六歌仙

僧正遍昭 弘仁七〜寛平二(816-890)
在原業平 天長二〜元慶四(825-880)
文屋康秀 生没年未詳 貞観・元慶年間、官人として活動。
喜撰法師 生没年未詳 
小野小町 生没年未詳 一説に仁明天皇(在位833-850)の更衣。
大伴黒主 生没年未詳 貞観頃の官人か。
 
「六歌仙」は、古今集仮名序において「近き世にその名聞えたる」として紀貫之が挙げた六人の歌人。ただし「歌仙」は、正しくは真名序で柿本人麻呂・山部赤人の二人に限って奉られた称号であって(「柿本大夫トイフ者有リ。…山辺赤人トイフ者有リ。並ビニ和歌ノ仙ナリ」)、貫之がこの六人を「歌仙」と呼んだわけではない。「六歌仙」は後世の呼びならわしである。
貫之のいう「近き世」は、具体的にいつ頃のことなのだろうか。名を挙げられた六人の歌人の事蹟を調べてみると、どうやらこれは陽成天皇代以前を指しているようである。陽成から光孝天皇への皇位の移行は、文徳天皇の直系皇統の断絶を意味した。貫之たちにとっては、時代の大きな節目がそこにあったのである。
 
さて貫之は、必ずしもこの六人を、前代―陽成朝以前―の最も優れた歌人たちと考えていたわけではない。「歌をも知れる人、詠む人」の例を挙げるに際し、「官、位、高き人をば、たやすきやうなれば、入れず」とことわった上で、「そのほかに」という限定付きでこの六人の名を出しているのである。
 
実際、陽成代以前には、小野篁源融在原行平といったすぐれた公卿歌人たちがいた。また、清和天皇の皇后であった藤原高子なども優れた歌を残している。しかし貫之は、彼ら身分の高い歌人たちについては敢えて批評をしなかったのである。そして、公卿(三位以上、または参議以上の官人)に到らなかった身分の低い官人や僧たちの中から六人を選んだのが、六歌仙と呼ばれる歌人たちであった。
 
仮名序を一読すれば明らかなように、貫之は、これら六人の歌人に決して高い評価を与えてはいない。むしろ、「色好みの家に、埋もれ木の、人知れぬこととなりて」と慨嘆した和歌暗黒時代の象徴として、消極的な評価をしか与えていないと言うべきであろう。

僧正遍昭は、歌の様は得たれど、誠少なし。たとへば、絵に描きたる女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
在原業平は、その心余りて、ことば足らず。しぼめる花の、色無くて、匂ひ残れるがごとし。
文屋康秀は、ことばは巧みにて、その様身に負はず。言はば、商人の、良き衣着たらむがごとし。
宇治山の僧喜撰は、ことばかすかにして、始め終り、たしかならず。言はば、秋の月を見るに、暁の雲に、遭へるがごとし。
小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。
大伴黒主は、その様、いやし。言はば、薪負へる山人の、花の陰にやすめるがごとし。

と言った具合である。反対に、貫之が高く評価したのは、人麻呂・赤人を筆頭とする万葉の歌人たちであった。そして貫之は「いにしへのことをも忘れじ、古りにしことをも興し」と、古代を慕う自分たち新世代の歌を誇らかに主張しようとした。六歌仙の歌人たちは、仮名序においてかなり損な役回りを引き受けていると言わざるを得ない。
 
陽成天皇代以前に活動した歌人であること・身分が高くなかったこと。もう一つ、六歌仙に共通するところがあるとすれば、それは彼らが貫之の時代、すでに伝説的な歌人であったらしいことである。希代の色好み業平・伝説的美女小町は言うまでもなく、『大和物語』や家集「遍昭集」に出家後の数奇な遍歴譚をとどめる遍昭、悲恋物語のヒロイン藤原高子のサロンに出入りし、小野小町を田舎見物に誘った文屋康秀、仙薬を服し、雲に乗って飛び去ったという喜撰、鏡山信仰や園城寺の経営にかかわったらしい謎の人物大伴黒主。彼らの歌や生に、何かしら暗い影がつきまとうのも、気になるところである。


公開日:平成12年04月13日
最終更新日:平成21年01月27日

千人万首目次|歌学用語辞典