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02.09.24

大野晋『日本語の教室』を読む

 書店でレジに並ぶと、目の前に新刊の大野晋著『日本語の教室』(岩波新書)が積んであったので、思わず「あの、これもお願いします」と追加してしまいました。大野ファンである僕は、氏の本は目につけば買ってしまいます。
 質問に答えるというかたちをとり、身近な文法現象、日本語の起源、ひいては日本文明論に説き及ぶ書。「前に読んだな」というような話もありますが、いつもながら味わい深い文章です。日本語学の本を読んでみようという方には、同じ岩波新書の『日本語練習帳』よりは、こちらをお勧めしたいと思います。

 いくつかの話題ごとに、タイトルを付けて感想を記しましょう。

◆1◆日本語タミル語同系説の賛同者
 大野氏は明らかに戦後を代表する日本語学者の1人と思われるのに、僕の知る先生のなかには「大野さんはねえ……」と含みのある言い方をされる方がいらっしゃいました。その複雑な笑みの理由に、氏の提唱した「日本語タミル語同系説」があるのはいうまでもないでしょう。

 僕は、学生時代に大野氏の『日本語以前』(岩波新書、絶版)を読み、日本語とインドのタミル語とで格助詞や係助詞、助動詞までが対応している可能性があることを知るにおよんで、これは軽々に批判できないと思いました。かといって、丸谷才一氏のようにタミル語「avalam」と日本語「アハレ」の語義・語感が重なるからというほどの理由で大野説を支持するのも、根拠薄弱で、ひいきの引き倒しめいて思われました。

 主な日本語学者はどう考えているのか知りたい。小松英雄氏は『日本語はなぜ変化するか』(笠間書院)の中で

 国語学は根底において国学を継承しており、事実上、現在でも鎖国状態にあるから、研究者の多くは日本語以外の言語や欧米の言語学に対する関心がきわめて薄い。そういう学的風土のなかにあって、日本語の起源の解明に熱心に取り組んできた大野晋は、際だって広い視野を持つ異色の国語学者である(p.58)

と評価します。小松氏のこの見方は公平だと思いますが、日本語タミル語同系説の妥当性については、彼は言及を避けています。

 さて『日本語の教室』では、次のようにあります。

『日本語の形成』を呈上したとき、国語学者ではただ一人、金田一春彦氏が、今までのアルタイ語説やチベット語、あるいはオーストロネシヤ語説よりは、はっきりすぐれていると思うという書簡を寄せてくれました。(p.45)

 これで、金田一氏は一定の評価をしていることが分かりました。また、長きにわたって激しく大野説を論難した村山七郎氏については

一九九三年の年賀状に「いろいろの論文を拝見しています。今後の研究のご発展を心から祈ります」とありました。私は村山氏に手紙を送り、学習院大学でお会いしませんかと書きました。帰国を前にしたサンムガダス夫人〔注、大野氏の研究協力者〕を村山氏に一度引き合わせたいと思ったのです。私は研究室に見えた村山氏とサンムガダス夫人と三人で話し、私の研究が前進できたのは、すべて彼女と夫君の協力によることを説明した。村山氏は「謎がとけた」という面持ちで会話に加わって帰られました。(p.46)

とあります。村山氏が大野説についての評価を変えたのかどうかは分かりません。しかし人間対人間として和解したらしいことは分かりました。

 実際のところ、現在の国内の研究水準では、大野説をはっきり批判することも支持することもできないでしょう。「すくなくとも日本国内には、積極的支持者も後継者も現れていない」(小松氏上掲書、p.61)のは幸福なことではないと思います。

◆2◆研究とコンピュータ
 1919年生まれで80歳を超えていられる大野氏の口から、

 「こういうとき、私はコンピューターに頼って、明治・大正・昭和の作家たちの〔略〕例を探します」(p.10)

というような発言を聞くと新鮮に思われます。
 従来、日本語の研究といえば、膨大な紙製カードを用意して使用例を収集するものでしたが、今やそういう時代ではなくなったことを思い知らされます。研究発表を聞きに行くと、多くの研究者が申し合わせたようにCD-ROM版「新潮文庫の100冊」から検索した例を抜き出していて、おやおや、と思いますが、これも当然の流れでしょうか。
 大野氏はほかにも、「ソネット」についての説明を、文学辞典等ではなく日立デジタル平凡社の『世界大百科事典』(つまりはCD-ROM)によったと記しています(p.75および注)
 ところが、そのあとでは

 私は「大きい」と「大きな」の例をコンピューターで探してもらいました(p.108)

とあったので、おや、これはコンピュータの扱える有能な助手の方(編集者?)が別にいらっしゃるのかと思いました。

◆3◆「大きい」と「大きな」は同じか
 大野氏は「大きい」「大きな」の違いを論じて、

意味の上ではオオキナもオオキイも、チイサイもチイサナもほとんど同じです。(p.111)

と結論しています。
 しかし、これは粗雑のそしりをまぬかれないでしょう。國廣哲彌編『ことばの意味3』(平凡社選書)では、「オオキナ・チイサナ」は非物理的な大小を表す場合があるのに対して、「オオキイ・チイサイ」は表しにくいことを説明しています。
 たとえば、
 「以前札幌のM氏からきいた小さな話を思い出した」
 は、「小さい話」とは言い換えられません。
 また、上記の小松英雄著『日本語はなぜ変化するか』では「大きな/小さな、は絶対的大小の判断」で、「大きい/小さい、は相対的大小の判断」と指摘します(p.45)

 詳述は避けますが、これらは、「〜イ」形と「〜ナ」形の違いにも関る根本的な問題です。「ほとんど同じ」と言ってすませられることではありません。

◆おまけ◆
 最後に、本書でいくつか目についたことばを。
 「「暇」がなくては行かれない場所」(p.163)。これは、「行けない」と可能動詞を使わず、助動詞「れる」を使って「行かれない」とした古風な言い方。これについては「「行かれる」はヘンか?」で書いたことがあります。
 「コマーシャルのしきりな挿入」(p.172)。テレビコマーシャルは想像や推理の展開を中断し、持続的思考をさまたげるとの意見。同感です。「しきりな」はめずらしい。「しきりに〜する」という形で使われるのが一般的です。
 「部分だけをこまこましく扱って」(p.216)。僕ならば「こまごまと」と言うところ。「こまごましく」という語もあります。また、連濁せず「こまこましく」とも言うようです。


関連文章=「日本語練習帳」「大野氏の講演

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