文屋康秀 ふんやのやすひで 生没年未詳 号:文琳

縫殿助宗于の息子。子の朝康も著名歌人。古今集真名序では「文琳」と称される。なお文屋氏は長皇子の末裔で、康秀は大納言文屋大市の玄孫にあたる(古代豪族系図集覧)。
西暦九世紀後半、官人としての事蹟がみられる。『中古三十六歌仙伝』によれば、貞観二年(860)、中判事。元慶元年(877)、山城大掾。元慶三年(879)、縫殿助。仁寿元年(851)、仁明天皇の一周忌に歌を詠む(古今集)。また古今集の別の歌からは二条の后(藤原高子)のもとに出入りしていたことがわかる。また、三河掾として下向する際、小野小町を誘ったことが知られる。寛平五年(893)九月以前開催とされる是貞親王家歌合の作者に名を列ねる。六歌仙の一人で、古今集仮名序では「ことばは巧みにて、そのさま身におはず。いはば、商人(あきびと)のよき衣きたらんがごとし」と紀貫之に批判された。勅撰入集は古今五首、後撰一首の計六首。「吹くからに…」の歌は小倉百人一首に採られている。『新時代不同歌合』歌仙。

二条の后の春宮の御息所ときこえける時、正月三日おまへに召して、おほせごとあるあひだに、日は照りながら雪のかしらに降りかかりけるを詠ませ給ひける

春の日のひかりにあたる我なれどかしらの雪となるぞわびしき(古今8)

【通釈】晴がましい春の日の光にあたる私ですが、頭髪が雪を被ったように白くなっているのが遣りきれない気持です。

【補記】二条の后藤原高子が「春宮の御息所」(皇太子の御母の后。この皇太子はのちの陽成天皇)と呼ばれていた頃、康秀を御前に召し、「日は照りながら雪の頭(かしら)に降りかかりける」という題で詠むよう命じたのに応えた歌。「春の日のひかりにあたる」に春宮のご恩顧を被っている意を掛けている。当意即妙の歌として評判になったものであろう。

【他出】後六々撰、新時代不同歌合

【主な派生歌】
年つもるかしらの雪は大空のひかりにあたる今日ぞうれしき(伊勢大輔[後拾遺])
春くれど消えせぬものは年をへてかしらにつもる雪にぞありける(花山院 〃)
消えがたきかしらの雪をかこちても先づや向かはむ春の光に(肖柏)
向ふ中はかしらの雪もおもはでぞ春の光にあたる埋火(武者小路実陰)

是貞のみこの家の歌合のうた(二首)

吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしと言ふらむ(古今249)

【通釈】吹いたはしから秋の草木が萎れてしまうので、なるほど山から吹き下ろす風を「あらし」と言うのだろう。

【語釈】◇是貞のみこの家の歌合 寛平五年(893)九月以前、光孝天皇の第二皇子、是貞親王が自邸で催した歌合。大江千里・藤原敏行・紀友則・貫之・壬生忠岑など当代の代表歌人の作が見える。但し判定の記録などは残らず、紙上の撰歌合であったとの見方が有力。秋歌の一部のみ伝存し、掲出歌はその中に見えない。◇吹くからに 吹いたことにより。「からに」は原因・理由をあらわす助詞。◇しをるれば 萎れるので。「しをる」は植物等が項垂れる、生気がなくなる意。◇むべ 「うべ」に同じ。なるほど。道理で。◇あらし 「荒らし」「嵐」を掛ける。「山」と「風」の二字によって「嵐」になるという機知を隠している(但し、中世の百人一首注釈書の多くはこの説に否定的)。このように、漢字の部品を離したり合せたりして遊ぶ詩を離合詩と言い、漢土では殊に六朝後期に流行し、古今集の歌人たちにも影響を与えたことが推測される。古今集では紀友則の「雪ふれば木毎に花ぞさきにけるいづれを梅とわきてをらまし」もその一例とされる(「木」「毎」で「梅」となる)。

【補記】古今集の諸伝本のうち、高野切・筋切・元永本・清輔本は作者を文屋朝康(康秀の子)とする。古今和歌六帖でも作者を朝康とする本がある。契沖は『百人一首改観抄』でこの点に触れ、寛平初年の是貞親王家歌合の作者としては康秀は高齢に過ぎるとして、朝康の作であろうと推測している。しかし是貞親王家歌合が紙上の撰歌合だとすれば契沖説の根拠は崩れる。

【他出】新撰万葉集、古今和歌六帖、九品和歌(下上品)、奥義抄、後六々撰、定家八代抄、詠歌大概、百人一首、新時代不同歌合、和歌用意条々、悦目抄

【参考歌】壬生忠岑「忠岑集」
山風をあらしと人の言ふなへにあたる草木のしほれぬはなし

【主な派生歌】
冬の来てむべ山風のあらしより雪ぞ木の葉に散りかはりける(慈円)
吹くからにむべ山風もしをるなりいまはあらしの袖を恨みて(藤原家隆)
しをるべきよもの草木もおしなべて今日よりつらき荻の上風(藤原定家)
木の葉ちるむべ山風のあらしより時雨になりぬ峰の浮雲(藤原有家[新拾遺])
山姫のころも秋風吹くからに色ことごとに野べぞなりゆく(後鳥羽院)
草の原つゆのやどりを吹くからに嵐にかはる道芝の霜(〃)
山風の木の間の雪を吹くからに心づくしの冬の夜の月(〃)
吹くからに身にぞしみける君はさは我をや秋の凩の風(*八条院高倉[新勅撰])
逢坂や梢の花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら(*宮内卿[新古今])
住みわぶるむべ山風のあらし山花のさかりは猶うかりけり(藤原為家)
神な月けふは冬とて嵐山草木もむべぞ吹きしをるらむ(〃)
草木吹くむべ山風と聞きしかど猶ぞかりねの袖はしをるる(〃)
草も木もさぞなあらしの山風にひとりしをれぬ荻のおとかな(道助法親王)
草木吹くむべ山風の夕暮にしぐれてさむき秋のむら雲(宗尊親王)
吹くからに秋の光のあらはれてむべ山風にすめる月かな(二条為明[新千載])
吹きにけりむべも嵐とゆふ霜もあへずみだるる野べのあさぢふ(堯孝)
しをれこし秋の草木の末つひにたへぬ嵐の冬は来にけり(三条西実隆)
吹きしをる秋の草木の色よりも冬ぞあらしの音ははげしき(中院通村)

 

草も木も色かはれどもわたつうみの浪の花にぞ秋なかりける(古今250)

【通釈】秋になると野の草も木も色が変わるけれども、海の波の花は、花と言っても秋に色の変わることはないのであるよ。

【語釈】◇浪の花 白波を花に譬える。当時の常套。

【他出】新撰万葉集、定家八代抄、井蛙抄

【参考歌】小野小町「後撰集」
花咲きて実ならぬ物はわたつうみのかざしにさせる沖つ白浪

【主な派生歌】
わたつ海の秋なき波の花になほ霜おくものは夜半の月かげ(慈円)
にほの海や月の光のうつろへば浪の花にも秋は見えけり(*藤原家隆[新古今])
時わかぬ波さへ色にいづみ川ははその杜に嵐ふくらし(*藤原定家[新古今])
時しあれば秋なき浪の花の色も月にうつろふ浦風ぞ吹く(宗良親王)
もも草の野島が崎の夕風に秋なき波の花も散るなり(道堅)
風かをる浪の花には夏もなし秋かととはむ海づらの里(武者小路実陰)

二条の后、春宮の御息所と申しける時に、めどに削り花させりけるを詠ませ給ひける

花の木にあらざらめども咲きにけり古りにしこのみなる時もがな(古今445)

【通釈】花をつける木ではないでしょうに、花が咲いたことです。古くなってしまった木の実ならぬ我が身も、いつか実のなる時があってほしいものです。

【語釈】◇めどに削り花 古今伝授の一つとされた難解句。マメ科の多年草メドハギに、木を細かく削って作った造花をつけたものと言う。◇あらざらめども 「めど」を詠み込んでいる。◇咲きにけり 木を削って出来た造花のことを言う。◇このみなる時 「このみ」には「木の実」「この身」を懸け、「木の実が結実する」「不遇の我が身が栄進する」の両意を含む。

深草のみかどの御国忌の日よめる

草ふかき霞の谷に影かくしてる日の暮れし今日にやはあらぬ(古今846)

【通釈】草が深く繁り霞の立ちこめる谷にお姿をお隠しになり、輝く太陽が没するように大君が崩ぜられた今日この日ではございませんか。

【語釈】◇深草のみかどの御国忌 仁明天皇の御命日。◇草ふかき 陵墓の地「深草」を掛けて言う。◇てる日の暮れし 照る日が没した。先帝を太陽に喩えている。

【他出】和歌体十種(神妙体)、定家八代抄、新時代不同歌合、歌枕名寄

時に遇はずして、身を恨みて籠り侍りけるとき

白雲の来やどる峰の小松原枝しげけれや日のひかり見ぬ(後撰1245)

【通釈】雲が流れてきて宿る峰の小松原は、枝がたくさん繁っているからだろうか、日の光を見ることがない。

【補記】「日のひかり」は、天皇や権門の恩恵の隠喩。不遇の身を嘆いた歌。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年03月27日