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 ことばをめぐるひとりごと  その32

智に働けば?

 以前に、森鴎外作「舞姫」が難解だというをしました。この難しさの原因は、鴎外が文語文をあまり理解していないせいもある、というのが、僕の(ひどく不遜な)結論でした。
 しかし、口語体の小説でも、ちょっと古くなると読みにくいですね。世態風俗は年々変わるので、小説に書かれている情景が目に浮かびにくくなるのです。たとえば

 飯田橋へ来て電車に乗つた。電車は真直に走り出した。

 これは夏目漱石の「それから」の終局部分ですが、この「飯田橋」というのは、さっと読むと総武線の駅かと思います。実際はそうではなく、ましてや地下鉄東西線の駅でもなく、まあこれは市内電車の駅なのでしょう。歴史的には、このころ甲武鉄道(現・中央線)が飯田橋駅まで延びていたはずで、蒸気鉄道も走っていたと思いますが。
 近代小説を読むとき、予備知識の不足を補ってくれるのが、文庫などの巻末に付いている「注釈」です。もっとも、これにもときどき不満をもちます。たとえば、やはり夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭に

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

とありますが、これを分かりやすく説明してくれる注釈がないんですね。
 今まで、幾人かをつかまえて「『智に働けば角が立つ』とは何か?」と聞いてみたところ、
 「地道に働けば人と摩擦を起こす」
 とか、
 「知恵が働けば人とそりが合わない」
 とか、いろいろ意見が出ました。でも、それは違うでしょう。「智」に〈地道〉なんて意味はないし、また後者の説のように「智」は〈知恵〉だとしても、「知恵に」と「知恵が」では大違いだ。
 つまりよく理解されていない(僕も実は分からない)部分のようですが、新潮文庫の注では何も触れていない。注釈者にとっては自明すぎるのでしょうか?
 岩波全集版の注解を見ると、次のようにあります。

 智・情・意地は知・情・意の三分方に従うもの。『文芸の哲学的基礎』の中で、〔漱石は〕「精神作用を知、情、意の三に区別します」と述べている。順に intellect, feeling, will に当たる。『文学論』では feeling を「情緒」としているが、井上哲次郎他編『哲学字彙』(明治十四年初版)では「感応」をあて、第三版(明治四十五年)になって「感応、感触、感情」とし、「情緒」は emotion の訳語にあてている。

 なるほど、単に漫然と句を並べているのではなく、「知・情・意」の3つを踏まえているのですね。それはいいんですが、では、この一節をもっと簡単に言えばどういうことなのか、やはり納得がゆかない。
 そこで、この部分を飛ばして先に行く。「情に棹させば流される」の「棹さす」は、よく「流れに逆らう」と誤解されますが、正しくは「棹を水底につきさして舟を進める」で、つまりここは「感情の方面に(感情にまかせて)突き進む」という意味でしょう。次の「意地を通せば窮屈だ」はそのままで説明不要でしょう。
 とすれば、「智に働けば角が立つ」も、続く部分に対応するはずです。さしずめ「理詰めの方向に突き進んでゆくと、他人と摩擦を起こす」ということではないでしょうか。
 「〜の方向に突き進む」ということを、「〜に働く」と表現することはできるのかどうか。漱石の他の作品を見てみますと、一見似た言い回しはあります。

私は若かつた。けれども凡ての人間に対して、若い血が斯う素直に働かうとは思はなかつた。(「心」漱石全集 第9巻 p.11)

私は殆んど交際らしい交際を女に結んだ事がなかつた。それが源因か何うかは疑問だが、私の興味は往来で出合ふ知りもしない女に向つて多く働く丈であつた。(同 p.22)

 ただ、これらは「〜に対して〜が働く」という形だから、ちょっと違うのですね。結局、「智に働けば」がどういうことなのか、もうひとつすっきりしないのでありました(追記2、3を参照のこと)

     *   *   *

 ついでに、文庫本でみつけた不思議な注釈を一つ。芥川龍之介の『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫)にこういう個所があります。

「どうしたね? きょうは又妙にふさいでいるじゃないか?」
 その火事のあった翌日です。僕は巻煙草を啣{くわ}えながら、僕の客間の椅子に腰をおろした学生のラップにこう言いました。実際又ラップは右の脚の上へ左の脚をのせたまま、腐った嘴{くちばし}も見えないほど、ぼんやり床の上ばかり見ていたのです。
「ラップ君、どうしたねと言えば
「いや、何、つまらないことなのですよ。――」(「河童」p.87)

 この「ラップ君、……言えば」に注釈者(たぶん吉田精一氏)がこういう注を付けています。

初出雑誌・初版本などすべてこうなっており、“「ラップ君、どうしたね」と言えば”の誤りではない

と、納得がゆかないご様子。
 しかし、これは別に不思議じゃないんですね。今のことばでいえば「ラップ君、どうしたねってば」の「てば」に当たるもので、変でもなんでもないのです。
 「といえば」は、普通に使われたことばで、たとえば同じ吉田精一氏が注を付けている二葉亭四迷『浮雲』(新潮文庫)にもちゃんと出ています。

 ト跡でお勢が敵手{あいて}も無いに独りで熱気{やっき}となって悪口を並べ立てているところへ、何時の間に帰宅したかフと母親が這入って来た。
「どうしたんだえ」
「畜生……」
「どうしたんだと云えば
「文三と喧嘩したんだよ……文三の畜生と……」(「浮雲」p.150)

 吉田先生、こっちは何も触れておられないけど、見逃したのかな?

(1997.8.16)



追記 「智に働けば」についてはこちらこちらに再説。

追記2 その後、漱石の作品が多く電子テキスト化されたため、用例が格段に調べやすくなりました。「〜に働く」に関しては次の「吾輩は猫である」の例が参考になると思います。

僕なんか、そんな六づかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義許りがいゝと思ふのは少々誤まつて居る様だ。現に君がいくら積極主義に働らいたつて、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出来ないぢやないか。(漱石全集 第1巻 p.357)

 このちょっと前には「いつ迄積極的にやり通したつて、満足と云ふ域とか完全と云ふ境にいけるものぢやない。」とあり、また、ちょっと後には「どんなに積極的に出たつたて勝てつこないよ。」とあります。ほぼ同じ意味でしょう。
 つまり、「〜に働く」は、「〜にやり通す」「〜に出る」と近いものと思われます。してみれば、「智に働けば」も、「理詰めでやり通す」ということで、本文で述べた結論は変わらないようです。(2001.03.01)

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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