哀愁のヨーロッパ オーストリア・ドイツ篇

【行動記録・計画と準備篇 】

1996年7月

計画と手配

今年の旅行は懸案のドイツ語圏に行くことにする。書き貯めていたいくつかのプランから、ウィーン→ミュンヘン→ケルン→アムステルダムというパターンを検討。しかし、3か国では通貨がややこしそうなのと、ウィーンから入ってアムステルダムからアウトするフライトのアレンジが難しそうなので、オランダをやめてオーストリア・ドイツの2か国にする。これで、ドイツ語を勉強すればすむ。アムステルダムでゴッホとフェルメールはまた今度だ。本当はオランダ語のいい会話集が見つからない、ということもあった。オランダでは英語かドイツ語で十分らしいのだが、現地では現地語の主義にしたがおう。

ウィーンはとんぼの本『世紀末ウィーンを歩く』を見てから憧れているオットー・ヴァーグナーの建築とウィーン美術史博物館のブリューゲルをメインにする。ミュンヘンはもちろんアルテ・ピナコテーク、ケルンは大聖堂。ケルンからは日帰りでアーヘンメンヒェングラートバッハに足を伸ばそう。ベルリンは、やっぱりダーレムペルガモンかな。時間があればザクセンハウゼン収容所跡も見たい。食べ物は、ソーセージとビールというところか。

情報収集を始める。ウィーンではオペラ座も見たい。ドイツではサッカーも見たい。いろいろ考え合わせて9月下旬出発、10月上旬帰着の2週間余のスケジュールを確保する。この頃なら暑くもなく寒くもないだろう、と勝手に思いこむ。まんまと失敗したのだが。ミュンヘンのメインイベントになるはずのアルテ・ピナコテークが閉館中ということが判明。ショック! しかし、主な作品はノイエ・ピナコテークに展示されているようなので、気を取り直す。ザルツブルク(単にミュンヘンに行く途中だったから)を追加し、ドイツで他にどこに行こうか思案するが、全然行く気が起きない。ハイデルベルクとかロマンチック街道とかノイシュヴァンシュタイン城とか、魅力が感じられないのでパスする。ドレスデン(いい絵画館がある)やヒルデスハイム(ロマネスク教会)には少し食指が動いたが、日程に無理が来そうなのでやめる。本当は初めてのドイツ語での旅行なので1か所滞在型にしたかったのだが、この機会に見たいリストの上位にある美術館をまとめて制覇することに。

日程表を作り、滞在地での主な目標を立てて、希望フライトの予約をいつもの旅行代理店に依頼。エアオンにユーレイルパスと旅行保険だけなので、もうけの少ない客なのだが、ていねいに応対してくれる。ファックスでのやりとりで10日目にはフライトが確定。狙っていたオーストリア航空のウィーン往復は取れず、全日空で9月18日ウィーン・イン、10月3/4日フランクフルト・アウトになった。やや割高なのだが、帰りはこっちの方が便利ではある。ちなみに、成田-ウィーン間のダイレクトフライトはオーストリア航空と全日空の共同運航なので、料金は違ってもサービス内容は同じである。よって、安いオーストリア航空のキャパから予約が埋まる。日程表の最後をベルリン→ウィーンからベルリン→フランクフルトに変更する。これで最初と最後は確定。

移動距離と回数からいくと得かどうかは微妙なのだが、一度使ってみたかったユーレイルパスを購入する。これは現地では買えない(外国人向けなので)から、代理店に申し込む。私の年齢では1等車になる。これで、長距離移動はすべて鉄道を使うことに。ちょっと乗り物の選択の自由度が下がるが、国際特急はちょっと楽しみ。

1996年8月

情報収集

オーストリア、ドイツ各観光局からファックスで情報を引き出す。これでオペラやサッカーのスケジュールもわかる。また、パンフレットなどの送付依頼を各観光局に郵送。もちろん、返送用封筒を同封する。どちらも3日後には返事が来ていた。ゲルマン民族はやはり堅実なのか。ビデオで「第三の男」を見たり、八重洲ブックセンターで美術書を買い込んだりして夏は過ぎていった。この時点での予定は次の通り。

9月18日 成田→ウィーン ウィーン泊
9月19日〜21日 ウィーン滞在(ウィーン美術史博物館、オットー・ヴァーグナーの建築、オペラ鑑賞など)
9月22日 ウィーン→ザルツブルク ザルツブルク泊
9月23日 ザルツブルク滞在(時間があったらエクスカーション)
9月24日 ザルツブルク→ミュンヘン ミュンヘン泊
9月25日 ミュンヘン滞在(ノイエピナコテークなど)
9月26日 ミュンヘン→ケルン ケルン泊(ケルン大聖堂ほか)
9月27日 ケルン滞在 アーヘンへ日帰り(アーヘン大聖堂) ブンデスリーガ観戦
9月28日 ケルン滞在 メンヒェングラートバッハへ日帰り(アプタイベルク美術館)
9月29日 ケルン→ベルリン ベルリン泊(ダーレム博物館など)
9月30日〜10月1日 ベルリン滞在
10月2日 ベルリン→フランクフルト フランクフルト泊
10月3日 フランクフルト→成田 10月4日着

フライトはFIX。ホテルはすべて現地に行ってから当たる。問題はミュンヘンのオクトーバーフェストとかフランクフルトでのフェアとかとかちあわなければ、というところだなあ、と思いながら、確認するのを怠ったまま。結局、両方とも見事にかちあったのだった。

1996年9月

直前アクシデント

代理店にユーレイルパスと保険を取りに行く。出国カードも用意してくれていた。しかし、パスポートを更新してたことを伝え忘れていたので、打ち直しになってしまった。

ドイツ語をすっかり忘れていることに気がつく。というより、もともと身に付いていないことを実感。方針をサバイバル実践に切り替える。ちなみに私は自慢じゃないが、第二外国語はフランス語、第三外国語はドイツ語、第四外国語は古代ギリシア語だった。さらにラテン語、スペイン語、イタリア語も試したことがある。もちろん、どれもまったく使いものにならない。しかし、東北弁、関西弁、広島弁はかなりしゃべれる。

ビデオで「ベルリン天使の詩」を見る。それでも気持ちが盛り上がらない。憧れの街っていうわけじゃないからなあ。そうしているうちに、歯が痛くなる。最初はたいしたことはなかったのだが、なんと15日(敬老の日)に猛烈に痛くなって電話帳で区の休日診療を探してタクシーで行く。そうしたら、レントゲンを撮って「炎症が起きてる。すぐ歯医者に行け」といわれる。当座は消炎鎮痛剤で痛みは治まったのだが、旅行直前なので、翌々日あせって近所の歯医者に駆け込んだ(こういうときに限って連休だったりする)。そうしたら、なんということはない、噛む圧力が異常に強くて歯茎に負担がかかっているということらしい。とくに治療は必要ないと言われてしまった。それでも、海外旅行に行く予定なので、と薬を余分にもらう。向こうで歯医者になんかかかったらすごく高いらしい、と聞いていたのでびびった。

15日は、誤って眼鏡をこわすし、さんざんな日だった。気に入っていた縁なしだったのに。新しく作る時間はなさそうだし、お金もなかったので、昔の眼鏡を引っぱり出す。度も合わないし、少しゆるいのだが、仕方がない。

1996年9月17日(火)

大家さんに旅行に出て留守にする旨の断りを書いてポストに入れる。留守中の新聞を止める。旅行用のメモ帳を作成。携行品リストにしたがって準備。早朝に起きる自信がなかったので、深夜から行きつけのスナックで徹夜する。

(哀愁のヨーロッパ オーストリア・ドイツ篇 【行動記録・オーストリア篇】 につづく)

text by Takashi Kaneyama 1998

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