一条家経 いちじょういえつね 宝治二〜永仁元(1248-1293) 号:後光明峰寺前殿

摂政左大臣実経の息子。母は内大臣大炊御門家嗣女、または右中将有信女と伝わる。内大臣内実・中納言冬実・大僧正道昭ほかの父。
建長八年(1256)元服し、後深草天皇の正元元年(1259)正月、権中納言に任ぜられ正三位に叙せられる。その後、権大納言・左大将を経て、亀山天皇の文永四年(1267)二月、内大臣。同五年十二月、右大臣に転じ、同六年四月、左大臣に就く。同七年正月、従一位。同十一年六月、後宇多天皇の受禅に伴い摂政・氏長者となる。翌年の建治元年(1275)十月、摂政・左大臣を辞職。永仁元年(1293)十二月十一日、薨ず。四十六歳。
建治元年(1275)九月十三夜、自邸に阿仏尼九条隆博らを招いて「摂政家月十首歌合」を開催し、後日真観に判詞を依頼した。続古今集初出。

春の歌の中に

難波江やあしの若葉を吹く風にみどりをよする春のさざ波(続後拾遺40)

【通釈】難波江の蘆を風が吹き渡る――すると春の海にさざ波が立って、若葉の美しい緑を靡き寄せるのだ。

【参考歌】藤原秀能「新古今集」
夕づく夜しほみちくらし難波江の葦の若葉にこゆる白波

松月出山と云ふ事を

嶺たかき松のひびきに空すみて嵐のうへに月ぞなり行く(新後撰346)

【通釈】激しい風が吹きつけ、峰高く生えている松を鳴り響かせる――その凄まじい響きと共に夕空は澄みわたり、嵐の上に冴え冴えと光る月が昇ってゆく。

【補記】建治元年(1275)九月十三夜、家経邸で催された「摂政家月十首歌合」での作。判者の真観は「誠為秀逸。誰不賞翫」と絶賛して勝を付けた。


最終更新日:平成14年10月08日