陽成院 ようぜいのいん 貞観十〜天暦三(868-949) 諱:貞明

清和天皇の皇子。母は藤原高子。子の元良親王・源清蔭は後撰集以下に歌を載せる歌人。系図
貞観十八年(876)、父の譲位をうけて九歳で践祚。在位中は清和上皇・皇太夫人藤原高子・摂政藤原基経が政事を輔佐した。元慶四年(880)父上皇が崩御すると、基経と高子の間で対立が高まり、元慶七年、基経は摂政の辞任を要請して政務をサボタージュ、朝政は混乱を来たした。この頃清涼殿で陽成の乳兄弟源益が殺害される事件が起こり、翌年退位に追い込まれた。王統は大叔父にあたる時康親王に移った(光孝天皇)。譲位後は何度か歌合を主催している。八十二歳の長寿を保ち、天暦三年(949)九月二十九日崩御。勅撰入集は後撰集の一首のみ。

つりどのの皇女につかはしける

つくばねの峰よりおつるみなの川こひぞつもりて淵となりける(後撰771)

【通釈】筑波山の頂から流れ落ちる、みなの川――その名のごとく、蜷(みな)が棲むような泥水が積もって、深い淵となったのだ。そのように私の恋心も積もり積もって、淵のように深く淀む思いになったのだった。

【語釈】◇つりどのの皇女 光孝天皇の皇女、釣殿内親王。母は班子女王で、是忠親王・是貞親王・宇多天皇の同母姉妹。陽成天皇の女御。◇つくばね 筑波嶺。茨城県の筑波山。歌垣の山として名高い。歌枕紀行参照。◇みなの川 『宗祇抄』によれば、「桜川へおつる」川。桜川は霞ヶ浦に注ぐ川。後世、男女二峰を有する山に因んで「男女の川」とも書かれる。「みな」は「蜷」(泥中に棲むタニシなど小巻貝の類)と同音なので、そこから次句の「こひぢ」(泥濘)と同音を持つ「こひ」を導く序となる。◇こひぞつもりて 恋心が積もって。「こひ」は「泥(こひぢ)」を連想させるため、「泥濘が積み重なって」の意を兼ねる。◇淵となりける 「淵」は水が淀んで深くなっているところ。「瀬」(流れが早くて浅いところ)の対意語。「泥水が積もり積もって深い淀みとなった」「恋が積もり積もって、淵のように深く淀む思いになった」の両義。

【補記】百人一首カルタはふつう結句を「淵となりぬる」とする。後撰集の諸本や百人一首の古注本などは「ける」。

【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、定家八代抄、百人一首、歌枕名寄

【参考歌】作者未詳「万葉集」巻十四
筑波嶺の岩もとどろに落つる水世にもたゆらに吾が思はなくに

【主な派生歌】
たまさかに逢瀬はなくてみなの川涙の淵に沈む恋かな(*肥後)
小初瀬の花のさかりやみなの河峰よりおつる水の白波(藤原清輔[新後拾遺])
袖のうへも恋ぞつもりてふちとなる人をば見ねのよそのたぎつせ(藤原定家)
みなの河みねよりおつる桜花にほひのふちのえやはせかるる(〃)
このままに程なき世をやつくばねのみねよりおつるふちぞかなしき(藤原為家)
つくばねの嶺の桜やみなの河ながれて淵と散りつもるらん(飛鳥井雅有[続拾遺])
みなの河ふちにはよらじつくばねの峰より落つる雁の一つら(正徹)
筑波嶺やしげればいとどみなの川峯よりおつる音ばかりして(〃)
河音はかすみもはてずつくばねのみねより落つる月にすみつつ(三条西実隆)
つくばねの峰よりおつる時鳥待ちし恨みのふちもせになけ(木下長嘯子)


更新日:平成14年04月04日
最終更新日:平成22年08月14日