ジュンパ・ラヒリ作品のページ


Jhumpa Lahiri 1967年ロンドン生。両親はカルカッタ出身のベンガル人。幼少時に渡米し、ロードアイランド州にて成長。大学・大学院を経て、99年「病気の通訳」にてO・ヘンリー賞、同作収録のデビュー短篇集「停電の夜に」にてPEN/ヘミングウェイ賞・ニューヨーカー新人賞等、更に2000年04月ピュリツァー賞、08年には「見知らぬ場所」にて第4回フランク・オコナー国際短篇賞を満場一致で受賞。12年から3年間家族と共にイタリア・ローマに居住、15年帰国。
22年からコロンビア大学で教鞭。


1.停電の夜に

2.その名にちなんで

3.見知らぬ場所

4.低地

5.べつの言葉で

6.わたしのいるところ  

7.思い出すこと 

   


  

1.

「停電の夜に」 ★★
 
原題:"Interpreter of Maladies"


停電の夜に画像

1999年発表

2000年08月
新潮社
(1900円+税)

2003年03月
新潮文庫



2000/09/20



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いずれもインド系の人物を主人公とした9短篇。
アメリカに住むインド人という設定が多いのですが、2作品はインドが舞台。
インド系の人が外国で生活しているが故の孤独という雰囲気が常にありますが、それだけでなく、夫婦等近しい相手のこともよく判らない、それ故の孤独感、不安というのが幾度か感じられます。
そうしたストーリィ傾向を別として、この短篇集を読む限り、著者の文章がとても端正であることが印象的です。その端正な、そして美しいとも言える文章によって語られるストーリィの中に、哀しさと共に可笑しさを垣間見ることができる、それがこの著者の魅力であると思います。

原本の表題作は、O・ヘンリ賞を受賞した「病気の通訳」O・ヘンリのようにユーモア、ペーソスが明瞭に現れている訳ではありませんが、自然とO・ヘンリを連想させる、同質の味わいを内包しています。端然とした文章の中にそれが隠れているという風で、噛み締めるほどに味わいがあります。
抑制の効いた文章、とくに事件が起きることもないストーリィのため、何とはなしに読み進んでしまい、どこに各賞を受賞するような良さがあるのか?と感じたのが前半。しかし、後半となると徐々に面白さが増してきます。そこで振り返って、各篇それぞれヴァラエティに富んでいるということに、初めて気付くという次第です。

9篇の中で気に入ったのは、ユーモア度の高い「病気の通訳」、「神の恵みの家」。そして、見知らぬ2人が夫婦関係を築く過程を明るく描いた「三度目の最後の大陸」は、気持ちの良い作品です。また、表題作の「停電の夜に」は、読者の予想をはぐらかすような結末に、複雑な味わいがありました。
デサイ「グアヴァ園は大騒ぎといい、インド系作家の活躍が目立つようです。

停電の夜に/ピルザダさんが食事に来た ころ/病気の通訳/本物の門番/セクシー/セン夫人の家/神の恵みの家/ビビ・ハルダーの治療/三度目で最後の 大陸

   

2.

「その名にちなんで」 ★★☆
 
原題:"The Namesake"


その名にちなんで画像

2003年発表

2004年07月
新潮社
(2200円+税)

2007年11月
新潮文庫



2004/08/22



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アメリカで暮らすインド(ベンガル人)人夫婦、そしてその息子の人生を淡々と描いた、著者初の長篇作品。
軽やかではあっても、異国で暮らすベンガル人家族各々の思いがしみじみと胸に伝わってくる。そこに本作品の良さがあります。端整な上質の長篇小説。

ストーリィの始まりは1968年。出産を間近に控えたアシマ・ガングリーの登場から。アシマは、アメリカの大学院で働くアショケの元へカルカッタから嫁いできた女性。
そして生まれた男の子に名付けられた名前は、ゴーゴリ。アショケが列車脱線という大事故に遭った時、ゴーゴリの短篇集が奇跡的に救助されるきっかけとなったことからの命名です。
そのゴーゴリという名前が、彼ら2人の間の息子の人生をいみじくも語ることになります。つまり、ベンガル風でもアメリカ風でもないその名前は、ベンガル人でありながらベンガル人らしくなく、といってアメリカ人にもなりきれないという、移民2世の葛藤をそのまま象徴しています。
成長したゴーゴリは自分の名前の奇妙さに悩み、改名しますが、根本的な問題が解消されることはない。ゴーゴリの2度にわたる恋愛挫折も、その延長線上にあるといって間違いないでしょう。
ストーリィは2000年まで続きますが、決してゴーゴリ一人だけの物語ではありません。故郷カルカッタに思いを残しつつ異国で暮らした移民1世の両親、ゴーゴリの妹ソニア。そして、ゴーゴリの人生に交錯する、やはり2世のベンガル人女性モウシュミ。各々に思い、各々に選択のあったことが描かれ、本作品に深みを与えています。

不幸を描いたということではない。異国に暮らす、居付くということの姿を、母親とその息子を時に対比させながら、濃やかに描いているところが好ましい。
それにしても、ゴーゴリという命名は絶妙という他ありません。

  

3.

「見知らぬ場所」 ★★★      フランク・オコナー国際短篇賞
 
原題:"Unaccustomed Earth"       訳:小川高義


見知らぬ場所画像

2008年発表

2008年08月
新潮社
(2300円+税)



2008/09/18



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夫婦、家族、恋人等々と様々な愛の姿を描いた作品集ですが、さらりと読めてしまう割りに、噛み締めてみるといずれもしっかりとした、味わい深い作品ばかり。
ストーリィ、筆運びのいずれをとっても、上手いなぁ、と心から賛嘆してしまう一冊です。

前の停電の夜に」「その名にちなんでは、総じて異郷に暮らすベンガル人家族を描くという色彩が強かったのですが、本書でそれはかなり薄れています。意識しなければベンガル人の家族ということすら忘れてしまう程。それが先の2冊と違ってさらりと読めてしまう、という印象の理由かもしれません。

本書を読むと、愛情は決して一様なものではなく、お互いの愛情が微妙にすれ違うこともあれば、様々な関わり方、様々な現れ方をするものだなァと改めて感じさせられます。
親子の情に繋がれていても一線を画そうとする愛情(「見知らぬ場所」)もあれば、常軌を逸した観さえある一方的な愛(「地獄/天国」)、夫婦間で微妙なすれ違いを見せる愛(「今夜の泊まり」)もあり、姉弟間の複雑な愛情もある(「よいところだけ」)といった風。
その典型例と言えるのが表題作の「見知らぬ場所」。母親が亡くなった後に残された、既婚の娘ルーマとそのベンガル人の父親の現在を、各々の視点からを描いた作品です。
シアトルで白人と思われる夫と息子と暮らすルーマの家に、ペンシルヴァニアで一人暮らし中の父親が滞在しに来ます。
家族という立場から父親を見てしまうルーマに対して、意外にも父親は親子であっても選ぶ人生は別々と優しく教え諭す。そんな対照的な2人の姿がとても鮮やかで、思わず読み惚れてしまう一篇。
「地獄天国」は異郷に嫁いできたベンガル人の若妻という前提があってこそのストーリィで、著者だからこそ書き得る一篇。
また「今夜の泊まり」は、夫婦間の微妙な気持ちのズレとその顛末を描いてコミカルな面もある、秀逸な一篇です。
なお、「見知らぬ場所」「今夜の泊まり」は、共に他人事と思えないところがあるだけに、なおのこと惹き付けられます。

第二部の「ヘーマとカウシク」は、3つの短篇を連ねて中編小説に仕立て上げるという趣向の作品。
短篇としての見事さと、中篇としての読み応えが両方とも味わえるといった魅力があります。
幼い頃に出会ったヘーマとカウシクが、30年を経て再び出会うまでの物語を、彼女から彼へ、彼から彼女へ語りかけるというスタイルで構成した、ストーリイ・展開、共に見事な作品。

インド系作家の中でも特に秀でたJ・ラヒリの最新刊。お薦めです。

(第一部) 見知らぬ場所/地獄・天国/今夜の泊まり/よいところだけ/関係ないこと
(第二部 ヘーマとカウシク) 一生に一度/年の暮れ/陸地へ

     

4.

「低 地」 ★★☆
 
原題:"The Lowland"       訳:小川高義


低地画像

2013年発表

2014年08月
新潮社
(2500円+税)



2014/09/19



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革命運動に身を投じて殺された弟=ウダヤン。米国に留学していた一つ違いの兄=スバシュは、ウダヤンの身重の妻=ガウリを救おうと、夫婦として生きていくことを決心して彼女を米国に連れ帰ります。
そして生まれた娘=
ベラは2人を両親と信じ、母親より父親にいっそう慣れ親しんで育っていく。

インドのカルカッタと米国ロードアイランドにまたがった、長い年月に亘る家族の物語。 470頁余と大部な一冊ですが、ストーリィ運びがうまいので、まるで重くなくすんなりと読み切ることができます。
上記3人に共通するのは、誰もが何らかの喪失を抱えているという点。それは米国で住み暮す3人だけでなく、カルカッタの低地トリーガンジに留まって暮す兄弟の両親についても言えることでしょう。
インド系移民だからという特有な問題は感じませんが、移民だからこそ喪失感がなおのこと強まって感じられる、ということはあるようです。

ただし、同じように喪失感を抱えているといっても、スバシュ・ベラの2人とガウリの間には、違いがあるように感じます。
喪失感および迷いがあっても自分がすべきことを最終的に見失わなかったのがスバシュとベラの父娘。それに対してガウリは、喪失感に捉われる余り、結局は目の前のことから目を背けて逃げ出したということではなかったか。
その意味では、長い家族の物語であると同時に、人の生き方を問うことにも通じる物語であったと思います。

地味なストーリィですが、懐の大きな、そして作者の円熟を感じさせる好作品。お薦めです。

        

5.
「べつの言葉で」 ★★☆
 
原題:"In Altre Parole"       訳:中嶋浩郎


べつの言葉で

2015年09月
新潮社

(1600円+税)



2015/10/14



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学生時代に妹とフィレンツェへ旅行したのが、著者とイタリア語との初めての出会いだったとのこと。その時にイタリア語に惹かれ、それから20年余イタリア語を学び、ついに家族と共にローマへ移住。
本書はその異国の地での暮らしを、苦労しつつもイタリア語で綴ったエッセイ&短編小説2篇。
残念なのは、翻訳で読むしかない我が身の故に、著者の苦労の程を文章から汲み取れないことです。

「べつの言葉で」という題名は、イタリア語で暮す日々と、イタリア語での執筆ということを併せて伝えているかのようです。
使用する言葉を変えるという行為によって、書くという行為が一旦リセットされたということなのでしょうか。本書の文章は平易で親しみ易く、共感できるものになっています。

イタリア語を身につけるには現地にて、という気持ちはよく分かります。イタリア語を使うことが自然な環境なのですから。
でもそれと同時に、いくらイタリア語に習得しても膚色のために外国人という視線から逃れられない(夫は妻よりイタリア語ができないというのに白人というだけでイタリア人と度々間違えられている)ということも筆者は感じさせられています。
それはイタリア語のみならず、米国における英語、故郷を訪れた際のベンガル語についても同様と言う。
言語については常に外国人という立ち位置。では自分がよりどころに出来る国は何処なのだろうかという疎外感も、イタリア語に奮闘する中ではっきりしてきた想いなのかもしれません。

とはいえ、小説でもなく、短いエッセイではありますが、極めて質の高い一冊。感じさせられることは頁数以上にあります。

※短編小説は
「取り違え」「薄暗がり」の2篇。

   

6.

「わたしのいるところ」 ★★☆
 
原題:"Dove mi trovo"       訳:中嶋浩郎


わたしのいるところ

2018年発表

2019年08月
新潮社
(1700円+税)



2019/09/12



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2012年から3年間にわたりローマで生活した著者が、自国語ではないイタリア語で書いた2冊目の著書、初の長篇小説。

主人公は、生まれ育ったローマと思しき町で暮らす45歳の独身女性である
「わたし」。
5年共に暮らした恋人と別れ、今は孤独の身。
故郷で一人暮らしする母親のことを案じながら、戻っての同居はもう出来ないと思い定めている。仕事は、大学講師。

そんな「わたし」のごく普通の日常が、スケッチのように切り取った断片、46章という構成を以て綴られています。
特徴的なのは、登場人物にも町にも、特定な名前が付けられていないこと。それは物語をより普遍的なものにするためのようです。
とはいえ、その一章一章には、それが人生の一片であるという確かな手応えがあります。
そこには孤独という寂しさもありますが、その先に広い世界があることも感じさせられます。

日常の一片一片、その積み重ねにより人生は形作られていく、そう感じさせられます。そこに本作の貴重な読み心地があります。

※なお、孤独な生活の積み重ねという点に共通するものがあるのかないのか。それは別として、ふと
ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」を思い出しました。

歩道で/道で/仕事場で/トラットリアで/春に/広場で/待合室で/本屋で/自分のなかで/美術館で/精神分析医のところで/バルコニーで/プールで/道で/ネイル・サロンで/ホテルで/チケット売場で/日だまりで/わたしの家で/八月に/レジで/自分のなかで/夕食に/ヴァカンス中に/スーパーで/海で/バールで/お屋敷で/田舎で/ベッドで/電話で/日陰で/冬に/文房具店で/夜明けに/自分のなかで/彼の家で/バールで/目覚めに/母の家で/駅で/鏡に/墓地で/すぐ近くに/どこでもなく/電車の中で

   

7.

「思い出すこと」 ★★
 
原題:"Il quaderno di Nerina"       訳:中嶋浩郎


思い出すこと

2021年発表

2023年08月
新潮社
(2000円+税)



2023/09/13



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本作は、詩集です。しかし、作者がラヒリであるからにはただの詩集ではありません。

作者がローマで住んだ家具付きアパート。そこにあった書斎机の引き出しの中から、作者は前の住人が残したらしいノートを見つけます。
中には手書き数十篇の詩が記されており、表紙には「
ネリーナ」という名前。
そのネリーナという女性、祖父母の住まいや、過去に住んだことのある土地、家族の名前と、作者自身とよく似ている。
作者は、イタリアの詩を研究している親しい知人=
ヴェルネ・マッジョ博士に詩の監修を依頼。マッジョ博士が詩をテーマ別に分類し、タイトルを付けて出来上がったのがこの一冊。
ラヒリ自身による<序>、ネリーナの詩、そしてマッジョ博士のによる<評論・注釈>という3つからなる構成。

ネリーナも、マッジョ博士も、実はラヒリによる架空の人物。つまり、全ては作者による創作なのです。
詩の内容はというと、日常生活のあれこれ。家族や旅、個人的な思い出等々。
収録されている詩のリズムが、実に良い、楽しく読めます。
複層構造により生まれる奥行き、読み応え、面白さに、いろいろな思いが交錯します。
こうした日常を、作者は心から愛しているのだろう、と感じられます。
そうした点から、詩という形式を用いているとはいえ、本作は本質的に小説ではないか、と思う次第です。

詩が好きな方、詩が苦手な方にも、お薦めしたい一冊です。

はじめに/伝記のための仮説/本文についての断り書き/
窓辺/思い出すこと/語義/忘却/世代/考察/

   



新潮クレスト・ブックス

  

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