津守国助 つもりのくにすけ 仁治三〜永仁七(1242-1299)

国基の裔。住吉神主国平の長男。国冬・国道ほかの父。娘には二条為世室・日野俊光室がいる。
文永六年(1269)、権神主。弘安八年(1285)、住吉神主。永仁四年(1296)、正四位下に至る。亀山院北面となり、摂津守なども務めた。
二条家・大覚寺統の歌合・歌会を中心に活躍。弘長三年(1263)三月、為家勧進の住吉社歌合・玉津島社歌合、建治二年(1276)、為氏主催の住吉社三十五番歌合、正応五年(1292)の厳島社頭和歌などに出詠。永仁元年(1293)十五夜十首会に参じ、同二年亀山院五十首歌に詠進した。頓阿『井蛙抄』に津守家重代歌人として「近来此道の堪能也」と賞されている。続拾遺集初出。勅撰入集七十八首。

題しらず

庭のおもはうづみさだむる方もなし嵐にかろき花のしら雪(玉葉242)

【通釈】庭に積もっても、そのまま地面を覆い続けているのはないよ。嵐に軽々と飛ばされる、雪のような桜の花びらは。

【補記】「うづみさだむる」のような正確を心がけた描写、そして「嵐にかろき」のような清新な感覚表現が、伝統的な趣向と融合。京極歌風の先駆。

【参考歌】寂西(藤原信実)「宝治百首」
山かげにたのむ庵も荒れねとや嵐にかろき槙の板ぶき

入道二品親王の家に五十首歌よみ侍りけるに、秋歌

今よりの露をば露とをぎの葉に涙かつ散る秋風ぞ吹く(続拾遺232)

【通釈】秋風が吹くようになった今からは、露を露として置く荻の葉に、片や私の涙も散り落ちる。

【語釈】◇をぎの葉に 「をぎ」に「置き」の意を掛ける。「置き」は歴史的仮名遣では「おき」であるが、当時の一般的な仮名遣では「をき」と書いた。それゆえ「をぎ(荻)」と掛詞になる。◇涙かつ散る 秋の露が荻の葉に置く一方で、それとは別に私の涙も葉を濡らす、ということ。

【補記】性助法親王が主催した五十首歌に出詠した歌。

【参考歌】壬生忠岑「古今集」
秋の夜の露をば露とおきながら雁の涙や野べを染むらん

八月十五夜、十首歌たてまつりし時、秋浦

浦人の氷のうへにおく網のしづむぞ月のしるしなりける(新後撰366)

【通釈】浦の海人(あま)が氷の上に投げたはずの網が、沈んでゆく――それではっきりわかった、氷と見えたのが実は水面に映じた月光であったと。

【補記】氷と月光を見紛う趣向は珍しくないが、沈んでゆく網によって氷から月光へ認識を転換させたアイデアは斬新。

恋歌の中に

いかに見し木の間の月の名残より心づくしの思ひそふらむ(続千載1521)

【通釈】いったいどんな姿を見たからというのか、その時から心魂尽きさせる思いが我が身を離れなくなってしまった――木の間の月のように、わずかに垣間見たあの人の面影のなごり惜しさ。

【補記】秋の名歌の句を恋歌に巧みに転用した、本歌取りのお手本のような作。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり

神祇歌の中に

敷島の道まもりける神をしも我が神垣と思ふうれしさ(新後撰742)

【通釈】わが国古来の和歌の道を守って来られた住吉の神を、我が祀る神社と思うことの嬉しさよ。

【補記】住吉神社はもともと航海の神を祭る社であるが、平安後期から和歌の神として歌人たちの尊崇を受けるようになり、奉納歌合などが盛んに行なわれた。代々同社の神職を嗣ぐ津守家の当主として、かつ重代歌人として、率直な感慨を詠んだ歌。『井蛙抄』巻六に引かれている。


公開日:平成14年11月30日
最終更新日:平成21年08月05日