとふと考えます。 1.テレヴィジョン・シティ/2.夏休み<家族>旅行/3.ママとパパとぼくたち/4.五日間のユウウツ/5.もうひとつの出口/6.仔犬を連れた人/7.碧い海の響き/8.南国の島 |
●「改造版 少年アリス」● ★☆ |
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文藝賞を受賞して作家デビュー作となった「少年アリス」の改造版。 ただし、私は本書が初めて読む長野作品。ラストを含め大幅に改稿されたとのことですが、「少年アリス」を読んでいないのでどう改稿されたのかは判りません。 それでも、長野さんの原点となる作品と言って良いのだろうと思います。 さてストーリィ。 耽美的なファンタジー+積極的な冒険心、それが本作品の特徴と思います。また、最後の不思議な余韻も印象的。 |
●「野 川」● ★★☆ |
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2014年04月
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父親が事業に失敗し、その上離婚。父親にしたがった主人公が転校した先は、武蔵野台地と呼ばれる河岸段丘の南斜面に建っている中学校。 その低地には“野川”という名の細い川が流れ、学校はそのうえの崖地・中腹にいだかれているので、生徒はみな坂道と無縁ではいられず、河岸段丘を実感として知っている。 主人公である井上音和は、その学校で一風変わった国語教師の河井と出会い、勧められて新聞部に入部します。 ただの新聞部と思う勿れ。何と伝書鳩を飼って訓練もしているという新聞部。 挫折を味わった父親、苦い記憶をもつ3年生の吉岡、誰にでも一つや二つ心の底に重く横たわっているものがあると思います。 |
●「デカルコマニア Decalcomania」● ★★☆ | |
2018年07月
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21世紀の僕が見つけた古書=“デカルコマニア”。 それは何と、23世紀の出来事が既に起きたこととして書き綴られていた書物だった。 本書は3人の人物の手記という構成をとっています。しかし、語り手=物語の主人公ではありません。 さらに“デカルコ”という実験的装置について度々言及されます。それは、過去、未来へと時空を超えて書物、人間を送り込む装置のこと。 本書ストーリィは、自在に未来へ、そして過去へと展開します。 一体どういう物語なのか、誰が主要人物なのか、誰が過去と未来に共通して登場する人物なのか、そしてその正体は? それらが縦横に入り組んでおり、読者にとっては中々捉え難い物語。 言い切ってしまうと、物語らしい物語がある訳ではありません。要は、ある一族の家系を語っただけの物語。 それでも、この捉え難い物語が何故か楽しいのです、面白いのです。 言わば、ストーリィの面白さより、物語られることの面白さ、なのです。 冒頭から登場する不思議な少年=ロマン。彼の正体が明らかになった時、それはストーリィの全貌が明らかになった時でもあります。 とにかく、頭の中だけでストーリィを追おうとしても整理が追い付かない物語。メモをとりながらの読書をお勧めする次第です。 なお、本ストーリィを理解しようとする必要はありません。時空を超えた物語の流れに身を任せ、ただ楽しめればそれで充分、と思います。 不思議な陶酔感を味わえる、魅惑的な一冊。 <Decalcomania> by Sora/"A" by Cyril/"R" by Mylor |
5. | |
●「チマチマ記」● ★☆ | |
2017年03月
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このところ猫続きなのです。「ルウとリンデン」「夜の国のクーパー」「猫弁と透明人間」と続いて、本書「チマチマ記」。 何故こんなにも猫の登場が多いのか。気儘で人の言う通りにはならないというところが、一癖ある人間に似ているからでしょうか。遡ればそうそう、漱石先生の「吾輩」も猫でした。 本作品の主人公は猫のチマキ。幼い弟ノリマキと共に前の飼い主とはぐれて放浪猫となっていたところを拾われ、宝来家に同居することとなります。 その宝来家がまた複雑で風変わりな一家。 カガミさんは宝来家の息子の一人であると同時に賄いに雇われているという存在で、その姪=小五の“だんご姫”こと曜(ひかり)は両親と別居中どころか、両親は事実婚で母親とは一度も同居したことがない。チマキが“おかあさん”と呼ぶカガミさんの母親=小巻は翻訳家で、フリーペーパーに「コマコマ記」という人気コラムを連載中。それになぞらえてチマキ、自身の日記を「チマチマ記」と名付けたという次第。 この宝来家には、小巻の亡夫の前妻であるマダム日奈子も出入りし、曜の実母である桜川カホルとその親族も出入りすると、複雑というか賑やかというか奇妙というべきか。 そう感じたところでハタと気付きました。これはもう漱石「猫」の現代版、長野まゆみ版ではないか、と。 複雑な家族ではあるものの皆々和気藹々、曜も明るく元気な女の子。そして本作品の特色として、カガミさんが腕を振るう料理の数々の紹介、カロリー等健康面を考えるカガミさんの薀蓄がたっぷり聞けることがあります。 特別なドラマはありませんがこの宝来家、何となく愉快で、楽しいのです。ちょうど猫にとって居心地の良い家庭であるように。 1.Early Spring 朝ごはん/2.Spring 昼ごはん/3.Early Summer 飲茶パーティ/4.Summer ちびっこたちの昼ごはん&おやつ/5.Autumn ピクニック/6.Late Autumn 香ばしいごちそう/7.Early Winter お楽しみ会/8.Midwinter 冬ごもりのマキ |
6. | |
「45°」 ★★☆ (文庫改題:45° ここだけの話) |
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2019年08月
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表題作だけでなく各篇の題名とも??というものばかりですが、読み始めてみれば皆、ごく普通に始まりごく普通に展開していく短編小説。 しかしどの篇にも、些か謎めいた気配有り。そして読み終わればそこに、ミステリアスな雰囲気が残り香として漂っている、という風なのです。 ひと言でいえば斬新、今風に言えばスタイリッシュというところでしょう。 題名に惑わされ、どんな作品なのかと戸惑いつつも、読み進んでいく内にいつか次のように声を洩らしてしまうのではないでしょうか。 「なんて面白いんだ!」と。少なくとも私はそうでした。 決してミステリ小説ではありません。だから謎が解き明かされることも、解決がある訳でもありません。ストーリィの内容、主人公たちが極めてミステリアス!なのです。 突き詰めていくと人間自体がミステリアスということになりかねませんが、そこまで行かずに留めているところが、本短篇集の妙味。それこそ小説の面白さなのですから。 「11:55」はオチが面白い。続く「45°」ではえッと驚き。 「W.C.」は平凡な熟年夫婦話かと思ったのですが何と! 「2°」は何とまぁ。何て面白い!と唸った篇。 「X」は何と企みのある味付けでしょうか。 「P.」では長野さんにまんまと嵌められてしまいました。 私好みのスタイリッシュでミステリアスな短篇集、お薦め。 11:55/45°//Y(スラッシュワイ)/●(クロボシ)/±(加減)/W.C.(ダブリュシー)/2°(フォリオ)/×(閉じる)/P(ピードット). |
7. | |
「ささみみささめ」 ★★ | |
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いろとりどりの小話集、25篇。 そのどれもストーリィをサラリと描いていながら、気持ちをくすぐられるような面白さがあって、そして最後のセリフに妙味が籠っています。 好きだなぁ。こうしたさりげなく面白い、という趣向の作品集。 敢えて言えば、O・ヘンリ短篇集のユーモアを極限までそぎ落とし、最後にエスプリ、あるいはウィットを思いきり利かせている、という風。 その何気なさが快く、読んでいて嫌味がなく、苦味が残らず、甘過ぎず辛過ぎずといった味わいなのです。 わざとらしさ、誇張して見せつけるようなところはまるで無し、というところに好感を抱きます。 このところ長野さんの作品を読むことが増えていますが、私の中での評価は鰻上りです。 収録された25篇の内で私が特に好みなのは、次の篇。 「ささみみささめ」、「行ってらっしゃい」、「ママには、ないしょにしておくね!」、「きみは、もう若くない」、「ヒントはもう云ったわ」、「ありそうで、なさそうな」、「もう、うんざりだ」、「ウチ、うるさくないですか」、「スモモモモモ」、「春をいただきます!」。 その中でも「ありそうで、なさそうな」「もう、うんざりだ」「ウチ、うるさくないですか」の3篇はサスペンス小説以上にサスペンスかも。(^^)v ささみみささめ/ああ、どうしよう/ちらかしてるけど/あしたは晴れる/行ってらっしゃい/おかけになった番号は・・・/ママには、ないしょにしておくね!/きみは、もう若くない/あなたにあげる/ウチに来る?/名刺をください/一生のお願い/ヒントはもう云ったわ/ありそうで、なさそうな/もう、うんざりだ/わたしに触らないで/ウチ、うるさくないですか?/ドシラソファミレド/すべって転んで/ここだけの話/スモモモモモ/春をいただきます!/最後尾はコチラです/悪いけど、それやめてくれない?/こんどいつ来る |
8. | |
「団地で暮らそう!」 ★★ | |
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一応小説という建前ですが、実質は“団地探訪記”という感じです。 現代の若者が実家を離れ安い家賃の処を選ぼうとした結果、団地へ引っ越すということに。主人公には安彦(あびこ)くんという名前が付いています。 さて、団地、現代の住居感覚からすると、驚くべきことが多い。その一つ一つを、隣人の是清さんという一人暮らしの未亡人から聞き知る、という設定です。 実は本書で語られる団地のあれこれ、私は実際感覚で判ります。というのも、子供の頃に近所にマンモス団地の一つである「赤羽台団地」が完成、広い敷地の中に並び立つ建物、その間々に広がる青々とした芝生、それぞれ個性ある公園と、目を瞠る存在でした。でもそこに住みたいなと思ったことはありません。そもそもそんなことを考えるような時代ではなかった、というのが理由でしょう。 ですから、本書で語られる数々の団地ならではの特徴は、懐かしく思い出すこともあれば、現代になるとさぞ不便だろうなぁと感じることも多々あります。 懐かしき昭和の時代を“団地”という存在を通じて嗅ぐことができる、本書はそんな一冊です。 団地で暮らそう!/リアル団地訪問記 |
「兄と弟、あるいは書物と燃える石」 ★☆ |
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2015/07/13 |
冒頭、双子の兄弟の話から始まる長編ストーリィ。 「謎に満ちた物語」と言えば格好いいのですが、実のところ謎ばかりで、何が真実で何が虚構なのか全く見当もつかないままに、翻弄され尽くしていたというのが率直な感想。 祐介と計一という双子の兄弟、サラとユリアという母娘、清三五という作家、いったい相互にどういう関係があるのか。更に多重人格という言葉まで飛び出し・・・・。 少しも整理できないままにストーリィは展開していき、ますます置いてけぼりになっていると思ってしまう情けなさ。 私自身の読解力が足りないのか、想像力が追い付かないのか。どちらなのでしょうか。 最後に至ってようやく事実に整理がつけられるものの、どうもそれで終わらせて貰えるわけではなく・・・・。 現実と幻想がここまで混じり合ってしまうと、もはや現実を云々すること自体何の意味があるのやら、と思えてきてしまいます。 |
「冥途あり」 ★★ 泉鏡花文学賞・野間文芸賞 |
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2018年11月
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東京の下町で、文字職人として実直に生きた父親。 曽祖父、祖父等々の一族の来し方を、それを知る親族の人達の語らいから改めて見つめた作品。 著名な人物であったならともかく、平凡に生きた人間の経歴などどこかに記録されている訳でもなく、法事とかで親族が集まった時に年配者の語らいの中から知れてくる、それが普通のことではないでしょうか。 親がわざわざ言い遺すことなどもなく、断片的に聞き知っているという程度。それが語られていく中で一つの流れとして繋がってくる。 本書はまさにそうした内容です。どうということもなく父親のみならず、曽祖父、祖父のことも含めて語られていく中で、一族として歩んできた足跡が明らかになってくる。 それが何かに繋がるかということも特にありませんが、脈々として生が繋がれてきた、過去があり現在があり、そしてこれからの人生もあるということが、愛おしく感じられる作品です。 「冥途あり」は、曽祖父、祖父、父親の来し方が語られた一篇。 「まるせい湯」は、かつて親族が霞ヶ浦という水郷の町にある夏の家に集まって遊んだ日々に利用していた<まるせい湯>が廃業すると聞いて、皆で再びまるせい湯を訪ねていくという篇。 昨年逝去した父親のことを思い浮かべながら読みました。 本書を読んで自分の家族のことが胸に去来するという方、多いのではないでしょうか。 ※本書では、事情通という双子の従兄弟の存在が中々楽しい。 冥途あり/まるせい湯 |