二条為世 にじょうためよ 建長二〜延元三(1250-1338)

権大納言為氏の長子。母は飛鳥井教定の娘。為道二条為藤為冬為子後醍醐天皇妾、尊良親王・宗良親王の母)らの父。御子左家系図
祖父為家の薫陶を受けて育つ。建長三年(1251)、叙爵。右少将・左中将・右兵衛督などを歴任。大覚寺統の後宇多天皇に親しく仕え、弘安元年(1278)、蔵人頭。弘安六年(1283)三月、三十四歳で参議に任ぜられ、同九月従三位に叙せられるなど順調に昇進を重ねた。持明院統の伏見天皇即位後の正応三年(1290)六月、権中納言に昇り、同五年十一月には権大納言に任ぜられたが、翌月官を辞した(最終官位は正二位)。
永仁二年(1294)における伏見天皇の勅撰集編纂計画に際しては京極為兼飛鳥井雅有九条隆博と共に撰者を命ぜられたが、天皇の歌道師範であった京極為兼との確執などから編集作業は進まず、結局為兼の佐渡配流などがあってこの勅撰集の企画は沙汰やみとなった。大覚寺統の政権恢復後の嘉元元年(1303)十二月十九日、単独編集した『新後撰集』を後宇多院に奏覧。やがて政権は持明院統の花園天皇・伏見院に移り、勅撰撰者の座をめぐって為兼と激しく対立、延慶三年(1310)訴陳状を交わして論戦した(延慶両卿訴陳状)。結局為世は敗れて閑居し、為兼は『玉葉集』を単独撰進する。しかし文保二年(1318)に後醍醐天皇が即位して大覚寺統の治世となると、為世は後宇多院より再度勅撰集の単独撰者に任命され、元応二年(1320)頃までに『続千載集』を撰進した。元亨三年(1323)には同集の選外佳作集と言われる『続現葉和歌集』を編纂。その後も大覚寺統の消沈と命運を共にしたが、元徳元年(1329)八月、病のため出家し(法名は明釈)、延元三年(1338)八月五日、八十九歳で没した。
二条家の宗匠として浄弁兼好頓阿慶運ら多くの門下を育て、二条家歌風の完成者とも評される。嘉元元年(1303)の嘉元百首、文保三年(1319)頃の文保百首などに出詠。続拾遺集初出。新千載集では最多入集歌人(四十二首)。勅撰入集は計百七十七首。後人撰の家集『為世集』がある。著書に歌学書『和歌庭訓』などがある。

  5首  2首  2首  3首  1首  1首 計14首

題しらず

立ちわたる霞に波は埋もれて磯辺の松にのこる浦風(続拾遺36)

【通釈】海はいちめんに立ちこめる霞に覆われて、波も見えずその音も聞こえず――ただ磯辺の松のざわめきに、吹き残る浦風を知る。

【補記】季節の風物である霞と春風を出して、縹渺とした春の海辺の景を描き出した。

【主な派生歌】
明けわたる入江の波もしづかにて荻の末葉に残る浦風(二条為定[藤川百首])

嘉元百首歌たてまつりける時、梅

朝あけの窓吹きいるる春風にいづくともなき梅が香ぞする(新拾遺1535)

【通釈】早朝の窓をあけると吹き入ってくる春風に、どこからとも知れぬ梅の香がする。

【語釈】◇朝あけ 「(窓を)開ける」意を掛ける。

【補記】新後撰集撰定のため、嘉元元年(1303)に後宇多院が召した百首歌の一。

【参考歌】北畠親子「玉葉集」
朝あけの窓吹く風はさむけれど春にはあれや梅の香ぞする
(掲出歌との先後関係は不明)

嘉元百首歌奉りし時、花

行くさきの雲は桜にあらはれて越えつる峰の花ぞかすめる(続千載85)

【通釈】行き先に雲と見えたものは、やがて桜として立ち現れ――振り返れば、越えて来た峰に霞んでいるのが花なのだ。

【補記】上句と下句の間に「かへりみれば」などの語が略されていると言えるが、この語がないことこそが、一首に味わいを生んでいる。続千載集は第十五代勅撰集、為世にとって二度目の単独撰という栄誉であった。

春歌の中に

雪とのみ桜は散れる()のしたに色かへて咲く山吹の花(玉葉267)

【通釈】雪とばかり見えて桜が散り敷いた木の下に、それとは違った鮮やかな色に咲く山吹の花よ。

【補記】山吹はちょうど桜が散る頃に咲き始める。散り敷いた桜の白と、咲き始めた山吹の黄の対比が鮮やか。

院、位におましましける時、うへのをのこども、暮春暁月といふことをつかうまつりけるに

つれなくて残るならひを暮れてゆく春にをしへよ有明の月(新後撰151)

【通釈】つれない様を示しながらも、去らずに残っている――そういう慣例もあるのだと、暮れて行く春に教えてくれよ、有明の月よ。

【補記】夜空に残る有明の月に寄せて、暮れ行く春を惜しむ。「有明のつれなく見えし別れより…」(素性法師)など、有明の月は「つれなくて残る」ものであった。後宇多院が天皇の位にあった時、すなわち文永十一年から弘安十年(1274〜1287)の間、殿上人に「暮春暁月」の題で献上させたという歌。新後撰集は為世自らの編であり、掲出歌は自信作の一つだったのだろう。

嘉元卅首歌奉りし時

鵜かひ舟瀬々さしのぼる白波にうつりてくだる篝火のかげ(続千載302)

【通釈】鵜飼舟が瀬々に棹さして川をさかのぼってゆく――その白波に映え、移りくだる篝火の影。

【補記】「鵜かひ舟」は、飼い慣らした海鵜を使って鮎などの魚を獲る舟。京では宇治川・大堰川などでおこなわれる夏の風物詩であった。「のぼる」「くだる」の対照に言葉の遊びを仕掛けているようだが、趣向としては凝りすぎで、作意があらわである。嘉元卅首は不詳。

【参考歌】藤原為業「為忠家初度百首」
篝火のかげをうつしておほゐ河鵜舟くださぬ夜ははあらじな

夏歌の中に

入日さす峰の梢になく蝉のこゑを残して暮るる山もと(玉葉420)

【通釈】沈もうとする日が、山の頂きに射す――そのあたりの梢に鳴く蝉の声をあとに残して、山の麓は昏くなってゆく。

【補記】山の麓にいて、まだ入日が残っている山の頂の方を眺めているという場面設定。明るいところでだけまだ蝉が鳴いているのである。夏も終りに近い頃の夕暮の、そこはかとなく寂しげな風情が出ている。

難波に月見にまかりて五首歌よみ侍りけるに、海上暁月といふことを

波の上にうつれる月はありながら生駒の山の峰ぞ明けゆく(新拾遺441)

【通釈】難波潟の波に光を映している有明の月――その一方で、生駒の山の頂きは陽が射して明るくなってゆく。

【語釈】◇生駒の山 大和・河内国境の山。難波潟のほとりからだと、東の方に望まれる。

【補記】月の光を映す海の近景と、白み始める山の遠景。

暁月の心を

西になる影は木のまにあらはれて松の葉みゆる有明の月(新後拾遺413)

【通釈】西の方へ傾いた光は木々の間に現れて、松の葉をくっきりと見せる、有明の月。

【補記】低く傾いた有明の月が、松の緑をさやかに見せている。為世撰と推測される私撰集『続現葉和歌集』にも見え、同書の詞書は「正応元年九月十三夜、白河殿十首歌講ぜられしとき、暁月透松といふことを」、第二句「かげにこのまは」とある。

時雨

風に行くただ一むらのうき雲にあたりは晴れてふる時雨かな(新後拾遺464)

【通釈】風に流されて行く、たった一叢の浮雲――あたりは晴れているのに、その雲が時雨を降らせているのだなあ。

【補記】時雨(しぐれ)は晩秋から初冬、降ったり止んだりする雨。天気雨になることも多い。そんな時雨の風情を丁寧に写している。

二品法親王覚助家五十首歌に、冬暁月

さゆる夜の雪げの空の村雲を氷りてつたふ有明の月(新拾遺638)

【通釈】冷え込んだ夜が明けようとする頃、雪もよいの空の叢雲に沿って、氷りついたような有明の月が移動して行く。

【補記】冬の月を氷に譬えるのは古歌に有りふれているが、「氷りてつたふ」と月の動きを描いて見せ場を作った。

【参考歌】恵慶法師「拾遺集」
あまのはら空さへさえや渡るらむ氷と見ゆる冬の夜の月
  藤原家隆「新古今集」
志賀の浦やとほざかりゆく波間よりこほりて出づる有明の月

夜雪

空は猶まだ夜ぶかくてふりつもる雪のひかりにしらむ山の端(玉葉998)

【通釈】夜は深くて空はなお真っ暗だが、降り積もった雪の光に、山の端ばかりはぼんやりと白んでいる。

【補記】丁寧な描写は当時としては新味のあるもので、玉葉集の選者京極為兼の眼鏡にかなったのも諾なるかなと思われる。

春日社によみて奉りし三十首歌中に

思ひあまる心をなににつつままし涙はしばし袖にせくとも(続千載1047)

【通釈】思い溢れる心を、何で包み隠せばよいのだろう。涙はしばらく袖で抑えることができるとしても。

【補記】忍ぶる恋の心を詠む。色すなわち表情などにあらわすことを慎むといった趣向の歌は古来夥しいが、「心」という目に見えないものを「つつままし」と言うことで、抑え難いほどの恋情に当惑する思いを出した。下句で涙を引き合いにしたことも哀れを添えている。

嘉元百首歌に山家を

この里は山かげなれば(ほか)よりも暮れはてて聞く入相の声(玉葉2205)

【通釈】私の隠れ住むこの里は山陰なので、ほかの所よりも、あたりが暗くなり切って聞く、入相の鐘の声よ。

【補記】ひっそりと山陰に住む隠者の立場で詠む。世間から取り残された暮らしの、寂しいが沁み沁みとした風情。


公開日:平成14年09月29日
最終更新日:平成15年01月16日