性助法親王 しょうじょほっしんのう 宝治元〜弘安五(1247-1282)

後嵯峨院の第六皇子。母は太政大臣公房女。宗尊親王・後深草院の弟。亀山院の兄。
建長三年(1251)、五歳で仁和寺に入り、正嘉元年(1257)、出家。正嘉二年(1258)十二月、仁和寺総法務に就任。弘長元年(1261)十二月、観音院に於て伝法灌頂を受ける。建治二年(1276)、蒙古調伏のため孔雀法を仁和寺大聖院に修する。弘安五年(1282)十二月十九日、流行病によって急逝。薨年三十六。二品。後深草院二条の『とはずがたり』に登場する「有明の月」のモデルと見なされ、同書によれば後深草院二条との間に一児があった。
弘安元年(1278)、続拾遺集撰進の資料として百首歌を詠進(弘安百首)。自らも五十首歌を催し、西園寺実兼二条為氏京極為兼らに詠進させた(性助法親王家五十首歌)。続古今集初出。以下、勅撰入集は計三十七首。

弘安百首歌奉りける時

秋風に夜わたる雁の()にたてて涙うつろふ庭の萩原(続後拾遺310)

【通釈】秋風に吹かれて夜空を渡る雁が、声をあげて泣く――その涙が庭の萩の茂みに落ちて、花の色を変えてゆく。

【補記】雁の紅涙に染まる萩。初句「秋風に」は、「秋風に涙を催されて」といった意が響き、また「飽き」と掛詞になって、恋の悲しみ(源氏物語の登場人物「雲居の雁」)の風趣も添える。弘安元年(1278)、続拾遺集撰進の資料として詠進した百首歌の一。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
なきわたる雁の涙やおちつらむ物思ふ宿の萩のうへの露
【参考歌】よみ人しらず「古今集」
夜をさむみ衣かりがねなくなへに萩の下葉もうつろひにけり
  藤原定家「名所内裏百首」
誰がかたに夜なく雁の音にたてて涙うつろふ武蔵野の原

弘安百首歌奉りける時

霜枯れの葦まの風は夜さむにて氷によわる浪の音かな(続千載643)

【通釈】霜枯れた葦原を吹き抜ける風はさすがに冬の夜の寒さで、結氷によって弱まった波の音であるよ。

【補記】葦も霜枯れた水辺の寒々とした冬の夜を、聴覚によって捉えた。一首の眼目「氷によわる」は先蹤があるが、凄然たる風情では掲出歌がまさっている。

【参考歌】藤原隆祐「隆祐集」
氷室山木の間もわくる夏の日の氷によわる影ぞさむけき
  藤原光経「光経集」
むばたまの夜はの山風ふけぬらし氷によわる滝のしら浪

弘安元年、百首歌たてまつりし時

雨はるる高嶺は空にあらはれて山もとのぼる富士の河霧(新後撰1302)

【通釈】雨が晴れてゆく頂き近くは空に現われていて、富士の山もとをのぼってゆく川霧よ。

【補記】陽射しに暖められて立ちのぼる川霧が山もとを覆い、頂のあたりだけ空に浮かんで見える、雨上がりの富士の景。「たちもおよばぬ」と詠んだ家隆の丈高さには及ばないが、叙景歌としての完成度は十分高い。

【参考歌】藤原家隆「続後撰集」
朝日さす高嶺のみゆき空はれてたちもおよばぬ富士の河霧

かり枕をざさが露のおきふしになれて幾夜のありあけの月(玉葉1149)

【通釈】草を刈って仮の枕とし、小笹の露に濡れての寝起きにも慣れて幾夜経ったことだろう――そうしてもう有明の月が出る頃になった。

【語釈】◇かり枕 「かり」は「仮」「刈り」の掛詞。◇おきふし 寝起き。「おき」は「置き」の意が掛かり露の縁語、「ふし」は「節」の意が掛かり笹の縁語。◇ありあけの月 明け方まで空に残る月。大体陰暦二十日以降の月になる。

【参考歌】藤原伊経「千載集」
わけきつるをざさが露のしげければあふみちにさへぬるる袖かな
  真昭法師「新勅撰集」
袖のうへに露おきそめし夕べよりなれて幾夜の秋の月かげ

弘安百首歌たてまつりける時

はかなしやつらきはさらにつらからで思はぬ人をなほ思ふ身は(新続古今1454)

【通釈】果敢ないことよ。相手の冷たい態度には全くへこたれず、思ってくれない人をそれでも思う我が身は。

【語釈】◇さらに 下に否定辞を伴って「決して」「全く」の意。

【補記】下記の歌の剽窃に近いが、初句切れ・倒置とした分、語調が切実さを増し、先蹤歌より情趣も増さって感じられる。

【先蹤歌】覚性法親王「出観集」
なぞもかくつらきはさらにつらからで思はぬ人を思ふ心ぞ


最終更新日:平成15年01月20日