藤原隆祐 ふじわらのたかすけ 生没年未詳(1190以前-1251以後)

従二位家隆の嫡男。母は正三位藤原雅隆女。土御門院小宰相は姉妹。津守経国女を妻とした。子に俊隆がいる。官位は侍従・従四位下に至る。
早くは正治二年(1200)十月の後鳥羽院当座歌合に名が見えるが、その後、院歌壇での活躍は見られない。承久の乱後、九条家歌壇を中心に活動する。元仁二年(1225)の藤原基家家三十首歌会、寛喜四年(1232)の石清水若宮歌合、同年三月の日吉社撰歌合、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首、同年七月の光明峯寺入道摂政家歌合、同年八月十五夜名所月歌合、嘉禎二年(1236)の遠島御歌合、宝治二年(1248)の宝治百首、建長三年(1251)九月十三夜影供歌合などに出詠。
隠岐配流後の後鳥羽院に親近し、歌壇の主流から外れていたため、歌人としても常に不遇であった。藤原定家に評価を請い、書状で賞讃を受けたが、定家撰の新勅撰集には僅か二首しか採られず、甚だ落胆したという(家集)。以下勅撰集入集は総計四十一首。百番自歌合を主体とする家集『隆祐集』がある。新三十六歌仙。『新時代不同歌合』にも歌仙として撰入されている。

  2首  1首  4首  2首  1首  2首 計12首

野春雨をよめる

滝のうへのあさ野の原の浅みどり空にかすみて春雨ぞふる(続後拾遺61)

【通釈】滝のほとりの浅野の原の緑は、いっそう淡く見える。空を霞ませて春雨が降っているのだ。

【語釈】◇滝のうへのあさ野 万葉集巻三の長歌(388番)「滝の上の 浅野の雉」に由来する歌枕。淡路島の北淡町浅野かとも言うが、本来は「草が低く茂る野」を意味する普通名詞だったかとも思われる。◇浅みどり 早春の若葉の淡い緑。

【補記】後鳥羽院主催の遠島十首歌合に献上した歌。

前大納言為家家に百首歌よみ侍りけるに

暮れぬとてながめもすてず桜花うつろふ山にいづる月影(続拾遺69)

【通釈】日が暮れたからと言って、眺めることを放棄したりはしない。桜が散りゆく山に、やがて月がのぼり始める。

【補記】第二句を「ながめもすてじ」とする本もある。

早苗

日暮るればうたふ乙女が声すみてとほき田面(たのも)に早苗とるなり(宝治百首)

【通釈】日が暮れたので、少女の歌う声が透き通って響く――遠くの田で、唄いながら早苗取りをしているようだ。

【補記】宝治二年(1248)、後嵯峨院主催の百首歌。

洞院摂政家百首、早秋

吹く風もけふ立ちそめて泊瀬女(はつせめ)のゆふ花ちらす秋の川波(夫木抄)

【通釈】風も今日からはっきりと秋の気配になって吹き、泊瀬女(はつせめ)の造る木綿花を散らすように白く細波を立てて流れる川。

【語釈】◇泊瀬女 大和国泊瀬(初瀬)地方の女。泊瀬は初期大和朝廷の所在地であり、聖地と見なされた。◇秋の川波 「川」は、初瀬川や布留川をイメージ。

【補記】貞永元年(1232)に成立した洞院摂政(九条教実)家百首歌。

【本歌】笠金村「万葉集」巻六
泊瀬女のつくる木綿花み吉野の滝の水沫(みなわ)に咲きにけらずや

海初秋

難波がた蘆のかりねに見し夢のなほさめやらぬ秋の初風(隆祐集)

【通釈】難波潟の蘆の刈り根ではないが、旅先のわびしい仮寝に見た夢――その夢からなかなか覚めきらない朝、秋の初風が吹く。

【補記】家集の書き入れによれば、天王寺での九条前内大臣(藤原基家)家御会での作。

九条前内大臣家百首歌に、遠村秋夕といふ事を

夕日さす遠山もとの里みえて薄吹きしく野べの秋風(風雅489)

【通釈】山の麓に夕日がさして、遠くの村里が目に見える――銀色に輝く薄の原――その穂を押し靡かせて吹く、野辺の秋風。

【補記】基家主催の百首歌か。

【主な派生歌】熊谷直好「浦のしほ貝」
秋かぜのすすき吹きしく庭の面にあけがたちかき月ぞさびしき

窓灯

かぎりある秋の夜のまも明けやらずなほ霧ふかき窓の灯し火(隆祐集)

【通釈】残り少ない秋の夜の時間ではあるが、窓の外はすっかり明るくはならず、なお深々と暗い霧が立ち込めている――その霧と室内を幽かに照らす、窓辺の灯火よ。

【補記】「御室御会とて、京極中納言入道定家被申侍りしに」とある十首の掉尾。嘉禄年間、仁和寺の道助法親王の御会での作である。家集には定家より送られた激賞の書状を併載している。

冬水といふ事を

水上はこほりをくぐる飾磨(しかま)川海にいでてや波はたつらむ(雲葉集)

【通釈】川上では氷の下を潜って流れる飾磨川――海に出てから、波は立つのだろうな。

【語釈】◇飾磨川 姫路市で瀬戸内海に注ぐ船場川の古名という。飾磨には播磨国の要港があった。

【本歌】「万葉集」巻十五
わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ我が恋やまめ

暁雪

初瀬山嵐はたゆむ明け方に雪わけのこる鐘のおとかな(隆祐集)

【通釈】初瀬山から吹き下ろす嵐がゆるんだ明け方――降りしきる雪の間を分けるようにして、ここまでかすかに響を伝える鐘の音であるよ。

【語釈】◇初瀬山 奈良県桜井市初瀬の山。長谷寺がある。

【補記】これも御室御会の十首。

稀恋

さらにまた契りし月もしのばれず稀なる夢の有明の空(隆祐集)

【通釈】月に再会を誓い合ったのに――もうこれ以上、月を慕うことも、耐え忍ぶこともできません。稀にしか逢えぬ夢のようにはかない、有明の空に出ている月……。

【補記】「しのばれず」は「偲ばれず」「忍ばれず」の掛詞。下句は解りにくいが、「稀な逢瀬の別れ際、再会の約束を交わした時に見上げた有明の空」の記憶を描いたものか。元仁二年(1225)の九条大納言(基家)家三十首御会。

題しらず

けふはなほ都もちかし逢坂の関のあなたにしる人もがな(続古今941)

【通釈】今日はまだ都も近い。逢坂の関を越えてしまえば、もはや東国だ。関の向うに親しい人がいればなあ。

【補記】東国へ向けて旅立ち、逢坂の関を間近にしての感慨。「しる人」は恋人・親友など親密な相手を言う。九条大納言家三十首御会。

法皇隠岐国にて崩御、夢とのみ承るのち程へて、守護左衛門尉泰清がもとより、年来あひたてまつりし御所は目の前の煙と成りはてて、露の命とまりがたく侍りし人々をさそひぐして都へおくりたてまつりし心のうち、心なき海士の袖まで朽ちぬべくみえ侍りしよし、くはしく申送りて侍りし返事の次に、あまた書付け侍りし中に

この世には数ならぬ身のことの葉をいさめし道もまた絶えにけり(隆祐集)

【通釈】この世では数にも入らない卑しい私の歌を諌めて下さった法皇の歌の道もまた絶えてしまったのだ。

【補記】後鳥羽院隠岐にて崩御の後、佐々木泰清の書状への返事として書き付けた歌のうちより。「なれなれておきつ島もりいかばかり君もなぎさに袖ぬらすらむ」「世の中になきをおくりし御幸こそかへるもつらき都なりけれ」などいずれも心に沁みる。


更新日:平成16年04月21日
最終更新日:平成20年10月04日