阿仏尼 あぶつに 生年未詳〜弘安六(?-1283) 別称:安嘉門院四条ほか

実父母は未詳。佐渡守平度繁の養女。藤原為家の妻。為相為守ほかの母。
十代半ばで安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王。後堀河天皇の准母)に仕え、はじめ越前、のち右衛門佐、四条と呼ばれた。若い頃失恋の痛手から失踪し衝動的に出家。その後御所に戻ったり遠江国に下向したりしたが、やがて再び出奔し法華寺などに住んだ。建長五年(1253)頃、すでに歌壇の重鎮であった藤原為家と知り合い、まもなく側室となって為相・為守を生む。晩年の為家は阿仏尼を寵愛し、為相に播磨国細川庄を与える旨の文券を書いたが、これが後に御子左(みこひだり)家の嫡子為氏との遺産相続争いの原因となる。建治元年(1275)の為家没後、為氏は細川庄の譲渡を拒絶し、阿仏尼は弘安二年(1279)、訴訟のため鎌倉へ下る。四年間の滞在後、事件の解決をみないまま、弘安六年(1283)四月八日、鎌倉で客死した(帰京後に没したとの説もある)。享年は六十余か。鎌倉英勝寺の傍に墓がある。法名阿仏。北林禅尼ともいう。
仮名日記文学の作者として名高く、若き日の失恋と放浪の手記『うたたね』、鎌倉下向の際の紀行『十六夜日記(いざよいにっき)』、また歌論書『夜の鶴』などの著作がある。歌人としてもすぐれ、弘長三年(1263)三月の為家勧進住吉社歌合・玉津島歌合、建治元年(1275)九月十三夜の一条家経主催「摂政家月十首歌合」、弘安元年(1278)の弘安百首などに出詠した。続古今集以下の勅撰集に48首入集。京極為兼やその姉為子など京極派歌人と交流があり、玉葉集・風雅集への入集が多い。家集『安嘉門院四条五百首』は、相続問題の勝訴を祈願して、弘安三年春から同四年秋にかけて詠まれ、鎌倉在の四社と常陸国の鹿島社へ奉納した百首歌から成る。また藤川百首題で詠んだ『安嘉門院四条百首』(続群書類従第十四輯下所収)がある。

阿仏尼の墓
伝阿仏尼墓 鎌倉市扇ガ谷

  1首  2首  3首 悲傷 2首  3首 計11首

苗代を

山川を苗代水にまかすれば田の()にうきて花ぞながるる(風雅263)

【通釈】山から流れ下る小川を苗代水として引くと、散り浮いた桜の花びらが田の水面に流れてゆく。

【語釈】◇苗代水(なはしろみづ) 苗代田にそそぐ水。

【補記】春の田園の景。苗代を引くのはちょうど桜の終わった頃。

【参考歌】慈円「拾玉集」「風雅集」
春の田の苗代水をまかすればすだくかはづの声ぞながるる

亀山院より百首歌めされける中に

色々にほむけの風を吹きかへてはるかにつづく秋の小山田(玉葉624)

【通釈】さまざまに稲穂の向きを変えつつ風が吹き渡るのを見せて、遥かに続いている、秋の小山田。

【補記】「小山田」は山裾の田。山の傾斜が田の見通しを良くし、またその存在が風向きをしばしば変えるのである。

草露映月

こきまぜに草の花咲く秋の野の露にしたがふ月の色々(安嘉門院四条百首)

【通釈】さまざまな色を混ぜ合わせて草花が咲く秋の野――そこに一面置いた露ごとに、月も色々な光を宿す。

【補記】秋の草花はその多彩な色合いが賞美されたが、掲出歌は花に置いた露ごとに異なる色合いを見せる月の光に着目した。藤川百首の題で詠んだ百首歌より。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
みどりなるひとつ草とぞ春は見し秋はいろいろの花にぞありける

かの所に行きつきたれば、かねて聞きつるよりも、あやしくはかなげなる所のさまなれば、いかにしてたへ忍ぶべくもあらず。暮れはつる空のけしきも、日ごろにこえて心ぼそくかなし。宵ゐすべき友もなければ、あやしくしきも定めぬとふのすがごもにただひとりうちふしたれど、とけてしもねられず

はかなしな短き夜はの草枕結ぶともなきうたたねの夢(うたたね)

【通釈】儚いものだ。春の短い夜の、粗末な仮の宿での眠り――あの人に逢えたと思う程もなく醒めてしまう転た寝の夢よ。

【補記】若き日の手記『うたたね』より。失恋の傷心から衝動的に出家した後、愛宕の仮住居に移った頃の作。この直前に作者は偶然かつての恋人を見かけている。詞書の「とふのすがごも」は菅で編んだ粗末な蓆(むしろ)。歌の「結ぶ」は草の縁語で、「願いが結実する」或いは「契りを結ぶ」意が響き、夢で恋人と逢えたことが暗示される。

女と夜もすがら物語りして、あしたにいひつかはしける  前大納言為家

いきて世の忘れがたみとなりやせむ夢ばかりだにぬともなき夜は

【通釈】我が人生の忘れ得ぬ記念、そしてあなたとの仲を思い出す唯一のよすがとなるのでしょうか、夢ほどにも寝たとは言えない昨夜の逢瀬は。

返し

あかざりし闇のうつつをかぎりにて又も見ざらん夢ぞはかなき(風雅1097)

【通釈】なごりは尽きない、闇の中でのうつつの逢瀬――あれを最後に、再び見ることのできない夢なのでしょうか。そんな夢は虚しうございます。

【補記】阿仏尼がいくつかの恋に破れた挙句、歌壇の大御所藤原為家と知り合ったのは、二十代終りか三十代初め頃。「闇のうつつ」は、古今集恋三の読人不知歌「むばたまの闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり」に由来する語で、夜の闇の中での果敢ない逢瀬を言う。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
むば玉の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり

女のもとにあからさまにまかりて、物語りなどしてたちかへりて申しつかはしける  前大納言為家

まどろまぬ時さへ夢の見えつるは心にあまる往き来なりけり

【通釈】まどろんだわけでもないのに、あなたの夢を見たのは、恋い慕うあまり魂があくがれ出て、あなたのもとを往き来したのです。

返し

たましひはうつつの夢にあくがれて見しもみえしも思ひわかれず(風雅1102)

【通釈】魂は果敢ない夢のような逢瀬にさまよい出てしまって、お逢いしたのかも分かりませんし、あなたが来られたのかも分かりません。

【補記】慌ただしい逢瀬のあと、為家から歌を贈って来たのに対する返事。束の間の情事を「夢」と言いなすのは恋歌の常套。

悲傷

前大納言為家身まかりて五七日の仏事し侍りける願文のおくにかきつけて侍りける

とまる身はありてかひなき別れぢになど先立たぬ命なりけん(玉葉2340)

【通釈】この世にとどまる我が身は、生き残っても甲斐がない、この死別の時であるのに、なぜあの人より先に逝かない命であったのだろう。

【補記】為家は建治元年(1275)五月一日、七十八歳で逝去。その三十五日後の仏事で、願文の奧に書き付けた歌。

前大納言為家身まかりて後、百首歌よみ侍りけるに

夢にさへたちもはなれず露きえし草のかげよりかよふ面影(風雅2015)

【通釈】夢にさえ、あの人の面影が立って我が身を離れません。露が果敢なく消えてしまった草の蔭から通って来る面影が…。

【語釈】◇露きえし草のかげ 要するに墓の下のこと。

あづまへまかりけるに、野路といふ所にて日くれかかりて時雨さへうちそそきければ

うちしぐれふる(さと)おもふ袖ぬれて行く先とほき野路の篠原(玉葉1134)

【通釈】さっと時雨が降り、故郷を偲ぶ私の袖は濡れて――目的地はまだ遥か遠い、野路の篠原。

【補記】為家没後、御子左(みこひだり)家嫡流の為氏との間で相続をめぐって争いが起き、阿仏尼は鎌倉へ直訴の旅に出る。この歌は、「十六夜日記」によれば京を発った当日、逢坂の関を越え、野路(今の草津市野路町)に至った時の作。

おなじ道にて野洲(やす)川わたりけるに、さきだつ人の音ばかりきこえて霧いとふかかりければ思ひつづけける

旅人もみなもろともに朝たちて駒うちわたす野洲の川霧(玉葉1135)

【通釈】行き遭わせた旅人たちも皆一緒に朝早く出発して、野洲川にたちこめる霧の中、馬を川渡りさせる。

【補記】逢坂の関を越えて守山に一泊した翌朝の作。野洲川は鈴鹿山脈に発し、守山市の東で琵琶湖に注ぐ川。

旅の題にて「かりそめの草の枕の夜な夜なをおもひやるにも袖ぞ露けき」とある所にも、又返事をぞ書き添へたる

秋ふかき草の枕にわれぞ泣くふりすててこし鈴虫のねを(十六夜日記)

【通釈】秋も深まった野の草を枕にして、私は泣いています。我が子を振り捨ててきた私は、鈴を振ったように鳴く鈴虫ではないけれど、深く繁る草の陰でひたすら泣き続けているのです。

【補記】鎌倉に滞在中の阿仏尼のもとへ、都の為相から五十首の歌を書いて送って来た。親の僻目かと疑いつつも、我が子の歌の上達ぶりに喜びを隠せない阿仏尼。中には旅先の母親を思いやってくれた歌もあり、感激した阿仏尼は息子の歌の傍らに返歌を書き添えた。「ふかき」は「秋深き」「深き草」と前後に掛かる。「ふりすててこし」の「ふり」に鈴の縁語「振り」を掛けている。


公開日:平成14年10月13日
最終更新日:平成20年02月24日