橘千蔭 たちばなのちかげ 享保二十〜文化五(1735-1808) 号:芳宜園(はぎぞの)・朮園(うけらぞの)

江戸八丁堀の生まれ。父は幕府与力にして歌人であった加藤枝直。橘は本姓。俗称常太郎・要人(かなめ)、のち又左衛門。
少年期より賀茂真淵に入門し国学を学ぶ。父の後を継いで江戸町奉行の与力となり、三十歳にして吟味役を勤める。天明八年(1788)五十四歳で致仕し、以後は学芸に専念した。寛政十二年(1800)、『万葉集略解』を十年がかりで完成。書簡で本居宣長に疑問点を問い質し、その意見を多く取り入れた、万葉全首の注釈書である。文化九年(1812)に全巻刊行が成った同書は万葉入門書として広く読まれ、万葉享受史・研究史上に重きをなす(例えば良寛は同書によって万葉集に親しんだらしい)。歌人としては真淵門のいわゆる「江戸派」に属し、流麗な古今調を基盤としつつ、万葉風の大らかさを尊び、かつ新古今風の洗練・優婉も志向する歌風である。同派では村田春海と並び称され、多くの門弟を抱えた。享和二年(1802)、自撰家集『うけらが花』を刊行。橘八衢(やちまた)の名で狂歌も作る。書家としても一家をなしたが、特に仮名書にすぐれ、手本帖などを数多く出版した。絵も能くし、浮世絵師東洲斎写楽の正体を千蔭とする説もある程である。文化五年九月二日、死去。七十四歳。墓は東京都墨田区両国の回向院にある。

「うけらが花」 有朋堂文庫・和文和歌集上(日本名著全集)・校注国歌大系16・新編国歌大観9

  4首  2首  2首  4首  4首 計16首

春風来海上

二見潟こちふく風に明けそめて神代のままの春は来にけり(うけらが花後篇)

【通釈】二見潟は東風が吹くなかに明け始めて、神代そのままを思わせる春はやって来たのだ。

二見浦
二見浦(古い絵葉書より)

【語釈】◇二見潟 伊勢国の歌枕。二見浦に同じ。夫婦岩があり、古来初日の出を拝む名所であった。◇こちふく風 東から吹く春風。「こち」だけで東風あるいは春風を意味するが、「こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな」(拾遺集、菅原道真)より「こちふく風」という慣用表現が出来た。

【参考歌】正広「松下集」
天の戸をあくればやがて日の光神代のままの春やたつらん
  荷田蒼生子「杉のしづ枝」
青海原霞みわたりてちはやぶる神代のままの春を見るかな

海辺春曙

わたの原やや明けそめて磯山の花と波との色ぞわかるる(うけらが花後篇)

【通釈】海原は次第に明け始めて、磯山から散り落ちた桜の花と、白波と、色の区別がつくようになった。

【補記】「波」と言うのは白波すなわち白い波頭。それが海に散った桜の色と見分け難かったが、夜が明けそめて、区別がつくようになったと言うのである。

【参考歌】惟宗光吉「光吉集」
明けぬれば色ぞわかるる山のはの雲と花とのきぬぎぬの空
  中院通勝「通勝集」
よる波に色ぞわかるる白菊はうつろひけりな吹上の浜

霞中春雨

隅田川蓑きてくだす筏士(いかだし)に霞むあしたの雨をこそ知れ(うけらが花)

【通釈】隅田川に蓑を着て材木を下す筏士の姿に、霞が立ち込める朝の雨が降っていることを知るのだ。

【補記】霞と区別し難いほど細かに降る春雨。筏師が蓑を着ていることで、初めて雨と知れたのである。千蔭には隅田川を詠んだ佳詠が多い。

雲雀落

根芹つむ野沢の水にかげ見えてひばり落ち来る春の夕ぐれ(うけらが花)

【通釈】春の夕暮、野沢の岸に芹を摘んでいると、その水に姿が見えて、雲雀が落ちてくる。

【補記】「根芹」は根を食用にしたことから芹をこう呼んだもの。「根芹つむ」と言うことで、話手の目線が水面に近いことが感じられ、落ちて来る雲雀のイメージを鮮明にしている。

【参考歌】藤原隆信「六百番歌合」「隆信集」
雲に入るそなたの声をながむればひばりおちくる曙の空

郭公

隅田川堤にたちて舟待てば水上とほく鳴くほととぎす(うけらが花)

【通釈】隅田川の堤に立って舟を待っていると、ほととぎすが遠く上流の方で鳴く。

【補記】一首の眼目と言うべき「水上とほく」は先例があるが(【参考】)、川で聞く時鳥の声を詠んだ和歌は珍しい。あるいは芭蕉の句から影響を受けたものか。

【参考】藤原光俊「洞院摂政家百首」
冬されば海にも出でずしかま川水上遠くこほりしにけり
  芭蕉「藤の実」「三冊子」ほか
時鳥(ほととぎす)声横たふや水の上

六月十日あまり、すずみせんとてすみだ河に舟をうかべて綾瀬へさかのぼれば、合歓(がふくわ)咲きたり

ほのみゆるうすくれなゐのひとむらは綾瀬の岸のねむの花かも(うけらが花)

合歓の花
合歓の花

【通釈】ほのかに見える薄紅のひとかたまりは、綾瀬の岸に咲く合歓の花なのだなあ。

【補記】「綾瀬」は今の東京都足立区綾瀬。かつてはのどかな田園地帯であった。江戸の地名が得も言えぬ情趣を釀し出している千蔭の歌としては「葛飾の花にゆふべを残しつつ豊島のかたに日は入りにけり」も挙げておきたい。

【参考歌】作者不詳「万葉集」巻十
見渡せば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも

水郷秋望

網代木におりゐる鷺の蓑毛のみ一むら白き宇治の川霧(うけらが花)

【通釈】網代木に下りて止まっている鷺――その蓑毛ばかりが一かたまり白く見える、宇治の川霧よ。

【語釈】◇網代木(あじろぎ) 秋から冬にかけて、鮎の幼魚などを捕るための仕掛け。網の代りに簀(す)を川にかけ渡したが、それを繋ぎとめる杭を網代木と言った。◇蓑毛(みのげ) 鷺の胸と背に生える飾り羽。蓑のように先が乱れて垂れるのでこの名がある。

【補記】白一点の鷺を詠んだ叙景はありふれているが、一首の眼目は鷺の白さでなく、宇治の川霧の不透明な白さ、その幽玄な情趣にある。蓑毛という細部に着目して興趣を添えたのは、歌人というより画家の眼であろう。

【参考歌】藤原行能「洞院摂政家百首」「夫木和歌抄」
さみだれも月の行へはしられけり一むら白き山のはの雲

月前眺望

玉川や千村(ちむら)五百村(いほむら)手づくりをさらしそふると見ゆる月かな(うけらが花)

【通釈】多摩川に、何百何千の村で、手織りの布を晒し添えるかと見える程、さやかに照らす月であるよ。

【語釈】◇玉川 武蔵国の歌枕。今の多摩川。下記【参考歌】に見られるように、手づくりの布の名所であった。◇千村五百村 数知れず多くの村。如何にも万葉風の語彙であるが、実際には万葉集に「千村」も「五百村」も見えない。「千重(ちへ)・五百重(いほへ)」などと言うことから連想しての造語か。

【補記】月の光が川の水面に映えるさまを白布をさらしたと見た。因みに布を川にさらすのは洗って白くするため。

【参考歌】作者未詳(東歌)「万葉集」
多摩川にさらす手づくりさらさらに何ぞこの子のここだかなしき
  殷富門院大輔「殷富門院大輔集」
玉川やをちの砧にならすなりこやさほしける手づくりの布

暁寒月

大御門(おほみかど)ひらく(つづみ)の音すみてみ橋の霜に月ぞうつろふ(うけらが花)

【通釈】江戸城の大門を開く合図の太鼓の音が冴え冴えと響き、橋に降りた霜に月の光が映っている。

【補記】「大御門」は宮門を言うのが和歌の常套であるが、ここは江戸城の大門と見られる。凛冽たる冬の気に、長く幕臣を勤めた作者の気概が感じられる。

【参考歌】藤原良経「新古今集」
故郷のもとあらの小萩さきしより夜な夜な庭の月ぞうつろふ

雪満群山

出づる日のひかりにむかふ武蔵嶺やをみねことごと雪ぞさやけき(うけらが花)

【通釈】曙光に相対する武蔵の山々は、どの峰もすべて雪がさやかに輝いている。

【補記】「武蔵嶺」は万葉集(相模国の歌)に見える語。江戸市中からよく見えたのは秩父の山々であろうか。

車中雪

うち日さす宮路の雪にあぢまさの車静けき朝ぼらけかな(うけらが花)

【通釈】宮殿に通ずる大通りに積もった雪で、檳榔の車の音も静かな朝ぼらけであるよ。

【語釈】◇うち日さす 「宮」の枕詞◇あぢまさの車 檳榔毛(びろうげ)の車。白く晒した檳榔の葉を細かく裂いて屋形を覆った牛車。高貴な人が乗用した。

【補記】同題のもとに置かれた三首の最後。第一・二首は「たそがれのしのび車のすき影もおもなきばかりつもる雪かな」「花と散る大路の雪を小車の小簾かかげつつ見る人やたれ」と、王朝趣味が横溢する。

冬眺望

隅田川岸のむらあし枯れふして甲斐が嶺遠き雪をみるかな(うけらが花)

【通釈】隅田川の岸の葦群が枯れ伏して、甲斐ヶ嶺の遠い雪を見るのだなあ。

【補記】「甲斐(かひ)が嶺(ね)」は赤石山脈の白根三山(北岳・間ノ岳・農鳥岳)を指すという。北岳は富士に次ぐ日本第二の高峰であるが、江戸からはなかなか眺望の機会に恵まれなかったろう。冬の澄みきった空の下、川辺の葦が折れ伏した彼方に、ようやく頂が覗かれたのであろう。
雪山を眺望した歌では「すみだ河夕こぎ渡り筑波嶺の端山につづく雪をみるかな」も捨て難い。

人々五色の歌よみけるに、黒を

わたの原夕浪黒く立ち来めり熊野の沖に鯨寄るころ(うけらが花)

【通釈】海原に夕波が黒く立って寄せて来るようだ。熊野の沖に鯨が近づく頃。

【補記】「五色」はふつう青・黄・赤・白・黒。五色を歌題にする例は中世からあったようで、『夫木和歌抄』などに見える。

本居宣長、長月のなかばより病みて、二十日余り九日になんみまかりぬると聞きて、かたみに年高く成りぬるものから、今さらのやうにおどろかれて

伊勢の海や二見の浦の二つなき玉にたぐへし人をしぞ思ふ(うけらが花)

【通釈】伊勢の海の二見浦ではないが、二つとない玉に比べて尊んだ人を偲ぶことである。

【語釈】◇伊勢の海や二見の浦の 「二つ」を導く序詞。宣長は伊勢の人だったので、その縁から伊勢の歌枕を持ち出した。

【補記】享和元年(1801)九月、本居宣長の死を知って。宣長は千蔭より五歳年長で、真淵の弟子としては兄弟子にあたる。松坂と江戸に離れて住み、実際に会うことはなかったが、頻繁に手紙をやり取りしていた。千蔭の『万葉集略解』には宣長の創見が多く採り入れられている。同じ時千蔭が詠んだ残りの二首は、「わくらばにおなじ世にしも立ち経つつあひもみざりし事のくやしさ」「古ことの道明らめしいさをこそ万代までの形見なりけれ」。

幽夕

大路行く人のおとなひ絶えはてて軒端にかへる家鳩のこゑ(うけらが花)

【通釈】大通りを行き交う人の立てる響きはすっかり絶えて、軒端に帰って鳴く家鳩の声ばかりが聞こえる。

【語釈】◇家鳩 家禽化された鳩で、いわゆる土鳩。中世後期から歌に詠まれた例が見つかる。

【補記】雑踏がやんだ江戸市中の幽閑のひととき。

幸逢太平代

大御代はのどけかりけり春がすみ二荒(ふたら)の山に立ちそめしより(うけらが花)

【通釈】大君の御代は穏やかであるよ。春霞が二荒山に立ち始めてからというもの。

【補記】二荒山は日光の男体山の別称であるが、ここでは日光東照宮に祀られた徳川家康を暗示している。すなわち家康が幕府を開いて以後の「大御代」の安泰を讃美しているのである。千蔭の幕臣意識が窺えて興味深い。


公開日:平成19年08月02日
最終更新日:平成19年08月07日