花橘 はなたちばな Citrus flower

ミカンの花 フォトライブラリーフリー素材

古語の「たちばな」は特にニホンタチバナを指すこともあるが、また食用柑橘類の総称を兼ねる。ミカンの仲間ということだ。初夏に咲く白い花はどれもよく似ていて、温州みかんやら夏みかんやら、柚子やら橙やら、私にはさっぱり区別がつかない。

「たちばな」の名の由来は神話の田道間守(たぢまもり)から説明されることが多いが(タヂマバナ→タチバナ)、疑わしい。「たち」は「たち現れる」と言う時の「たち」で、神霊が顕現する花の木であるとする説の方がずっと説得力がある。

五月(さつき)待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

古今集、夏、よみ人しらず。
プルーストの『失われた時を求めて』の語り手も紅茶に浸したマドレーヌの匂いと味に触発されて「失われた時」への旅に出発するが、匂いというものには遠い記憶を「たち」あげる不思議な力がある。
五月を待って咲いた橘の花――その香をかいだ瞬間、ふいに昔の恋人の袖の香がした、という。「袖の香」とは、各種の香料を練り合わせて袖に染めた薫物(たきもの)の香で、平安時代には梅花香・菊花香など、花の香に擬した香が流行していた。橘の香に似せた薫物もあったのだろう。
橘の花は、陰暦五月という聖なる田植月、恋人たちが逢うことを禁じられた忌み月を待って咲くので、ましてやその香は切ない恋心を呼び起こしたことだろう。
この歌以後、花橘を詠んだ歌のほとんど全ては懐旧の情、それも特に昔の恋人への心情と結び付けて詠まれることになる。

『新千載集』 嘉元百首歌奉りける時、盧橘 贈従三位為子

袖の香は花橘にかへりきぬ面影みせようたたねの夢

うたた寝の夢に薫った橘の花によって、不意に昔の人の袖の香が甦った。寝覚めて思う、香りだけでなく、いっそあの人の面影も見せてくれと。
前掲のよみ人しらず歌を、新古今集の式子内親王詠「かへりこぬ昔をいまと思ひ寝の夢の枕ににほふ橘」の夢の趣向を経由して本歌取りした、鎌倉時代末期の歌だ。現実には帰り来ることのない遠い恋ゆえ、ただ夢に縋るしかない。さまざまな古歌の記憶を呼び起こし、重ね合わせて情趣を深めるところ、二条派和歌の真髄を見る思いがする。

なお、作者は間違われやすいが、京極為兼の姉の為子でなく、二条為世の子で、後醍醐天皇との間に宗良親王を生んだ人。歌道家二条家の名花ともいうべき貴い閨秀歌人である。

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  『万葉集』(花を詠める) 作者未詳
風に散る花橘を袖に受けて君が御跡(みあと)(しの)ひつるかも
雨間明けて国見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも

  『万葉集』(十六年四月五日独居平城故宅作歌) *大伴家持
橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ
鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの宿

  『詞花集』(世をそむかせ給てのち、花橘を御覧じてよませ給ける) 花山院
宿近く花橘は掘り植ゑじ昔をしのぶつまとなりけり

  『後拾遺集』(花橘をよめる) *相模
五月雨の空なつかしく匂ふかな花橘に風や吹くらむ

  『千載集』(百首歌めしける時、花橘の歌とてよませ給うける) *崇徳院
五月雨に花橘のかをる夜は月すむ秋もさもあらばあれ

  『新古今集』(題しらず) *藤原俊成
誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば

  『*式子内親王集』
いにしへを花橘にまかすれば軒のしのぶに風かよふなり

  『新古今集』(百首歌たてまつりし時、夏歌) *式子内親王
かへりこぬ昔をいまと思ひ寝の夢の枕ににほふ橘

  『新古今集』(守覚法親王、五十首歌よませ侍りける時) *藤原定家
夕暮はいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ

  『千載集』(花橘薫枕といへる心をよめる) 藤原公衡
折しもあれ花橘の香るかな昔を見つる夢の枕に

  『新古今集』(題しらず) *俊成卿女
橘のにほふあたりのうたたねは夢も昔の袖の香ぞする

  『*土御門院御集』(夏)
ももしきの庭の橘思ひ出でてさらに昔をしのぶ袖かな

  『玉葉集』(題しらず) *宇都宮景綱
五月待つ花のかをりに袖しめて雲はれぬ日の夕暮の雨

  『新続古今集』(延文百首歌に、盧橘) *二条為明
うたたねのとこ世をかけてにほふなり夢の枕の軒の橘

  『永享百首』(橘) *後崇光院
袖の香を花橘に残してもわが昔には思ひ出もなし

  『草根集』(盧橘) 正徹
風さそふ花橘をそらにしておほふも雲の袖の香やせん

  『新続古今集』(百首歌奉りし時) *飛鳥井雅世
言の葉の花橘にしのぶぞよ代々のむかしの風の匂ひを

  『南都百首』(橘) *一条兼良
いにしへをみきのつかさの袖の香や奈良のみやこにのこる橘

  『十躰和歌』(古郷橘) *心敬
なき玉や古りにし宿に帰るらん花橘に夕風ぞ吹く

  『晩花集』(たち花) *下河辺長流
(いにしへ)をしのぶ寝ざめのとこ世物をりあはれにも香る夜半かな

  『漫吟集類題』(橘) *契沖
橘の陰ふむ道にしのべども昔ぞいとど遠ざかりゆく


公開日:平成22年06月15日
最終更新日:平成22年06月15日

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