兼好 けんこう 生没年未詳 俗名:卜部兼好(うらべのかねよし)

藤原氏の氏社である吉田神社(京都市左京区吉田神楽町)の祠官を代々務めた卜部氏の出身。治部少輔兼顕の子。母は執権北条貞顕の執事倉栖(くらす)氏の出という。兄弟に天台大僧正慈遍、民部大輔従五位上兼雄がいる。
生年は弘安六年(1283)とする伝がある。初め堀河具守家の家司をつとめたが、その後、後二条天皇に六位蔵人として仕え、徳治二年(1307)従五位下左兵衛佐に任ぜられた(風巻景次郎説)。延慶元年(1308)、天皇の崩御に伴い宮廷を退き、正和二年(1313)秋頃出家、俗名兼好(かねよし)を音読してそのまま法名とした。修学院や横河など京都近郊の諸所に隠棲し、その間二度関東に下っている。没年は観応年間(1350-1352)とも言うが、貞治元年(1362)頃まで生存したとする説もある。
和歌は二条為世に師事し、頓阿浄弁慶運と共に為世門の和歌四天王と呼ばれた。正中元年(1324)に為世から、延元元年(1336)には為定から、それぞれ古今集を受講した。二条為藤冷泉為秀・邦良親王等とも交流があり、また賢俊僧正(足利尊氏の政治顧問)や高師尚にも接近するなど、公家武家を横断する広い交際圏を有した。建武二年(1335)、内裏千首和歌に参加。
徒然草の作者として名高い。自撰家集『兼好法師集』がある。続千載集初出。勅撰入集は計十八首。

『兼好法師集』 岩波文庫、私家集大成5、新編国歌大観4、新日本古典文学大系47

仁和寺山門と双ヶ岡 京都市右京区

石山にまうづとて、あけぼのに逢坂をこえしに

雲の色にわかれもゆくか逢坂(あふさか)の関路の花のあけぼのの空(兼好法師集)

【通釈】雲ははっきりと白い色になって、山から別れてゆくのか――逢坂の関路の桜が咲き満ちた、曙の空よ。

【補記】山桜と雲が見分け難かった曙の空。空が明るくなるにつれて、雲の色が区別できるようになり、同時に山から離れてゆく、と見た。近江の石山寺に参詣するため、逢坂の峠を越える際の嘱目詠。

五月廿日ごろ、御子左(みこひだり)の中納言どのの庚申(かうしん)に、風前夏草

うちなびく草葉すずしく夏の日のかげろふままに風たちぬなり(兼好法師集)

【通釈】野原の草がいっせいに靡く、なんと涼しげに。夏の陽が陰ると同時に、風が起こったようだ。

【補記】「御子左の中納言どの」は二条為定か。「庚申」は庚申待ち。

【主な派生歌】武者小路実陰「芳雲集」
夏の日もかげろふままにかぜ落ちて草の葉山の色ぞ涼しき

網代

しるべせよ田上(たなかみ)河のあじろもりひをへてわが身よる方もなし(兼好法師集)

【通釈】道案内を頼むよ、田上川の網代守。網代にかかる氷魚(ひお)ではないが、もうずっと私は身を寄せるところとてないのだ。

【補記】網代(あじろ)は氷魚(鮎の稚魚)を獲るための仕掛け。冬季のみ用いられ、春になれば簀をはずされて網代木(杭)のみが寂しげに立ち並ぶ。柿本人麿の「もののふ八十宇治川の網代木にいさよふ浪のゆくへ知らずも」から無常の現世の暗喩ともなる。この歌では、氷魚が寄る網代を引き合いに出して、自己の寄る辺なさを述懐している。「日を」「氷魚」掛詞。「よる」は氷魚の縁語。

こよろぎの磯といふところにて、月を見て

こよろぎの磯より遠く引く潮にうかべる月は沖に出でにけり(兼好法師集)

【通釈】こよろぎの磯から遠く引いてゆく潮に乗って、水面に浮んだ月は沖へと出てしまったよ。

【語釈】◇こよろぎの磯 相模国の歌枕。神奈川県大磯あたりの海岸。万葉集には「余呂伎能波麻(よろきのはま)」とある。「こゆるぎの磯」とも。東海道の宿場に近く、遊里があった。

【補記】月が時と共に沖の方へ移動したのを、潮に乗って出たかのように言いなした。

世をそむかんと思ひたちしころ、秋の夕ぐれに

そむきてはいかなる方にながめまし秋の夕べもうき世にぞうき(兼好法師集)

【通釈】遁世したら、どんな風に眺めるのだろうか。秋の夕べも、憂き世にあって眺めるからこそ憂鬱なのだ。出家を果たした心境には、違って見えるのではないか。

世をのがれての比よみ侍りける

すめば又うき世なりけりよそながら思ひしままの山里もがな(新千載2106)

【通釈】世を逃れて住めば、ここもまた憂き世であったよ。よそから眺めて住みよいと思った、そのままの山里はないものだろうか。

【補記】家集には「心にもあらぬやうなることのみあれば」の詞書がある。

ならびの岡に無常所まうけて、かたはらに桜を植ゑさすとて

ちぎりおく花とならびの岡のべにあはれいくよの春をすぐさむ(兼好法師集)

【通釈】いつまでも一緒にいようと約束した花と仲良く並んで、このならびの岡のほとりで、ああ幾年の春を過ごすことになるのだろうか。

【語釈】◇ならびの岡 京都仁和寺の南にある岡。今は双ヶ岡と称す。「(桜の木と)並んで住む岡」の意を掛けている。

【補記】自分の死後、墓の隣に植えた桜の花が咲く春を想いやる。因みに兼好の墓は、のち双ヶ岡に程近い長泉寺に移された。


公開日:平成14年12月08日
最終更新日:平成22年07月17日