北条泰時 ほうじょうやすとき 寿永二〜仁治三(1183-1242)

鎌倉幕府執権義時の長男。母は不詳。男子に時氏・時実がいる。
建久五年(1194)、源頼朝を烏帽子親として元服。建仁二年(1202)、三浦義村の娘を妻とする(のち離別し、安保実員の娘を娶る)。建保元年(1213)、和田義盛の乱の際、大将として活躍。同六年、侍所別当に任ぜられる。承久元年(1219)、朝廷より従五位上に叙され、駿河守に任ぜられる。承久の乱(1221)には叔父時房と共に東海道大将軍として大軍を率い上洛、京方の軍勢を破り、六波羅にとどまって乱後の処理に奔走した。この間、明恵に面会して帰依するようになった。元仁元年(1224)、父義時急死の報を受けて鎌倉に帰り、父の跡を継いで執権となる。翌嘉禄元年、大江広元・北条政子が相次いで死去すると、執権を補佐する連署を設置し、また評定衆を置いて有力御家人による合議制を推進するなど、政治体制の刷新に努めた。貞永元年(1232)、初めての武家成文法「御成敗式目」を制定・施行。暦仁元年(1238)、将軍頼経の上洛に随行。仁治三年(1242)正月、四条天皇が崩御すると、九条家などの反対を押し切り、土御門院の皇子を推戴して即位させた(後嵯峨天皇)。同年四月、病を患い、五月に出家。法名は観阿。翌月の六月十五日、永眠。六十歳。
和歌は嗜み程度であったが、藤原定家を師とし、蓮生(宇都宮頼綱)らを歌友とした。定家撰の新勅撰集に三首入集し、これを喜んで文暦元年(1234)、定家の子為家に礼状を送った。以下、勅撰集入集は計二十一首。

河落花 明玉

春たけて紀の川しろくながるめり吉野のおくに花や散るらむ(夫木抄)

【通釈】春も深まり、紀ノ川は白く染まって流れているようだ。吉野の奥山では桜の花が散っているのだろうか。

【語釈】◇紀の川 大台ケ原に発し、和歌山市で太平洋に注ぐ。奈良県内では吉野川と呼ぶ。

【補記】藤原知家の私撰集『明玉集』(散佚)より『夫木抄』に採られた歌。

【参考歌】源経信「金葉集」
みなかみに花や散るらむ山川のゐくひにいとどかかる白波
  藤原教長「新拾遺集」
芳野河花のしら波ながるめり吹きにけらしな山おろしの風

題しらず

世の中に麻はあとなくなりにけり心のままの蓬のみして(新勅撰1152)

【通釈】世の中に、麻のようにまっすぐな人はいなくなってしまった。心のままに曲がりくねって生える蓬(よもぎ)のような者ばかりで。

【補記】『荀子』勧学篇の「蓬生麻中、不扶而自直」を踏まえる。曲がりくねって生える蓬も麻の中に育てばおのずと真直ぐに育つ、すなわち、善い人たちに交われば、性質の劣った人もその感化を受けて善く育つ、ということ。泰時の歌は、「蓬」を良導してくれる「麻」のような人たちが絶えてしまったことを歎く。

題しらず

思ふにはふかき山ぢもなきものを心の(ほか)になにたづぬらむ(新後撰1370)

【通釈】仏道に思いをかける点においては、人里も深山もないだろうに。心以外の場所に何を求めるというのか。

【補記】信仰は心の問題として、山奥に遁れたいとの自らの心情を否定する。


公開日:平成14年07月09日
最終更新日:平成16年03月06日