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98.09.10

智にさおさせば

 「草枕」の冒頭の「智に働けば」というのが、どうも分かりにくい、という話を前にしました。いろいろ書きましたが、要するに「智が働けば」なら分かるが、「智に働けば」は分からん、漱石は文法的にはどう考えて書いたのだろうか、との疑問を記したわけでした。
 今回はその追加版です。外山滋比古氏のこんな文章を見つけました。

 「漱石のことばではないが、智にさおさせば角が立つ、でしてね……」
 こういう言い方も日本人の心情とからみ合っているように思われる。“智にさおさせば角が立つ”は“漱石のことば”なのである。そのなのに、なぜ、“ではないが”と否定するのか。理に合わない。
 これは、さきの着物を着せるのと反対に、よけいなものをとりのぞく作用をもっている。“智にさおさせば角が立つ”が“漱石のことば”であるということを相手にいかにも教えるようになるのはまずい。かと言って、漱石のことばであるのをまったく伏せてしまっても不親切である。(『日本語の修辞学』1983.6、みすず書房、p.162)

 はじめ、わざと書いているのかと思いましたが、これは記憶違いですね。外山氏が間違えて書いたのだ。しかも3回も。「情に棹させば流される」との混淆です。校閲のひと、ちゃんとしてほしい。
 それはともかく、この文章を読んで、外山氏も「智に働けば角が立つ」が頭の中でしっくり来ていないのだな、と感じました。だからこそ、文法的にはもっと分かりやすい「智にさおさせば……」というふうに誤って覚えてしまったのにちがいない。
 この場合、意味は「理詰めの方面にずんずん進んでゆけば、他人との摩擦を起こす」とでもなるのでしょうか。結果的には、前回試みた「智に働けば角が立つ」の解釈と変わらないかと思います。

 もう一つ。この間(1998.08.22)、NHK「オトナの試験」というテレビ番組を見ていたら、手話通訳士の人に「智に働けば角が立つ」を手話に訳すことを実演してもらっていました。「難しい言い回しを、分かりやすく訳す」ことの大切さを示すためです。
 経験の浅い人は「知識や常識だけで暮らすと障害がある」と訳し、熟練した通訳士は「頭から上だけで判断して進めると壁がたんさんある」と訳しました。熟練者のほうが原文の意味をうまく読みとっている、との説明がありました。
 いわば「机上の空論ではだめだ」「理論より実践だ」ということかな。しかし、ちょっと違うような気もする。人間関係について言っているのだろうから、「人間関係というのは、理屈だけでは円滑にゆかない」とでもしたほうがいいのではないでしょうか。
 といっても、僕にもよく分からないのだ。「智に働けば」を文法的に説明できないので、後に続く文章から意味を類推しているにすぎません。こんなことで悩むのは、僕一人なのに違いない。

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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