二条為道 にじょうためみち 文永八〜正安元(1271-1299)

為通とも。大納言為世の嫡男。母は賀茂氏久女。二条為藤為冬の兄。為子の弟。子には従三位左中将為親・正二位権大納言為定ほかがいる。女子には「為道朝臣女」の名で勅撰集に載る歌人がいる。
正四位下左権中将に至る。二条家の跡継として将来を嘱望されたが、正安元年(1299)五月五日、二十九歳で夭折した。
正応二年(1289)三月和歌御会、同三年九月十三夜歌会、永仁元年(1293)八月十五日内裏御会など、伏見天皇の内裏歌会に参加。関東に下ったこともある。新後撰集初出。勅撰入集は計六十九首。

往事似夢といふ事を

はかなくも今をうつつとたのむかな過ぎにしかたの夢にならはで(続後拾遺1227)

【通釈】愚かなことに今この時を現実と頼みにすることよ。過ぎてしまえば何もかも夢のようにはかないと気づくのに、そうした経験に習うこともなく。

【補記】続後拾遺集巻十七雑下巻軸。

題しらず

あだし野や風まつ露をよそにみてきえんものとも身をば思はず(新後撰1501)

【通釈】化野(あだしの)の草葉に置いた露――風が吹けば散ってしまうのが運命の露を、自分とは無縁なものと眺めて、自らもいずれは消えてしまう身だとは思いもしない。

【補記】「あだし野」は京都市右京区嵯峨、小倉山東北麓一帯。埋葬地として名高い。あだし野の露は無常の象徴。

【参考歌】公順「拾藻集」
いつまでとかくるたのみぞあだし野に風まつ露を玉の緒にして


最終更新日:平成15年月日