在原行平 ありわらのゆきひら 弘仁九〜寛平五(818-893) 号:在納言

平城天皇の孫。阿保親王の第二子。母は一説に伊都内親王業平の兄。むすめの文子は清和天皇の更衣となり貞数親王を生む。系図
九歳のとき臣籍に下り、在原氏を賜る。仁明天皇の承和七年(840)、蔵人に補せられる。侍従・右兵衛佐・右近少将などを経て、文徳天皇代の斉衡二年(855)正月七日、従四位下に昇叙される。同十五日、因幡守を拝命し、間もなく任国に赴任する。因幡で二年ほどを過ごして帰京。斉衡四年、兵部大輔。以後中務大輔・左馬頭・播磨守などを経て、清和天皇の貞観二年(860)、内匠頭。さらに左京大夫・信濃守・大蔵大輔・左兵衛督などを歴任し、同十二年正月、参議。同十四年八月、蔵人頭に補せられる。同十五年、従三位に昇り、大宰権帥を拝して筑紫に赴く。陽成天皇の元慶元年(877)、治部卿を兼ねる。同六年、中納言に昇進。光孝天皇の元慶八年三月、民部卿を兼ねる。九年二月、按察使を兼ねる。仁和三年(887)四月、七十歳にして致仕。最終官位は正三位。民政に手腕を発揮した有能な官吏であり、また関白藤原基経としばしば対立した硬骨の政治家であった。
元慶八年(884)〜仁和三年(887)頃、自邸で歌合「民部卿行平歌合」(在民部卿家歌合)を主催。これは現存最古の歌合である。歌壇の中心的存在として活躍し、また一門の学問所として奨学院を創設した。歌からは左大臣源融との交流も窺える。勅撰入集は計十一首。

  1首  1首 離別 1首 羇旅 2首  6首 計11首

題しらず

春のきる霞の衣ぬきをうすみ山風にこそみだるべらなれ(古今23)

【通釈】春が着る霞の衣は、緯糸(ぬきいと)が薄いので、山を吹く風に乱れるものらしい。

【補記】山にかかった霞を春の着る衣に喩え、それが風に吹き乱されるさまを、緯糸(ぬきいと)が薄いために破れてしまったのに違いない、と見た。「はる(張る)」「きる(着る・截る)」「ぬき(緯・脱ぎ)」「みだる(衣が破れる)」と、衣に関する縁語を横糸として織り込んだ。めまぐるしいまでの技巧を駆使している。

【他出】新撰和歌、古今和歌六帖、和歌童蒙抄、定家八代抄、桐火桶、悦目抄

【主な派生歌】
見渡せばこのもかのもにかけてけりまだぬきうすき春の衣を(*式子内親王)
霞たつ春の衣のぬきをうすみ花ぞ乱るるよもの山風(藤原雅経[続拾遺])
橋姫の霞の衣ぬきをうすみまださむしろの宇治の河風(藤原家隆[新後拾遺])
佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ花の錦をたちやかさねむ(後鳥羽院)
暮かたの秋さり衣ぬきをうすみたえぬ夜寒に今ぞうつなる(源家清[玉葉])

題しらず

恋しきに消えかへりつつ朝露の今朝はおきゐむ心ちこそせね(後撰720)

【通釈】恋しさに消え入るような思いがして、朝露が置くように、今朝は起きて座っている気持ちにもなれない。

【補記】後撰集恋三。行平の残した唯一の恋歌である。恋人と一夜を過ごし、恋しさに消え入るような思いで朝を迎えた。朝露は葉の上に「置き」てあるが、私は寝床から「起き」上がって一日の生活を始める気になどなれない、との心。「きえかへり」「おきゐ」が露の縁語になる。男が去ったあとの床に残された女の気持で詠んだ歌だろう。

離別

題しらず

立ちわかれいなばの山の峰におふるまつとし聞かば今かへりこむ(古今365)

【通釈】お別れして、因幡(いなば)の国へと()なば、任地の稲羽(いなば)山の峰に生えているではないが、私の帰りを待ち遠しく思ってくれるだろうか。故郷(くに)からの便りでそうと聞いたなら、すぐ帰って来よう。

【語釈】◇いなばの山 鳥取県岩美郡国府町の小山という。稲羽山、稲葉山とも書く。国庁跡の東北。ただし固有名詞でなく「因幡の国の山」と見る説もあり、また『歌枕名寄』などは美濃国の歌枕としている。「いなば」は、「去なば」(去ったならば、の意)を掛けている。◇まつとしきかば (都の人たちが)待っていると聞いたなら。「まつ」に松・待つを掛ける。

【補記】古今集巻八、離別歌の巻頭。制作事情は不明であるが、行平は斉衡二年(855)正月、因幡守に任ぜられているので、その頃の作であろう。赴任先の地名に因む「いなば」に「去なば」を掛け、山の峰に生えている「松」に寄せて、任国へと去った自分を都で「待つ」人がいるならすぐに帰って来よう、と別れの挨拶とした。掛詞を駆使して古今集の詠風を先駆し、「いなば」と「まつ」を結ぶのに「稲葉の山の峰におふる松」という、一首の主意を離れる異文脈の挿入句をはさんで複雑な曲折を生んでいるのは、遥か新古今の歌風さえ予告している。

【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、和歌初学抄、古来風躰抄、定家十体(麗様)、定家八代抄、詠歌大概、近代秀歌、八代集秀逸、時代不同歌合、百人一首、歌枕名寄、桐火桶、井蛙抄、歌林良材

【主な派生歌】
忘れなむまつとな告げそ中々に因幡の山の峰の秋風(藤原定家[新古今])
これもまた忘れじ物をたちかへり因幡の山の秋の夕暮(藤原定家)
風吹けばさもあらぬ峰の松も憂し恋せむ人は都にを住め(〃)
一声もなきていなばの峰におふるまつかひあれや山ほととぎす(藤原有家)
すゑとほき朝日の山の峰におふる松には風も常磐なりけり(藤原良経)
よしやさは頼めぬ宿の庭に生ふるまつとなつげそ秋の夕風(後鳥羽院)
夜半の月いづる外山の嶺におふる松をもはらへ秋ふかき風(〃)
程もなく出でていなばの嶺におふるまつとしつれば有明の月(〃)
君が代にくらぶの山の峰に生ふるまつは千とせをかぎるばかりぞ(源実朝)
かひなしや因幡の山の松とてもまた帰りこむ昔ならねば(二条為氏[続拾遺])
鳴すてて因幡の山の郭公なほ立ちかへりまつとしらなむ(藤原経平[新後撰])
別れ路ぞ今は慰む君がかく待つとしきかば千世も経ぬべし(源季広[続千載])
都人まつとしきかば言伝てよ独りいなばの嶺の嵐に(伏見院[新千載])
峰に生ふる松吹きこしていなば山月の桂にかへる秋風(*堯孝)
都にもまつとしきかばいでさのみ紀の関守よ人なとどめそ(木下長嘯子)
網いれて大魚とるらむ舟あそびまつとしきかば来む日頃へず(橘曙覧)
放蕩のすゑの松山、母ひとり待つとし聞けば今から逃(ふ)けむ(恂{邦雄)

羇旅

津の国のすまといふ所に侍りける時、よみ侍りける

旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風(続古今868)

【通釈】旅人は袂を冷ややかに感じるようになった。関を自由に吹き越えてゆく須磨の浦の風よ。

【補記】京を去り、摂津国の須磨にいた頃に詠んだという歌。籠居の身を「旅人」になぞらえ、関を吹き越えてゆく秋風に時の経過と都への慕情をおぼえている。源氏物語に「行平の中納言の関吹きこゆるといひけむ浦波」とあるので、古くから行平の作として伝承されてきた歌なのだろうが、勅撰集には洩れ続け、鎌倉時代の続古今集に初めて採用された。

【他出】歌枕名寄、源平盛衰記

【主な派生歌】
秋風の関吹きこゆる度ごとに声うちそふる須磨の浦波(壬生忠見[新古今])
須磨のうら関吹きこゆる春風に霞みだるる明けぼのの空(藤原範宗)
須磨の浦や波に面影たちそひて関吹きこゆる風ぞかなしき(藤原定家)
須磨の海人のなれにし袖もしほたれぬ関吹きこゆる秋の浦風(〃)
逢坂の関吹きこゆる風のうへにゆくへもしらずちる桜かな(兼好)

題しらず

いくたびかおなじ寝覚めになれぬらむ苫屋にかかる須磨の浦波(玉葉1222)

【通釈】幾度同じような寝覚めを経験して、それに慣れてしまったのだろうか。苫屋にかかる須磨の浦波よ。

【補記】玉葉集巻八、旅歌。これも鎌倉時代以後の歌集にしか見えない歌で、新編国歌大観で検索する限りでは鎌倉初期の私撰集『雲葉集』が初出である。須磨を詠んだ歌と言えば行平を連想するのが常識だったから、それらしい古歌を行平作と見なして入れたのだろうか。古今集・後撰集の行平の詠風とは異なるものである。

【他出】雲葉集、夫木和歌抄

田むらの御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける

わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ(古今962)

【通釈】たまたまでも私のことを尋ねる人がいましたら、須磨の浦で藻塩にかける潮水を垂らしながら――涙に濡れて侘びしく暮らしていると答えて下さい。

【語釈】◇藻塩(もしほ)たれつつ 藻塩を作るための潮水を垂らしながら。涙に暮れる意の「しほたれ」と掛詞になる。

【補記】源氏物語須磨の巻に引かれて名高い作。「田むらの御時」、すなわち文徳天皇の時代(850〜858)、事件にかかわって摂津の須磨に籠居させられた際、宮廷の人に書き送った歌という。流謫の原因はまったく不明である。流人を海人(あま)に擬える趣向は万葉集の麻続王の島流しを詠んだ歌「うちそを麻続(をみ)のおほきみ海人なれや伊良虞が島の玉藻苅ります」など古い伝承に淵源を持つ。

【他出】業平集、新撰和歌、古今和歌六帖、麗花集、奥義抄、五代集歌枕、万葉集時代難事、和歌色葉、定家十体(幽玄様)、定家八代抄、詠歌大概、近代秀歌、八代集秀逸、別本八代集秀逸(後鳥羽院・家隆撰)、時代不同歌合、色葉和難集、歌枕名寄、桐火桶、歌林良材

【主な派生歌】
我が如く我を尋ねば海士を舟人もなぎさの跡と答へよ(行尊[新古今])
故郷にとふ人あらば紅葉ばのちりなむ後をまてとこたへよ(素意[千載])
恋しさに死ぬる命を思ひ出て問ふ人あらばなしと答へよ(読人不知[新古今])
面影の君にしられぬ音をぞなく問ふ人あらば月にこたへよ(藤原家隆)
藻塩たれひるまもなきをわくらばにとへどもまたじすまの波風(〃)
帰りきて問ふ人あらば見すばかり絵島をこれに写せとぞ思ふ(藤原惟方[玉葉])
すまの浦や藻塩たれけむ昔まで煙に残る夕ぐれの空(*山本春正)

布引の滝にてよめる

こきちらす滝の白玉ひろひおきて世の憂き時の涙にぞかる(古今922)

【通釈】しごき散らす滝の白玉を拾っておいて、人生の辛い時の涙に借りるのだ。

【補記】滝の飛沫を白い宝玉に喩え、数珠からしごいて散らしたようだと見立てている。それを拾っておいて、辛い時流す涙の代用にしよう。それほど私には「世の憂き時」が多いのだ、と言っているわけだが、世間への恨みは水しぶきの美しいイメージによってじゅうぶん償われているのである。古今集ではこの次に弟の業平が同所で詠んだ歌を載せる。布引の滝は摂津国の歌枕。現在も同名の滝が新神戸駅の裏山にある。伊勢物語によれば芦屋には在原一族の所領があった。布引の滝に立ち寄る機会はたびたびあったことだろう。

【他出】奥義抄、定家八代抄、歌枕名寄

【主な派生歌】
滝つ瀬も憂き事あれやわが袖の涙に似つつおつる白玉(紀貫之)
あはれとも人はいはたのおのれのみ秋の紅葉を涙にぞかる(藤原定家)
この比の涙にかりてひろふべき滝の白玉霧なくもがな(藤原家隆)
こきちらす滝の白玉からねども涙はつきぬ物にぞありける(後鳥羽院)
涙とてからぬ時さへきてみれば袖にぞかかる滝の白玉(典侍親子[続拾遺])
せきあへぬ袖よりおちて憂き事の数にもあまる滝の白玉(二条為遠[新続古今])

布引の滝見にまかりて

我が世をば今日か明日かと待つかひのなみだの滝といづれ高けむ(新古1651)

【通釈】私が時めく世を、今日か明日かと待望しているけれども、待つ甲斐もなく、涙を滝のように流している――布引の滝とどちらの方が高いだろうか。

【語釈】◇我が世 私が時めく世。陽の当たる身となる時世。◇なみだ 前句からのつながりで「(待つかひの)無み」の意を掛ける。

【補記】出典は伊勢物語八十七段。行平は「衛府の督(かみ)」として登場している。

【他出】伊勢物語、六百番陳状、定家八代抄、正徹物語

家に行平朝臣まうで来たりけるに、月のおもしろかりけるに、酒などたうべて、まかりたたむとしけるほどに  河原左大臣

照る月をまさきの綱によりかけてあかず別るる人をつながむ

【通釈】まさきの葛(かずら)を綱に撚(よ)って月に繋いで、帰ろうとする人を引き留めよう。

返し

限りなき思ひの綱のなくはこそまさきの(かづら)よりもなやまめ(後撰1082)

【通釈】「まさきのかづら」は限りなく長いそうですが、そんなふうに限りのない思いがあなたにあるでしょうか。もし無いのであれば、綱に撚るのは大変でしょうなあ

【語釈】◇まさきの葛 定家葛の古名。キョウチクトウ科の蔓植物。またツルマサキの古名とも。

【補記】左大臣源融の家に遊びに行って、月を眺め酒を飲んだ。行平が辞去しようとすると、左大臣はまさきの葛に寄せて引き留めようと歌を詠み、それに行平が返した。月に届く程の気持はあるまい、と左大臣の大仰さをからかったのである。

【他出】業平集、古今和歌六帖、定家八代抄

仁和のみかど、嵯峨の御時の例にて、芹河に行幸したまひける日

嵯峨の山みゆきたえにし芹河の千世のふるみち跡はありけり(後撰1075)

【通釈】嵯峨天皇以来、行幸が絶えてしまっていた芹川ですが、遥かな代の古道は跡が残っていました。

【語釈】◇嵯峨の山 嵯峨天皇を山に喩えて言う。行幸の場所を言っているのではない。◇芹河 伏見鳥羽の猟場。京都市伏見区下鳥羽に芹川町の名が残る。

【補記】後撰集雑一の巻頭。詞書は「光孝天皇嵯峨天皇の例にならって芹河行幸をなさった日」の意。『類聚国史』によれば仁和二年(886)十二月十四日のことである。「ふるみち」は英帝の誉れ高い嵯峨天皇の政道を暗示し、光孝天皇による行幸復活ひいてはすぐれた政道の復活を讃えた。

【他出】後撰集、五代集歌枕、古来風躰抄、定家八代抄、近代秀歌、秀歌大躰、八代集秀逸、時代不同歌合、歌枕名寄

【主な派生歌】
嵯峨の山千代のふるみち跡とめてまた露わくる望月の駒(藤原定家[新古今])
大井川まれのみゆきに年へぬる紅葉の舟路跡はありけり(藤原定家[続後撰])
春くれば千世のふる道ふみわけてたれ芹河の若菜つむらん(藤原家隆[新続古今])
芹河の波も昔にたちかへりみゆきたえせぬ嵯峨の山風(九条良経[続古今])
さびしさは秋の嵯峨野の野辺の露月に跡とふ千代のふる道(後鳥羽院)
いにしへの千世のふるみち年へてもなほ跡ありや嵯峨の山風(〃)
芹河の千代の古道すなほなる昔の跡は今や見ゆらむ(兼好)
千世ふべき君がすみかの嵯峨の山今も昔の跡ぞかしこき(良覚[続千載])
嵯峨の山今もかさなる跡みえて行末遠し代々のふる道(法印定為[続後拾遺])
思はずよ花をかたみの嵯峨の山雪に跡とふ千世の古道(源満元[新続古今])
嵯峨山の松も君にしとはれずは誰に語らむ千世のふるごと(香川景樹)

おなじ日、鷹飼ひにて、狩衣(かりぎぬ)のたもとに鶴の(かた)を縫ひて、書きつけたりける

(おきな)さび人なとがめそ狩衣(かりごろも)けふばかりとぞ(たづ)も鳴くなる(後撰1076)

行幸の又の日なむ致仕の表たてまつりける。

【通釈】老いて狩衣など着た出で立ちを、皆さん咎めないでほしい。こんな姿でお供するのも、今日が最後の狩だと、この鶴も鳴いている。

【語釈】◇翁さび 「いかにも年寄めく」ほどの意。七十歳近い身を自嘲しての物言いである。◇けふばかりとぞ 「今日は狩とぞ」を掛ける。

【補記】「おなじ日」は、仁和二年(886)十二月十四日。嵯峨天皇以来途絶えていた芹河行幸を、光孝天皇が復活させて挙行した日である。行平は当日の鷹狩にお供する際、狩衣の袂に鶴の刺繍をして、この歌を書き付けたという。左注には行幸の翌日致仕の表(辞職引退願)を出したとあるが、致仕が許されたのは翌年の仁和三年(887)四月十三日である。その六年後の寛平五年(893)七月十九日、行平は七十六歳で亡くなった。伊勢物語百十四段には行平の名を出さずにこの歌を引き、自身の老いを言われたかと勘違いした光孝天皇が機嫌を損じたとの話になっている。

【他出】業平集、伊勢物語、古今和歌六帖、俊頼髄脳、奥義抄、和歌童蒙抄、万葉集時代難事、袖中抄、宝物集、和歌色葉、定家八代抄、色葉和難集、六華集、歌林良材


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年02月28日