葛の花 くずのはな Kudzu flower

葛の花 鎌倉市二階堂にて

山際の道を歩いていると、道端にまで垂れ下がった葛(くず)が、大きな葉の脇から花茎を突き出していた。晩夏、群をなす小花は下の方から咲き始め、最初は淡紅色であるが、だんだん濃い紅になり、さらに紫へと変化してゆく。その色は鮮明と言うにはやや暗く、その姿は美しいと言うにはやや異形。山中他界という言葉があるが、この花を見るたび、異界の花といった感じを受ける。「ここからは人外境」といったような…。釈迢空(しゃくちょうくう)の名歌の影響かも知れないのだが。

『海やまのあひだ』 釈迢空

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり

葛はマメ科のつる性多年草。根から風邪薬の葛根湯を作ったり、蔓を編んで行李にしたりと、日本人の生活に深いかかわりを持ってきた植物である。山上憶良の「秋の七草」にこの花が取り上げられたのもそれ故であろうか。しかし、王朝和歌ではもっぱら秋風に翻る葉(裏が白く目立つ)が詠まれており、花が注目されることはまずなかった。近代に至って、ようやく釈迢空(折口信夫)の名作が生み出されたのである。

山道にまで蔓がはびこる深山で、旅人は葛の花を見つける。「踏みしだかれて、色あたらし」。踏み潰されたことで、かえって色が新しく、鮮やかに見える、と言う。これだけでも新しい美の発見と言えるだろうが、そこで旅人は「この山道を行きし人あり」――自分より先に荒々しい山道を分けて行った人に思いを馳せる。それはもう一人の旅人か、土地の山人か。あるいは人の姿をとった山の神か。いずれにせよ、踏みつけられた葛の花の心に沁み透るイメージが、一人旅の孤独感をいっそう深くする。と同時に、山の奧へと入り込んだ先行者に対する連帯感のようなものが滲み出てくるのである。

「ここから人外境」などと言ったが、実際のところ、葛は住宅街の中にまで侵入して来ている。いや話は逆で、宅地が山まで侵略してしまった、ということなのだが。私が葛の花を見つけた辺りも、昭和四十年代に開発された分譲地の一画で、以前は人跡稀な山中、すなわち山の神の領域であったはずだ。葛の花は我々人間を迷惑な侵入者と眺めているにちがいない。

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  『万葉集』 (*山上憶良の秋の野の花を詠める歌)
萩の花 尾花葛花(くずばな) 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花

  『新続古今集』 (秋歌の中に) 源師光
露しげき尾花くず花吹く風に玉ぬきちらす秋の夕暮

  『草庵集』 (月前草花) 頓阿
秋の野の尾花くず花咲きしより色のちくさに月ぞうつろふ

  『晩花集』 (野花留人といふ心を) 下河辺長流
まねきとめつなぎとどめて秋の野の尾花葛ばな道もゆかさず

  『うけらが花』 (秋の暁花見る所) 橘千蔭
別れこし妹がこころやたぐへけむはひまつはるる野路の葛花

  『琴後集』 (月下葛) 村田春海
葉隠れににほふ真葛の花も見んうら吹きかへせ月の下風

  『草径集』 (水辺葛) 大隈言道
川岸にうかべすてたる船にだに綱手づたひにきぬる葛花

  『水の上』 釈迢空
吹き過ぐる風をしおぼゆ。あなあはれ 葛の花散るところ なりけり

  『青章』 山中智恵子
葛の花未生のまなここぼれゆくあかるき月のなみだみちたり


公開日:平成17年12月9日
最終更新日:平成18年1月20日

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