僕にとっての読書とは、食事や睡眠といった、日常に欠かせない行動の一つです。ですから、良い食事、良い睡眠、と同じように、良い読書がしたいと思っています。良い食事が栄養のバランスがとれたそれのように、読書もバランスを考えて本を選びたいと思っていました。
ところが、食事は食べる前に良い食事かどうかの判断が付きますが、読書は読んでみなければ、良い読書かはわかりません。いわゆる文学全集などに収載されている本を読めば良い読書であるか、僕は違うと思います。古典に付いてその価値を否定はしませんが、僕にとっての良い読書では有り得ないのです。
自分が共感できる本を読む喜びは、めったに食べられない美味しい食事と同じで、息も付かずに読み終えてしまいます。そして、何度も読み返したいと思うものです。一方、まずい食事でも体のために食べる必要が有るように、人として一度は読んでおかなくてはならない本が有ることもわかりました。
僕は、親として子供たちを育てることが下手だったため、子供たちには申し訳なかったと思っています。でも、ぼくは子供たちに読書の習慣が付いたことだけは、親らしいことが出来たと満足しています。僕の蔵書を、子供たちが読むことで、僕の人としての有り様をわかってもらえればこんな嬉しいことは有りません。
今月になって、9月24日に僕の敬愛する推理小説家の鮎川哲也氏が亡くなった事を知りました。僕を国産ミステリーの世界に誘ってくれた方です。作風は飄逸として、読後にトリックに引っ掛かったことを知っても、少しも不快で無く、むしろ爽快でした。今はご冥福を祈るのみです。
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